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2024/02/18

譚海 卷之八 上總國おふの明神・みたらし逆手地藏・水とおしの事

[やぶちゃん注:「とおし」はママ。「逆手地藏」は「さかてぢざう」と読んでおく。]

 

○上總國大田郡くらなみ村の海邊(うみべ)より、一里半程、沖に、海中より、淸水(しみづ)の湧(わく)所、有(あり)。夥敷(おぼただしく)、わく事にて、其所(そこ)へ、井戶がはを、仕(し)かけ、ひでりの時は、村より水を汲(くみ)に行(ゆき)、又、渡海の船も水をくむ事とするなり。夫故(それゆゑ)、井戶がは、壹年に二度程づつも、造りかふる事、とぞ。

「是は、其所に『生(おふ)の明神』とて、まします御手洗(みたらひ)なり。」

と云(いへ)り。

 「おふの明神」は、其所より壹里斗(ばかり)他所(よそ)に宮居(みやゐ)有(あり)。

 又、同國、「くるり」と云(いふ)所に、「逆手地藏」と云(いふ)宮居、有(あり)。錫杖を、さかしまに持(もち)給ふゆゑに、かく、云(いふ)なり。

 其所(そこ)に、高からぬ山(やま)、有(あり)。

「金輪よりの岩山(いわやま)なり。」

とぞ。

 其邊(そのあたり)、田地に水を引(ひく)事、不自由なる故、いつの頃より、其岩山を切(きり)とほして、向ふのかたへ、行(ゆき)とをし[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ。]のなるやうに掘明(ほりあけ)て、底へも又、深さ八町[やぶちゃん注:八百七十三メートル。]ほど、掘入(ほりいれ)たれば、其(その)切(きり)とをしの所、川の如く成(なり)て、治水(ちすい)、ながれ出(いで)て、田地の便(たより)と成(なり)、段々、山へも、田を造りひらきて、山の田へ水をかくる時は、兩方の口をふさぎておけば、山の上へ、穴をほり明(あけ)たる所へ、水、湧出(わきい)で、ながれわたり、山の田にも、水をひく事、自由なるやうに成(なり)たり。

 不思議の工風(くふう)なり。

「其掘明たる穴を、外よりのぞき見れば、わづかに、日のあかり、むかう[やぶちゃん注:ママ。]に見えて、川とも、何とも、見えわかず。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:最後の水路の話は、言っていることが、どうもうまく想起出来ない。掘った深さも異常な深さだ。ワケ判らん。

「上總國大田郡くらなみ村」上古の昔も、近世・近現代も、房総半島内には「大田郡」という郡は、ない。これは、現在の千葉県袖ケ浦市蔵波(くらなみ:グーグル・マップ・データ)である。この「大田郡」は近代まで、この附近の広域郡名であった「望陀郡」(もうだのこおり/ぐん:現代仮名遣)の誤りである。ウィキの「望陀郡」によれば、『古代には』「馬來田國」『と呼ばれ』、『近世までは』「まくだのこほり」『とも呼ばれた』ともあった。「千葉県袖ケ浦市」公式サイト「そでなみ」内の「袖ケ浦市水紀行」によれば、この袖ケ浦市内の『北部、東部は丘陵地帯で、丘陵地の際では湧水の多いところで』あるとあり、さらにそこには、「蔵波川岸公園の自噴井戸」の項があり、その下に蔵波川岸公園の近くにある「ちば里山センター御手洗井」(「みたらしのい」と読む)があり、そこには、『京葉化学コンビナート建設の為に東京湾を埋め立てる前には、この御手洗井より東』百六十メートル『ところに、浜にこんこんと湧き出る不思議な井戸があり、塩気はなく、旅人の喉の渇きを潤したとのこと』とあった。まさしく嘗つて干潟があった頃には、「沖」に清水の湧き出る箇所が、実際あったのである。さらに、延宝二(一六七四)年に、『黄門様(天下の副将軍水戸光圀公)が、房総から鎌倉へ赴く途中に、奈良輪村を出ると、沖の中の湧き出る清水で渇を癒したと』いう『史実』もある、とあるのである。「今昔マップ」の戦前の地図の方を御覧あれ! まさに『波藏』の川の沖に向かって川水が作った「へこみ」が視認出来る。その海底の底には、恐らく淡水の伏流水が流れているのだ。因みに、光圀のこの旅行だけが、彼が水戸を有意に離れて行った唯一の旅である(後は箱根の湯治ぐらいなもので、殆んど水戸を長期には出ていない)。「水戸黄門」のドラマは完璧に創作された虚構であることは、御存知でしょうな? その折りの彼の鎌倉での日記(後に編纂させた「新編鎌倉志」(私のサイトのこちらで全巻電子化注済み)の原型)である「鎌倉日記(德川光圀歴覽記)」は私の同ブログ・カテゴリで全篇を電子化注してある。言っとくと、彼は大の仏教嫌いで、金沢八景では、路傍の地蔵を荒縄で縛りつけさせ、引きずって、海に投げ棄てているのだ! とんでもない厭な奴なんだ!!!

「生の明神」不詳。蔵波川岸公園の対岸にある縁起不詳の蔵波八幡神社は、或いは、関係があるかも知れない。

『「おふの明神」は、其所より壹里斗他所に宮居有』距離と神社名の漢字を見るに、まず、千葉県袖ケ浦市飯富(いいとみ)東馬場にある飯富神社がそれらしく思われてならない。この「飯富」の「富」の音と通底するからである。当該ウィキによれば、『千年以上前から存在した古社で』、『旧称を飫富神社といい、君津地方では唯一の式内社で、歴史的価値の高いものである』。『創建は、社伝によると』、第二『代綏靖』(すいぜい)『天皇元年で、天皇の兄の神八井耳命が創建したと伝えている。主祭神はウカノミタマノミコト、すなわち農業神である』とある。この旧称の「飫富」は「おぶ」と読め、「おふ」と見事に音通する! なお、今一つ、千葉県袖ケ浦市蔵波の子者清水(こはしみず)神社も、その「清水」から、候補になろう。距離もよく合う。

「くるり」千葉県君津市久留里であろう。かなりの内陸の山間部である。

「逆手地藏」不詳。見当たらない。残っていれば、錫杖が逆さなのだから、ネットでかかるはずだから、現存しないのかも知れない。

「其所に、高からぬ山、有」地蔵が判らないし、久留里自体が山だらけで、不詳。

「金輪」不詳。地名も山名も房総半島にはない。]

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