譚海 卷之八 和州吉野戶津川龜井六郞子孫の事
○吉野の奥、戶津川[やぶちゃん注:底本には編者の補正傍注があり、「戶」は『(十)』とある。]は、七里に十五里の地にして、誠に兵亂などを遁(のが)るには、無双の所にして、本朝の「武陵桃源(ぶりやうたうげん)」とも、いひつべき所、とぞ。
紀州御領にて、代官は居置(をりおき)るれ共(ども)、何れも、居民、無年貢の定(さだめ)なり。
それは、此地の人、何れも、世代、五、六百年、子孫をつたへて、住(すみ)つゝ、みなみな、由緖あれば、それに免ぜられて、今は、年貢の沙汰には及(およ)ばれざる、よし。
「平の惟盛(これもり)の子孫、楠家(くすのきけ)の一族など、あまた、子孫、世をつたへて、今に住(すみ)わたるもの、おほし。」
とぞ。
當所(たうしよ)に源九郞判官[やぶちゃん注:源義経。]の郞等(らうだう)にて、龜井の六郞の子孫、有(あり)。代々龜井六郞と號する、よし。
其家へ立寄(たちより)て、
「遠國(をんごく)より承及(うけたまはりおよび)たる。」
よしを、申入(まふしいれ)ければ、主人、出會(いであひ)て、慇懃にあひしらひ、閑談の上、
「定(さだめ)て、御家にて、古代の物、つたへられたる數々(かづかず)あるべし、是迄尋まゐりたる證據に、何ぞ、古筆にても、見せ給はるべし。故鄕(ふるさと)の物語(ものがたり)かたりに致度(いたしたき)。」
よし、申ければ、主人、
「成程。御心安き御所望、家につたへ候品ども、彼是、有ㇾ之候へども、先年、紀州殿より仰渡(おほせわた)され候て、
『什物(じふもつ)傳來の品、必ず、他邦(たはう)の人に、みすまじ。隨分、祕藏して藏置(をさめおく)べき。』
よし、命ぜられぬれば、領主の命、もだしがたく候まゝ、御覽に入(いれ)がたき。」
よし答ける、とぞ。
是等、皆、
「年始に和歌山へ出勤して、年頭、目見得(めにえ)勤(つとむ)るばかりにて、外に無役にてある事。」
と、いへり。
[やぶちゃん注:「戶」(十)「津川」現在の奈良県吉野郡十津川村(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「武陵桃源」陶潜(淵明)の「桃花源記」に見える架空の地で、晋の太元年間(東晋の孝武帝司馬曜の治世に行われた二番目の元号。三七六年~三九六年)に、湖南武陵(漢代に現在の湖南省北西部地域に置かれた郡名。中心は現在の湖南省懐化市漵浦(じょほ)県の南)の人が、桃林の奥の洞穴の向こうに出でて見ると、秦末の戦乱を避けた人々の子孫が住む別天地があって、世の変遷も知らずに平和に暮らしていたという伝奇物。俗世間を離れた楽天地。また、比喩的に「別天地・理想郷」を言う。所謂、「桃源境」のこと。
「平の維盛」(平治元(一一五九)年 ~寿永三(一一八四)年?)平清盛の嫡子平重盛の嫡男であったが、父の早逝もあって、一門の中では孤立気味であり、平氏一門が都を落ちた後に戦線から離脱し、現在の和歌山県東牟婁郡那智勝浦町の熊野灘の沖で入水したとされている。一種のノイローゼ或いは鬱病であったと私は考えている。那智の補陀洛山寺の供養塔をお参りしたことがある。但し、生存説が古くからあり、また、全国各地に彼の隠棲・落人伝説が残る。
「楠家の一族」南朝のために貢献した楠木正成誕(永仁二(一二九四)年?~延元元年/建武三(一三三六)年)以下の一族。
「龜井の六郞」亀井重清(しげきよ ?~文治五(一一八九)年)は源義経の郎党で、「義経四天王」の一人。「弓の名手」と伝わる。参照した当該ウィキによれば、『藤白鈴木氏』(ふじしろすずきし:紀州熊野系の穂積氏の子孫で、穂積老の子とされる穂積濃美麻呂(ほぢみののみまろ)の流れを汲む、熊野速玉大社一の禰宜であった穂積国興の子、鈴木基行が鈴木姓を称したことに始まる。十二世紀頃、熊野から藤白(現在の和歌山県海南市藤白)に移り住んで以来、王子社(現在の藤白神社)の神職を代々務めた家系。熊野三党の一つとして熊野地方に大きな勢力を有し、また熊野八庄司の一つとして当主は代々「鈴木庄司」を称した)『の一族で、兄に鈴木重家がいた。また』、「続風土記」の『「藤白浦旧家、地士鈴木三郎」によると』、『重清は佐々木秀義の六男で、義経の命で』、『重家と義兄弟の契りを交わしたとされる』。「吾妻鏡」の文治五(一一八五)年五月七日の『条に』、『兄頼朝の怒りを買った義経が、異心のない証』(あかし)『として鎌倉へ起請文を送った使者として』、『亀井六郎の名が見られる。この起請文は、義経がそれまで勝手な振る舞いをしてきて、今になって頼朝の怒りを聞いて初めてこのような使者を送って来たものとして許されず、かえって』、『頼朝の怒りを深める原因になった』。「源平盛衰記」では、「一ノ谷の戦い」で『義経の郎党亀井六郎重清として登場する』。「義経記」では『義経最期の』「衣川の戦い」で『「鈴木三郎重家の弟亀井六郎、生年』二十三『」と名乗り、奮戦したのち』、『兄と共に自害した』とする。
「紀州殿」本巻は寛政二(一七九〇)年が最新年次とされるので、和歌山藩第九代藩主徳川治貞(はるさだ)か。彼の在任は安永四(一七七五)年~天明九(一七八九)年である。]