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2024/02/06

「蘆江怪談集」 「投げ丁半」

[やぶちゃん注:本書書誌・底本・凡例は初回を参照されたい。本篇の底本本文の開始位置はここ。本篇は御覧の通り、パート章題があり、全四パートからなる。但し、オムニバスではない。]

 

 

    投 げ 丁 半

 

 

        音 な し の 宮

 

「けさ出がけに天井(てんじやう)から蜘蛛(くも)が下つたの」

「いやだな」

「いやな事ないわ、えんぎが好(い)いんでせう。朝の蜘蛛(くも)だから」

「どうだか」

「茶(ちや)ばしらが立つて、自動車の番號(ばんごう)も汽車の番號も、皆んな丁目(ちゃうめ)だし」[やぶちゃん注:原本では、「丁目」のルビは「ちやうわ」となっている。誤植と断じて、特異的に訂した。言わずもがな、「偶数」の意。]

「いやにかつぐね」

「かつぐわ、洗(あら)ひ髮(がみ)でもないのに、前髮は割(わ)れるし」

「割(わ)れるとどうなんだ」

「思(おも)はれるつていふの」

「フウン」

「あんた、氣(き)がないのね、思はれるつてわけ知(し)つてる」

「知らない」

「前髮は顏(かほ)のおもてにあるでせう。それが割(わ)れるから、誰れかに思(おも)はれるつて……」

「宿(やど)へかへらう」

 男はへんに無愛想(ぶあいさう)だつた。女だつて相當(さうたう)に話しかけたが、男のそばに寄(よ)り添(そ)ふなんて事はしなかつた。こんなに暗い、人影(ひとかげ)のない社(やしろ)の裏の川つぷちだのに。

「音(おと)なしの宮(みや)つて云つたわね」

「うん」

「なぜ音なしの宮なんだらう」

「賴朝と政子姬(まさこひめ)と逢曳(あいびき)をしたところだから」

「逢曳はおとなしくしろつていふことなの、ほほほ」

「まさか」

「この川(かは)が音なし川で……」

 云ひかけて、女はアツと叫(さけ)んだ。

 雜木(ざうぎ)の生(お)ひ茂(しげ)つた社殿のうら手は、しけ臭(くさ)くて、靑臭くて、晝間にしてあんまり好(い)い氣持(きもち)ではない。で表の方へと拜殿(はいでん)の橫をぬける時、古木の梅(うめ)の枝(えだ)が、女の鬢(びん)に引かゝつたのかと、男は思つた。それほど道(みち)が狹(せま)かつた。

「どうした」

「えりりに何(なに)か入つたの」

「毛虫か」

「おゝいやだ」

 女はむづむづして、拜殿(はいでん)の前へ出た。そこに燈籠(とうらう)がともつてゐる。

「取つて頂戴(ちやうだい)」

 えりをぐつとはだけて、女は美(うつ)くしいえりあしを脊筋(せすぢ)へかけて男の面前(めんぜん)にさらした。

 男は遠(とほ)くの方から覗(のぞ)き込んで、

「何もゐないよ」

「もつとよく見てよ。身(み)を入(い)れてさ」

「見てるよ」

 もう賴(たの)まないといふ氣持を、足どりに見せて、女は、どんどん鳥居(とりゐ)の方へあるいた。そこには緣日(えんにち)がちらりほらりと見世を片付(かたづけ)けはじめてゐる。もうそんな時間だ。

 男は遣(や)る瀨(せ)なげに、無言(むごん)で女のあとについた。

 とある露店(ろてん)に立つて、女は買(か)ひものをしはじめた。

 柳の枝に大福帳と、福助(ふくすけ)と、小判と、一升枡(しやうます)ほどの張子(はりこ)の賽(さい)コロなどがぶらさげてあるのを、女はかついでゐた。こんな繭玉(まゆだま)を、こんなところで賣つてゐるのも不思議(ふしぎ)だが、一夜泊(やとま)りの溫泉で、そんなものを女が買ふのは、尙(な)ほ更(さら)、妙な氣まぐれだつた。[やぶちゃん注:「繭玉」本来は旧正月の飾り物の一種で、桑や赤芽柏(かめがしわ)の枝に、繭のようにまるめた餠や団子を数多くつけ、小正月に飾るもの。その年の繭の収穫の多いことを祈って行なった。後には、葉のない柳や笹竹などの枝に、餠や菓子の玉をつけたり、七宝・宝船・千両箱・鯛・大福帳などをかたどった縁起物の飾りを吊るしたりしたものになった。神社などで売っているのを買って神だなや部屋に飾る。「なりわい木」「まゆだんご」等とも呼ぶ(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。]

「どうするんだえ、そんなもの」

 男はよびかけたが、女は返事(へんじ)をしなかつた。

 「里(さつ)ちやん、持つてやらうよ」

 男がいくらかお世辭(せじ)の氣味(きみ)で、追ひすがつて柳(やなぎ)の枝に手をかける。女がいぢわるく前へ引く、はづみに、大(おほ)さいころが、ポトリと落(お)ちた。

