譚海 卷之九 羽州象潟うやむやの關等の事
○羽州より、北海道(きたかいだう)をゆけば、蚶潟(きさがた[やぶちゃん注:珍しい底本のルビ。])を行過(ゆきすぎ)て、左(ひだり)へ入(いり)、山へのぼる事、一里半計(ばかり)に、「大物忌(おほものいみ)の神社」といふあり。
それより、關村(せきむら)といふ所へ、こゆる道に、川、有(あり)。川にかゝりたる橋、すなはち、「なそのしらはし」なり。「素橋」の字を、もちゆるよし。
「しら橋」を、こゆれば、關村にいたる。
關村は、又、「うやむやの關」の有(あり)し所なり。「しら橋」の川の、海へ、いづる所を「關村」と云(いふ)。川は、鳥海山より、おつる水にて、「大瀧(おほだき)」・「小瀧(こだき)」と云(いふ)瀧の末(すゑ)なり。
橋より、五、六間[やぶちゃん注:約九・一~十一メートル。]、隔(へだて)て、「小瀧」、見ゆるなり。所をも、「小瀧村」と云(いふ)。
「古歌なり。」
とて、
「千はやふる神のちかひのゆふたすき
かけてぞわたるなそのしら橋」
所に、いひ傳(つたふ)る歌なり。
又、同所、海道三里北に、平澤村といふに、「象潟明神」、有(あり)。
「垂跡(すいじやく)、何(いつ)の時と云(いふ)事を、しらず。」
と、いへり。
[やぶちゃん注:「象潟」「蚶潟(きさがた)」現在の秋田県にかほ市象潟町(きさかたまち:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。芭蕉の私の好きな一句、『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 49 象潟 象潟や雨に西施がねぶの花』を見られたいが、芭蕉が広大な入江であった象潟に至ったのは元禄二年六月十七日(一六八九年八月二日)で、本巻の最新記載は寛政一〇(一七九九)年で、「象潟地震」で海底が隆起し、陸地化してしまったのは文化元(一八〇四)年だから、彼が行って見たとすれば、芭蕉のよすがを十全に味わえたことであろう。津村は、実は、時期は判然としないものの、奥羽地方を来往しており、秋田には実に三年も滞在している。されば、象潟を実見した可能性は極めて高い。
「大物忌の神社……」底本の竹内氏の後注に、『秋田県象潟口からの鳥海山』(山形県と秋田県に跨がる標高二千二百三十六メートルの名山)『登拝路。鳥海山の神は大物忌神で、山麓の各登り口に里宮がある。奈曾の素橋』(ここ。現在の表記は「奈曽白橋」)、『奈曾の白滝』(ここ。現在の表記は「奈曽の白滝」)『は鳥海山から流れる奈曾川の渓谷』(ここ)『にあり、平沢』(これは本文の「同所」に引かれた竹内氏のうっかりな誤認で、奈曽川は現在の秋田県にかほ市象潟町関中川原(せきなかがわら)が河口である)『で海に入る。ウヤムヤの関は奥州古関の一であるが』(先の象潟町関中川原の南東の奈曽川左岸に、にかほ市象潟町関ウヤムヤノ関(せきうやむやのせき:本篇の「關村」)があるものの、比定地の根拠は定かでなく、『宮城県笹谷峠』、『その他』、『各所にも擬せられている』とある。鳥海山山頂の南東直近に「鳥海山大物忌神社山頂本殿」がある。
「小瀧」「小瀧村」この瀧は「奈曽の滝」のことで、「小瀧村」現在は、にかほ市象潟町小滝(こだき)。鳥海山鉾立展望台まで含む南東に細長い地区である。
「千はやふる神のちかひのゆふたすきかけてぞわたるなそのしら橋」不詳。「ゆふたすき」は「木綿襷」で、古く「万葉集」にも歌われている、神に祈る際に肩に掛ける「襷」(たすき)のこと。古えの人は、身命(しんみょう)を賭して、心身ともに清らかになるために掛けた。材料は自生の葛・藤・科(しな:アオイ目アオイ科 Tilioideae 亜科シナノキ属シナノキ Tilia japonica )など麻の栽培が始まる以前の植物で作った。これら自生の植物から得た繊維には神霊が宿っており、それを身につける人を、浄化し、守るとされてきた。「ゆふたすき」は、経糸と緯糸が、切れずに一本に繋がっており、始めも終わりもなく、生命が永遠に巡ることを意味している。織機は使わず、箆(へら)と棒だけで作り、「織り」以前の最も原初の衣と言える(以上は「大井川葛布」オフィシャル・ウェブサイトの「ゆふたすき」の解説に拠った。写真あり)。
「平澤村」秋田県にかほ市平沢があるが、ここだとすれば、象潟より遙か北であるから、津村自身の誤認である。それらしい神社もない。そもそも、象潟から、こんなに離れた箇所に「象潟明神」を祀るのもおかしい。
「象潟明神」秋田県にかほ市象潟町妙見下にある妙見(象潟)神社であろう。「秋田県神社庁」公式サイト内の同神社の解説によれば、『当社の、創始の年代は詳かでない』。『昔時奥州相馬郡より妙見祠を勧請して岡入道島に建立したのを創始とす』。『当時専ら北辰星並びに相染明王を祀り、北辰妙見大菩薩と崇め称えた』。『明治に至り』、『神仏混淆を改められ、初め春日神社と称したが、後』、『象潟神社と改められる』。『当社は寛政』五(一七九〇)『年』十一『月の火災に罹り、文化』六(一八〇九)『年』六『月の象潟大地震で崩壊す』。『明治』二(一八六九)『年の火事に類焼して古来の宝物棟札等を失い、現今の社殿は明治』四『年の再建になるもので、花崗岩の鳥居は明和年中の建造によるものである』とあった。相染明王を祀るなら、「明神」も納得出来る。ただ、先の奈曽川河口から「二里」は、一見、不審に見えるが、ここは例の「坂東道」(=「小道(こみち)」)であろう。一里を六町(六百五十四・五四メートル)とする。一・九六四キロメートルとなり、ざっくりと計測すると、二キロメートル強で、問題ない。]