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2024/02/19

譚海 卷之八 防州錦帶橋の事

[やぶちゃん注:「錦帶橋(きんたいけう)」は山口県岩国市岩国のここにある(グーグル・マップ・データ)。……ああっ!……柏陽の教え子諸君……修学旅行、懐かしいね……。もう、四十年余りの遠い昔だ……。そう言えば……あの時(担任の時の方)、バスの中で、モップスの「月光仮面」を歌ったっけ……あの曲を生徒の前で歌ったのは、ぽっきり、あれッきりダゼ! 「ガンジョジンジョカンジョズンズイダ」!……

 なお、この前話の「江戶本所にて人に托せし狐にまちんをくはせし事」は、「譚海 卷之六 武州千住驛北蒲生領の人に托せし狐の事 / 卷之八 江戶本所にて人に托せし狐にまちんをくはせし事(フライング公開二話)」の後の話を見られたい。]

 

○周防(すはう)の錦帶橋は、吉川左京殿領分に有(あり)。城は甚(はなはだ)麁相(そさう)にて、寺のやうなれども、橋のやうすは、誠に日本第一にて、此上もなき、けつこう[やぶちゃん注:「結構」。言うまでもないが、「全体の構造や組み立て」の意。]なり。

 江戶の兩國橋ほどなるを、三段に、わたしたるやうなり。川中に橋臺を、切石(きりいし)にて、臺、上(あげ)たる物、二ケ所、それへ、左右の岸より、橋を造りかけて、その上ヘ、又、左右の橋を臺にして、かけたる橋なり。

 此橋、兩國橋に、はゞ、すこし、狹(せば)く、長さも、少し、みぢかきやうに覺ゆる、とぞ。

 橋の高さ、數(す)十丈にて、眞中より、望みるときは、目くるめきて、おそろしき心地なり。

 橋へ[やぶちゃん注:「へ」は「邊」で「端のあたり」の意であろう。]、のぼり口は、階(きざはし)にて、その階を、一寸ほどある厚き銅にて、つゝみたり。此階、十四、五ものぼりて、橋におよぶ、とぞ。

 所のものは、「十露盤橋」と號せり。

 洪水おほき所なるゆゑ、萬金(まんきん)をはかりて、かく、工(たくみ)いだせる事、とぞ。

[やぶちゃん注:当該ウィキによれば、五『連のアーチからなるこの橋は、全長』百九十三・三『メートル』、『幅員』は五『メートルで、主要構造部は』、『継手や仕口といった組木の技術によって、釘は』一『本も使わずに造られている』。『石積の橋脚に』五『連の太鼓橋がアーチ状に組まれた構造で、世界的に見ても』、『珍しい木造アーチ橋として知られる』。『また』、『美しいアーチ形状は、木だけでなく、鉄(鋼)の有効活用がなされて初めて実現したものである。杭州の西湖にある堤に架かる連なった橋からヒントを得て』、延宝元(一六七三)『年に創建された』。当時の第三代『岩国藩主吉川広嘉』(きっかわひろよし 元和七(一六二一)年~延宝七(一六七九)年)『によって建造されたものである』。『初代岩国領主の吉川広家が岩国城を築城して以来、岩国城と錦川を挟んだ対岸にある城下町をつなぐ橋は』、『数回』、『架けられているが、錦川の洪水により流失していた』ことから、『広嘉は、洪水に耐えられる橋を造ることに着手』し、『橋脚をなくせば』、『流失を避けられるとのアイデアのもと、大工の児玉九郎右衛門を甲州に派遣し、橋脚がない跳ね橋(刎橋)である猿橋』(先日、公開した「譚海 卷の八 同國猿橋幷鮎一步金等の事」を参照)『の調査を命じた。しかし、川幅』三十『メートルの所に架けられている猿橋に対し、錦川の川幅は』二百『メートルもあるため、同様の刎橋(はねばし)とするのは困難であった』。『広嘉がある日、かき餅を焼いていたところ、弓なりに反ったかき餅を見て』、『橋の形のヒントを得たという』。『また、明の帰化僧である独立性易から、杭州の西湖には島づたいに架けられた』六『連のアーチ橋があることを知り、これをもとに、連続したアーチ橋という基本構想に至ったともいわれている』。『アーチ間の橋台を石垣で強固にすることで、洪水に耐えられるというのである』。延宝元年の六月八日に『基礎の鍬入れが始められ、児玉九郎右衛門の設計により、石で積み上げられた橋脚を川の堤防に』二『個、中間に』四『個の計』六『個』を『築き、その上から片持ちの梁をせり出した木造の』五『連橋を架けた』。『広嘉は近くに住居を構えて自ら架橋工事の監督を行い、扇子を開いてアーチ橋の湾曲の形を決定したという』。『同年』十『月、錦帯橋は完成し、地元で家内睦まじいことで評判の農家清兵衛の一家』十二『人による渡り初』(ぞ)『めが行われた』。『しかし、翌年の延宝』二(一六七四)年、『洪水によって石の橋脚が壊れ、木橋も落ちてしまったので、同年、家来に石垣の研究をさせて橋台の敷石を強化し』、『再建し』ている。『この改良が功を奏し、その後は昭和期まで』実に二百五十『年以上』、『流失することなく定期的に架け替え工事が行われ、その姿を保』っている。『なお、橋は藩が管理し、藩内では』、『掛け替え・補修の費用のため』、『武士・農民など身分階級を問わず』、「橋出米」(はしだしまい)『という税が徴収されていた。ただし』、『当時、橋を渡れるのは武士や一部の商人だけで、一般の人が渡れるようになるのは明治に入ってからであった』とある。このウィキには、異名に「十露盤橋」はないが、平凡社『日本歴史地名大系』に「十露盤橋」の別名が載っていた。]

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