 カラカラと石疊(いしだゝみ)から土の上へころがつて、暗い地上(ちじやう)で、白々とうづくまつた。

「丁(ちよう)」

 女は走りよつて、さいころの表に鼠鳴(ねずな)きをした。[やぶちゃん注:「人が鼠の鳴き声を真似て口を尖らして「チュッ!」と出す声。人の注意を促したり、合図をしたりする際にする。]

「二が出た」

 男も云つて、さいころを拾(ひろ)つた。

 それを女が引(ひつ)たつくつて、

「丁か半(はん)か」

 改(あらた)めて投げるつもりだ。

「半」

「いやよいやよ、丁でなけあ」

 丁出ろと大きく念(ねん)じて、ポンと投(な)げる。又前の通りに二が出た。女はとびかゝつて、抱(だ)きとるやうにして嬉(うれ)しがつた。

「うしろ側(がは)の五のところが、重いんだよ、張(は)り子(こ)だから」

「雀部(さゝべ)さん、あんたケチをつけるつもり」

 女があんまりムキになつたので、男(をとこ)はまごついた。

「猿島(さしま)、そろそろ着(つ)く時分だぜ。早くかへらう」

 女は耳にも入れずに、あるきながら、三度目(どめ)のさいころを投(な)げた。

「それ御覽(ごらん)、今度は二ぢやありません。でもちやんと丁が出ましたよ」

 石の上に落(お)ちた大さいころは六になつてゐた。

「もう止(よ)せよ、早くかへらう」

「止せといふなら、いつまででもやつてゐるわ」

 四度、五度のさいころを振(ふ)つてはあるき、振つてはあるき、梢々(やゝ)人通(ひとどほ)りの絕(た)えかけた溫泉町の暗(くら)い小溝(こみぞ)に沿(そ)つて、女は餘念(よねん)なくさいころを振つた。併(しか)し、振つても、振つても、丁は出ないで一が出たり、五が出たり。

 女はぢりぢりして道(みち)の眞中(まんなか)に立ちどまつた。

「おい、里(さつ)ちやん、どうしたといふんだ。猿島(さしま)が着く時分だといふのに。ねえ里奴(さとやつこ)」

 雀部(さゝべ)は行きすぎて戾(もど)りかけた。

 按摩(あんま)の笛(ふえ)が、遠いのと近いのと、互(たが)ひちがひに響いて、何かの合圖(あひづ)でもしてゐるやうだつた。波の音が、凉しい夜風(よかぜ)を送つて、伊豆(いづ)の伊東(いとう)の夜をゆり動かした。

[やぶちゃん注:「音(おと)なしの宮(みや)」現在の静岡県伊東市音無町(おとなしちょう)にある音無神社(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、『源頼朝と八重姫』(北条政子との関係以前の女性)『の逢瀬の場としても知られ、頼朝が対岸の』「日暮八幡(ひぐらしはちまん)神社」(伊東市桜木町。前掲地図に西に配してある)で『日が暮れるまで待ってから』、『音無神社で』その監視役であった在地豪族伊東祐親の三女八重姫と逢瀬を重ねたと『され、境内の玉楠神社には、彼ら』及び、の間に生まれた男児『千鶴丸』(祐親の命により川に沈められて殺害された)『が祀られている』とある。個人的には参拝して、祈願するなら、政子と頼朝所縁の密会の地、熱海の伊豆山神社の方を、断然、お薦めするものである。

「音なし川」両神社の間を貫流している「伊藤大川」は別に「音無川」「松川」の異名を持つ。]

 

        蜘 蛛 の 振 舞

 

 暖香園(だんかうえん[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。])のはなれ座敷、例の柳の枝を脇床(わきどこ)に立てかけて、男は女にかまはず、手拭(てぬぐひ)をぶらさげ、浴槽(よくさう)へ行かうとしてゐた。[やぶちゃん注:「暖香園」明治二〇(一八八七)年開業の老舗温泉旅館である伊東温泉暖香園(グーグル・マップ・データ)。今はすっかり巨大ホテル化している。]

 出あひがしらの閾際(しきゐぎは)で、遲(おく)れてかへつた里奴(さとやつこ)は、

「フン」と鼻をならして、肩(かた)をいからしたまゝ座敷(ざしき)へ入る。例の大さいころはしつかり抱(だ)いたまゝで。

 雀部(さゝべ)は知らん顏をして廊下(らうか)へ出たが、立戾つて一言(ごん)、

「猿島(さしま)來(こ)ないよ。コンヤイカレヌ、アスアサイクだとさ」

 女は返事もせずに卓臺(ちやぶだい)の上の電報をひろげた。男は廊下傳(らうかづた)ひに浴槽(よくそう[やぶちゃん注:ママ。])に行つて了つた。

 一風呂浴びて男が戾(もど)つて來た時、里奴(さとやつこ)はさいころを疊の上でやけに振(ふ)つてゐた。

「湯に入らないの。誰(だ)れもゐないで、好(い)い湯(ゆ)だぜ」

「どうしても、丁(ちやう)が出なくなつた」

 最後の賽(さい)を叩(たゝ)きつけて、平手で押しつぶした。

「おつれさん、お見(み)えにならないんですつてね」

 丁度(ちやうど)閾際(しきゐぎは)へ來てさう云つた女中へ、

「さうだつてさ、猿島の珍(ちん)ケイトウ奴(め)、いつでもこの手ですつぽかすんだよ」[やぶちゃん注:「珍(ちん)ケイトウ」不詳。綽名で、頭髪が逆立っているか、赤ら顔なのか。後の里奴の彼を評する台詞からは、優柔不断で摑みどころのない奇天烈な人柄を鶏頭のふにゃふしゃした奇体な花に喩えたもののようには、見える。]

