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2024/03/31

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「春」(2)

 [やぶちゃん注:今日は、明日、父のために買ったものの、封を開けずに残った百枚以上の紙オムツと、五回ほどしか乗らなかった車椅子を社会福祉士の方を通して施設に寄贈するために当該の方がくることから、父の家の大掃除を、朝五時頃から六時間ほどかけて、一階を清掃した。さらに、午後は一時に町内会(私は副会長をしている)の本監査であったため、この一本のみを、やっと公開することが出来た。]

 

   宿取て裏見廻ルやあか椿 壽 仙

 

 田舍宿の趣であらう。日高いといふほどでなくても、まだ明るいうちに宿を取つた場合と思はれる。夕飯にも多少間があるので、庭へ下りて見た。「見廻ル」といふ言葉は、今日では或目的を持つて巡囘するやうな意味になつてしまつたが、これは無論そんなわけではない。無目的な、輕い氣持でぶらぶらしてゐるので、偶然その家の裏に眞紅な椿の咲いてゐるのを發見した、といふだけのことである。「庭」と云はずに「裏」と云つたのは、實際裏であつたに相違無いが、つくろつた樣子の庭でないことも窺はれる。

 

   散花や猫はね入てうごく耳 什 佐

 

 庭前か何かの光景であらう。猫が睡つてゐる上に櫻の花が散りかゝる、睡つてゐながらも猫は時々無心にその耳を動かす、といふスケツチである。

 其角は四睡圖に題して「陽炎にねても動くや虎の耳」といふ句を作つた。多分猫から連想したのであらうが、この虎の句にしろ、猫の句にしろ、一句の主眼といふべきものは、睡つてゐても耳が動くといふ事實の興味にあるので、陽炎なり落花なりは背景として趣を添えてゐるに過ぎない。が、同時にこの背景によつて、その事實が麗な[やぶちゃん注:「うららかな」。]春の中に浮んで來ることは、俳句の特色として多言を要せぬであらう。

[やぶちゃん注:『其角は四睡圖に題して「陽炎にねても動くや虎の耳」といふ句を作つた』個人ブログ「press-Yahantei」のこちらの記事(「酒井抱一句集」の紹介ページ)によれば、榎本其角の「其角發句集」(其角の死後、約百年後の文化一一(一八一四)年・刊坎窩久蔵(かんかきゅうぞう)の考訂になるもの)に、『「四睡図」という前書が付してあり、『其角発句集(坎窩久臧考訂)』では、「豊干禅師、寒山、拾得と虎との睡りたる図」との頭注(同書p180)がある』とあり、『其角が、どういう「四睡図」を見たのかは定かではないが、実は、其角の師匠の芭蕉にも、次のような「四睡図」を見ての即興句が遺されている』として、 

    月か花かとへど四睡の鼾(いびき)哉  ばせお 

『(真蹟画賛、「奥羽の日記」)』が紹介されてあって、『この芭蕉の句は、「おくの細道」の「羽黒山」での、「羽黒山五十代の別当・天宥法印の『四睡図』の画賛」なのである』とある。以下、本邦の「四睡図」の図が当該ウィキから引いて掲げられている。そのリンク先にもある通り、「四睡圖」とは、『豊干、寒山及び拾得が虎と共に睡る姿が描かれた禅画』、『道釈画の画題で』、『禅の真理、妙理、境地を示すとされる』。但し、『豊干禅師と寒山、拾得は親しい関係にあったが、この三人と虎を一緒に描くことの根拠となる文献は見つかっていない』とある。なお、ブログ主は、さらに、解説して、『其角の「かげろふに寝ても動くや虎の耳」の「虎の耳」は、芭蕉の「月か花かとへど四睡の鼾哉」の「四睡図」に描かれている「虎の耳」を背景にしているのかも知れない。と同時に、この其角の句は、同じく、芭蕉の、その『猿蓑』に収載されている「陽炎」の句の、「陽炎や柴胡(さいこ)の糸の薄曇」をも、その背景にしているように思われる』。『この「柴胡(さいこ)の糸」というのは、薬草の「セリ科の植物のミシマサイコの漢名、和名=翁草」で、その糸ような繊細な「柴胡」を、「糸遊」の別名を有する「陽炎」と「見立て」の句なのである』。『そして、其角は、芭蕉の、その「糸ような繊細な『柴胡』=「陽炎」という「見立て」を、「かげろふ」=「陽炎」=「薬草の糸のような柴胡」(芭蕉)=「蜉蝣(透明な羽の薄翅蜉蝣・薄羽蜉蝣・蚊蜻蛉)」(其角)と「見立て替え」して、「蕉風俳諧・正風俳諧」(『猿蓑』の景情融合・姿情兼備の俳風)から「洒落風俳諧」(しゃれ・奇抜・機知を主とする俳風)への脱皮を意図しているような雰囲気なのである』と優れた考証をなさっておられる。]

 

   ひよどりの虻とりに來るさくらかな 細 石

 

 芭蕉に「花にあそぶ虻な食ひそ友雀」といふ句がある。材料は大體同じであるが、この句はさういふ主觀を加へずに、花に遊ぶ虻を鴨が取りに來る、といふ眼前の事實をそのまま敍したものである。

 昆蟲學者の書いたものを見ると、蟲の多く集る花の上は卽ち强食弱肉の小世界で、蜜を吸ふ以外に何の用意も無い蝶や虻などは、しばしば悲慘な運命に陷るといふ。季節は違ふけれども、螳螂なども花のほとりに身を潛めて、得意の斧を揮ふものらしい。その點は人の多く集るところに犯罪者が入り込み、それをつけ狙ふ探偵も亦こゝに集る、といふのと略〻[やぶちゃん注:「ほぼ」。]傾向を同じうするやうである。莊子の言を借用すれば「一蟬方に美蔭を得て而して其身を忘れ、螳螂翳を執りて而して之を搏たん[やぶちゃん注:「うたん」。]とし、得るを見て而して其形を忘れ、異鵲[やぶちゃん注:「いじやく」。奇妙な姿のカササギ。]從つて而して之を利し、利を得て而して其眞を忘る」といふところであらう。

 芭蕉は風雅の眼から、雀が花に遊ぶ虻を食ふことを憎んだのである。この句はさういふ寓意なしに、ただ鵯が虻を逐つて櫻のほとりに來ることを詠んでゐる。鳥を配し蟲を配するだけなら敢て珍とするに足らぬが、鳥蟲交錯の世界を描いたところに、櫻の句としてはいさゝか異色がある。

[やぶちゃん注:『芭蕉に「花にあそぶ虻な食ひそ友雀」といふ句がある』「續虛栗(ぞくみなしぐり)」に載る、

   *

     物皆自得(ものみなじとく)

   花にあそぶ虻(あぶ)なくらひそ友雀(ともすずめ)

   *

「蕉翁句集」では貞享四(一六八七)年四十四歲の時の作とする。草稿があり、そこでは中七を「虻なつかみそ」とある。宵曲の言う通り、この句の根源は「莊子」の「外篇」の「山木篇 第二十」の「八」で「蟷螂搏蟬」(とうろうはくせん)の成句で知られるもの。幾つかの記事を比較して見たが(私は教員三年目の夏に一ヶ月かけてメモや疑義を書き添えつつ「荘子」全篇を精読した。漢籍の哲学書で完璧に読み尽くしたのは「荘子」のみである)、京都大学人文科学研究所教授古勝隆一氏のサイト「学退筆談」の「身を忘れること」がよい。]

 

   岨を行袂の下のさくらかな 潘 川

 

 ちよつと變つたところを見つけてゐる。岨の下に櫻が咲いてゐる、と云つてしまへばそれまでのことであるのを、「岨を行袂の下」と云つた爲に、その岨道の細いこと、その道のすぐ下まで花の梢の迫つてゐることなどが連想されて來る。「袂の下」といふ言葉はかなり際どい云現し[やぶちゃん注:「いひあらはし」。]方であるが、この場合は細い岨道をとぼとぼと步みつつある姿を髣髴し得る點で、成功してゐると云はなければなるまい。

[やぶちゃん注:「岨」「そは」。崖。

「行」は「ゆく」。

「潘川」丈艸の知人で大津附近に住んでいた俳人と思われる。芭蕉没後、丈艸が彼に宛てた書簡が残る。]

 

   むし立る饅頭日和や山櫻 理 曲

 

 山中の茶店などであらうか、蒸し上つた饅頭の湯氣が、濛々と春日の空へ立騰る、あたりに櫻が咲いてゐる、といふ光景である。同じ白い湯氣であつても、寒い陰鬱な空に立つ場合と、麗に[やぶちゃん注:「うららかに」。]晴れた空に立つ場合とでは大分感じが違ふ。「饅頭日和」[やぶちゃん注:「まんぢゆうびより」。]といふのは隨分大膽な言葉であるが、恐らく作者の造語であらう。一見無理なやうなこの一語によつて、櫻の花に湯氣の立騰る明るい感じを受取ることが出來る。俳句獨得の表現である。

 

   山吹の岸をつたふや山葵掘 支 浪

 

 これは吾々が見馴れてゐる庭園の山吹ではない、山中の景色であらうと思ふ。山葵掘の人が淸らかな流れに沿うて岸傳いに來る。山吹はその淸流に影を願して咲いてゐるのである。

 子規居士の早い頃の句に「山吹の下へはひるや鰌取」といふのがあつた。景色は違ふけれども、調子は大分この句に似てゐる。或目的を持つた人物を山吹に配した點も、共通してゐるといふべきであらう。

[やぶちゃん注:「山葵掘」「わさびほり」。

「山吹の下へはひるや鰌取」下五「どぢやうとり」。「寒山落木」巻二に所収する。明治二六(一八九三)年の作。帝国大学文科大学哲学科を退学し、日本新聞社に入社した翌年で、数え二十七歳の時の句。季語は「山吹」で晩春。]

 

   杉菜喰ふ馬ひつたつる別かな 關 節

 

「餞別」といふ前書がついてゐる。如何なる人が如何なる人を送る場合か、それはわからない。わかつてゐるのは送られる方の人が、これから馬に乘つて行くらしいといふことだけである。

 名殘を惜しんで暫く語り合つたが、どうしても出發しなければならなくなつて、馬を引立てて行かうとする。今まで人間の世界と沒交涉に、そこらに生えてゐる杉菜を食つてゐた馬が、急に引立てられることによつて、二人は袂を分つわけになる。「杉菜喰ふ」で多少その邊の景色も現れてゐるし、「ひつたつる」といふ荒い言葉の裏に、送る者の別を惜しむ情が籠つてゐるやうに思はれる。餞別句としては巧なところを捉へたものである。

 

2024/03/30

譚 海 卷之十三 まんさく枇杷の事 木蘭の事 卯木の事 長春花の事 鳩やばらの事 の事 梅櫻桃の植やうの事 すみれ叢生の方の事 鐵線花の事

○「まんさく」といふ樹、冬、白き花を、ひらく。「もくらん」の形の如し。是も、近年、渡りたるもの也。冬月、花のなき比(ころ)、珍重すべし。枇杷・ひひらぎ、冬さく花、すべて、香氣、有(あり)、ともに捨(すて)がたきもの也。

[やぶちゃん注:「まんさく」ユキノシタ目マンサク科マンサク亜科マンサク属マンサク Hamamelis japonica は本邦固有種。独特の花で、萼は赤褐色、又は、緑色で円く、花弁は黄色で長さ一・五センチメートルほどの細長い紐状を呈する。開花期は二~三月で、まあ、合うものの、「白き花」というのが合わないので、調べたところ、マンサク科トキワマンサク属トキワマンサク Loropetalum chinense がそれらしい。当該ウィキによれば、『本州中部以南から九州、台湾、中国南部、インド東北部に分布する。但し、日本での自生は極めて限定的で、静岡県湖西市・三重県伊勢神宮・熊本県荒尾市のみ知られる。常緑小高木。花期は』五『月頃で』、『細長い』四『枚の花弁の花を咲かせる』(開花の季節は合わない)。『花の色は、基本種はごく薄い黄色である』とあり、グーグル画像検索で「トキワマンサク Loropetalum chinense」を探すと、幾つかの写真で「トキワマンサク」として、殆んど白くしか見えない花のページが存在する。やはり、花期に不審があるので、冬に「もくらん」(モクレン目モクレン科モクレン属ハクモクレン節モクレン Magnolia liliiflora )に似た白い花を咲かせる「近年、渡りたるもの」に当たりそうな木本類を探してみたが、ピンとくるものはない。ただ、ツツジ目モッコク科(サカキ科)ヒサカキ属ハマヒサカキ Eurya emarginata に目が止まった。花期は十一~十二月で、白い五枚の花弁は小振りだが、壺状に寄り添っている。グーグル画像検索「ハマヒサカキ 花 冬」をリンクさせておく。一つ一つは小さいが、枝に密生して咲いているそれは、なかなかに見応えがある。しかも、当該ウィキによれば、『本州では千葉県以西、四国、九州から琉球列島に見られ』、『国外では朝鮮南部、中国に分布する。海岸に生える』。『琉球列島では変異種が多』いとあり、江戸時代は形式上は琉球は国外であるから、「渡りたるもの」に違和感はない。これを、第一候補とすべきか。]

 

○もくらん・こふじ[やぶちゃん注:ママ。「こぶし」の錯字であろう。]は、折(をり)て生花に、なしがたし。つぼみたる花、ひらく事、なし、只、庭中の觀(みる)物也。

 

○卯木(うつぎ)、市中に植(うゑ)れば、あぶら蟲を生ず。眞(まこと)に山林のはな也。

 

○長春花、生垣にすべし。四季、花、絕(たえ)る事、なし。

[やぶちゃん注:リンドウ目キョウチクトウ科インドジャボク亜科 Vinceae 連ニチニチソウ属ニチニチソウ Catharanthus roseus の異名。当該ウィキによれば、『初夏から晩秋まで次々に花が咲くので、「日々草」という』とある。但し、本種は]『「ビンカアルカロイド」』(Vinca alkaloid)『と総称される』、十『種以上のアルカロイドが、全草に含まれる』毒草である。]

 

○「はとやばら」といふあり。花、大輪にして、蔓生(つるせい)するもの也。樹上、或は、衡門(かうもん)の上に、はひかゝいて、花、咲(さき)たるけしき、一品あるもの也。

[やぶちゃん注:「はとやばら」バラ科バラ属バラ亜属ナニワイバラ節ナニワノイバラ Rosa laevigata の淡紅種、或いは、変種らしい。ウィキの「バラ属」では、帰化植物とする。

「衡門」二本の柱の上に横木の冠木(かぶき)を渡しただけの門。「冠木門」に同じ。]

 

○梅をば、遠く、うへ、櫻・桃などを、近く植(うう)べし、然らざれば、さくらの咲(さく)比(ころ)は、梅の若葉に、さへられて、無念なるもの也。

 

○「すみれ」は鉢の中に植(うう)べし。花の跡の實(み)、鉢の中に落(おち)て、翌年には、あまた、生ずる也。庭中・垣のもとなどに植れば、風に、實、吹散(ふきち)らされて、あまた生(しやうず)る事、なし。

 

○「てつせん」も、垣を造りて、まとはすべし。書齋の窻前(さうぜん)[やぶちゃん注:「窓前」に同じ。]抔(など)に、殊に觀(みる)物に備へて、幽奇、限(かぎりな)なきもの也。

[やぶちゃん注:「てつせん」「鐵線」。キンポウゲ目キンポウゲ科キンポウゲ亜科 Anemoneae 連センニンソウ属 Clematis亜属Viticella 節テッセン Clematis florida。原産地は中国で、現地では「鉄線蓮」と呼ばれ、本邦への移入は万治四・寛文元(一六六一)年~寛文一一(一六七一)年頃とされる。]

譚 海 卷之十三 菊根わけの事 牡丹の事 芍藥花つけやうの事 山吹植やうの事 椿垣となすべき事 霧島つゝじこやしの事 花木香氣賞翫の事 山茱萸の事

[やぶちゃん注:「山茱萸」は「やまぐみ」ではなく、「さんしゆゆ」と読む。]

 

