譚海 卷之九 若狹國大龜の事
○若狹の海には、大龜のかしら、僧に似たる有(あり)。
漁人、「龜入道」と號し、時々、網に入(い)るなれども、
「『殺す時は、たゝり、あり。』とて、酒をのましめて、放しやる。」
と、いへり。
漢に「海和尙」といへるもの成(なる)べし。
[やぶちゃん注:私のサイトの「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類 寺島良安」の「和尚魚(おしやういを) 海坊主」(私はウミガメではなく、アシカ(鰭脚)亜目の水棲哺乳類に推定比定した)があるが、今回は、携帯で見ておられる若い方のために、図を含めて転写しておく(読み易さを考え、一部を省略・改変した)。「ぼうず」はママ。
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おしやういを
うみぼうず 【俗云海坊主】
和尙魚
ホウ シヤン イユイ
三才圖會云東洋大海中有和尙魚狀如鱉其身紅赤色
從潮汐而至
△按西海大洋中有海坊主鱉身人靣〔=面〕頭無毛髪大者五
六尺漁人見之則以爲不祥漁罟不利遇有捕得則將
殺之時此物拱手落泪如乞救者因誥曰須免汝命以
後不可讎我漁乎時向西仰天此其諾也乃扶放去矣
所謂和尚魚是矣
[やぶちゃん注:「靣」は中が「口ではなく「月」になってしまっている。しかし、このような異体字はないので、最も近い「靣」で代替した。]
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おしやういを
うみぼうず 【俗に「海坊主」と云ふ。】
和尚魚
ホウ シヤン イユイ
「三才圖會」に云ふ、『東洋大海の中、和尙魚、有り。狀ち、鱉〔(べつ)=鼈〕のごとく、其の身、紅赤色。潮汐に從つて、至る。』と。
△按ずるに、西海大洋の中、「海坊主」と云ふもの有り。鱉(す□〔→本?〕)の身、人の面(つら)、頭に、毛髪、無く、大なる者は、五、六尺。漁人、之れを見る時は、則ち、以つて「不祥。」と爲す。漁罟(ぎよこ)、利あらず。遇々(たまたま)捕り得ること有らば、則ち、將に之れを殺さんとする時、此の物、手を拱(こまぬ)きて泪を落とし、救ふ者(こと)を乞ふがごとし。因りて誥(つ)げて曰く、「須らく、汝が命を免ずべし。以後、我が漁に讎(あだ)をすべからざるか。」と。時に、西に向かひて天を仰(あふ)むく。此れ其れ、諾なり。乃ち扶(たす)けて放ち去る。所謂る、和尙魚、是なり。
[やぶちゃん注:多くの資料がウミガメの誤認とするが、私は全く賛同出来ない。寧ろ、
・顔面が人の顔に似ている点。
・坊主のように頭部がつるんとしている点。
・一・五~二メートル弱という体長。
・魚網に被害をもたらす点。
・両手を胸の前で重ね合わせて涙を流しながら命を救ってくれることを乞うかのような動作や空を仰ぐような姿勢をする点(こんな仕草をする動物、水族館のショーで見たことがあるでしょう?)。
等を綜合すると、私にはこれは
哺乳綱食肉(ネコ)目鰭脚(アシカ)亜目アザラシ科 Phocidae のアザラシ類
か、同じ
食肉目鰭脚亜目アシカ科 Otariidae のアシカ(オタリア)類
及び
アシカ科オットセイ亜科 Arctocephalinae に属するオットセイ類
等の誤認以外の何物でもないという気がする。スッポンに似ているという点で、付図のような甲羅を背負ってしまう訳(それがウミガメ誤認説を導くのであろう)だが、これは断じてスッポンの甲羅では、ない。実際のスッポンの形状をよく思い出して頂きたい。甲羅は厚い皮膚に覆われており、鱗板(りんばん。角質板とも言い、爬虫類の鱗が癒合して板状になったもの)がなく、つるっとして、平たい。また、多くの種は、背甲と腹甲が固着することなく、側縁の部分は一種の結合組織で柔軟に結びついている。四肢を見ると、前肢は長く扁平なオール状を呈しており、後肢は短い。
さて「この私のスッポンの叙述」は、恰も上に上げた水生哺乳類のイメージとかけ離れているであろうか? 私には部分的には、よく似ているように思われるのである。ちなみに「山海経動物記・三足亀」には、私と全く同じような見解から、アザラシやオットセイ、ヨウスコウカワイルカを巨大なスッポンと誤認したのではないか、という解釈が示されている(この「アザラシやオットセイ」の部分の同サイトのリンク先「鯥魚」(ろくぎょ)も必読である)。是非、お読みになることをお薦めする。なお、この本巻の初回公開以後に公開したブログの「大和本草卷之十三 魚之下 和尚魚(をしやううを) (アシカ・オットセイの誤認)」でも、再考証しており(「三才圖會」原本の「和尚魚」(図附き)も掲げてある)、ごくごく最近では、たまたま、『柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「海坊主」』でも、一から仕切り直して、同定候補を子細に検討している。是非、読まれたい。
・「鱉」この字のルビは判読出来ない。「ス」は確かであるが、その下には「本」の字に似ていて、但し、四画目の右払いの最後が優位に右方向へ真直ぐ意識的に流れているので、「本」の字ではないようにも思われる(良安は、しばしば「時」「云」「子」等をルビとして用いるが、「本」という漢字を用いる用法は、現在までの作業内では未見)が、「すほん」で「すつぽん」という訓には一番近いので、とりあえず「本?」としておく。
・「漁罟、利あらず」「漁罟」は魚を獲るための漁網のこと。東洋文庫版では「漁網も、役に立たない」と訳しているが、如何にも乱暴な訳である。ここは、「和尚魚を見たり、捕らえたりしたと時は、不吉とするのみならず、その和尚魚が、漁網に入ると、網が破れたり、流れて亡失したりして、実利的にも甚大な被害が生ずる」という意味である。だからこそ、漁師は殺そうとするのである。
・「手を拱き」の「拱く」は、実は本来「こまぬく」で、現在の「こまねく」はそれが変化したもの。意味は、「両手を胸の前で重ね合わせる(腕を組む)」ことを指し、これは中国では敬礼の動作に当たる。但し、現行の用法は異なり、もっぱら、「何もしないで(する能力がなくて)手出しをせずに傍観しているさま」を言う。
・「誥げて曰はく」の「誥」は、単に告げるという意味よりも、「教え諭す」とか、「戒める」のニュアンスに加えて、「命令を下す」の意味も含まれる字である。
・「須らく、汝が命を免ずべし」の「すべかラク~すベシ。」は高校の漢文では、それこそ「必須」暗記の再読文字の一つ。「きっと~しなければならない。」「是非~すべきだ。」等と訳す「必須・義務・命令」の用法ではある。しかし、時には臨機応変な訳が必要で、ここは「きっと、お前の命を救ってやらねばなるまい。」「是非とも、お前の命を奪うことを免じてやるべきではある。」では、如何にも、おかしい。ここは本来の「須」の持っているところの、「しばし」とか、「少しの間」といった意味を利かせて、「暫く、お前の命を救ってやろうと思うぞ。」ぐらいが、よかろう。
・「此れ其れ、諾なり」の「其れ」は強意で指示語ではない。この和尚魚のする動作(西を向いて空を仰ぐこと。西方浄土にかけても約束を守るということであろう)こそが『分かりました』というしるしなのである、という意味。]
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