 手拭をぎくりと摑(つか)んで、無愛想(ぶあいさう)に廊下へ出て行つた。

「お孃(ぢやう)さま御かんむりだ。――ところで、猿島(さしま)が來ないときまつたら、御飯にするかな」

「畏(かし)こまりました」

 女中は返事(へんじ)のしようがなくて引下つた。

 猿島は里奴の旦那で、雀部(さゝべ)は猿島の親友である。

 猿島は下田(しもだ)へ用足(ようた)しに行つてゐる。

「土曜日の晚、伊東(いとう)へ行く。君も出て來い、その時、迷惑(めいわく)でも里奴(さとやつこ)をつれて來てくれ」

 かういふ打合(うちあは)せが猿島(さしま)と雀部(さゝべ)の間に出來てゐた。で、二人はけふ、東京から暖香園(だんかうえん)へ來たのだが。

「仕方がない、飯(めし)にしやう[やぶちゃん注:ママ。]」

 里奴が湯(ゆ)から戾つて來た時、雀部は膳(ぜん)の前に坐(すは)つてゐた。かれこれ十一時である。

「姐(ねえ)さん、お銚子(てうし)を一本」

 里奴は鏡臺(きやうだい)の前へ來て、團扇(うちわ[やぶちゃん注:ママ。])をつかつてゐる。烏羽玉(うばたま)の黑髮が、しとっしとと浴衣(ゆかた)の脊中へ流れてゐた。

「まア、美(うつ)くしいおぐし」

 惚れ惚れと[やぶちゃん注:「ほれぼれと」。底本では後の「惚れ」が踊り字「〲」で前にはルビは、ない。]里奴のうしろ姿に見惚(みと)れた女中は、板場(いたば)へ立つて行つた。

「飮むのか困(こま)るなア」

「あんた見てゐらつしやい」

「よせやい」

「ねえ、雀(さあ)さん」

「何だ」

「醉(よ)つても好(い)いでせう」

「いけない」

「くどくかも知れない」

「どうぞ御白由(ごじいう)に」

 手を肩(かた)ごしにうしろへ𢌞して、ぬれ髮(がみ)をバラバラと乾(かは)かしながら女はちやぶ臺ヘやつて來た。

 雀部(さゝべ)と向ふ前にならべた食器(しよくき)を、橫へ置きかへて、男の膝(ひざ)と自分の膝とを、すれすれぐらゐの角合せに坐(すは)ると、團扇の風を柔(やは)らかに男へ送つた。

 お銚子(てうし)が來ると、女中を追ひやつて、

「ねえ貴郞(あなた)、思ひざし」など、しなだれて見せる。[やぶちゃん注:「思ひざし」「思ひ差し」で、「この人と思う人に杯を差すこと・相手を指定して酒をつぐこと・その杯」を言う。]

「どうかしてるね」

「どうもしないわ。これが私の本性(ほんしやう)なの。はつきり云ふとあんたつて人を好(す)きなのよ」

「どうもありがたう」

「冗談(じようだん)ごかしにしないで、身を入れて聞いてよ」

「聞いてるよ」

「あんたのお友(とも)だちだけど、あの猿島(さしま)つて人、一體血が通(かよ)つてると思ふ」[やぶちゃん注:最後は疑問文。]

「あいつは口下手(くちへた)だからなア」

 女はやけに手を振つて、否定(ひてい)して、

「口下手でも、情合(じやうあひ)つてものが、どこかに見えるものよ。一週間(しうかん)に一遍(ぺん)か十日に一遍、それも、こつちから電話(でんわ)をかけなけあ出て來ないし、忙(いそ)がしいんですかつても、いや。閑(ひま)ですかと云つても、いや。額(ひたひ)に玉の汗(あせ)を搔(か)いてるから、扇(あふ)いでやれば、うるさいといふし、上衣をおとんなすつたらといへば、さうしちやゐられないといふし、さうかと思(おも)ふと、新聞(しんぶん)か何か一つところを何時間も見つめたあとで、フワフワ[やぶちゃん注:ママ。]と立上(たちあが)つて、さよならでも何でもなく、もう靴(くつ)を穿(は)いてるんだから。およそあんな珍(ちん)ケイトウの、碌(ろく)でなしの、張合(はりあひ)なしと云つたら、類(るゐ)がないわねえ」

「そこが好(い)いといふ人もあるんだとさ」

「何(なに)が好(い)いもんですか。あんた、友だち甲斐(がひ)に、もう少しは叩(たゝ)いて音(おと)のするやうに、仕込んでやつてよ」

「あれはあれで好いんだよ」

「よかないつたら」

「好いつて證據(しようこ)には、君ほどの女が、ぞつこん惚(ほ)れてるぢやないか」

「へん、誰れが惚(ほ)れてなんぞゐるものですか。緣(えん)あつてお世話(せわ)になつてるから、旦那にしてあげてるばかしよ」

「うそをつけ、惚(ほ)れてるからこそ、慾(よく)が出て、いらいらするんだ。惚(ほ)れてゐないものなら、とうの昔(むかし)切(き)れて了(しま)ふか、浮氣をするか――尤(もつと)も、浮氣つて奴あ、別(べつ)なものだが」