○菊の根を分(わく)るは、淸明の時を、よし、とす。わけて、其まま、花檀に植(うう)れば、たけ高く成過(なりすぎ)て、あしく、わけて、後先(あとさき)、假(かり)に植置(うゑおき)て、四月の初旬比(ころ)、秋の「花だん」に植(うう)べし。市中にては、下水の土と、常の土、等分なるが、よし。

[やぶちゃん注:「淸明」清明節は二十四節気の一つ。天文学的には、太陽が黄道上の十五度の点を通過する時で、暦の上では、陰暦三月、春分の後の十五日目、新暦の四月五、六日頃に当たる(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。]

 

○牡丹は、皆、つぎき也。實生は十年餘ならでは、花さく事、なし。八十八夜を花の盛りとするに、大體、違(たが)ふ事、なし。大坂生玉(いくたま)の植木屋へ、牡丹をあつらへてやれば、冬に成(なり)て、箱に入(いれ)て、根を藻に包(つつみ)て越(よこ)す也。それを、花檀へ、うつせば、花、ひらくなり。

 

○芍藥は、年を經れば、花、さかず。是は、根の、はびこるゆゑ、根へ、生氣、みつるゆゑ、花を咲(さか)ぬ也。二月比、芍藥を、ほり出(いだ)して見れば、ことごとく、孫根、さして、あり。夫(それ)を切去(きりさり)て、親根ばかりを、根に殘して植(うゑ)れば、花を着(つく)る也。

 

○山吹は、山草なれば、市中に植(うう)るときは、生ぜす、決して、枯(かる)る也。山林にても、竹樹の蔭にあるは、よく叢生(さうせい)す。日を直(ぢき)に受(うく)る所にては、花を、つくる事、なし。

 

○椿は、生垣に、つくりて、高く刈(かり)こむべし。花の時、錦步障(にしきほしやう)のごとし。珍花數品(すひん)を集(あつめ)たる、殊に、よろし。

[やぶちゃん注:「錦步障」「步障」は移動用の屏障具。あからさまに内部を覗かせないようにするために、幔(まん)や几帳で周囲を囲って柱を持参させる大型のものと、外出者自身で持参する小型のものがある。大型のものは遷宮の時、霊の移徙や葬礼の渡御具であり、小型のものは女子の物忌の外出用である(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。ここは錦で作ったそれのように見えることを言う。]

 

○霧島は二月末、雪隱の「ふん」を「こやし」にすべし。樹のめぐり、一尺ほどヘだてて、土を掘(ほり)、「こやし」を、つぎこむなり。

[やぶちゃん注:「霧島」「霧島躑躅」。日本固有種ビワモドキ亜綱ツツジ科ツツジ属栽培品種キリシマツツジ Rhododendron × obtusum 。]

 

○花木の香薰あるもの、桐花を第一とす。一りん花を、とりて、坐右にさし置(おく)に、一室、にほひみ、つる也。

 

○「さんせい」といふ樹は、「さんしゆゆ」の事也。正月比(ごろ)、黃花を、ひらく。葉は、花の後(あと)にいづる也。近年、わたり來(きたる)也。初春、白梅・椿などにまじへ、うゑて、同時に、花ひらく。暮春の花の景の如く、殊に愛すべきもの也。

[やぶちゃん注:ミズキ目ミズキ科ミズキ属サンシュユ Cornus officinalis当該ウィキによれば、『山茱萸(サンシュユ)は漢名(中国植物名)で』、『この音読みが和名の由来である』。『日本名の別名ハルコガネバナ(春黄金花)は、早春、葉がつく前に』、『木一面に黄色の花をつけることからついた呼び名で』、『植物学者』『牧野富太郎が山茱萸に対する呼び名として提唱したものである』。『秋になると枝一面にグミのような赤い実がつく様子から珊瑚に例えて、「アキサンゴ」の別名でも呼ばれる』。『中国浙江省及び朝鮮半島中・北部が原産といわれ』、『中国・朝鮮半島に分布する』。『江戸時代』、『享保年間に朝鮮経由で漢種の種子が日本に持ち込まれ、薬用植物として栽培されるようになった』。『日本における植栽可能地域は、東北地方から九州までの地域である』。『日本では、一般に花を観賞用とするため、庭木などに利用されている』。『日当たりの良い肥沃地などに生育する』。『落葉広葉樹の小高木から高木で』、『樹高は』五~十『メートル』『内外になる』。『枝は斜めに立ち上がる』。『成木の幹は褐色で樹皮が剥がれた跡が残って』、『まだら模様になることがあり、若木の幹や枝は赤褐色や薄茶色で、表面は荒く剥がれ落ちる』。『葉は有柄で互生し』、『葉身は長さ』四~十センチメートル『ほどの卵形から長楕円形で、全縁、葉裏には毛が生える』。『側脈は』五~七『対あって、葉先の方に湾曲する』。『葉はハナミズキやヤマボウシに似ているが、やや細長い』。『秋は紅葉する』。『葉が小さめのため』、『派手さはないが、色濃く渋めに紅葉する』。『花期は早春から春』(三~四月上旬)『にかけ』て、『若葉に先立って』、『木全体に開花する』。『短枝の先に直径』二~三『センチメートル』『の散形花序を出して』、四『枚の苞葉に包まれた鮮黄色の小花を多数つける』とある。]

譚 海 卷之十三 ばせう布の事 石菖蒲眼をやしなふ事 鄰家の竹引うつし植やうの事 松山生濕生異なる事 樹木室の事 蕙蘭こやし土幷植やうの事 蘭花賞翫の事

[やぶちゃん注:「蕙蘭」は「けいらん」で、本来は単子葉植物綱キジカクシ目ラン科セッコク亜科エビネ連 Coelogyninae 亜連シラン属シラン Bletilla striata を指すが、本文は単に「蘭」となっているので、広義の蘭(ラン)を指すものと採っておく。]

 

○芭蕉は、廣き庭には數(す)百本植(うゑ)て、皮をはぎて、「ばせを布(ふ)」を織(おる)べし。ばせを樹の皮、自然に脫し、見苦敷(みぐるしき)ものなれば、集(あつめ)て、たくはへ置(おき)、米をとぎたる水に、一夜、ひたし、一日、烈日にさらし、櫛をもちて、引(ひき)ならすときは、櫛の齒に隨(したがひ)て、こまかに、破(や)れ、わかれ、絲のごとし、それを、よりて、機(はた)にかくる也。

 

○石菖蒲(せきしやうぶ)、磁器に、うふる[やぶちゃん注:ママ。]といへども、土をもちて植(うゑ)れば、茂り生ずる事、甚(はなはだ)、美也。夏月、早朝に、葉の先へ、露を、あげて、懸(かか)る日は、風雨なく快晴の兆(きざし)也。その露を、指にうけて、眼に點ずれば、目をやむ事、なし。

[やぶちゃん注:「石菖蒲」「椽の下に植る草の事」で既出既注。]

 

○鄰家の竹を、我(わが)庭に引(ひか)んとするには、引んと思ふ所まで、地中を、一、二尺、掘(ほり)て、その内へ「馬ふん」を埋(うづ)め、土をかけ置(おく)時は、竹、堀(ほり)の内[やぶちゃん注:「前に掘った場所の中」の意であろう。]を、根ざしきて、我庭に生ずる也。

[やぶちゃん注:これは現在の民法上も、何ら、問題ない。根を伸ばして、他人の地所に竹が生えた場合は、隣家に連絡する必要はなくして(地中権は土地の所有者に帰するからである)、それから出た筍を食う場合でも、全くの合法だからである。但し、空中の場合は所有権は認められないので、柿の木が垣根を越えて自宅の空中に実をつけた場合は、連絡(相手が在宅で明らかに聴こえていることが確認出来れば、声掛けをするだけでもよいとされている)して、叩き落して食うことは、合法とされる。]

 

○山の手の樹を、本所(ほんじよ)[やぶちゃん注:市中の平地。]邊(あたり)の濕地に植(うゑ)るには、根の土を、よく、あらひ落(おと)して植(うゑ)れば、よく叢生(さうせい)する也。根に付(つき)たる土を、洗ひ落(おと)すゆゑ、新(あらた)なる土地の土に、なじみて、かじけぬなり[やぶちゃん注:「萎(しぼ)まないものである」の意。]。然らざれば、土氣、變らざる故、枯(かれ)て、うえ[やぶちゃん注:ママ。]つかず。

 

○山の手の松は、「親根(おやね)」とて、一筋、長く付(つき)たる根、有(あり)、夫(それ)に小(しさ)き根、おほく付(つき)て、ある也。其「親根」、土中へ入る事、ふかき故、掘出(ほりいだ)す時、損ずべからず。是は赤土にて、地面和らかなる故也。本所邊の松は、濕地ゆゑ、松の根、深く土中ヘ入ること、なし。四方へひろがりて、淺く叢生する也。されば、市中(いちなか)へ移すには、龜井戶うけ地邊(あたり)の松、よく生ずる也。山の手より移せば、「親根」、くさりて、枯(かる)る也。

[やぶちゃん注:「うけ地」「請地」で、この場合は、本来の地主から、誰かが貰った田地、或いは、誰かが、耕作・作物栽培・収穫を請け負った土地のことを言っていると考えられる。]

 

○植木の室(むろ)は、水氣(みづけ)なき穴藏ならでは、あしゝ。

 

○「蘭は、小石川水戶殿門前の土を、よし。」

と、いへり。又、

「紺屋(こうや)の藍瓶(あゐがめ)の底の土、こやしに、よし。」

と、いへども、何れも、年を逐(へ)て、かじけ、やせて、全(まつたき)功(こう)を見ず。

 爰(ここ)に、一奇法、有(あり)、下水の泥を、掘取(ほりとり)て、竹管(たけづつ)の上に置(おき)て、二日程、日に、ほし、「みゝず」などを、ほし殺して後(のち)、その泥を碎(くだき)て、細(こま)かなる水能(すいのう)[やぶちゃん注:「水囊」帆布製の携帯用のバケツ様のもの。或いは、食品等を掬って水を切るための篩(ふるい)。水漉し。]にて、ふるひ、細末になし、「ぬか」を。いりて、土を、ひとつに、まぜ、蘭を植(うう)る也。但(ただし)、いりたる「ぬか」は、土の十分一、まずべし。

 扨(さて)、蘭の根を、流水にて、よく洗(あらひ)て後、根に付(つき)たる「ひげ」のやうなる根を、ことごとく、切り去(さり)て、ふとき根ばかり、殘し、蘭の葉をくゝりて、植(うゑ)んとおもふ器(うつは)の中へ置(おき)、左の手にて、蘭を、もち、右手にて、土を、段々、入(いれ)て、蘭の、根と、根と、ひとつにならぬやうに、土にて隔(へだ)てつゝ植る。土を入れる事、九步(くぶ)通りの時、根の下まで、土の行(ゆき)わたりたるを見て、土を止め、指にて、よく、かため置(おき)て、其後、水を「ひしやく」にて、かける。器の下の穴より、水の出(いづ)るを、合圖にして、水を止める也。其後、再び、手をつくる事を、せず。

 蘭、よく生じて、年々、かじける事、なし。

[やぶちゃん注:「小石川水戶殿門前」水戸徳川家小石川屋敷。現在の小石川後楽園附近。明治になって陸軍東京砲兵工廠となった。なお、その北方に当たる高台の上の方に「こゝろ」の「先生」の大学時代の下宿があったことになっている。それは、私の「『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月19日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十七回」の注が、まず、絶対に誰にも負けない方法で、当時の古地図を駆使して、厳密に検証してあるので、未見の方は、是非々々、読まれたい。

 

○蘭の花、咲(さき)たる時は、座敷にすゑ、「のうれん」・幕などにて。圍ひて、にほひの、外(そと)へ、散らぬやうに、すべし。

譚 海 卷之十三 梅花楓樹植付の事 萩原市町に植やうの事 柑子の類こやしの事

[やぶちゃん注:三番目の標題の「柑子」は「かうじ」であるが、ここは以下の本文記載から、種としてのバラ亜綱ムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン属コウジ Citrus leiocarpa を指しているのではなく、広義のミカン類を指している。]

 

○櫻は、市中に植(うう)るといへども、かじけ[やぶちゃん注:「萎(しぼ)んで」。]、枯れやすし。楓樹(かえで)は、市中にては紅葉せず。櫻・楓等を植るには、平地より、三尺ばかり高く、土手をつきて、其上に植べし。櫻は久敷(ひさしく)たもつべし。楓抔(など)も、年をへては、紅葉する事有(ある)べし。

 櫻は、愼(つつしみ)て、一枝をも、折(をる)べからず。折(をり)たる所より、枯(かれ)はじめて、終(つひ)に、たもちがたし。

 梅は、年々、土用に枝をきれば、花を、もち安し。それも、したゝかに枝をきるときは、痛(いたみ)て、枯(かる)るなり。

 

○萩も、市中には保(たもち)がたし。年々、刈盡(かりつく)すべからず。大きなる枝、二、三本、かり殘して置(おけ)ば、樹に成(なり)て、花、つき安し。

 

○蜜柑・たちばな・九年ぼうのたぐひ、花の後は、白靑(しろあを)き蟲を生じ、臭き香を吐(はく)もの也。市中には、えらみて、蟲を生ぜざるものを植(うう)べし。みかん・橘(たちばな)の類(るゐ)には、鼠のこやし、殊に、よろし。死(しし)たる鼠を、水にひたし置(おく)ときは、久しくして、たゞれ、浮ぶ也。夫(それ)を樹の根へ埋(うづ)むときは、花實、よく榮(さか)ふる也。

[やぶちゃん注:「九年ぼう」「九年母(くねんぼ)」。ムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン連ミカン属コウキツ(香橘)Citrus nobilis Lour. var. kunep Tanaka のこと。現行では「クネンボ」の方が知られる。他に「クニブ」、沖繩方言では「九年母木」(くんぶぬき/くぬぶんぎ/ふにゃらぎ)と呼び、沖縄在来の柑橘カーブチーやオート―、及び、本土の温州蜜柑の祖先とされる蜜柑品種の一つ。名の由来については、種を植えてから実がなるのに九年かかるというものや、「クニブ」という音の「ニブ」がヒンディー語の「酸味の強い小さいレモン」の意で、それが語源とも、される。本来はインドシナ半島原産で南中国を経て琉球に渡り、羽地(はねじ:現在の名護市)で栽培が盛んに行われたことから「羽地蜜柑」とも呼ばれた。果皮は厚く、表面に凹凸が見られ、味は濃厚で、酸味が強く、テレピン油に似た独特の香りを特徴とする。十六世紀室町期には琉球から日本本土にも伝えられて栽培もされ、果実サイズが大きなために持て囃された。水戸黄門はこれをマーマレードにして食したという記録も残っている。中でも美味しさを誇る琉球産は重宝されたという。江戸期までは日本本土に於ける柑橘の主要品種であったものの、その後、紀州蜜柑が広まり、また、近代に至って大正八(一九一九)年からのミカンコミバエ(双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目ハエ下目ミバエ上科ミバエ科 Bactrocera 属ミカンコミバエ Bactrocera dorsalis )の侵入阻止のための移出禁止措置がとられてからは、生産量が激減、今では沖縄本島にも数本しか残っていない貴重な木となってしまった(以上は主に、非常によく纏められてあるpuremcolumn 氏のブログ「The Herb of Ryukyu」の「クネンボ 01 柑橘の母」の記載及び同記載のリンク先などを参考にさせて戴いた)。

「白靑き蟲を生じ、臭き香を吐もの也」ミカン類を有意に食害し、「白靑」色(これは江戸以前に感覚では緑色に近い明るい色を言っているように思う)で、臭さが強烈となると、昆虫綱カメムシ目カメムシ亜目カメムシ科カメムシ亜科 Glaucias 属ツヤアオカメムシ Glaucias subpunctatu を指している可能性が高いと思われる。]

譚 海 卷之十三 ついたて製の事 風りんの事 椽の下に植る草の事

○ついたては、二枚障子を仕付(しつける)たる、よし。障子をひらきて、用を辨ずるに便(びん)、有(あり)。狹き座敷などの「へだて」には、障子、殊に、よし。

 

○風鈴は長物(ながもの)なれば、觀物(みるもの)に成るやうにすべ。短册など付(つけ)たるは、俗に近し。花にて、しだり櫻か、柳か藤のたぐひを付(つく)べし。風になびたる體(てい)、風流なるもの也。

