譚海 卷之九 鰹節獵の事
[やぶちゃん注:標題の「節」は、いらない。前話とは食用海水魚の漁繋がり。]
○鰹(かつを)の獵は、相州江の島の沖を盛(さかん)なり、とす。
每年、三月下旬・四月初めのころ、はじめて鰹を獵し得るなり。江戶の豪富のもの、一日も、はやく、調理に入(はい)るを、口腹(こうふく)の第一と稱美する事なり。
然れども、江の島にては、猶、「ふかせ」と稱して稱美せず。
數日(すじつ)の後(のち)、初(はじめ)て、鳥帽子の如きものをいたゞきて、出來(いできた)る鰹、有(あり)。これを、はじめて「初鰹」と程する事なり。
是を釣(つり)えたる獵師、
「先(まづ)、辨才天に供(きよう)し、さて、公儀へも奉る事。」
と、いへり。
鰹の、盛に獵あるときは、わきめ、つかふ事、あたはず。鉤(はり)を投ずれば、手に隨(したがひ)て、かゝり、暫時に、舟中に充滿する事なり。
「餘り、したゝか釣(つれ)たる時は、『わにざめ、鰹に付(つき)たり。』とて、釣たるかつをを、數(す)十本、繩に、つかね、海中へ投入(なげいれ)て、それに合(あはせ)て、いそぎ、こぎもどる事。」
と、いヘり。
[やぶちゃん注:『毛利梅園「梅園魚譜」 松魚(カツオ)+鰹魚烏帽子(カツオノエボシ)』が、この篇には最も相応しかろう(無論、梅園の絵もある)。
条鰭綱スズキ目サバ科マグロ族カツオ属カツオ Katsuwonus pelamis
である。鎌倉・江の島附近での鰹漁は、古くから知られており、鎌倉時代の兼好法師の「徒然草」にも記されていることは、人口に膾炙している(上記リンク先の私の注で電子化してある)。江戸時代には、江戸の富豪が、東京湾を迂回して鎌倉沖まで来て、当地の漁師が獲った初鰹を放り投げると、一両を漁師舟に投げ入れるのが、通人の間で流行った。水戸光圀が編纂させた「新編鎌倉志卷之七」(光圀自身の生涯一度だけの長旅である来鎌は延宝二(一六七四)年、その後に本書が完成印行されたのが貞亨二(一六八五)年。リンク先は私のサイト版)の「材木座」の条にも、
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〇材木座 材木座(ザイモクザ)は、亂橋(ミダレバシ)の南の濵(ハマ)までの漁村を云ふ。里民魚を捕(ト)りて業(ワザ)とす。【徒然草】に、鎌倉の海に竪魚(カツヲ)と云魚(ウヲ)は、彼の境には左右なき物にて、もてなすものなりとあり。今も鎌倉の名物也。是より由比の濵(ハマ)へ出て左へ行(ユ)けば、飯島(イヒシマ)の道右へ行(ユ)けば鶴が岡の大鳥居の邊へ出るなり。
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と出る。後の、芭蕉の友人山口素堂(寛永一九(一六四二)年~享保元(一七一六)年)の知られた一句、
目には靑葉山ほととぎす初鰹
は延宝六(一六七八)年の作で、まさに、この鎌倉の材木座海岸で詠んだとされるものである。また、芭蕉の知られた、
鎌倉を生きて出でけん初鰹
は元禄五(一六九二)年の作、更に、蕉門十哲の一人其角には、
まな板に小判一枚初がつを
の句があることからも、その粋(いき)が分かる。
「鳥帽子の如きもの」同時期に沿岸にやってくる刺胞動物門ヒドロ虫綱クダクラゲ目嚢泳亜目カツオノエボシ科カツオノエボシ属カツオノエボシ Physalia physalis
とされるが、別に、全然異なる種で、
ヒドロ虫綱花クラゲ盤泳亜目ギンカクラゲ科カツオノカンムリ属カツオノカンムリ Velella velella
がおり、毛利梅園の絵は、思うに、後者であると私は比定している。
「わにざめ」魚類のサメ類の俗称。 地方によって、異なったサメの種を指すが、山陰地方では「大形のサメ」の呼称であり、単に「ワニ」とも呼ぶ。当地では、サメを用いた料理を「ワニ料理」と呼ぶことは、最近はよく知られるようになった。]