「別なものといふと」

「氣(き)が堅(かた)いから、浮氣なんて君にや出來ない。もう少し世間(せけん)の女なみに、柔(やは)らかいところがあつたら、氣まぐれの浮氣でもして、紛(まぎ)れるところなんだが、何しろ、固いからなア」

「アラ、蜘蛛(くも)、蜘株」

 二三尺(じやく)飛(と)びのいて、里奴は騷(さは)ぎ立(た)てた。

 丁度、二人の眞中(まんなか)あたり、疊(たゝみ)の上に、足長蜘蛛(あしながぐも)が、逃げもせず走りもせずに、八本の脚(あし)をつゝぱつて、二人を睨(にら)んでゐる。[やぶちゃん注:「足長蜘蛛」狭義の標準和名の種は、節足動物門鋏角亜門クモ綱クモ目クモ亜目クモ下目コガネグモ上科アシナガグモ科アシナガグモ属アシナガグモ Tetragnatha praedonia である。同種は田圃や池などの水辺に棲息するが、都市部の家内に出現することも稀にある。しかし、巣を作る種であり、私はここで言うのは、足が長い蜘蛛の意で、そうなると、現代住宅にもかなりの頻度で出現する、網を張らずにゴキブリなどの獲物を待ち伏せ、目の前に来た獲物を捕食する益虫である、本邦に棲息する徘徊性クモ類では最大種であるところの、クモ目アシダカグモ科アシダカグモ属アシダカグモ Heteropoda venatoria の中型個体と考える。私の建て替える前の家内にも掌大の個体がおり、夜中に、顔が誰かに摑まれたような気がして、飛び起きて見ると、実にグローブ大のそ奴がおり、叩き潰したことがある。未だに、あの顔面のひきつけた感触は忘れるものではない。但し、彼らは、大型になると、敏捷であるから、以下のシークエンスが相応しくないと考えて、中型とした。]

「困つたな。おれも嫌(きら)ひなんだ」

「意氣地(いくじ)なしね、夜の蜘蛛(くも)は親に似(に)ても殺せつていふから」

「だけど……」

 雀部(さゝべ)は尠(すくな)からずまごついたが、女中がおはちの上へ置きつぱなしにしておいた黑(くろ)ぬりのお給仕盆(きふじぼん)をとつて、蜘蛛(くも)の上へ、べつたり冠(かぶ)せた。

「これで好(い)い。其中、女中が來たら始末(しまつ)をしてもらはう」

「何だか氣味(きみ)がわるいわ」

 女は反對側へすわりなほして、盃(さかづき)を重(かさ)ねた。

「早く、御飯(ごはん)にしたまへ」

「待つてよ、せめて一本だけ飮(の)んで了(しま)はなけあ、くどけないわ」

「まだ、くどくつもりか、散々(さんざん)、猿島(さしま)ののろけを云つておきながら」

「のろけぢやない、愚痴(ぐち)を云つたのよ」

「愚癡はのろけの化身(けしん)にして、惡態は未練の權化(ごんげ)なり」

「うるさいね」

 女は盃をつき出した。男が受取(うけと)らうとすると、やけに首を振つて、

「お酌(しやく)」と云つた。

「ヘイヘイ」

「今夜(こんや)は、おとなしく私のお守(もり)をするのよ」

「ありがたき仕合(しあは)せで」

「雀(さあ)さん」

「何だ」

「なぜ私が賽(さい)ころを振(ふ)つたか知つてる」

「知らない」

「あんた、盆(ぼん)くらね、今夜(こんや)猿島(さしま)が來るか來ないかを占なつてたの」

「當(あた)つたかい」

「だからさ、あんなに喜(よろこ)んだぢやないの。丁(ちやう)が出るやうに出るやうにつて、東京を立つ時から念(ねん)じてゐたわ」

「丁が出ればどうなるんだ」

「二人なら丁で、三人は半(はん)でせう。判(わか)らないのかなア」

 男は聞き流して鈴(りん)を押(お)しに立つた。

「お膳(ぜん)を片付けてくれたまへ、この人にあんまり飮(の)ましちやいけない」

 女は最後(さいご)の一たらしを盃(さかづき)にうけてゐるところだつたので、女中の方がまごついた。

「姐(ねえ)さん、お給仕盆の下に、蜘蛛(くも)が伏せてありますから、始末(しまつ)して頂戴(ちやうだ)、この人、男のくせに、いくぢなしなの」

「ほほほ、でも蜘蛛と長虫(ながむし)は隨分(ずゐぶん)おきらひな方がおありでございますわ」

 女中は片手に紙片(かみきれ)、片手で給仕盆(きふじぼん)を、そつと、そつと開けて、のろのろと這(は)ひ出(で)る怪物(くわいぶつ)を、パツと押(おさ)える。……つもりだつたが、お盆(ぼん)の下には何もゐなかつた。