[やぶちゃん注:今度、やってみたくなった。]

 

○椽(えん)がはの下には、必(かならず)、觀音草(くわんのんさう)か、石菖蒲(せきしやうぶ)か、「しやが」などを植(うう)べし。幽致(いうち)ありて、冬月、又、色を變ぜず、翫(もてあそぶ)べし。

[やぶちゃん注: 「觀音草」単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科スズラン亜科キチジョウソウ(吉祥草)属キチジョウソウ Reineckea carnea の異名。当該ウィキによれば、『日本国内では関東から九州、また中国の林内に自生し、栽培されることもある』。『家に植えておいて花が咲くと』、『縁起がよいといわれるので、吉祥草の名がある』。『地下茎が長くのびて広がり、細長い葉が根元から出る』。『花は秋に咲く。根元にヤブランにやや似た穂状花序を出し、下部は両性花、上部は雌蕊のない雄花が混じり、茎は紫色。花は白い花被が基部で合生し筒状となり、先は』六『裂して反り返り』、六『本の雄蕊が突き出る』。『果実は赤紫色の液果』であるとある。そこの画像もリンクさせておく。

「石菖蒲」単子葉植物綱ショウブ(菖蒲)目ショウブ科ショウブ属セキショウ(石菖) Acorus gramineus のこと。

「しやが」単子葉植物綱ユリ目アヤメ科アヤメ属シャガ Iris japonica十一日前に十三年忌を迎えたALS(筋萎縮性側索硬化症)で亡くなった母テレジア聖子(若き日に洗礼を受け、修道院に入って、後には長島愛生園に行ってハンセン病患者の世話をすると決めていた。しかし従兄であった父が強引に結婚を申し込んで、母曰く、亡くなる直前まで、「『放蕩息子』になってしまった。」と呟いていた。亡くなる直前にキリスト系病院であったことから、私が過去の事実を述べ、最期の時、外人の司祭さまが来られ、葬送の儀を行って呉れた。母は慶応大学医学部に献体しており(私と連れ合いも同じ)、そのまま大学が病院まで迎えに来て呉れた。見送ったのは、父と私と連れ合いと看護婦の方の四人だけだった。遺骨は多磨霊園の同大医学部の霊廟に入っている。私と連れ合いも後、同じ骨壺に入る)が大好きな花で、よく植えていた(父は入院中で、遺影を父に見せようと持って行ったが、遂に目を開けなかった。而して、その三日後に心筋梗塞で父は逝ったが、考えてみれば、亡き母が天国から迎えに来て呉れたものと、今は思う)。父の逝去の前後、私は黙々と家の斜面の葛と竹を伐採し続けた。連れ合い曰く、「お母さんの好きだったシャガの繁殖地が戻ったわ。」と言った。私も好きな花である。母さん、父さん、「エリス・ヤポニクス 村上昭夫」を捧げます――

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「春」(1)

[やぶちゃん注:以下、長いので、分割する。]

 

 

      

 

 

[やぶちゃん注:季標題。以下、本文。]

 

 

   桃色に雲の入日やいかのぼり 其 木

 

 句意は格別說明するまでのこともあるまい。この句の生命は云ふまでもなく「桃色」にある。夕日の空に凧の上つてゐるところは、必ずしも特色ある景色といふことは出來ないが、「桃色」を先づ點じ來つた爲、夕雲の鮮な色が眼に浮ぶやうに思はれる。

 北原白秋氏の歌に「鳩鳥の葛飾小野の夕霞桃いろふかし春もいぬらむ」といふのがあつた。かういふ色彩に對する感覺は、近代人の得意とするところであるが、古人も決して閑却してゐたわけでないことは、この一句によつても自ら明であらう。

[やぶちゃん注:白秋の一首は歌集「雀の卵」(大正一〇(一九二一)年)に後に補填したもので、決定版で「野ゆき山ゆき」の「一」に出る一首。国立国会図書館デジタルコレクションの『白秋文庫』第一(昭和一二(一九三七)年アルス刊)の「文庫版『雀の卵』覺書」の「Ⅱ 訂正作について」の中に、そこでは、「『花樫』葛飾閑吟集」の冒頭に、

   *

     野ゆき山ゆき

鳰鳥(にほどり)の葛飾(かつしか)小野(おの)の夕霞ねもごろあかし春もいぬらむ

   *

とあり、更に、「現代短歌全集『北原白秋集』葛飾閑吟集」の冒頭に、

   *

     野ゆき山ゆき

鳰鳥(にほどり)の葛飾(かつしか)小野(おの)のゆふがすみねもごろあかし春もいぬらむ

   *

の形で出るが、先行する同コレクションの「雀の卵」三部歌集同巻(大正一〇(一九二一)年アルス刊)では、「野ゆき山ゆき」の「一」(二首)の二首目に、ここにある通り、

   *

鳩鳥(にほどり)の葛飾小野の夕霞桃いろふかし春もいぬらむ

   *

とあった。]

 

   鍬の刅の夕日に光ル田打かな 嘯 風

 

 今日の眼から見ると、何となく平凡な句のやうに見える。併しこの句の出來た元祿時分にも、果して平凡だつたかどうかは疑問である。夕日に光る鍬の刅は、當時にあつてはむしろ新しい見つけどころではなかつたろうかといふ氣もする。

 振上げ打おろす鍬の刄が、夕日を受けてきらりと光る。さういふ動作は句の表面に現れてはゐないけれども、「田打」といふ言葉によつて、同じやうな動作を繰返しつゝあることが連想されるのである。

「振あぐる鍬のひかりや春の野ら」といふ杉風の句も、略〻[やぶちゃん注:「ほぼ」。]同樣な光景に著眼しているが、この句に比べるとよほど大まかなところがある。杉風は「振あぐる」といふ動作に重きを置いてゐるに反し、嘯風はそれを「田打」といふ語に包含せしめ、夕日を點ずることによつて時閒的背景を明にした。兩句の相異は主としてその點から來てゐる。

[やぶちゃん注:句の「刅」は右端の「﹅」がない「刃」(ここは「は」と訓じてゐる)の異体字で「グリフウィキ」のこれであるが、表示出来ないので、最も近い「刅」に代えた。

「嘯風」兼松嘯風(かねまつしょうふう 承応三(一六五四)年~宝永三(一七〇六)年)は蕉門の俳人。加茂郡深田村(現在の美濃加茂市深田町)の農家の生まれ。内藤丈草と各務支考と交流があった。宝永元(一七〇四)年、美濃派俳諧の集大成として編んだ美濃派俳人の句集「國の華」(全十二巻)の第四巻「藪の花」の選を担当し、可児・加茂地区の部分を担当した。蜂屋の俳人堀部魯九は嘯風に俳諧の手解きを受けている。交流のあった俳人たちとともに宝永二年の秋、句集「ふくろ角」を選集したが、刊行前の翌年五月に病没した。嘯風の子で俳人の水尺が嘯風追悼の句を加えて刊行している(以上は「美濃加茂市民ミュージアム」公式サイト内の「美濃加茂事典」のこちらに拠った)。]

 

   うぐひすや内等の者の食時分 默 進

 

 この句を讀むと直に蕪村の「うぐひすや家内揃うて飯時分」を思ひ出す。「食時分」はやはり「メシジブン」とよむのであらう。かう二つ竝べて見ると、「内等の者の」は「家内揃うて」よりも表現が不束な[やぶちゃん注:「ふつつかな」。]やうに思はれる。そこに修辭上における元祿と天明との差が認められるのであるが、「家内揃うて飯時分」といふ言葉には多少の俗氣があつて、蕪村の句としては上乘のものといふことは出來ない。食事時に鶯が啼くといふ全體の趣向からいつても、已に元祿にこの句がある以上、蕪村の手柄はやや少いわけである。

 鶯の句には尙元祿に

 

   鶯や宮のあかりの起時分 幾 勇

 

といふのがあり、天明にも

 

   鶯のなくやきのふの今時分 樗 良

 

といふのがある。「何時分」といふ語で結ぶ句がいくつもあるのは偶然であるか、どれかの先縱に倣つたものであるか、その邊はよくわからない。

[やぶちゃん注:「樗良」三浦樗良(ちょら 享保一四(一七二九)年~安永九(一七八〇)年)。名は元克。志摩国鳥羽の人。初め、貞門系の百雄に学んだが、次第に伊勢派に近づき、伊勢笠付(かさづけ)の点業にも携わった。宝暦九(一七五九)年、南紀に旅して「白頭鴉」(しらががらす)を編み、翌年には加賀へ、翌々年は、再び南紀に在って「ふたまた川」を編した。後、伊勢山田に庵を結び、門下を擁して「我庵」で自風の確立を示した。既白・闌更らと往来し、明和八(一七七一)年にも信濃から加越を巡って「石をあるじ」を編み、翌年は播磨に青蘿を訪ねた。安永二(一七七三)年からは、たびたび上洛して蕪村一派と親しく交わり、三年後には京に定住の居を得た。加越には、その後も、再三旅して俳圏を広げ、京近辺にも門人を増やし、中興諸家と交流して、その運動の一端を担って「天明俳諧」の立役者の一人となった。性格は放縦の一面、純心素朴で、句は平淡ながら、自然を深く詠みとって、微妙に香気を放つ。和歌の「あはれ」に心を寄せ,詩人風の繊細な感受性と、みずみずしい情感は、蕪村一派の共感を得た。編書は、そのほかにも多く、「樗良七書」、また『樗良七部集』が編まれている(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。私の非常に好きな俳人である。]

 

   鶯や片足あげて啼て見る 桃 若

 

 スケッチである。鶯は昔から愛玩される鳥だけに、その形についてもいろいろな觀察が下されてゐるが、其角の「鶯の身を逆にはつねかな」にしろ、蕪村の「うぐひすの啼くやちひさき口明て」にしろ、梅室の「尾をそらす鶯やがて鳴きにけり」にしろ、皆これを遠く見ず、近く觀察してゐる點に注意すべきであらう。而もその動作がいづれも啼く場合のものであるのは、聲に重きを置く鳥だからである。桃若の句も鶯が片足あげてちよつと啼いて見たといふ、平凡な事柄のようでありながら、そこに一脈の生氣が動いてゐる。實際觸目の句なるが故に相違ない。

 この作者は「豐後少年」といふ肩書がついてゐる。由來少年の句といふものは、大人の影響が多いせいか、子供らしいところを失ひがちなものであるが、この句などは比較的單純率直な部類に屬する。

 

   籾ひたす池さらへけり藪の中 鶴 聲

 

 苗代に種を蒔くに先つて[やぶちゃん注:「さきだつて」。]、籾種を水に浸して置く。普通に「種浸」[やぶちゃん注:「たねひ(び)たし」。]とか「種かし」とかいふのがそれで、浸す場所によつて「種井」とも「種池」とも呼ばれてゐる。この句はその籾を浸す前に池を浚つたといふ、やや特別な趣を捉へたのである。

 藪の中にあるといふのだから、この池はさう大きなものとは思はれない。池を浚つて冬以來溜つてゐた水を一掃するのは、籾種を浸す爲に先づその水を淸からしむるのであらうと思ふ。農家の人々から見たら、あるいは平凡な事柄であるかも知れぬが、こういふ句は机上種浸の題を按じただけで拈出し[やぶちゃん注:「ひねだし」。]得るものではない。實感より得來つた、工[やぶちゃん注:「たくま」。]まざるところに妙味がある。

 

   草に來て髭をうごかす胡蝶かな 素 翠

 

 このままの句として解すべきである。「草に來て」といふ上五字に重きを置いて、花に來ないで草に來た、といふ風に解すると、理窟に墮する虞がある。この句の特色は蝶が草にとまつて髭を動かしてゐるといふ、こまかな觀察をしてゐる點にあるので、表現法の問題はともかく、古人の觀察も往々かくの如く微細な方面に亙ることを認めなければならぬ。

 其角に「すむ月や髭を立てたる蛬[やぶちゃん注:「きりぎりす」。]」といふ句がある。きりぎリすは姿態の美を見るべき蟲でないから、長い髭が目につくのも當然であるが、蝶は翅の美に先づ目を惹かれるものだけに――又その髭がさう著しいものでもないだけに、これに著眼することが、いさゝか特異な觀察になるのである。尤も觀察の精疎は直に句の價値を決定する所以にはならぬから、以上の理由だけを以て、この句をすぐれたものとするわけではない。

 

   拍子木も絕て御堀の蛙かな 一 箭

 

 拍子木を打つて廻つてゐた音が聞えなくなつて、御堀の蛙がしきりに鳴立てる。句の上にはこれだけしか現れてゐないけれども、城のほとりか何かで、夜も稍〻更けた場合かと想像される。「拍子木」と云ひ「蛙」と云つただけで、その音なり聲なりを連想させるのも、馴れては誰も怪しまぬが、俳諧一流の省略的表現である。

 子規居士の「石垣や蛙も鳴かず深き濠」といふ句は、蛙が鳴くべくして鳴かぬ、閑寂たる深い濠を想像せしめるが、見方によつては夜と限らないでもよさそうな氣がする。この「御堀の蛙」が直に夜景を思ひ浮べしむるのは、上に「拍子木も絕て」の語があるからである。かういふ連想の力を除去すれば、俳句はかなり索然たるものになり了るに相違ない。

 

   打はらふ袂の砂やつくくし 源 女

 

 一見何人も婦人の句たることを肯定するであらう。女流俳句の妙味は常にこういふ趣を發揮する點にある。

 吾々は元祿のこの句に逢著する以前、明治の『春夏秋冬』に於て

 

   裏がへす袂の土や土筆 秋 竹

 

といふ句を讀んでゐた。頭に入つた順序は全く逆であるが、この「裏がへす」の句は「打はらふ」の句を換骨奪胎したものとは思はない。むしろ作者も選者も元祿にかういふ句のあることを、全然知らなかつたのではないかといふ氣がする。土筆を採つて袂に入れて歸る場合、いくらも起り得べき事實であるだけに、二百年を隔てて殆ど同一地點に掘り當てるやうなことになるのかも知れない。

[やぶちゃん注:「秋竹」竹村秋竹(しゅうちく 明治八(一八七五)年~大正四(一九一五)年)愛媛県生まれ。本名は修。四高在学中、金沢で正岡子規派の結社「北声会」を組織。東京帝大在学中、子規庵に出入りしたが、明治三四(一九〇一)年、子規の選句を無断で掲載した「明治俳句」を刊行して子規の怒りに触れ、一門を離れた。]

 併し正直に云ふと、甞て「裏がへす」の句を讀んだ時には、別に女性的な句だとも感じなかつた。さう考へるやうになつたのは、「打はらふ」の句を知つた後である。吾々の鑑賞とか批評とかいふことも、存外種々な先入觀念に支配されがちなものであるらしい。

 

   春雨や桐の芽作る伐木口 本 好

 

 根もとから伐つた桐の株に新な芽を吹いて來る。桐の芽立は勢のいゝものではあるが、「桐の芽作る」といふ言葉から考へると、これはまだあまり伸び立たぬ時分であらう。春雨はしづかにこの伐株の上に降る。「伐木口」とあるが爲に、その木口も鮮に浮んで來るし、そこに「芽作る」新な勢の籠つてゐることも想像される。

 桐の芽立は春の木の芽の中では遲い方である。長塚節氏の「春雨になまめきわたる庭の内に愚かなりける梧桐の木か」といふ歌は、その芽立の遲いところ、他の木におくれて猶芽吹かずにゐる有樣を詠んだのであるが、本好の句は已に芽吹かんとする趣を捉へてゐる。普通の芽立と、伐株の芽立との相違はあるにしろ、春雨の中の桐の木を描いたことは同じである。春もよほど暖になつてからの雨であることは云ふまでもない。

 

   雉子啼や茶屋より見ゆる萱の中 蓑 立

 

