譚海 卷の九 西國海路里程の事
○大坂より、讃州丸龜「金毘羅權現」まで海路五十里、丸龜より、備後の靹(とも)に至
る。
靹より藝州「尾のみち」、同所より、同國竹原、鹽の產する所なり。
竹原より、宮島、すなはち、嚴島(いつくしま)なり。竹原より、宮島の間五十里なり。海路、是迄、百里なり。淡路も大體、おなじ事なり。
宮島より「長門上(かみ)の關」へ十五里、「上の關」より、「下の關」へ三十五里、たゞし、「下の關」にいたらんとする三里ほどこなたに、「まへなだ」といふ洲(す)、有(あり)て、直(ちょく)に行(ゆき)がたければ、「もと山」といふを、まはりて、三里ほど沖をへて、下の關に至(いたる)なり。
[やぶちゃん注:「長門上の關」現在の山口県熊毛(くまげ)郡上関町(かみのせきちょう:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。現町域は室津半島先端、及び、長島・祝島(いわいじま)・八島などの島で構成され、町の中心部は半島先端部の室津(むろつ)地区、及び、室津地区対岸で、上関大橋(かみのせきおおはし)で本土と陸続きになっている。
『「まへなだ」といふ洲』「ひなたGPS」の戦前の地図でも判らない。
「もと山」山口県山陽小野田市小野田にある本山岬。]
五百石積(づみ)より以下の舟は、沖へまはらず、洲の内を、岸にそひて、ゆかゝるなり。
「下の關」より、豐後小倉へ、三里、わたる。
小倉より、肥前長崎へ、陸路四十八里、有(あり)、とぞ。
「下の關」より、長崎ヘ、海路五十五里、此間を「玄海なだ」と云(いふ)。
玄海にて、風、あしければ、「ゑぶこ浦」といふ湊へ入(はいる)なり。「ゑぶこ」までは、下の關より、四十五里あり。「ゑぶこ」より、「長さき」へは、十里あり。長崎より歸るときも「ゑぶこ」へ、人は、舟のつがふ[やぶちゃん注:「都合」。]、よろし。此「ゑぶこ」、「名ごや」の内にて、卽(すなはち)、豐臣太闇、朝鮮征伐の時、陣屋ありし所なり。「松うらさよ姬」の石に成(なり)たるも、又、此湊(みなと)にあり。
[やぶちゃん注:「ゑぶこ浦」現在の佐賀県東松浦郡呼子町(よぶこちょう)地区。
「松うらさよ姬」の哀しい伝承は当該ウィキを見られたい。彼女が石となったとする「鏡山」と、彼女を祀った「佐用姫神社」は唐津にある(呼子町の南東方)。]
豐後小倉より、長崎へ、陸路は四十八里、海路は九十一里なり。
「下の關」より、宰府天滿宮[やぶちゃん注:ママ。]へは、廿四里有(あり)。
すべて、大坂より長崎まで、海陸ともに、百五十里ほどなり。
大坂より播州高砂まで廿里、此間を「はりまなだ」と云(いふ)。
[やぶちゃん注:「播州高砂」兵庫県高砂市。]
「遠州なだ」抔(など)、すべて「なだ」と云(いふ)は、舟をよする「かゝり」なき所を名付(なづけ)たるなり。
「下の關」、迫門口(せとぐち)に、「まんじゆ」・「かんじゆ」とて、島、二つ、有(あり)。
[やぶちゃん注:『「まんじゆ」・「かんじゆ」とて、島、二つ、有』山口県下関市長府の沖、瀬戸内海(周防灘)中にある二つの無人島である満珠島(まんじゅしま)・干珠島(かんじゅしま)。現在、原生林が「満珠樹林・干珠樹林」として国指定天然記念物となっている。参照した当該ウィキによれば、『忌宮神社の飛び地境内であり、祭神の神功皇后が住吉大神の化身である龍神から授けられた二つの玉、潮干珠(しおひるたま)・潮満珠(しおみつるたま)から生まれたという伝説がある島。また、彦火火出見尊が海神より授かった潮満瓊(しおみつたま)と潮涸瓊(しおひのたま)を両島に納めたという伝説もある』。『二島は至近距離にあり、伝説では』、『どちらが』、『満珠島か干珠島か』、『はっきりしていないが』、直近の本土にあり、両島を飛地境内としている『忌宮』(いみのみや)『神社では』、『沖の大きい方を満珠島、岸に近い小さい方を干珠島と呼んでいる』が、『土地台帳と天然記念物指定文書では沖側の島が干珠、国土地理院の地図や海図、国立公園指定では岸に近い側の島が干珠となっており、公式にも定かではない』。「壇ノ浦の戦い」で、『源義経率いる源氏軍が拠点とした』とある。]