「おやつ」

「あら」

 二人は息(いき)づまるほど驚ろいた。

「へんだなあ、たしかに押(おさ)へておいたんだが」

「こんな事、よくあるんでございますよ。蜘蛛(くも)になめくじ、なめくじなんぞ、一間(けん)[やぶちゃん注:一・八一メートル。]でも二間でも飛ぶんださうです」

「魔(ま)ものだつてね」

 三人とも默(だま)つて了(しま)つた。

 ガサリ。

 變な音が突然器(うつは)に起つた。

「あれつ」

 女中が飛びのいたうしろには、柱(はしら)かけの一輪(りん)ざしから、大きな白百合(しらゆり)の花が落ち

てゐた。

 脇床(わきどこ)に立てた繭玉(まゆだま)の柳が、ぼそぼそと搖(ゆ)れてゐる。

 女中は慌(あわた)だしく食卓(ちやぶだい)を片付けた。

 

        洗  ひ  髮

 

 雀部(さゝべ)は廊下(らうか)に出て風を入れた。

「いやに蒸(む)して來た」

 誰(だ)れにいふともなく、眞暗(まつくら)な中庭を眺(なが)めてゐる。

「風がぴつたり凪(な)ぎましたから」

 輕く合槌(あひづち)を打つて、女中は食器(しよくき)を運び去つた。

 眞暗な中庭(なかには)を見つめてゐると、丁字(つやうじ)の香りが匂(にほ)つて、どうだんつゝじの小枝(こえだ)が、おぼろげながら見えはじめて、しんとした土(つち)の上を、によつきり立つた石燈籠(いしどうらう)が、ずるずると近よつて來さうな夢(ゆめ)の國(くに)のやうな風景(ふうけい)だつた。

 空には星(ほし)一つ見えない。露(つゆ)の落ちる音(おと)まで聞こえさうなしづかさ。

 くどくどと云(い)つたくせに、女はうしろ向(む)きになつて、おとなしく寢(ね)てゐる。

 雀部(さゝべ)は、ぬき足して自分の蒲團(ふとん)を壁際(かべぎは)の方へ、女のから引はなした。

 ごろりと足腰(あしこし)をのばして、改(あらた)めて座敷を見まはすと、目の上には墨繪(すみゑ)の牡丹(ぼたん)がかいてあり、床には投網(とあみ)を干(ほ)した海岸の繪が下つて居り、二疋(ひき)蟹(かに)の黑つぽい置きものがあり、床柱の一輪(りん)ざしには、首のもげた百合(ゆり)のむくろがのぞいて、脇床からは例(れい)の繭玉(まゆだま)の柳(やなぎ)が手をさしのべてゐる。

 それやこれやを見まはしてゐる中に、心(こゝろ)が落(お)ちついて來た。途端(とたん)に、女が、うしろ向の儘(まゝ)で、

「雀(さあ)さん、眠(ねむ)れる」と聞いた。

「うむ」

「眠れないでせう」

「うむ」

「どつちさ」

「君(きみ)は」

「なぜ布團(ふとん)をそつちへ引張つたの」

「知(し)つてたかい」

「知らなくてさ。――ねえ雀(さあ)さん。やけないのか知ら」

「やけないかとは」

「猿島(さしま)がさ」

「二人きりで、こゝに泊(とま)つてるからか」

「今夜(こんや)ばかりぢやないわ。いつかもこんな事があつたぢやないの」

「うむ、あれは箱根(はこね)だつたね。あいつは商賣熱心だからなア」

「いくら商賣熱心だからつて、一度(ど)ならずこんなすつぽかしを食ふと、何だか馬鹿(ばか)にされたやうな氣(き)がするわ」

「ひがみだよ」

「この頃(ごろ)ぢや、もう馴(な)れたから、何とも思つてやしないけど、でも、たまには腹(はら)の立(た)つ事もあるわ。お荷物にされてるつて感(かん)じね」

「何しろ性分(しやうぶん)つてやつは――」

「雀(さあ)さん、今夜寢かさないよ」

「困(こま)るなア」

「寢かしませんとも、せめて、夜(よ)つぴて、話(はな)してませう」

「困るよ」

「明日(あす)になつても、あの人きつと來ないと思ふわ」

「そんな事はない」

「いゝえ、箱根の二の舞(まひ)をさせられるやうな氣がします」

「何しろ、猿島(さしま)はあやかりものだよ。君ほどの人間(にんげん)をこんなにいらいらさせるんだから」

「雀(さあ)さん、怒(おこ)るわよ」

「怒つても好い。僕(ぼく)のいふ事に間違(まちが)ひはないんだから」

「いゝえちがひます」

「ちがひません。ちがはないわけを云(い)つて見(み)やうか[やぶちゃん注:ママ。]」

「云つて御覽(ごらん)なさい」

「君が宵(よひ)の口(くち)から、むやみにモーシヨンをかけてゐるのは、僕を猿島(さしま)に見立てゝゐるんだよ。もし、僕がつり込(こ)まれたら、君はポンと蹴(け)つて飛(と)びのくだらう」

「そんなこと……」

「猿島がそつけないから、君の方で、追(おつ)かける氣になるんだ。若(も)し、あいつが積極的(せつきよくてき)に出て來たら、きつと君は逃(に)げ腰(ごし)になるよ」