 野景である。今憩ひつゝある茶店から萱原が見える。その萱の中から雉子の啼く聲が聞えて來る、といふ句であるが、この茶店と萱との距離は、そう遠くないやうに思はれる。

 雉子の聲といふものは、現在の吾々にはあまり親しい交涉を持つていない。眼に訴へる方の雄雉子ならば、距[やぶちゃん注:「けづめ」。中・大型の鳥の後脚の後部にある突起。]で「美しき貌かく」其角のそれにしても、「木瓜の陰に貌たぐひすむ」蕪村のそれにしても、胸裏に浮べ易いに拘らず、雄子の聲になると、直に連想に訴へにくいのである。勿論これは吾々の見聞の狹い結果に過ぎぬ、柳田國男氏に從へば、雉子の聲を聽くには東京が却つて適してゐたといふことで、「春の末に代官町の兵營の前を竹橋へ通ると、右手の吹上の禁苑の中から、いつでも雉子の聲が聞えてゐた」といふし、「駒込でも岩崎の持地がまだ住宅地に切賣されぬ前には、盛んに雉子が遊んでゐた」といふ。束京にいても耳にする機會はいくらもあつたらしいのである。

 けれどもこの「萱の中」の句は、吾々が讀んでも雉子の聲が身に親しく感ぜられる。萱との距離が遠くなささうに思はれるのも、畢竟雉子の聲の親しさによるのであらう。その點は

   雉子啼や菜を引跡のあたりより 鞭 石

といふ句もさうである。畑に來て何かを求食り[やぶちゃん注:「もとめあさり」。]つつある雉子の聲は、前の句より更に人に近い親しさを持つてゐる。尤もこの「引跡」といふ言葉は、文字通りに現在菜を引きつつある、その近くまで雉子が來て啼くものと考へなくても差支ない。菜を引いた跡の畑に來て啼くといふことでよからうと思ふ。

 前の句は萱の中から聲が聞えるので、無論雉子の姿は見えて居らず、後の句も「あたりより」といふ漠然たる言葉によつて、やはり姿を表面に現さないでゐる。しかもこの場合、雉子の聲が毫も他のものに紛れぬ響を持つてゐるのは、實感の然らしむる所に相違ない。

[やぶちゃん注:「雉子の聲といふものは、現在の吾々にはあまり親しい交涉を持つていない」私は親しい。ワンダーフォーゲル部や山岳部の顧問であったから、山行でも何度も見かけたし、また、二校目に勤務した戸塚の舞岡高等学校の校門の上の斜面には、仲のいい雌雄のキジが住んでいて、毎日のように鳴き声や姿を見た。六年ほど前、千葉の夷隅地方に連れ合いと旅した際、「いすみ鉄道」のある駅(駅名失念。私は鉄ちゃんではない)で、向かいの畑地を行く雌雄の雉子を見た。いかにも長閑にともに歩き鳴いていた。この時、連れ合いは初めて野生の雉子を初めて見たのだった(私は職場結婚であったが、彼女が転任してきた私の最後の一年には、同校では雉子は見なくなっていた)。

[やぶちゃん注:『柳田國男氏に從へば、雉子の聲を聽くには東京が却つて適してゐたといふことで、「春の末に代官町の兵營の前を竹橋へ通ると、右手の吹上の禁苑の中から、いつでも雉子の聲が聞えてゐた」といふし、「駒込でも岩崎の持地がまだ住宅地に切賣されぬ前には、盛んに雉子が遊んでゐた」といふ』これは、柳田國男の「おがさべり――男鹿風景談――」(『東京朝日新聞』秋田版(大正七(一九一八)年六月一日附発行)が初出で、当該条は「雉の聲」の一節である。後に「雪國の春」(昭和三(一九二八)年岡書院刊)に収録された。国立国会図書館デジタルコレクションの同書のここが当該条で、当該部はここの左ページ一行目からの段落に当たる。短いので、同条総てを視認して電子化しておく。

   *

      雉  の  聲

 斯ういふ心持から、自分が男鹿の風景の將來の爲に、最も嬉しい印象を以て聞いて還ったのは、到る處の雉の聲であつた。雉だけは今でもまだ此半島の中に、稍多過ぎるかと思ふ程も遊んで居る。それがもう他の地方の旅では、さう普通の現象では無いのである。

 又例の餘計な漫談であるが、雉の聲で思ひ出す自分の旅の記念は、多くは無いが皆美しいものであつた。若狹の海岸は島が内陸と繫がつて、中間に潟湖を作つた點は男鹿とよく似て居る。たゞ其山が迫つて、水が小さく幾つかに區切られて居るだけである。この湖岸の林にはやはり雉が多く啼いて居た。六月始めの頃であつたが、小舟に乘つて三つ續いた湖水を縱に渡つて行くと、よく熟した枇杷の實を滿載して來る幾つかの舟とすれちがつた。紺のきものを著た娘などの乘つて居る舟もあつた。岸には高桑の畠が多かつた。此鳥の住んで居るやうな土地にはどこかにゆつたりとした寂しい春がある。

 信州の高府(タカブ)[やぶちゃん注:ルビではなく本文。]街道といふのは、犀川から支流の土尻川[やぶちゃん注:「どじりがは」。]の岸に沿うて越える山路だが、水分れの高原には靑具[やぶちゃん注:「あをく」。現在の長野県大町市美麻青具(みあさあおく:グーグル・マップ・データ)]といふ村があつて、五月の月末に桃山吹山櫻が盛りであった。それから下つて行かうとすると、眞黑な火山灰の岡を開いて、菜種の畠が一面の花であり、そこを過ぎると忽ち淺綠の唐松の林で、其上に所謂日本アルプスの雪の峰が連なつて見える。雉が此間に啼いて居たのである。山の斜面は細かな花剛岩の砂になつて居て、音も立てずに車が其上を軋つて下ると、折々は路上に出て遊ぶ雉の、急いで林の中に入つて行く羽毛の鮮やかなる後影を見たことであつた。

 斯ういふ算へる程しかない遭遇以外には、東京が却つて此鳥の聲を聞くに適して居た。春の末に代官町の兵營の前を竹橋へ通ると、右手の吹上の禁苑の中からいつでも雉の聲が聞こえて居た。年々繁殖して今はよほどの數になつて居る樣子である。駒込でも岩崎の持地がまだ住宅地に切賣されぬ前には、盛んに雉が遊んで居て啼いた。

 男鹿の北浦などは、獵區設定の計算づくのもので、多分もう農夫の苦情もぽつぽつと出て居るであらうと思ふが、何とか方法を講じて此狀態を保存させたいのは、春から夏の境の一番旅に適した季節に、斯うして雉の聲を聞きにでも行かうかといふ土地が、今では非常に少なくなつてしまつたからである。瀨戶内海の小さな島などでは、或は保存に適したものもあらうが、實はあの邊では人間が少し多過ぎて、おまけに精巧をきわめた鐵砲を持ち、一日に七十打つたの百羽捕つたのと、自慢をしたがる馬鹿な人が直ぐ遣つて來る。秋田縣の北のはづれの獵區の如きは、設定者の爲には少し氣の毒かも知れぬが、そんな金持はまだ當分は來ても少なさうである。

   *

「鞭石」福田鞭石(べんせき 慶安二(一六四九)年~享保一三(一七二八)年)は江戸前・中期の俳人。京都生まれ。富尾似船(じせん)に学んだ。編著に「磯馴松」(そなれまつ)がある。]

2024/03/29

南方熊楠「赤沼の鴛鴦」(正規表現版・オリジナル注附き)

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『南方熊楠全集』「第七卷文集Ⅲ」(渋沢敬三編・一九五二年乾元社刊・正字正仮名)の当該部を視認した。同書では、「動物隨筆」という「大標題」の下に短い動物関連の論考が、古いものから新しいものまで、集められた中に含まれているが、これは編者による便宜上の仕儀であると考える。]

 

       赤 沼 の 鴛 鴦

 

 此話し著聞集に陸奥の赤沼と有るが、沙石集には下野の阿曾沼で有つた事として居る。是等よりも古く書かれた今昔物語には、京都の美々度呂池で雄鴨を射殺して持歸ると、雌鴨が慕ひ來りしを見付けて其人出家した記事有りて、鳥が歌詠んだ由は更に見えぬ。支那にも元魏の顯宗が鴛鴦の雄を獲しに雌が悲鳴して去ざるを見、鷹を飼ふを禁じたと云ふ(淵濫類凾[やぶちゃん注:ママ。「淵鑑類函」が正しい。誤植であろう。]四二六)。琅琊代醉篇三八に、明の成化六年十月淮安の漁人鴛鴦の雄を烹るに雌戀々飛鳴し沸湯中に投死す、漁入其意を悲しみ、羹を捨てゝ食はず、人之れを烈鴛といふと、双槐歲抄から引いて其著考の詠んだ詩をも出し居る。欧洲でも似た譚有り。十七世紀の初め頃、英國ヰンゾル邊の天鵝、其雌が他の雄と狎れ親しむを見、先づ姦夫を追ひ尋ねて、之れを殺し、還つて又其雌を殺したとハズリットのフェース・エンド・フォークロール二卷五七六頁に出づ。

(大正八、四、一、日本及日本人、七五三)

[やぶちゃん注:この話、「小泉八雲 をしどり (田部隆次訳) 附・原拠及び類話二種」(八雲が原拠としたのは、「古今著聞集」に載るもの)で、詳細なオリジナル注を附してあり、そこで「古今著聞集」だけでなく、「今昔物語集」・「沙石集」の当該類話も完全電子化してあるので、是非、見られたい。

「淵鑑類函」清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)。全四百五十巻。一七一〇年成立。南方熊楠御用達の書。当該部は「漢籍リポジトリ」のこちらのページのガイド・ナンバー[431-30a]から[431-31b]までで、テクスト化されてあり、原影印本も視認出来る。

「琅琊代醉篇」明の張鼎思(ていし)が、さまざまな漢籍から文章を集めて編纂した類書(百科事典)。一五九七年序。全四十巻。延宝三(一六七五)年に和刻され、曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」(文化一一(一八一四)年初編刊)を始め、複数の浮世草子等が素材として利用している。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで版本の当該部「貞燕烈鴛」が、ここと、ここと、ここで視認出来る。

「成化六年」一四七〇年。

「ヰンゾル」“Windsor”。ウィンザー。ロンドンのすぐ西側のイングランド南東部に位置する、テムズ川沿いの町。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「天鵝」(てんが)はハクチョウの異名。

「ハズリットのフェース・エンド・フォークロール」イギリスの弁護士・書誌学者・作家ウィリアム・カルー・ハズリット(William Carew Hazlitt 一八三四年~一九一三年)著の‘ Faiths and Folklore(「信仰と民俗学」)。「Internet archive」のこちらで、同原本の当該部が視認出来る。左パートの十七行目からの段落である。

ブログ・アクセス2,130,000突破記念 柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 始動 / 表紙・扉・「はじめに」・「新年」

[やぶちゃん注:私は既にブログ・カテゴり「柴田宵曲」「柴田宵曲Ⅱ」に於いて、「妖異博物館」・「續妖異博物館」、及び、一九九九年岩波文庫刊小出昌洋編「新編 俳諧博物誌」を加工データとして「俳諧博物誌」(若干の別作品を含む)を、更に「子規居士」・「俳諧随筆 蕉門の人々」、そして、先般、完遂した「随筆辞典 奇談異聞篇」を電子化注している。而して、本日より、私が活字本として所持する最後の本書を参考に「柴田宵曲Ⅱ」にて電子化注を開始する。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの保護期間満了の昭和一八(一九三三)年七丈書院刊(正字正仮名版)を使用する。但し、加工データとして所持する新字・新仮名(句や古文の引用では正仮名。但し、ルビは句や古文でも新仮名である)版の岩波文庫「古句を観る」(一九八四年刊)をOCRで読み込んだものを使用した。ここに岩波書店に御礼申し上げる。以上の通り、底本は書籍全体がパブりック・ドメインであるので、画像をダウンロードし、トりミングして配した。

 句については、底本では、四字下げで、さらに字間が有意に空いているが(全篇で主要の俳句が同じ形で並ぶようにするため)、これでは、ブラウザの不具合が生じるため、無視して三字下げで、後は詰めた。作者名もその下に三字弱空けで、やはり字間が二字空いているが、句の下一字空けで字空けなしで配した。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字にした。注については、適当と思う箇所に挿入した。但し、本書に採句された元禄期前後の俳人は、生没年や事績の不明な人物も多く、宵曲自身もそうしたデータを本文に示していないので、基本的にはそれらの事績注は附さないこととする。但し、一応は調べて、判る事績がある俳人については、注することとし、不詳注は附さない。一度、注した俳人事績は繰り返さないので、順に読まれんことを望む。お人よしに、いちいち、既出既注を示すほどには、私の精神状態は多忙のため、回復してはいないからである。また、今までのように、私が判っているものも含め、何でもかんでも注することは、労多くして、私の益には全くならぬので、ストイックに注は選ぶ。

 因みに、本プロジェクトは、昨日三月二十八日深夜に、二〇〇六年五月十八日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の二〇〇五年七月六日)、本ブログが2,130,000アクセスを突破した記念として、また、先日、父が亡くなったことによる禁欲的な電子化注に踏ん切りをつけるために、公開するものである。【二〇二四年三月二十九日 藪野直史】]

 

 

Kokuwomiruhyousi

 

 古句を觀る

 

[やぶちゃん注:表紙。底本の画像。トウモロコシ中央に左右に別な草を描く。右の草の根に「淳」のサインがある。次の「扉」に示された通り、主に児童向けの絵を描いた画家鈴木淳(じゅん 明治二五(一八九二)年~昭和三三(一九五八)年:パブりック・ドメイン)の手になるものである。彼の事績は襟裳屋氏のブログ「襟裳屋Ameba館」の「鈴木淳」に詳しいので、参照されたい。]

 

 

Kokuwomirutobira

 

          柴 田 宵 曲 著

 古句を觀る

          鈴 木  淳  繪

 

[やぶちゃん注:。底本の画像。著者名と画家名は書名の真下に左右に配されてある。]

 

 

     は じ め に

 

 ケーベル博士の常に心を去らなかつた著作上の仕事は「文學における、特に哲學における看過されたる者及忘れられたる考」であつたといふ。この問題は一たびこれを讀んで以來、又吾々の心頭を離れぬものとなつてゐる。世に持囃される者、廣く人に知られたものばかりが、見るべき内容を有するのではない。各方面における看過されたる者、忘れられたる者の中から、眞に價値あるものを發見することは、多くの人々によつて常に企てられなければならぬ仕事の一であらうと思はれる。

 古句を說き、古俳人を論ずる傾向は、今の世に於て決して乏しとせぬ。見方によつては過去のあらゆる時代より盛であると云へるかも知れない。たゞ吾々がひそかに遺憾とするのは、多くの場合それが有名な人の作品に限られて、有名ならざる人の作品は閑却され勝だといふ點である。一の撰集が材料として取上げられるに當つては、その中に含まれた有名ならざる作家に及ばぬことも無いけれども、そういう撰集を單位にして見れば、これもまた有名な集の引合に出されることが多く、有名ならざる俳書は依然として下積になつている。有名な作家、有名な作家、有名な俳書に佳句が多いということは、常識的に一應尤な話ではあるが、その故を以て爾餘の作家乃至俳書を看過するのは、どう考へても道に忠なる所以ではない。

 芭蕉を中心とした元祿の盛時は、その身邊に才俊を集め得たのみならず、遠く邊陬の地にまで多くの作家を輩出せしめた。本書はその元祿期(元祿年間ではない)に成つた俳書の中から、なるべく有名でない作家の、あまり有名でない句を取上げて見ようとしたものである。勿論有名とか、有名でないとかいうのも比較的の話で、中には相當人に知られた作家の句も混つてゐるが、その場合は人口に膾炙した、有名な句をつとめて避けることにした。比較的有名ならざる作家の、比較的有名ならざる俳句の中にどんなものがあるか、それは本書に擧げる實例が明に示す筈である。

 吾々は沙の中から金を搜すやうなつもりで、閑却された名句を拾ひ出さうといふのではない。自分一個のおぼつかない標準によつて、妄に古句の價値を判定してかゝるよりも、もう少し廣い意味から古句に注意を拂ひたいのである。從つて本書に記すところも、所謂硏究とか、鑑賞とかいふことでなしに吾々のおぼえ書に類することが多いかも知れない。吾々は標題の通り「古句を觀る」のである。若しその觀た結果がつまらなければ觀る者の頭がつまらない爲で、古句がつまらないわけでは決してない。

  昭和十八年八月十日

                     著  者

 