備前小島に、「京の女郞」・「大坂の女郞」とて、石、ふたつ、たてり。京の女郞形容、はなはだ、都閑(とかん)なり。高砂より「さぬき」の丸龜へゆく海路にて、見る所なり。
[やぶちゃん注:「備前小島」「備前兒島」。嘗つて吉備国及び備前国児島郡にあった島嶼の歴史的地名である。「吉備児島」(きびのこじま/きびのこしま/きびこじま/きびこしま)とも呼ばれる。「吉備」は「黄微」・「機微」など、「兒」は「子」「仔」、「島」は「嶋」「嶌」「洲」などとも表記されることがある。参照した当該ウィキによれば、『江戸時代中期頃、海域の新田干拓により陸続きとなり、児島半島』(ここ)『となった。当時島嶼であった地域は、現在は岡山県倉敷市南西部から岡山市南区南部』及び『玉野市に至る』とある。
『「京の女郞」・「大坂の女郞」』この石、ネット検索にはかかってこない。現存するとなら、識者の御教授を乞うものである。【二〇二四年二月二十九日削除・追記】いつもお世話になっているT氏よりメールがあり、『これは貴下のブログ 2018/06/08 諸國里人談卷之二 京女郞 田舍女郞の「京女郞 田舍女郞」です。備前小島(児島)から出て、すぐの京の上臈島にあります。実際「田舍女郞」、「大坂の女郞」いずれかは不です』と、なんともお恥ずかしいことに、私の「諸國里人談卷之二 京女郞 田舍女郞」が、それ、と指摘された。御礼申し上げる。
「都閑」「都雅」に同じ。上品でみやびやかなこと。洗練されていて上品なさま。]
平戶より長崎へゆく間に、「すまふ浦」と云(いふ)所に、大なる石、ふたつ、たちて有(あり)、日本の「すまふ」からの[やぶちゃん注:ママ。]、「すまふ」と稱するものなり。
[やぶちゃん注:不詳。識者の御教授を乞う。【二〇二四年二月二十九日削除・追記】同じくT氏より、『是は大角力』(おおずもう)、『小角力』(こずもう)『と呼ばれている岩礁です。ここは角力灘』(すもうなだ)『と呼ばれています。長崎県長崎市神浦口福町です。「小角力」は長崎県長崎市上大野町です』と御教授を受けた。]
大坂より、舟をたのみて乘るに、舟ちん、幾たりにても、一日限(かぎり)、五匁づつなり。米・味噌・たきぎは此方(こちら)より外(ほか)に、いだすなり。大坂、書林に「鹽路(しほぢ)の記」と云(いふ)あり、諸國海路、くはしく記(しるし)たる物なり。
[やぶちゃん注:「鹽路(しほぢ)の記」「国書データベース」のこちらにある「日本汐路之記」(これは増補版で、大阪で寛政八(一七九六)年に刊行されている)の先行する初版本であろう。何故なら、本巻の最新記事は寛政元年だからである。【二〇二四年二月二十九日追記】いつもお世話になるT氏より、メールを頂戴した。『鹽路の記は、正しくは「增補日本汐路之記」で、東京海洋大学のサイトで明和版が公開されています。「増補日本汐路之記」と表記されて』おり、『従来、写本としては日本各地方の「汐路之記」が存在した。それを取りまとめて訂正し編集して刊行したのが本書であ』り、『その意味で「増補」としてある。東京海洋大学は明和版と寛政版を所蔵されているが、電子化資料は越中島分館の明和版である、と言われています。「增補日本汐路之記」(寛政八年刊)は京大のこちらで確認しました。明和版と寛政版の差異は明和版では、本文の最後百三十八丁ウラ以降に略暦が明和七(一七七〇)年から十一年までついています。寛政版は流石に略暦を省略しています。以外は全く同じです』と御教授を受けた。T氏に心から御礼申し上げる。]