「うそ、そんな事、斷(だん)じてありません」

「あります。追(おつ)かければ逃(に)げる、逃げれば追かける、男と女は皆(み)んなさうだ。何しろ皮肉(ひにく)に出來てるよ」

「さう見える」

「さういふものなんだ」

「ですけど雀(さあ)さん。あんたがそんなにいふなら、本當(ほんたう)の事をいひませうか」

「うむ」

「止(よ)さう――私、寢るわ」

 里奴(さとやつこ)はくるりとうしろ向きになつた。枕(まくら)の向ふへ捌(さば)いた黑髮(くろかみ)がねぢれて散らばつた。

「ははは圖星(づぼし)をさゝれたものだから」

「待合(まちあひ)の女中さんに、さあさんがと云はれた時、私は一圖(づ)に、ほかのさあさんだと思つたの」

「ほかのさあさんて」

「猿島(さしま)のさあさんでないさあさんよ」

「卜だつてて雀部(さゝべだからアさんだが、……」

「默(だま)つてらつしやい。さあさんと聞いて早合點(はやがてん)で喜んだ私が惡(わる)かつたんだわ」

「だけど、猿島(さしま)はあの時分、まる一ケ月(げつ)通(かよ)つて、君を呼(よ)んでたといふぢやないか、あんな無口な男だから、いやに手數(てすう)ばかりかけやがつて……それほどのさあさんを前において、さあさんを間違へるなんて、そんな見當(けんたう)ちがひの早合點(はやがてん)があるものか」

 女は身を揉(も)んだ、立上つた、いきなり自分の寢道具(ねだうぐ)を男の方へ引よせる。

 男もごそりと起(お)きて、夜具を壁際(かべぎは)へぴつたり、以前(いぜん)の通りの間隔(かんかく)を保(たも)つ。女は蒲團をすつぽりかぶつた。枕(まくら)の上はばらばらになつた黑髮(くろかみ)ばかりが、海松(みる)のやうに流れ出て、五燭(しよく)の光りで伸びつちゞみつするやうに見(み)えた。[やぶちゃん注:「五燭」五カンデラ(ラテン語:: candela)の電灯。ほぼ八ワット。寝室や便所の常夜灯。]

 云ひ落したが、二人の寢床(ねどこ)は大きな蚊帳(かや)で包まれてゐた。

 雀部は、女の髮(かみ)をぢつと見つめて、勝氣(かちき)な女は可愛(かあい)さうだなアと思つてゐた。

「雀(さあ)さん」

 蒲團(ふとん)にもぐつたまゝで女が云つた。

「うん」

「私、猿島(さしま)と別れようと思ふ」

「それも好(い)いだらう」

「馬鹿にされてるとは思はない。だけど、およそあんなつまらない、面白(おもしろ)くない人つてないわ」

「だけど……」

「こつちもつまんないが、向(むか)ふだつてつまんないでせう。顏(かほ)を見合はせたつて、二三時間(じかん)も默(だま)りこくつてゐる事、のべつなんだもの。人情(にんじやう)つて、そんなもんぢやないわ」

「だけど……」

「ねえ雀(さあ)さん」

「何だ」

「猿島と切(き)れたら、あんた私のいふ事を聞(き)いてくれる」

「馬鹿、猿島はおれの親友(しんいう)だよ」

「知つてるわ、猿島(さしま)とあんたの間柄(あひだがら)だからこそいふのよ。それに、猿島は腹(はら)の中で、あんたと私を結(むす)びつけようとしてるにちがひない」

 どこかで、ボンボン時計(とけい)が鳴つた。たつた一つ、あとを聞かうとした雀部(さゝべ)の耳ヘは風の音だけがさやさやと入(はい)つたばかりだつた。

 十二時半かしら、一時(じ)かしら、一時半(じはん)かしら、そんな事を雀部(さゝべ)は、しきりに考ヘやう[やぶちゃん注:ママ。]としてゐた。

「もう寢(ね)たまへ、遲(おそ)いから」

 女は返事(へんじ)をしないで泣(な)いてゐるらしい。

 「もつと氣を安らかに持つ修業(しゆげふ)をしたまへ、猿島(さしま)つて男は、君が思つてるほど情(じやう)なしぢやない。口にこそ出さないが、腹(はら)の中は君の事で一杯(ぱい)なんだ。僕は君をこれほど思(おも)つてると、はつきり言葉で云はなけれあ、女には得心(とくしん)が行かないものかもしれないが、男の立場(たちば)からいや、さうぢやない。思(おも)へば思(おも)ふほど、ものを云はないもんだぜ」

「もう止(よ)してよ」

 蚊帳(かや)ごしに照(てら)す電燈で、ちらちらと底光りのする黑髮(くろかみ)から、雀部(さゝべ)はどうしても目が離(はな)せなかつた。

 見つめてゐると、黑髮(くろかみ)の一筋一筋(すぢ)が、もやもやと伸(の)びて、こちらの枕へ忍び寄つて來るやうに思(おも)はれる。

「雀(さあ)さん、もつと低(ひく)い聲で、私の耳(みゝ)のそばで、今の話をして下さらない」

「耳のそばだつて――」

「だから蒲團(ふとん)をもつと寄(よ)せてさ」

「おれを困(こま)らせるなよ」

 雀部はぐるりと仰向(あふむ)けになつた。

「思つても思つても思ひがとゞかない辛(つら)さ、叩(たゝ)いても音の聞(き)こえないさびしさ。それは誰(だ)れに持つてゆきやうもない苦(くる)しみなんだが、君のは、もう一つ瘠(や)せ我慢(がまん)と負けずぎらひの輪(わ)がかゝつてるんだから、自分の本當(ほたう)の氣持が、自分に判(わか)らないんだよ」