[やぶちゃん注:自序。底本のここから。

「ケーベル博士」ドイツの哲学者ラファエル・フォン・ケーベル(Raphael von Koeber 一八四八年~一九二三年)。ドイツ系ロシア人の高級官僚の子として帝政ロシアの古都ニジニー・ノブゴロド(現在のゴーりキー市)に生まれる。一八六七年、「モスクワ音楽院」に入学、ピアノをニコライ・ルビンシュテイン(Nikolai Grigoryevich Rubinstein 一八三五年~一八八一年:当該ウィキを参照されたい)に習った。一八七二年、優秀な成績で同音楽院を卒業したが、生来の内気な性格から音楽家としてたつことを断念して、翌一八七三年、ドイツに留学、「イエナ大学」・「ハイデルベルク大学」で哲学・文学を専攻した。一八八〇年、F・シェリングの人間的自由に関する論文で学位を得、一八八四年に「ハルトマンの哲学体系」、一八八八年には「ショーペンハウエルの哲学」を出版した。一八九三年(明治二十六年)、「帝国大学文科大学」(後の「東京帝国大学」文学部)の哲学教師として来日し、哲学概論・ギりシア哲学・中世及び近世哲学史・キりスト教史、及び、カントやヘーゲルに関する特殊講義といった哲学科目と、西洋古典語・ドイツ語・ドイツ文学をも講義した。その間、「東京音楽学校」でピアノの教授も行っている。二十一年間の「東京帝国大学」在職中、ケーベルは賜暇帰国などで講義を中断することもなく、文字通り、一身を講義と学生指導に捧げた。大正三(一九一四)年、教壇を去ってドイツへ帰国しようとしたが、「第一次世界大戦」のため、帰国不可能となり、横浜の友人宅に九年間。寄寓したまま、同所で逝去した。芸術家の感性と資質に満ちたケーベルは、同時に哲学教師としてギりシア的自由の精神とキりスト教的敬虔の体現者として、彼の講筵に連なった波多野精一・和辻哲郎ら、多くの学生に深い感銘を与えた(以上は小学館「日本大百科全書」に主文を拠った。当該ウィキも見られたい)。

「邊陬」「へんすう」と読み、「国の果て・辺境・僻地・田舎」の意。「邊垂・邊陲」(へんすい)とも言う。]

 

 

   目   次

新年

 

[やぶちゃん注:目次。五つの季は、全体が、外が太い二重罫線に囲われてあり、季の間は縦傍線である。底本のここ。各項の下方のノンブルは省略した。]

 

 

              新   年

 

[やぶちゃん注:季標題。見開きの左ぺージ

 以下は以上の標題の裏、見開きの右ページにある前書。]

 

 順序上新年の句を最初に置くことにする。今の新年は冬の中に介在してゐるが、昔の新年は春の中に在つた。從つてその空氣なり、背景なりには、大分今と異つたものがある。古人も俳書を編むに當り、あるいは歲旦を獨立せしめ、或は春の部に混在せしめるといふ風で、必ずしも一樣の扱方をしてゐない。廣い意味で春に包含すると見れば差支無いやうなものの、藤や山吹と前後して正月の句を說くのは、感じの上に於てそぐはぬところがある。乃ちこれを獨立地帶として、歲旦といふ特別な氣分の下に生れた句を一括する所以である。

 

[やぶちゃん注:以下、本文となる。]

 

 

   正月はどこまでわせた小松賣 圓解

 

「どこまでわせた」は、正月はどこまで來たか、と云つて小松賣に尋ねる意であらう。正月といふものに對して次第に無關心になりつゝあるわれわれも、この句を讀むといろいろなことを思ひ出す。

[やぶちゃん注:「わせ」「座(わ)す」(いらっしゃる・おいでになる。「あり」「来(く)」の尊敬語)自動詞サ行下二段活用の連用形に、既に当時の過去の助動詞「き」の口語「た」がついたもの。]

 京傳の黃表紙に子供の唄として「正月がござつた。かんだまでござつた。ゆづりはにこしをかけて、ゆづりゆづりござつた」といふのが引いてある。泉鏡花氏の書いたものによると、「正月はどうこまで、からから山の下(しいた)まで……」といふ童謠を「故鄕の兒等は皆師走に入つて、半頃から吟ずる」と書いてあつた。各地方にそれぞれ同じ意味の唄が、少しづつ言葉が違つて傳へられてゐるのであろう。「どこまでわせた」もさういふ文句を蹈へたものに相違ない。

[やぶちゃん注:泉鏡花のこの唄は、一幕物の怪奇幻想戯曲「多神敎」(初出は『文藝春秋』昭和二(一九二七)年三月)の初めの方に出る「女兒三」の台詞内にある。但し、そこでは(所持する岩波書店の旧『鏡花全集』巻二十六に拠った)、

   *

「お正月(しやうぐわつ)は何處(どこ)どこまで、

 からから山(やま)の下(した)まで、

 土産(みやげ)は何(なん)ぢや。

 榧(かや)や、勝栗(かちぐり)、蜜柑(みかん)、柑子(かうじ)、橘(たちばな)。」……

   *

で、「下」には、「しいた」とは、なっていない。初出に拠っものか。]

 正月を擬人した句は他にいくらもある。一茶の「今春が來た樣子なり煙草盆」などは、最も人間的に扱つた例として知られてゐるが、それより前に「正月が來たか畠に下駄の跡」といふ誰かの句があつた。圓解の句はこの二句ほど氣が利いてゐないかも知れない。併しかう三句竝べて見ると、一番鷹揚で上品な趣に富んでゐる。

 

   元朝やにこめく老のたて鏡 松葉

 

「にこめく」といふ言葉はあまり耳慣れぬやうであるが、漢字を當てるとすれば「和」の字であらうか。「物堅き老の化粧やころもがへ」といふ太祇の句ほど面倒なものではない。元朝を迎へた老人が、にこやかに鏡に對してゐるところである。

[やぶちゃん注:「元朝」は「ぐわんてう」で「元日の朝」の意。]

 

   蓬萊や日のさしかゝる枕もと 釣壺

 

 めでたい句である。朝目のはなやかにさしたる、とでも形容すべきところであらう。晏起の主人はまだ牀中にあつて、天下の春を領してゐるやうな氣がする。

 新年の句のめでたいのは何も不思議は無いが、かういふ巧まざるめでたさを捉へたものは却つて少い。「さしかゝる」といふ言葉も、蓬萊を飾つた枕許だけに、頗る氣が利いてゐるやうに思ふ。

[やぶちゃん注:「釣壺」(慶安三(一六五〇)年~享保一五(一七三〇)年)は豊後国日田郡小竹村の医師で、蕉門。各務支考と犬猿の仲で、晩年は志太野坡の門に入っていたか、とする(大内初夫氏の論文「朱拙・釣壼の歿年について」PDF)を参照した)。]

 

   萬歲のゑぼしをはしる霰かな   胡 布

 

 この句の趣は今の正月としても味はゝれる。萬歲の被つた烏帽子を霰がたばしるといふのは、寂しいながら正月らしい趣である。春の正月と、冬の正月とによつて、感じに變化を生ずるほどのものではない。

「ものゝふの矢なみつくろふ小手の上に霰たばしる那須の篠原」という實朝の歌は、殆ど森嚴に近いやうな霰の趣である。芭蕉は身に親しく霰を受けて「いかめしき音や霰の檜木笠」と詠んだ。萬歲の鳥帽子にたばしる霰は、さういふいかめしい性質のものではない。もつと輕快な、さらさらとした霰である。

[やぶちゃん注:「ものゝふの矢なみつくろふ小手の上に霰たばしる那須の篠原」「金槐和歌集」の「卷之上 冬部」に「霰」と前書する一首(三四八番)。

「いかめしき音や霰の檜木笠」貞亨元(一六八四)年作。「野ざらし紀行」の途次の詠で、自画讃が残る。]

 

   犢鼻褌を腮にはさむや著そ始 汶 村

 著衣始といふのは年頭に衣を著初るの意、三ケ日のうち吉日を選ぶとある。この句は讀んだまでのもので、格別說明を要するところは無い。著衣始の句としてはむしろ品格の乏しい方に屬するが、吾々は別個の興味から看過し難いのである。

『浮世風呂』の中であつたか、犢鼻褌を腮でしめた時分の話だ、といふやうな意味のことがあつた。川柳子もこの說明に都合のいゝやうに「古風なる男犢鼻褌面でしめ」「元祿の生れ犢鼻褌腮でしめ」と二通りの句を殘している。汶村の句は正德二年の『正風彥根躰』に出ているのだから、さういふ人間がまだ古風扱を受けるに至らぬ、現役の時代である。川柳の方は時代の推移を知るに便宜な爲、屢〻人の引くところとなつてゐるけれども、汶村の句は從來あまり問題になつてゐない。眼前瑣末のスケツチに過ぎぬ著衣始の句も、かうなると慥に風俗資料に入るべき價値がある。

[やぶちゃん注:「腮」「あご」。

「汶村」(ぶんそん ?~正徳二(一七一二)年)。近江彦根藩士で、姓は松井或いは松居。別号に九華亭・野蓼斎。蕉門の森川許六(きょりく)に俳諧・画を学んだ。

「着衣始」「きそはじめ」と読む。

「正德二年」一七一二年。]

 

   戶をさして樞の内や羽子の音 毛 紈

 

 正月――少くとも松の内位の間、夜早くから店をしめて、人通りもあまり無いのは、以前も同じことであるが、點燈夫がつけて步く軒ラムプの時代には、とてもその光で羽子をつくことは出來なかつた。軒ラムプが電燈に變つてからも、はじめのうちはかなり暗いもので、街燈の光がその度を加へ、店鋪が内外の電燈に强烈な光を競ふやうになつたのは、まださう久しいことではない。そのため夜は店を閉ぢても外の明りで十分羽子をつくに足り、夏の郊外などでは眞夜中に蟬が鳴き蜩が鳴くやうになつた。かういふ燈火の作用は明治時代の人の想像も及ばぬところであろう。

 毛紈のこの句は風の强い日などであるか、戶をしめた樞の内から羽子の音が聞える、といふ變つた場合を見つけたのである。今なら廣い土間か何かに光の强い電燈をつけて、夜でも羽子をつき得るわけであるが、元祿時代の燈火ではそんなことを望むべくもない。たゞさういふ風の當らぬ別天地に、頻に羽子をつく音が聞える。そこに作者は興味を持つたらしい。羽子の句としては珍しいものである。この珍しさは夜間街燈に追羽子を見得るやうになつた現代と雖も、依然これを感ずることが出來る。

[やぶちゃん注:「毛紈」(もうがん ?~元文三(一七三八)年)本名は喜多山十蔵正矩。百五十石取りの彦根藩士。許六門。蕉門きっての画才の持ち主として知られる。

「そのため夜は店を閉ぢても外の明りで十分羽子をつくに足り、夏の郊外などでは眞夜中に蟬が鳴き蜩が鳴くやうになつた。かういふ燈火の作用は明治時代の人の想像も及ばぬところであろう」この「蟬」・「蜩」が夜間に鳴く理由は間違いではないが、不全である。セミが夜間に鳴くのは、「明るさ」と「一定の温度以上になった場合」の孰れかの条件によって発声するのである。具体的には、温度のみの場合は摂氏二十五度以上(熱帯夜)になると、鳴き出す。これは私自身が体験したから、間違いない。教員になった三年ほど、私は鎌倉市岩瀬の古いアパートに住んでいた(既に現存しない。ポットン便所に雨水が入り、甚だ悩ましいかったことが今も忘れられない)が、アパートの後ろは所謂、「谷戸」の奥で、土地の富豪の古い屋敷になっていた(ここ。グーグル・マップ・データ航空写真。冠木門で、嘗つては、時代劇の撮影に来たと下宿の美しい奥方が言っていた)。そこには、丁度、私の部屋の向かいのその屋敷の庭に、壮大な栗林と大きな池があった(リンク先で見たら、これらも現存しない。その池から巨大なヒキガエルが多量に発生し、道に何十匹も這い出て、夜、自転車で泥の塊りと勘違いして轢き、「ゲッツ!」と鳴かれて驚き、キビが悪かったのも記憶に鮮明である)。最初の年の夏の午後一時頃、甚だ寝苦しい日だったが(無論、クーラーなぞ、ない。二つあった窓(台所の高窓と部屋のそれ)を開けっぱなしにしていた。私は現在の自宅にエアコンを入れたのは、実に九年前の夏である。連れ合いは体温が低い性質(たち)でクーラー嫌いであったからで、私もクーラーが欲しいとも思わなかったのだが、パソコンに悪影響が出ると友人に言われて、つけた)、突然、シンバルを鳴らすように、大きな音が聴こえてきて、跳び起きた。外に出てみると――その栗林でミンミンゼミの群れが一斉に鳴いていたのであった。その数は数百であろうと感じられた。何せ、「ミン、ミン、ミーン」の読点と長音符部分に他の個体の鳴き声が多重的に入り込んでいて、「ビッツーーーーーー!」という怪音にしか聴こえなかったのである。二年後、顧問をしていたワンダーフォーゲル部の親しくしていた卒業生が泊りに来たときも、彼はその怪音に「なんじゃッツ!!!」と叫びつつ、見事に跳ね起きたのを思い出す。]

 

   蠟燭に帶のあふちや著そはじめ 魚珞

 

 この蠟燭は夜でなしに、朝非常に早い室内の燭ではないかと思ふ。衣を更へ、帶を結ぶに當つて、そこにかすかな風が起る。その風によつてしづかな燭の火がゆらぐといふのである。「あふち」といふ語は煽りと同意であらう。

 纖細な見つけどころの句で、燭の火に衣を改める人の面影が髣髴として浮んで來るやうな氣がする。同じく衣を改めることを詠じながら、夏の更衣と全然別の趣を捉へてゐるのを多としなければならぬ。

 

   萬歲の春をさし出す扇かな 子 直

 

 萬歲のさし出す扇から春が生れるやうに感ずる、といふよりも更に進んで、萬歲が扇によつて春そのものを差出す、と見たのである。かういふ云ひ現し方は今の句とは大分異つた點があるやうに思ふ。

「今朝春の小槌を出たり四方の人 存義」という句と全然同じ行き方ではないが、新春そのものを包括して、或形の下に現したのが、この種の句の特色をなしてゐる。

[やぶちゃん注:「存義」馬場存義(ぞんぎ 元禄一六(一七〇三)年~天明二(一七八二)年)は江戸生まれ。二代前田青峨に学び、享保十九年、俳諧宗匠となり、門下を率いて「江戸座」の代表的点者として活躍した。与謝蕪村とも交友があった。]

 

   七くさやそこに有あふ板のきれ 吏 全

 

 七種の薺をたたく行事は、今でもところによつては行はれてゐるのであらうか。かういふ行事のあつた時代は、それだけ正月の賑かさを添へたことと思ふが、師走の餅搗の音でさへ、動力機械に壓倒された今日、さういふことを望む方が無理であらう。

 古人の七種の句を通覽すると、多くは薺をたゝく拍子が問題になつてゐる。「七種や明ぬに聟のまくらもと」という其角の句も、今日だつたらどういふ解釋になるかわからぬが、夜の明けないうちから聟の枕許で、わざとトントンやるのが主眼らしく思はれる。各人各戶に拍子を取つてやつたものとすれば、蒲鉾屋や經師屋の音から類推することはむづかしさうである。 

   七草や拍子こたへて竹ばやし り ん 

といふやうな閑寂な世界もある。

 [やぶちゃん注:「七種の薺をたたく行事」「七種叩き」(ななくさたたき)。七種の節句の前夜又は当日の朝、俎板の上に「春の七草」を載せ、「ななくさなずな、唐土(とうど)の鳥が日本の土地へ渡らぬさきに、ストトントンとたたきなせえ」などと、囃しながら包丁や擂り粉木などで叩くこと。「七草囃子」とも言う。私は、ごく最近、尼さんが、それをやっている映像を見た。

「りん」蕉門女流俳人。蕉門の筑前秋月の医師遠山柳山の妻。]

 

   七種のついでにたゝく鳥の骨 薄 月

 

といふやうな、餘興だか、實用だかわからぬこともあつたのであらう。幾人も寄つてたゝく中には、自らたたき馴れた先達があつて、先ず範を示してかうやれと云ふ。その結果は、

