譚海 卷之九 備前少將新太郞の事
○備前の少將新太郞殿と聞へ[やぶちゃん注:ママ。]しは、生質(きしつ)短少の人におはせしかど、英偉(えいゐ)なる御人(ごじん)にて、熊澤了海(くまざはりやうかい)[やぶちゃん注:底本では「海」に編者修正傍注があり、『(介)』とある。]などいふ儒(じゆ)[やぶちゃん注:「儒者」。]をまねき、學校を立(たて)られ、文武の道をそなへて、國政も、此ころより調(ととのひ)たり、とぞ。
「今世、諸藩に、學校を、もふけ建(たて)らるゝ事、備前を濫觴といふべし。」
と、きけり。
新太郞殿、一日(あるひ)、在所にて、他行(たぎやう)ありしに、ある家司の門前を通行ありし時、其家司、奴僕(ぬぼく)を相手にして、屋根をつくろひていたる所へ、行(ゆき)かゝられ、此家司、避(さく)るに、いとまあらず、白衣(びやくえ)にて、其まゝ、門外にうづくまり、揖((いふ)したる[やぶちゃん注:会釈する。]を見られ、
「屋根を、つくろい、大義なり。」
と挨拶ありて、有合(ありあひ)たる小刀の小柄(こづか)を賜(たまはり)て過(すぎ)られけり。
翌日、公より、此家司、召(めさ)れければ、家司、
『定(さだめ)て、稱美(しやうび)に預るべし。』
と、心にはかりて、登城せしに、新太郞殿、申されけるは、
「昨日、其方、下人と同(おなじ)やうに、やねをこしらへ罷在(かまりあり)候。辛勞(しいらう)にはあれども、身分不相應の仕方に覺ゆるなり。かやうの事は、下賤のもののわざにて、知行取(とる)者の、すべき事には非ず。矢をはぎ、鐵炮をみがきなどすべき事は、士の身分あるべき事なれども、下賤のすべき事を自身にするやうにては、吝嗇(りんしよく)と申(まふす)ものにて、上下(かみしも)、かやうなる事を見ならひては、家中の風俗、惡敷(あしき)なるべし。依(よつ)て、其方事は、ながのいとま、とらするよし。」
にて、他所(よそ)へ、おはれけると、いへり。
[やぶちゃん注:「備前の少將新太郞殿」底本の竹内利美氏の後注に、『岡山藩主池田光政。寛永九年』(一六三二年)『岡山三十一万石の領主となる。藩治に実績をおさめ名君といわれた。天和二年』(一六八二年)『歿。熊沢了介は光政が登用した熊沢蕃山である』とある。この話自体は、私は嫌いだが、当該ウィキを見るに、興味深い、よいエピソード(例えば、被差別民を一般の百姓と差別しないように命じた話など)もあるので、見られたい。
「熊澤了海」「(介)」江戸初期の不屈の陽明学者熊沢蕃山(くまざわばんざん 元和五(一六一九)年~ 元禄四(一六九一)年)の字(あざな)が「了介」(一説には「良介」)。その波瀾万丈の生涯は(明暦三(一六五七)年に幕府と藩の反対派の圧力に耐え難く、岡山藩を去っている)当該ウィキを見られたい。]