 獨(ひと)り言(ごと)のやうに云つて、雀部はほうつと溜息(ためいき)をついた。

 

        蜘 蛛 を 抱 く

 

 うとうととしたやうにもあり、眠(ねむ)れなかつたやうにもあり、何時間(なんじかん)すぎたかも判(わか)らなかつた。

 仰向(あふむ)けになつてゐた雀部の額(ひたひ)へ、つめたいものがばさりと落ちた。

 かきのけようとする手に女の黑髮(くろかみ)がからんだ、蚊帳(かや)ごしの電燈はへんに靑(あを)ずんだ光に見えた。

「寄(よ)つちやいけない」

 雀部(さゝべ)は、黑髮のぬしをおしやるやうにした。が、黑髮のぬしは鈴(すゞ)を張つたやうな瞳(ひとみ)で、雀部を見つめて、口許(くちもと)にわらひを含んで、ぴつたり男により添(そ)つたまよ動かうともしない。

「寄つちやいけない」

 雀部の聲はだんだん弱(よわ)くなる。

「雀(さあ)さん、なぜ私が賽(さい)ころを振つたか知つてる、丁(ちやう)が出れば好(い)い、丁が出れば好いつて念じつめて振(ふ)つたさいころ。振つても振つても二が出た時、私はどんなに嬉(うれ)しかつたか、だのに、あんたつて人は、人の氣(き)も知(し)らないで――」

 女はひしひしと迫(せま)る。美くしい手が、雀部(さゝべ)の首に卷きついてゐた。强(つよ)い强い力だ。こんな力が女の腕(うで)にあるのかと思ふほど强(つよ)い力(ちから)。

 女の手が首(くび)から胸(むね)へかゝつてゐるので、雀部は返事(へんじ)が出來なかつた。女の身體(からだ)が、雀部の片手を下敷(したじき)にしてゐるので、押(お)しのける事も出來なかつた。

「人にばかりものを云はせて、なぜ返事(へんじ)をして下さらないの、あんたは意氣地」いくぢ)なしよ。あんたの本心を當(あ)てゝ見(み)ませうか、あんたつて人は、私が好(す)きで好きでたまらないんだわ。

 さいころの丁(ちやう)が出て喜(よろこ)ぶのは、私ばかりでなくて、あんたもさうなの。だけど、あんたは、猿島(さしま)といふものに氣がねをして自分の本心(ほんしん)をいふ事も出來ず、意氣地(いくぢ)もなく、いぢけてちゞみ上つてゐるんだわ。女の私(わたし)に、これほどものを云(い)はせて、これほどの思ひをさせて、それでも、逃げ腰(ごし)になつてゐる、あんた見たいな踏(ふ)んばりのつかない、意氣地なしは、このくらゐにしないと、本心を明(あ)かさないでせう。あんたは卑怯(ひけふ)だわ。さもさも私を敎(をし)へるやうにして、さつきから默(だま)つて聞いてれあ、猿島の心持(こゝろもち)を云ふやうな振(ふり)をして、皆んな御自分の事(こと)を云つてるんだわ。卑怯なさあさん、意氣地(いくぢ)なしのさあさん、踏(ふみ)ぎりのわるいさあさん、さあ、本心を、はつきり聞(き)かして下さい。ねえ、雀(さあ)さんたら」

 男の胸(むね)をむちやくちやにゆすぶつて、女は身(み)をもだえた。女の頰(ほゝ)が、黑髮が、唇(くちびる)が、男の顏の上で、段々に亂(みだ)れた。

 雀部(さゝべ)はもうたまらなくなつた。

「里(さつ)ちやん、どうなつても好(い)い。何もかも君は知つてゐるんだ。かうなつたら、友だちの義理(ぎり)も糸瓜(へちま)もない。――なアに、猿島(さしま)だつて、おれが、君の事を一生懸命(しやうけんめい)に思つてゐるのも、ちやんと察(さつ)してゐるんだ、だからあいつ、かうして二人に逢(あ)はせる機會をつくつてくれたんだ。箱根の時だつてさうだ、里(さつ)ちやん、僕の里ちやんになつてくれるか」

 男の手の力が女の手に負(ま)けないほど働(はた)らきかけた。

 靑(あを)ずんだ光の中で、ゆめうつゝのやうな蚊帳(かや)の波に包(つゝ)まれて、二人の身體は一つになつて了(しま)ふかと思はれた。

 苦しい、切(せつ)ない抱擁(はうよう)の中から、男はかすかに目をあいて、女の顏を見た。

 紅を含(ふく)んだやうな唇に、きらきらと光(ひか)る瞳(ひとみ)、しつかり見つめてゐる間に、唇は血(ち)がにじみ出るかと思はれ、瞳(ひとみ)は火を吐(は)くかと見えた。