 

   七種の手本にも似ぬ拍子かな 車 要

 

ということになつて、新に笑を催すこともあつたらしい。かういふいろいろな句によつて、その賑かさを想像するより外は無いことを考へると、吾々の次の時代には餅搗の趣を解することがだんだん困難になるのも、またやむをえぬ順序になつて來る。

[やぶちゃん注:「車要」潮江車要(しおえしゃよう 生没年未詳)は本名潮江長兵衛。裕福な町人であったらしい。大坂蕉門の一人で、芭蕉の晩年の句「おもしろき秋の朝寢や亭主ぶり」は、元禄七年九月二十一日、車要亭で開催された句会の翌朝の朝寝坊を詠んだもの。また、その句会では「秋の夜を打ち崩したる咄かな」と詠んでいる。それより有名な芭蕉の句、私の「秋の夜を打崩したる咄かな」を詠んだのも、彼の邸宅である。]

 薺を打つ板は元來きまつたものがあつたのであらうが、大勢の手に行渡るほどは無いので、そこらにあり合せの板切でたたいてゐる、といふのが吏全の句意である。かういふ先生は單に員[やぶちゃん注:「かず」と読んでおく。]に備るだけで、手本に似ぬ拍子をやる仲間だらうと思ふが、それが又却つて一座を賑かにするのであらう。

 物の足らぬ勝な家で、薺をたゝくにもあり合せの板切ですまして置く、といふ簡素な趣を詠じたものと解されぬことも無い。たゞ薺打を賑やかなものとして考へると、及ばずながら板切を取つて加はる方が、新春の趣にふさはしいやうな氣もするのである。事實を知らぬ者の想像だから、これも間違つてゐるかも知れない。

 

   君が代をかざれ橙二萬籠 舟 泉

 

 橙は御飾に用ゐられるので、歲旦の季題になつてゐる。作者は現實に二萬籠といふ橙を眼に浮べてゐるわけではない。君が代の春を飾るべき多くの橙といふことを現す爲に、極めて漠然たる數字を持出したのである。二萬と限つたのも恐らくは調子の關係から來たので、中七字であつたら更に他の數詞に替えたかも知れぬ。算術の問題ならば、一籠いくつとして總計どの位になるかと云ふところであるが、「李白一斗詩百篇」や「白髮三千丈」の國でないだけに、大きく見せた二萬といふ言葉も、それほど驚くべき感じを與へないやうに思ふ。

 西鶴の『胸算用』に橙のはずれ年があつて、一つ四五分づつの賣買であつた爲、九年母を代用品にして埒を明けた、といふ話が出てゐる。これを二萬籠の方に持込めば、又一つ數學の問題が殖えるわけであるが、それは吾々の領分ではない。二萬籠の檀の量は、常人の想像以上に屬する。この數字は文學的形容として、なるべく輕く見なければならぬが、元祿の句としては稍〻奇道を行くものといふべきであらう。

[やぶちゃん注:「舟泉」永田舟泉(ながたしゅうせん 元禄一四(一七〇一)年~元文二(一七三七)年)は尾張名古屋の人。三河挙母(ころも)(現在の豊田市挙母町(ころもちょう))生まれ。通称は六兵衛。貞亨四(一六八七)年に蕉門に入った。「あら野」・「曠野後集」などに入句している。]

 

   わか水やよべより井桁越せる音 孚 先

 

 年立つ朝の水はどこでも若水とへえるが、この井戶はまた格別である。溢れやまぬ水は絕えず井桁を越して外へ落ちる。持越した去年の水は溢れ盡して、眞に新なる水ばかりを湛へてゐるやうな氣がする。

 井は水の豐なるよりめでたきはない。井桁をこぼれる水の上に、しづかに元朝の光のゆらぐ樣を思へば、自ら爽快の感を禁じ得ぬものがある。

 

  廊に蓬萊重きあゆみかな 友 靜

 

「廊」は「ワタドノ」或は「ホソドノ」とでも讀むのであらうか。蓬萊と云へば飾つてあるところの句が多いのに、これは運ぶ揚合であるのが珍しく思はれる。蓬萊を大事に捧げて、長い廊下をしづしづと步く人の姿が眼に浮んで來る。「蓬萊重きあゆみ」というだけで、運ぶ樣子を髣髴せしめるのは、技巧といふよりも寧ろ眞實の力であらう。

[やぶちゃん注:「友靜」井狩友静(生没年未詳)は京生まれで、芭蕉の師北村季吟の門人。通称は二郎兵衛。後に菅野谷高政(すがのやたかまさ)の門人ともなった。]

 

     八  日

   薺粥またたかせけり二日醉 洗 古

 

 七種の日に飮み過ぎて、宿醒未ださめやらぬ結果、薺粥をもう一度炊くことを家人に命じた、といふのである。七日のものときまつてゐる薺粥を、翌日にまた炊かせたといふところに、破格というのも少し大袈裟であるが、一種の面白味がある。

 かつて西鶴輪講の時、『一代男』の「衞士の燒火は薄鍋に燃て、ざつと水雜水をとこのみしは、下戶のしらぬ事成べし」といふのが問題になつて、いろいろ說の出たことがあつた。三馬は『式亭雜記』の中で「世にいふ水雜炊は湯澤山の菜粥にて雜炊の名むなし」といつて、味噌入雜炊の作り方を述べてゐるが、山﨑樂堂氏はこれに對して、酒後の腹直しには味噌氣の無い、鹽味一つの淡泊なのが最もいゝ、と云はれた。水雜炊と薺粥とを一緖にするのは少し妙だけれども、この筆法を以てすれば、薺粥にも似たやうな效能があるのかも知れぬ。盃中の趣を解せぬ吾々は宿醉の對策も亦不案内である。酒徒の示敎を俟つより外は無い。

 

   七種や茶漬に直す家ならひ 朱 拙

 

 この句も七種の句としては破格の部であろう。薺粥といふものがあまり口に合はないので、その後で茶漬を食ふの意かと想像する。「直す」といふのが十分にわからぬが、「口直し」などとといふ言葉もあるから、便宜上さう解して見たのである。儀式的に薺粥を食べて、あとは直ぐさつぱりした茶漬にする。嗜好から出發した家例で、每年それを繰返すといふのではなからうか。

 或は七種の粥を全然やめてしまつて、茶漬を食ふ家例に改めたといふ「直す」かとも思ふが、それではどこか落著かぬやうである。宿醉の爲に翌日再版を發行する人もあれば、當日のきまりすら略して茶漬にする人もある。一の薺粥について反對の傾向の窺はれるのが面白い。

[やぶちゃん注:「朱拙」坂本朱拙(明暦二(一六五六)年~享保一八(一七三三)年)。蕉門。]

 

   家々の懷ふかし松かざり 舟 泉

 

「懷」といつたのは作者の働きで、奧深い家の樣であろう。さういふ家がいくつも竝んでいるところらしい。奧深い家の門に松飾が立ててある樣とも、松飾もまた道路から引込んだあたりに立ててある樣とも解せられるが、先づ前の解に從ふべきものかと思ふ。大した句ではないが、松飾の或趣は現れてゐる。

 

   あら玉の文の返事やちらし書 方橋妻

 

 年始狀も印刷の端書と相場がきまつてしまふと甚だ殺風景である。以前には繪端書が大分あつて、その色彩だけでも春らしいものを感じさせたが、近年はそれも少くなつてしまつた。

 この句は元祿だから、勿論年賀端書などではない。作者が婦人である以上、返事をよこす人も婦人であろう。細くめでたい筆蹟で、散らし書に書いてある。いづれきまりきつた文句ではあらうが、何となくゆかしい感じがする。假名の稽古に疎い吾々の世界では、散らし書の文などはちょつと望むべくもない。

「あら玉」と云つただけで、直に新年の意味になる。必ずしも「新玉」という字を當てるからではない。枕詞などといふ約束を飛び踰えて、自由に活動するのは俳譜得意のところである。

 

   蓬萊に飾りならべん米俵 道 賢

 

 北枝が「元日や疊の上に米だはら」といふ句を詠んだ時、芭蕉は「さてさて感心不斜、神代のこともおもはるゝと云ける句の下にたゝん事かたく候、神代の句は守武神主身分相應に情の奇なる處御座候、俵は其元相應に姿の妙なる處有之候、別而歲旦歲暮不相應なるは名句にても感慨なきものに候、今天下第一の歲旦なるべしと京大津の作者も致稱美候」という手紙を送つて賞めた。疊の上の米俵は慥にめでたい感じがする。作者の境涯より生れたとすれば尙更であらう。

 道賢の句は北枝のと違つて、現在疊の上に米俵が置いてあるわけではない。この飾つてある蓬萊の側に米俵を置き竝べよう、といつたのである。別にいゝ句でもないが、何となく豐な感じがする。「蓬萊の山まつりせん老の春」といふ蕪村の句より、却つて親しく感ぜられるのは、やはり身分相應な爲かも知れない。

 

   山出しの町馴にけり門の松 釣 玄

 

「山出し」といふ言葉は、今では人間のことになつてしまつたが、元來は材木に使はれた言葉だといふ說を、どこかで聞いたおぼえがある。山から出したまゝの材木でも、町へ持つて來るには大分手數をかけなければ々らぬが、門松からば人工を要せぬ。全く山出しのまゝで直ぐ使用出來る。

 山から持つて來た松の木が、門に立てると町馴れた樣子に見える、といふだけのことらしい。山出しの人間が都會馴れて來た、という事實が引かけてあつたりすると、擬人的色彩が强くなるが、それは「山出し」を人間とのみ心得た現在の吾々の考かも知れない。

 句としてはつまらないけれども、「山出し」といふ言葉を考へる上には、一顧の價値なしとせぬであらう。

 

   遣羽子や子供に似せて親の前 定 依

 

 「老父を慰て」といふ前書がついている。さういふ意識の下に羽子をついて見せた、といふことになるらしい。

 ツネといふ婦人の句に「羽子をつく童部心に替りたし」といふのがある。昔の世の中ではなお更のことであらう。羽子板を手にしたところで、嬉々として遊ぶ子供に返ることは出來ない、あゝいふ心持に今一度なつて見たいといふのは人情であるが、定依の句は老父を慰める爲に、わざと子供のやうに羽子をついて見せるのである。「子供に似せて」といふところに、どうしても子供になりきれぬ氣持が窺はれる。

 羽子をついて老父を慰めるといふのは、愚に返つた老人を喜ばすだけの事か、更に何か意味があるのか、十分にわからない。例の老萊子をはじめ、孝子譚にはよく出る話であるが、孝の一點からのみこの句を見るのは不贊成である。

[やぶちゃん注:「老萊子」「らうらいし」と読む。生没年未詳の春秋時代の楚の賢人。世を避けて隠棲し、楚王の招きにも応じなかった。親に孝を尽くし、七十歳で、なお、五色の模様のある衣を着、嬰児の仕草(しぐさ)をして、親に歳を忘れさせ、喜ばせたとされる。]

 

   御代の春蟇も秀歌を仕れ 鷺 水

 

「いづれか歌をよまざりける」と古今集の序に書かれて以來、蛙に歌はつき物になつた。宗鑑の「手をついて歌申上る蛙かな」などといふ句も、蛙の樣子を擬人しただけのやうで、やはりちやんと古今集の序が利かせてあるから妙である。但同じ蛙の仲間でも蟇となると、風采が風采だけに、古來あまり歌よみの方には編入されてゐないらしい。この句はそこを覘つた[やぶちゃん注:「ねらつた」。]ので、歌を得[やぶちゃん注:思うに、これは呼応の不可能の副詞「え」への当て字であろうと推定する。]詠むまじき蟇も秀歌を仕れ、といつたのである。そこに俳諧一流の轉化がある。昔の新年は今と違ふにしたところで、蟇がのそのそ步くにはまだ寒過ぎるが、「御代の春」に蟇を持出したのは、一の奇想たるを失はぬ。

 

   元日や一の祕藏の無分別 木 因

 

 妙な句を持出した。

『本朝文鑑』の中に「影法師對」という文章があつて、冒頭に「老の暮鏡の中に又ひとり」の句を置き、最後をこの句で結んである。歲暮にはじまり元旦で終るので、囘文格だなどと支考は理窟を云つてゐるが、俳文の格などはどうでもいゝ。「影法師對」の内容は近頃の人も時々やる形影問答である。「白髮を淸めて元日を待所に、汝何人なれば我が白櫻下に來り、我と對して座せるや」というに筆を起して、此方が何か云ふと、向うも何か云ふ。「我いかれば彼いかり、我笑へば彼笑ふ。此公事は漢の棠陰比事にも見えず、倭の板倉殿の捌にも聞えず。爰に我ひとつの發明あり。實に我紋は左巴なり、汝が著せしは右巴なりといはれて、終に此論みてたり」――左巴と右巴で埒が明くなどは、形影問答としても簡單過ぎるやうであるが、作者は更に數行を加へてゐる。卽ち「我また我心を責て曰、一論に勝ほこりて、是を智なりと思へるや。その所詮を見るに、たゞ唇に骨をらせ、意識をあからせたるまで也。いでや隱士の境界は世間の理屈を外に置て、内に無盡の寶あり、その寶は」とあつて「元日や」の句があるのである。

 この句を解するのに、右の形影問答はそれほど必要とも思はれぬが、「世間の理屈を外に置て、内に無盡の寶あり」の一句は頗る注目に値する。こゝに云ふ「無分別」は今の所謂無分別ではない。濱田珍碩が洒落堂の戒旛[やぶちゃん注:「かいへん/かいばん」は身の戒めとする文を書いてある旗、又は、幟(のぼり)」で「戒幡」とも書く。]に「分別の門内に入るをゆるさず」と書いたのと同じ意味である。風雅の骨髓は世間の理窟の外にある。今の無分別と紛れぬやうに言ひ換へれば、分別を離れたところに風雅の天地がある、といふことになるのであらう。木因はこの無分別を以て「無盡の寶」とし、句に於ても「一の祕藏の無分別」と繰返してゐる。元日の朝だけ分別を離れてゐるのなら格別のことも無い。平生この心を一の祕藏としてゐることを、今更の如く元日に當つて省るのである。吾々も木因のこの寶に敬意を表せざるを得ない。

[やぶちゃん注:「木因」谷木因(たにぼくいん 正保三(一六四六)年~享保一〇(一七二五)年)芭蕉の友人で俳人。美濃国生まれ。家は、代々、大垣の船問屋であった。初め、芭蕉の師季吟に学び、貞門・談林を経て、蕉門に帰し、大垣蕉門の中心となって活躍した。]

 

   三方の海老の赤みや初日影 昌 房

 

 三方の上に飾つてある海老の赤い色に、うらうらと初日の影がさして來る、といふ風に限定して考えないでも、初日の光がさし上るといふことと、三方の上の海老の赤いのとを、新春の景象として受取ればいゝのである。ありふれた材料ではあるが、そのありふれたところに又新年らしい感じがある。たゞ「赤み」といふ言葉は、普通にはもう少し色彩の薄い場合――少くとも海老ほど眞赤でない場合に用ゐられるものかと思ふけれども、或は吾々だけの感じかも知れぬ。

[やぶちゃん注:磯田昌房(しょうぼう 生没年不詳)。元禄二(一六八九)年に入門した膳所蕉門の一人。通称は茶屋与次兵衛。]

 

   萬歲のゑぼし取たるはなしかな   小 春

 

 萬歲同士であるか、他の人を相手に話すのか、それはいづれでも差支無い。萬歲が烏帽子を取つて話をしつゝある。衣裳はそのまゝで、鳥帽子が無いといふところが作者の興味を惹いたのである。

 特に新春らしい背景も何も描かずに、烏帽子を取つた萬歲が誰かと話してゐる、といふ變つた場合を捉へた。そこにちよつと人の意表に出た面白味がある。

 

   雜煮ぞと引おこされし旅寢かな 路 通

 

「備後の靹にて」という前書がある。旅中の氣樂さは元日といえども悠々と朝寢をしてゐる。もう御雜煮が出來ましたから御起き下さい、と云はれて漸く起出すところである。ものに拘束されぬ旅中の元日、殊に路通のような漂泊的人物の元日を如實に見るやうな氣がする。

