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2024/02/02

甲子夜話卷之八 20 萩原宗固幷門人塙撿校、橫田袋翁の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。]

 

8-20 萩原宗固(はぎはらそうこ)幷(ならびに)門人塙撿校(はなわけんげう)、橫田袋翁の事

 蕉軒(せうけん)、云(いふ)。

「萩原宗固は『百花庵』と號して、一時(いつとき)、和歌には名高き人なりけり。

 門人の内、橫田孫兵衞【與力士なり。退休して「袋翁(たいをう)」と稱す。】には、

『和學は、よきほどにせよ。たゞひたすら、歌、よむべし。』

と敎へ、保己一(ほきいち)【盲人なり。後に「塙撿校」と呼ぶ。】には、

『歌に心入るべからず。專ら、和學に出精(しゆつせい)せよ。』

とこそ、誡(いまし)めける。

 是を聞(きく)もの、咄(はなし)けるは、

『目の明(あき)たるものに、和學は、させず。歌を、よませ、目しひたる者に、歌を考(かんがへ)させず。和學さするほど、事の倒(さかしま)なることは、よもあらじ。いかなる師の訓(をしへ)にや。』

と、人々、評しけり。

 然(しか)るに、兩弟子、年老(としよ)るに至(いたり)て、塙は和學、袋翁は和歌を以て、一世を動かしたり。ここに於て、宗固が、人を知る鑑(かがみ)の、凡(ぼん)ならざるを感ぜぬものぞ、無(なか)りける。

■やぶちゃんの呟き

「荻原宗固」(はぎわらそうこ 元禄一六(一七〇三)年~天明四(一七八四)年)は幕府の先手組に所属した幕臣で歌人。名は貞辰。号は百花庵。烏丸光栄(からすまるみつひで)・武者小路実岳(さねおか)・冷泉為村(れいぜいためむら)らに師事して、和歌・歌学を学ぶ。江戸の武家歌人として、名声高く。また、同じく幕臣で狂歌師であった内山賀邸(がてい)とともに、「明和十五番狂歌合」の判者をも勤めて、「天明狂歌」の原点に位置したことでも知られる。家集「志野乃葉草」、歌学随筆「一葉抄」・「もずのくさぐき」等が伝わる。「塙氏雑著」も宗固自筆の雑抄。為村との問答である「冷泉宗匠家伺書」には宗固の苦悩も、ほの見えて、興味深い(朝日新聞出版「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「塙撿校」塙保己一(延享三(一七四六)年~文政四(一八二一)年)は国学者。幼名は寅之助、号は水母子。家号は温古堂。武蔵国保木野村(現在の埼玉県児玉町)の農家に生まれ、七歳の時に失明した。十五歳で江戸に出、雨富(あめとみ)検校須賀一(すがいち)の門に入る。後、萩原宗固・賀茂真淵らに国学を学んだ。天明三(一七八三)年、検校となり、「大日本史」などを校正し、また、幕府保護の下に「和学講談所」を起こし、国学の振興に努めた。また、文政二(一八一九)年には、かのた国学・国史を主とする一大叢書『群書類従』の刊行を完成、さらに『続群書類従』の編纂に着手した。著に「武家名目抄」・「螢蠅(けいよう)抄」・「鶏林拾葉」・「花咲松」等がある(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「蕉軒」お馴染みの静山の親友、林家第八代林述斎(明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)。「蕉軒」は「述斎」とともに彼の号の一つ。

「橫田孫兵衞」「袋翁」(寛延二(一七四九)年~天保六(一八三五)年)は詳細事績は以上以外には知らないが、音曲の歌詞を多く手掛けている。

「和學」一般に国学と同義で用いられるが、本来はもっと広く、本邦の文学・歴史・法制・有職故実などについての学問を指す。

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