 男はあまりに銳(するど)い女の瞳(ひとみ)と唇を少しよける爲めに、蚊帳(かや)の外へ目をそらした。

 と、額に描(か)いた墨繪(すみゑ)の牡丹(ぼたん)が、一かゝへもあるほど大きくひろがつた。首のない柱(はしら)かけの百合が、毛(け)むくじやらの細く長い手になつて、蚊帳(かや)の中に伸(の)びて來さうだつた。

 脇床の柳(やなぎ)の枝(えだ)も、一本一本のび切つて、蚊帳ごしにつきさゝつて來る。柳の枝に吊つた大福帳(だいふくちやう)と福助と、繭玉が空(そら)に舞(ま)ひ上つた。掛地の繪の投網(とあみ)はいやが上にひろがつて、蚊帳へかぶさりかかると共に、部屋一杯(おあい)の蜘蛛(くも)の巢(す)になつた。

 男はあはて[やぶちゃん注:ママ。]ながら、眼(め)を女の顏へもどしたが、その時、女(をんな)の顏(かほ)はもう美くしい里奴(さとやつこ)ではなかつた。大きな大きな蜘蛛(くも)の精(せい)が、爛々(らんらん)たる眼を見張り、熱火(ねつか[やぶちゃん注:ママ。])のやうな唇を洞穴(どうけつ)のやうにあいて、ニヤリニヤリと笑(わら)つてゐる。

 男は右に左に顏をそむけて、逃(に)げようとしたが、怖(おそ)ろしい笑ひ顏は、男の顏のよける方へ、よける方へと向つて來る。雲(くも)のやうな黑髮をふり亂した蜘蛛(くも)の精(せい)が雀部を抱(だ)きしめてゐるのだ。蚊帳と一緖(しよ)に見え、投網(とあみ)と見えたのは蜘蛛の巢(す)であつた。墨繪の牡丹でさへも、小蜘蛛になつて、雀部の身のまはりを踊をど)り狂(くる)つた。中に眞白(まつしろ)な蜘蛛が、疊の上をひらめくやうに亂舞(らんぶ)してゐる。黑い二つの目をつけた眞白な蜘蛛、それは時折(ときをり)押(お)しつぶされた賽ころの姿に變(かは)つたりしながら。

 賽(さい)ころ蜘蛛(くも)の差圖(さしづ)につれて、幾つもの白蜘蛛が踊(をど)つた。それは各々、柳の枝につるした繭玉(まゆだま)であり、大福帳(だいふくちやう)であり福助であつたりした。

「苦しい、助(たす)けて、うゝむ」

 雀部はある限りの聲と、ある限りの力で蜘蛛(くも)の圍(かこ)みを逃(に)げようとしたが聲も力も出なかつた。

 只(たゞ)いたづらに、

 「苦しい」と叫(さけ)びつゞけるばかりである。

 「雀(さあ)さん、雀さん」

 どこかでかすかに、やさしい聲(こゑ)がよびかける、それを力(ちから)に、やうやく立上らうとして、見ひらいた目には、何もなかつた。何もかもが、寢(ね)る前と同じ姿(すがた)であつた。もう朝だ。

 いつの間にか蚊帳は綺麗(きれい)に片付けてあつた、里奴(さとやつこ)はあけ放(はな)つた緣側(えんがは)に、あらひ髮のうしろ姿を見せて、靑葉(あをば)を見ながら、すがすがしく立つてゐた。

「僕、苦(くる)しんでたかい」

 雀部は起上る力(ちから)もなかつた。

「いゝえ。ちつとも――どうかしたの、眞靑(まつさを)になつてるわ。それとも靑葉(あをば)のかげがうつゝてるせゐかしら」

 女の手には電報(でんぽう)がひろげられてあつた。

「どうもしやしないが、いやな夢(ゆめ)を見(み)た」

「ねえ、あいつ、又(また)電報(でんぽう)をよこしたわ。ドウシテモイカレヌ、ユツクリアソンデ、マツテテクレだとさ。相變(あいひかは)らずの珍(ちん)けいとうね」

 電報を見せに、里奴(さとやつこ)が枕もとへ來た。男(をとこ)ははね上るやうに起きて、浴衣(ゆかた)の着くづ

れをきちんと直(なほ)した。

「二三日この儘(まゝ)であそびませうよ。十國峠(こくたうげ)でもドライブして」

 女はわだかまりもなく云(い)つた。

「いやかへらう」

「いやよ、かへるなんて、それにもう自動車も賴(たの)んだし」

「いや、兎(と)に角(かく)かへらう」

「どうして、もうくどきやしないわよ。ゆうべのあなたの話で私、すつかり猿島の氣持(きもち)が判(わか)つたから、私おとなしく、猿島(さしま)を思つてゐるといふ事にきめたのよ。安心(あんしん)して下さい」

 女はニコニコしてゐた。

 男(をとこ)はちつともうれしくなかつた。

「やつぱりかへる方が好(い)いんだ」の一點張(てんば)りで、女のやさしい眼(め)を逃げて、浴場ヘ行つた。

[やぶちゃん注:個人的には、どうも好きになれない一篇である。三人の登場人物のそれぞれ、ある種の極め利己的な変態的嗜好を隠し持っており、その誰にも私は共感や憐憫をさえも全く感じないからである。]

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