 一茶に「船が著て候とはぐふとんかな」といふ句がある。同じやうなところを覘つたものであるが、路通の方が元日だけに、いろいろな連想が浮ぶやうである。恐らく悠々と寢過して、去年今年の分別も無いところから、宿の者が堪りかねて起しに來たものであらう。「引おこされし」の一語がよくこれを現してゐる。

 

   門松や黑き格子の一つゞき 呂 風

 

 あまり大きくない家が竝んでゐるやうなところであらう。裏町ではないかも知れぬが、道幅なども廣くない光景が目に浮ぶ。そこに在る一連の格子が黑いといふのは、固より塗つたものでもなければ、用材の關係でもない。年を經たその住ひと共に黑光を生じたので、古い方の感じが主になつているものと思ふ。從つてこの黑は漆とか、墨とかいふやうな種類の色彩ではない、もう少し感じの側[やぶちゃん注:「がは」。]に屬する黑である。

 さういふ古びた、小さい家竝が一齊に門松を立ててゐる。一陽來復の氣は自らそこに溢れているが、この句の中心をなすものは全く古びた格子である。鏝も人目を惹かぬ筈のものが、門松を配するに及んで却つて人の目につく。そこに正月があり、俳句らしい世界がある。堂々たる大きな門構でなければ、正月らしく感ぜぬ人たちは、かういふ句のめでたさとは竟に沒交涉であるかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「呂風」蕉門。安房勝山(現在の鋸南町)の人。]

 

   萬歲に蝶々とまれたびら雪 左 次

 

 昔の正月は今ほど寒くはないにしても、本當の蝶が飛出すには少々早過ぎる。この句は雪のひらひらと舞い散る樣を、蝶々に見立てたものと思はれる。「たびら雪」は雪片の大なるものだから、この見立には適當なわけである。

 萬歲が袖を飜して舞ふ。折から翻々と散るたびら雪を蝶と見て、萬歲の上にとまれと云つたのであらう。吾々の子供の時分の唱歌にも「蝶々蝶々、菜の葉にとまれ」といふのがあつたが、昔にも何かさういふ唄がありさうな氣がする。雪片そのものの形容を省いて、直に「蝶々とまれ」と云つてのけたところにこの句の特色がある。萬歲の句として一風變つたものであらう。

 

   母親や薺賣子に見えがくれ 鼠 彈

 

「はるの野をふご手にうけて行賤のたゞなとやらんものあはれ也とは慈鎭の言なり」といふ前書がついてゐるが、この句を解する上に、それほど必要なものとも思はれぬ。本によつては「薺賣子に母親や見えがくれ」ともなつてゐる。句としては「母親や」と眞先に置くよりも、「薺賣子に母親や」とした方がいゝやうであり、作者が後に改めたものかと思ふが、句意の上には格別の相違は無い。(賣子はウリコでなしにウルコと讀むのである)

 子供が正月の薺賣に出る。まだいとけない子であるか、あるいは今年はじめて賣りに出るとかいうやうな場合で、子供は一人で大丈夫だと云つて出かけたが、母親は何となく心許なく思つて、見え隱れにあとからついて行く、といふのであらう。一面母の愛といふ人情に立脚していると共に、他の一面に於て、その場限りで濟まぬものを持つてゐる。元祿期の句としては、いささか單純ならざる種類に屬する。

[やぶちゃん注:「鼠彈」(そだん 生没年未詳)尾張名古屋浄土寺の僧侶。「あら野」・「あら野後集」・「其袋」などに入句している。]

 

   藏開き順に入るゝや孫息子 夕 兆

 

 藏を持たぬ吾々に取つて、藏開という季題はあま旦父涉が無い。子供の時分には鏡餠を割つて汁粉にする日を藏開といふのだと、漫然心得ていたこともあつた。

 藏開の句は古來どの位あるか、殆ど記億に存するものが無いが、この句はまがふ方なき藏開である。いづれ富貴繁昌の大店であらう。藏開の目には一家の者を藏に入れる慣例でもあると見えて、家格の順か、年齡順かによつて順々に孫の男の子を藏へ入れる。金銀の氣が直に眉宇に迫つて來るやうな氣がするのは、必ずしも吾々が藏を持たぬ爲ばかりではあるまい。

「孫息子」といふのは、孫及息子の意味に解されぬこともないが、「孫娘」などといふ言葉の例もあるから、孫の男の子と解した方がよくはないかと思ふ。大勢の孫どもが相次いで藏に入る。大黑頭巾でも被つた隱居がにこにこしながら、それを眺めてゐる。西鶴の『永代藏』にでもありさうな、めでたい展開である。

[やぶちゃん注:「夕兆」(せきちょう)は元禄期の浪化上人の築いた井波俳壇の一人。]

 

   元日やずいと延たる木々の枝 芙 雀

 

 たゞ眼前の景色である。上天氣の元日であらう。しすかな空へ木々の枝が手をさし出すやうに、ずつとのびてゐる。別に元日らしいこともない景色のようであるが、すくよかにのびた木々の枝の感じと、希望の多い年頭の氣分との間には、何らか繫るものがあるやうに思はれる。

 昔の元日のことだから、冬の中にある今の正月と違つて、一陽來復の氣が行渡つて居り、木木の枝の伸び方にも著しく目に立つものがあるかも知れぬ。併し「ずいと延たる」は元日になつて俄に延びたのではない。已に伸びた枝に目をとめたのである。その伸びた枝に或よろこびを感ずるのは、元日の氣分が然らしめたものであるにしても、作者は特にそれを强調しようとしてゐない。そこに元祿の句らしい自然の趣がある。

 版で刷つたやうな、おめでたい普通の元日の句より、こうした句に眞のめでたさはあるとも云ひ得るであらう。

[やぶちゃん注:「芙雀」永田芙雀(ながたふじゃく 生没年未詳)は大坂の人。槐本之道(えもとしどう)に学び、蕉門に属した。作品は「蕉門名家句集」に収められている。編著に元禄一二(一六九九)年刊の「鳥驚」(とりおどし)、その三年後の「駒掫」(こまざらえ)がある。通称は堺屋弥太郎。]

 

   靑竹の神々しさよえ方棚 遲 望

 

 惠方といふものは每年干支によつて異る。その方に向つて高く棚を張り、葦索[やぶちゃん注:「ゐさく」。葦(あし)を綯(な)って作った綱。東北の鬼門に神荼(しんと)と鬱塁(うつりつ)の二神があり、悪鬼を捕まえる際、この綱を用いて捕え、虎に食わせると言われる。元旦に門にかけて、魔よけ・邪気払いにする。]を飾り、松竹を立て、供物竝に燈火を獻じて之を祭るのを年德棚[やぶちゃん注:「としとくだな」。]といひ、又惠方棚ともいふと歲時記に書いてある。その惠方棚の中で、眞新しい靑竹の色が神々しく作者の眼に映じた。その印象を直に一句としたのである。

 靑竹の色ほど鮮麗なすがすがしい感じのものは少い。路傍の建仁寺垣が新に結ひへられた時などは、實際目のさめるやうな感じがする。一時トタン塀を建仁寺まがひに作つて、靑いぺンキで竹らしく見せようとしたものがあつたが、芝居の書割以上に俗惡であるのみならず、色彩の一點から云つても、人工の天然に及ばざることを暴露するに過ぎなかつた。あゝいふ塀の中に住んだのでは、孔雀の羽で身を飾らうとする鴉を嗤ふわけには行かない。

「古寺の簀子も靑し冬かまへ」という凡兆の句は、新に仕替へられた簀子の靑さを捉へたので、背景がもの寂びた古寺だけに、靑竹の效果も極めて顯著であるが、惠方棚の靑竹も、淨らかな燈火、供物その他に對して又別個の趣を發揮している。作者の靑竹から受けた印象が、そのまま讀者の前に現れて來るやうに思ふ。

 

   七草や多賀の杓子のあら削り 龜 洞

 

「多賀の杓子」といふのは、江州の多賀社から御守に出す杓子のことであらう。柳亭種彥は昔の杓子の柄はいたく曲つていたものだといふ考證をして、「尤の草紙」のまがれる物品々の段に「大工のかねや、藏のかぎ、檜物屋の仕事、なべのつる、おたがじやく」とあるのを引き、蛙の子を「お玉じやくし」といふのは「おたが杓子」の誤だと云つてゐる。柄の曲つた杓子の古風を最後まで存してゐたのが多賀の杓子で、蛙の子が水中で尾をうねうねする樣が、その形に似てゐるから名づけたものに相違無い、といふのである。おたが杓子か、お玉杓子かなどと云ひ出すと、何だか外郞賣の臺詞のやうになつて來て、甚だ事面倒だから、そんな問題は春永の節に讓つてよろしい。杓子の柄の曲直もそれほど重大視する必要は無いが、種彥が『玉海集』から引いた

    ゆがみなりにも壽命ながかれ

   手づよさはお多賀杓子の荒けづり 正 式

という俳諧は、參考に擧げて置いた方がよささうである。種彥の說によれば、多賀の杓子の柄が曲つてゐたのは百餘年前までだといふ。百餘年といふ數はいさゝか漠然としてゐるから、龜洞の句もいづれに屬するかわからぬが、「お多賀杓子の荒けづり」は已に先縱があるわけである。但正式の句が多賀杓子の說明を脫し得ぬに反し、龜洞の方は慥に或空氣を描き出してゐる。勿論この杓子がどういふ役割をつとめるのか、この句の表からは明にしにくいけれども、七草という簡素な、明るい新年の行事と、荒削りな多賀の杓子とは、趣の上に於てぴたりと合ふものがある。多賀の杓子が壽命の御守であるに至つては尙更であらう。句もまた荒削りで頗る工合がいゝ。

[やぶちゃん注:「龜洞」(きどう 生没年未詳)は尾張蕉門の一人。

「江州の多賀社」多賀大社(グーグル・マップ・データ)。

「正式」池田正式 (まさのり 生没年未詳)は江戸前期の俳人。貞徳門下の武士。通称は十郎右衛門。早くから京都で和漢の学を修め、寛永八(一六三一)年、播州姫路本多政勝に仕官、寛永十六年、主君の転封に従って、大和国郡山に移ったが、家中の内紛と病弱に悩み、浪人して奈良に移住したが、寛文末年(寛文は一三(一六七三)年まで)頃、自害したと伝える。著書は「毛吹草」を難じた書「郡山」や「土佐日記講注」「堀河狂歌集」等がある文人でもあった。]

 

   晝過にゝきて見たる薺かな 不 玉

 

 前の句が少し面倒だつたから、今度は思ひきつて簡單なのを持出す。薺をたゝくのは「唐土の鳥が日本の國へ渡らぬ先に」だから、どこでも早きを競ふ中に、これは晝過になつて敲いて見たといつて澄してゐる。或は晝頃になつて起出す我黨の士かも知れぬ。さういふ無性者でも行事の薺だけは敲いて見る。これも亦太平の姿である。

[やぶちゃん注:「不玉」伊東不玉(いとうふぎょく 慶安元(一六四八)年~元禄一〇(一六九七)年)は江戸前期の俳人で、出羽酒田の医師。名は玄順。俳諧を大淀三千風に学んだが、元禄二(一六八九)年、「奥の細道」の旅の途中の芭蕉を迎えて、入門した。各務支考らと交わり、酒田俳壇の基礎を築いた。編著に「継尾集」「葛の松原」などがある。]

 

   元朝にはくべき物や藁草履 風 國

 

 一夜明けて元日になつた氣分は、一口に云へば淸淨、簡素である。華麗だの、豪奢だのといふ種類のものは、どう考へても元日氣分と調和しないやうに思ふ。正月用の調度なり食物なりが淸淨、簡素の妙を示してゐるのは、一歲の始に當つて節儉を旨とするやうな、理窟を含んだ意味からだけではない。手の込んだ、きらびやかな種類のものでは、年が改つたばかりの氣分に合致せぬからであらう。

 藁草履は穿物の中の簡素なものである。末だ一度も人の足に觸れぬ新しい草履なら、極めて淸淨でもある。元日氣分と調和する點から云へば、革の沓や塗木履の比ではない。淸らかな神域の砂を蹈むやうな場合、新しい藁草履は他の何よりも處を得た穿物でなければならぬ。作者は背景となるべき場所も描かず、現在藁草履を穿いてゐる樣も敍べず、藁草履の新なことにも言及せず、ただ「元朝にはくべき物や」といふ風に語を下し來つた爲、稍〻觀念的に墮した嫌はあるけれども、元日に藁草履を捉へた著眼は決して捨つべきではない。憾むらくは元日氣分との調和にとどまつて、藁草履の趣があまり發揮されてゐないことである。

 

   參宮の小幡どまりや明の春 里 東

 

 小幡といふ地名は方々にあつて、どこを指したものか、はつきりわからない。尾張の東春日戶井郡にもあれば、近江の神崎郡にもある。伊勢の三重郡には大治田と書いて「オバタ」と讀む地名があつて、一に小幡にも作る。二條院讚岐の知行だつた時代、富田基度の爲に押領されたのを、鎌倉に愁訴して舊に復したなどといふ由來も傳へられてゐる。更に伊勢の度會郡には小俣といふ村があつて、「オバタ」と讀む。宮川の西岸で、宇治山田とは橋一つ隔てているだけだとある。作者は膳所の人だから、どれが一番適當かわからぬが、參宮の因[やぶちゃん注:「ちなみ」。]を以て見れば、あるいは最後のそれを擧ぐべきであらうか。ヲバタと發音する爲に、俣を幡に誤つたものと見れば、地理上の面倒はなささうである。

 今日のやうに夜東京を發して、翌朝神路山を拜し得る便利な時世ではない。幾日幾夜の旅を續けて小俣まで辿り著いたら、その年は暮れてしまつた。眼が覺めて見れば元日である。身も心もすがすがしくなつて、今日は内宮外宮を拜さうといふ。小俣に泊つて新年を迎へたところがこの句の眼目である。或はかねて元日に兩宮を拜むつもりで、大晦日に小俣に著くやうに計畫したのかも知れない。元日參宮といふことに就ては、今と昔でいろいろ事情の異るものもあらうが、めでたく長き年の初である點は同じであらう。

 但以上は小幡を小俣として解したのである。小幡が他の土地であるとすれば、右の解釋は抛棄[やぶちゃん注:「はうき」。放棄に同じ。]しなければならぬ。「小幡どまり」といふことが、めでたい參宮の春の感じを損はぬ限り、必ずしも小俣を固執するわけではない。

[やぶちゃん注:「里東」(りとう 生没年未詳)蕉門。膳所の人。「花摘」に入集しており、芭蕉宛書簡一通が残る。

「伊勢の度會郡」「小俣といふ村」現在の伊勢市小俣町元町(おばたちょうもとまち)附近(グーグル・マップ・データ)。

「神路山」(かみじやま)は三重県伊勢市宇治にある山域で、南方面から伊勢神宮の内宮へ流れる五十鈴川上流域の流域の総称。当該ウィキ写真が最も判り易い。]

 

   七種や八百屋が帳のつけはじめ 汶 村

 

 新年も松の内位までは、めでたく平穩な目が續く上に、いろいろ暮にとゝのへた物があつて、庖厨に事を缺かぬ。七日に至つてはじめて八百屋に用が出來るのは、七種粥の關係もあるが、この日あたりを境界として、漸く平生の生活に還らうとする爲であらう。八百屋の帳面にもはじめて記載事項が出て來る。つい二、三年前まで、吾々もかういふ感じを繰返してゐたのであつた。

「八百屋が帳のつけはじめ」は瑣事中の瑣事である。かういふ事柄を捉へながら、さのみ俗に墮せず、のんびりした趣を失はぬのは、元祿の句の及びがたい所以である。

 

2024/03/28

譚 海 卷之十三 京大坂雅會厨下の物語の事 客來給仕人を用ざる仕やうの事 市中書齋かまへ樣の事 土藏板敷の事 瓦に草を生ぜざる方の事 湯殿かまへ樣の事 庭に池を掘べき事 あかり障子こしらへやうの事 雨戶の事 炬燵の事 雪隱こしらへやうの事 家に南北に口有べき事

○京・大坂にて、豪富のもの、朝夕、親友の閑話往來は、僕從を勞する事、なし。

 別室に招侍の座敷を拵へ、戶棚・肩下の具、殘らず備置(そなへおき)、其日、くふべき魚・鳥・菜(さい)・羹(あつもの)の品を調味し、器物に、たくはへ、酒醬油の類(たぐひ)までを收置(をさめおき)て、客を引(ひき)て、室(へや)に入(いり)、主客ともに、手づから、煮やきをして、心ゆくまで、うちくひ、閑話する也。

 室中に爐を開(ひらき)て、用に適する、と云へり。

 

○座敷に、平生、亭主、坐する所の壁に近よせて、敷居より、五、六寸、高く、二枚、ふずま[やぶちゃん注:ママ。]を拵へおけば、親友、來りて話するにも、家僕を勞する事、なし。茶・たばこぼんをも、次の間まで、人、持來(きたり)て、あなたより、小ぶすまを開(あけ)て、さし出(いだ)す。亭主、請取(うけとり)、客に供するに、便宜、よし。膳部を、此ふすまより出(いだ)べし。主客の閑話を、さまたげずして、大(おほい)に雅趣を助(たすく)る事也。

 

○市中の狹き住居には、座敷の隅に、六尺に三尺の張出(はりだ)しを造(つくり)て、疊、壹でう[やぶちゃん注:ママ。「でふ」が正しい。]分(ぶん)を書齋として、机・書籍などを置(おく)べし。俗人、來(きた)るときは、則(すなはち)、屛風にて、書齋を、おほひ隱(かく)せば、常の座敷のやうに成(なる)なり。白眼(はくがん)の側目(そばめ)を免(まぬか)るベし。

 

○土藏の床板は、殘らず格子にすべし。入梅の節に至らば、疊を、のけて、格子より、風を通ずるやうにすべし。

 

○土藏の瓦の際(きは)に、草を生ぜぬやうするには、瓦を置(おく)時、家根の土に、「あらめ」を切(きり)まぜて、瓦の下に置(おく)ときは、皆、鹽氣(しほけ)にて、草を生ずる事、なし。

[やぶちゃん注:「あらめ」不等毛植物門褐藻綱コンブ目レッソニア科 Lessoniaceae アラメ(荒布)属アラメ Eisenia bicyclis 。私のブログの「大和本草卷之八 草之四 海藻類 / 海帶 (アラメ)」を、サイトが見られるなら、「和漢三才圖會 卷第九十七 水草 藻類 苔類 寺島良安」の「海帶(あらめ)」の項を参照されたい。海藻類を、恐らくは一種の強靭な「つなぎ」としたものと私は思うが、幾つかの古文献に見られる。]

 

○湯殿は、板敷を用ひず、「たゝき」にすべし。長く損ずる事なく、且(かつ)、板敷(いたじき)を取(とり)かふる費(つひへ)を、はぶく。湯に入終(いりをは)りて、風呂袖桶を、かたむけ、風を通すにも、能(よく)有(あり)。湯をつかふ時は、「たゝき」の上に、三尺四方ばかりの格子を置(おき)て、その上にて、つかふ也。

 

○庭に、閑地(あきち)あらば、池を掘(ほる)べし。急火(きふくわ)のときに、物をなげ入(いれ)て立退(たちのく)べし。

 

○障子の「こし」は、半紙にて張(はる)やうに、こしらふべし。半紙は、座右の紙ゆゑ、「せうじ」の破れ、つくろふにも、用を辨じやすし。

 

○椽(えん)のある家も、戶をば、内雨戶(うちあまど)に造るべし。椽の外へ、雨戶をつくる時は、椽の板のすきより、風、吹入(ふきいり)て、冬は、殊に寒し。

 

○火達(こたつ)は、少し、勝手よからずとも、無用の所に拵ふべし。火にあたるは、大てい、夜陰ばかりの物なれば、無用の所にありても、さのみ、不自由には、なきもの也。勝手よき所に、こしらふれば、客來の時に妨(さまたげ)になりて、あしし。

 

○雪隱(せつちん)は、狹き方(はう)、勝手に、よろし。大きく造らば、まへに橫木を渡して、よりかゝるやうにすべし。あやまりても、ふみ落(おつる事、なし。掃除口[やぶちゃん注:便槽の汲み取り口。]は、三尺四方ばかりの、戶ひらきに造りて、内より、かけがねを付(つく)べし。掃除のときは、戶をひらき置(おき)て、「ひさく」[やぶちゃん注:「柄杓」。]をつかふに、つかへる事、なくして、よし。

 

○家は、かならず、南北に、口、なくしては、冬・夏、暴雨のとき、家の内、くらし。南ばかりの口ならば、北には窻(まど)なりとも、設(まうく)べし。

譚 海 卷之十三 土藏戶前へさや板こしらへやうの事

○土藏の戶前の「したみ」は、半(なかば)より下(さがる)る程に造るべし。上のかたは「したみ」なくても、人、さわる事なければ、無用也。「したみ」半分に拵らゆる時、かけはづしにも便宜也。

[やぶちゃん注:「下見」前の二番目の本文内に注済み。]

譚 海 卷之十三 室形作り家作よろしき事 夏月小屋に涼氣を生ずる事 火事の節疊出すやう取仕舞べきやうの事

[やぶちゃん注:底本の「目錄」では本文と順序に異同があるので順列を修正した。「室形作り」は「むろがたづくり」と読んでおく。なお、「目錄」では「夏月小屋に涼氣を生ずる事」の後に「火事の節疊出すやう取仕舞べきやうの事」とあるが、これは既に「譚海 卷之十二 火事用心の事」があり、ダブりと言わざるを得ない。

 

○二階造りの家は、必(かならず)、室形(むろがた)に建(たつ)べし。暴風雨にも、ただよふ事、なし。

 土藏は、別(べつし)て、室形にすべし。たとひ、土藏、ゆるみ、藏(くら)、かたぶきても、壁、破(やぶる)る事、なし。

 常の「うし」を上(あげ)たる「屋(や)ね」は、土藏、くつろぐ時は、壁の、わるゝのみにあらず、「うし」へ、もたせ造(つくり)たる木、はづれて、くつがへり、たふるゝあやまち、あり。

[やぶちゃん注:「うし」不詳。建築会社の詳細な呼称を調べたが、出てこない。ただ、これは通常の「軒」の「端」の部分ではなかろうか。何故なら、屋根の軒部分の先端に出た鼻先を隠すために取りつけられた横板を「鼻隠し」(はなかくし)というからで、これを牛の鼻ととり、その「牛」のみで呼んだのではないかと思ったからである。]

 

○市中の家、建つゞきたる中(なか)は、暑月、炎氣にむされて、堪(たへ)がたし。ひあはひか[やぶちゃん注:底本には「か」の右に編者の補正注で、『(の)』とある。「ひあはひ」は「廂間・日間」で、「廂(ひさし)が両方から突き出ているところ・家と家との間の小路・日のあたらないところ」の意。]便宜よき所に、風穴(かざあな)を明(あけ)て、風を入(いる)べし。

 風穴の造りやうは、南か、東西にある壁へ、疊つら[やぶちゃん注:意味不明。]と同じ所に、四、五寸四方ほどの穴をあけ、壁の外、したみ[やぶちゃん注:「下見」。家の外部の壁を覆う横板張り。端を少しずつ重ね、縦に細い木を打って押さえる。]へ付(つけ)て、段々に、箱を、空へむけて、大きく造るべし。其箱より、風、吹入(ふきいり)て、穴より、吹出(ふきいだ)すゆゑ、家の内、自然に涼氣、有(あり)。

 たとへば、東の壁に穴を造れば、箱の口は、外にて南へ向ふように[やぶちゃん注:ママ。]すべし。西の壁に穴を造れば、箱の口、又、南へ向ひて、風を受(うけ)るやうにすべし。

 

○ある人、

「座敷の疊は、常のごとくに、こしらへ、居間より臺所をかけて、殘らず、疊三尺四方の床(ゆか)に、こしらへたり。火急のとき、婦人の仕舞(しまひ)にも、便宜、よし。」

と云(いへ)り。

譚 海 卷之十三 浮萍の養ひ方 梅と鰻は相敵なる事 玉子ふはふはの歌の事 鍋より物にあまらざる方の事 そば切製方の事 ひやむぎ製方の事 茄子たくはへやうの事 大根淺漬仕やうの事

[やぶちゃん注:二番目の「相敵」は「あひかたき」と訓じておく。]

 

○浮萍(うきくさ)は、大方、水氣(すいき)去らず。先(まづ)、鉢に水を、十分、いれ、上に竹管(ちくかん)を、かけ、其上に、ならべて、炎天に、ほすべし。

[やぶちゃん注:「浮萍」広義には、淡水域の水面に生育する単子葉植物綱オモダカ目サトイモ科ウキクサ亜科Lemnoideae或いはウキクサ属 Spirodela に属する種群を指し、狭義には同属ウキクサ Spirodela polyrhiza を指す。ウキクサ類は、タイをはじめとして東南アジアでは昔から一般的な食材として消費されてきており、中国では古くから薬用としている。私も幼少の頃、帰郷した母の実家の鹿児島の岩川で、食べた記憶がある(種は不明)。その時はヒシの実も採取して、私の生涯の内、最初に美味しいと思った食物であった。タイに旅行した際、藁苞に入れた真っ黒に焼いたヒシを見つけたが、若いとても優しい女性ガイドのチップチャン(タイ語で「蝶々」の意)さんが、「日本語ではこの植物はなんというのですか?」と聴かれて教えてあげたところ、その苞一本を自費で買って僕にプレゼントして呉れたのを忘れない。今も元気かなぁ? 私のタイの妖精チップチャン――]

 

○總て、梅の實を入(いれ)たる酒、其外、何にても、うなぎ、大敵(たいてき)なり。

[やぶちゃん注:所謂、奈良時代に始まり、近代まで民俗社会で信じられていた「食い合わせ」である。その殆んどは、科学的根拠に照らして根拠がないものが殆んどで、この知られた「鰻と梅干」は全く根拠がない。]

 

○「玉子ふはふは」の歌、

  玉七つ

  貝杓子(かひびしやく)にて

  だし二つ

  酒とせうゆうは

  一つににるなり

[やぶちゃん注:「せうゆう」はママ。「醬油」。]

 

○鍋釜にて、物をにるとき、物、多くして、にゑあがるときには、すり木(ぎ)を鍋のうへに釣(つる)べし、にえあがる事、なし。

[やぶちゃん注:「すり木」擂粉木(すりこぎ)であろうが、「釣」るという仕儀から、迷信の類いである。]

 

○そばを製するに、そば粉を、少し、湯に、くはへて、その湯にて、ねりかたむる時は、そば、つなぎ、よろしく出來(いでき)て、きれぎれに成(なる)事、なし。玉子、何にても、まぜ用ふに、及ばず。

 

○「ひやむぎ」を調合するには、「うどん」の粉、壹升に、鹽(しほ)を中かさに、六分、まぜるなり。

[やぶちゃん注:「中かさ」は「なかさ」の衍字か。私は「練っている中頃に」の意で採る。]

 

○茄子、疵なきを、えりて、「もみぬか」の内へ、玉子をたくはふるごとくに收置(をさめおく)時は、來春、取出(とりいだ)しても、取(とり)だてのごとし。

 

○大根、淺漬(あさづけ)にするには、大根五拾本に、鹽壹升五合・糀(かうじ)一枚を和して、漬置(つけお)けば、能(よく)鹽梅に出來(でき)る也。漬(つけ)てのち、五十日斗(ばか)りをへて、出(いだ)し用ゆべし。

譚 海 卷之十三 山掛豆腐の事 鮭魚粕漬仕やうの事 南天飯焚やうの事 小豆茶漬飯の事 からし菜酒肴につかふ樣事 飯すえざる心得の事 柳庫裏百人前辨當卽時に辨ずる事

○「芋かけどふふ」は、すりたる「いも」を、大根のしぼり汁にて、ときたるがよし。一品あるもの也。

 

○鮭を粕漬にするには、鮭を丸のまゝにて、「半ぎり」に、ひたし、鹽出(しほだ)しをする事、二日ほどへて、取出(とりいだ)し、よくよく、ぬぐひて、焚火(たきび)の上に掛置(かけおく)事、廿日ばかりにして、取(とり)おろし、「ふきん」にて、ぬぐひ、煤(すす)を取(とり)て、扨(さ)て、粕を、すり鉢にて、よく、すりやはらげて、鮭を切身にして漬(つけ)る事也。

○「靑梅飯(せいばいはん)」と云(いふ)は、もろこしにて、道士の、中元に製して送饋(さうき)[やぶちゃん注:贈答品。]するもの也。南天の葉を、すりくだき、その汁にて焚上(たきあげ)たる飯(めし)也。少しばかり、色、付(つき)て、赤く成(なる)もの也。

「精氣を益功ある。」

よし、云(いふ)。

[やぶちゃん注:「南天」キンポウゲ目メギ科ナンテン亜科ナンテン属ナンテン Nandina domestica

「精氣を益功ある」はママ。「を」は「に」の誤記・誤判読か。]

 

○小豆を煮あげて、丸のまゝにて飯へ少しかけ、燒鹽(やきじほ)を、少し、加へ、にばなの茶をかけて、かきまはして、くふ。菜には肴(さかな)一種、味噌の汁を用ふ。羽州秋田の俗、常に調ずる事也。

[やぶちゃん注:「にばなの茶」「煮端」で煮たばかりの茶の意か。]

 

○湯を、にゑ[やぶちゃん注:ママ。]かへらし、鹽を、よほど入(いれ)て、ひやし置(おき)、からし菜を切(きり)て、此湯にて器物(うつはもの)に漬(つけ)て、そのまゝかたく封じて、氣(かざ)をもらぬやうにして、翌朝より、開封して用ゆ。からしの匂ひ、殊に愛すべし、酒の肴に用(もちひ)て、すつる事を得ず。

[やぶちゃん注:「からし菜」アブラナ目アブラナ科アブラナ属セイヨウカラシナ変種カラシナ Brassica juncea var. cernua 。「芥子菜」「辛子菜」。日本への伝来は古く弥生時代ともされ、平安中期編纂になる「本草和名」や、源順の辞書「和名類聚鈔」に既に記載がある。]

 

○飯は少しやわらかに焚(たき)て、飯櫃の内へおしつけて、つめ、風にあてぬやうにしてをけば、暑中も、すえる事、なし。

 

○辨當庫裏[やぶちゃん注:底本では「庫裏」には右に編者による補正傍注があり、『(行李)』とある。これで納得出来た。]といふものは、雜人(ざうにん)[やぶちゃん注:「雜色(ぞうしき/ざつしき)」に同じ。貴顕の家や官司などに仕えて、雑役を勤めた卑賤の者の称。]の具に拵へたるもの也。急に、二、三百人の辨雷を調じ出(いだ)さんとする時は、此「こり」へ、米を一人何合と定め、はかり入(いれ)て、其まゝ「こり」を、いとにて、からげ、大釜の中へなげ入(いれ)、なげ入して、暫時、「こり」とともに、引出(ひきいだ)して、そのまゝ持行(もちゆく)事也。持行路次(ろし)の間(あひだ)に、この米、水、かはきて、くはんとするとき、ひらきて見れば、よき程成(なる)飯に成(なり)てある也。

譚 海 卷之十三 鰹にゑひたるをさます方の事 しゞみ土をさる事 鯛はんぺんの製法の事 鮹魚やはらかくにる事

○鰹にゑひたるには、枇杷(びは)の葉をかむべし。ゑひ、さむる也。

 

○蜆(しじみ)、數升、煮るには、餅ごめを、四、五粒、入(いれ)て、にるべし。しじみの身、一とつ、一とつ、離れて、鍋の底に、とゞまり、貝ばかり取(とり)て、すてらるゝやうに成(なる)也。

 扨、身ばかりを、ぬたあへにしても、くふべし。但(ただし)、餅米なきときは、もちを入(いれ)てにたるも、同じ功なり。

[やぶちゃん注:今度、やってみよう。]

 

○鯛を「はんぺん」にするには、鯛壹枚に、玉子五つ、長いも壹本、もちの三文(さんもんめ)どりほどなるを、二つ、まぜて作るべし。「はんぺん」、やはらかに出來る也。

[やぶちゃん注:「三文」これは「三文目(さんもんめ)」で、当時の一文銭の三文相当で、十一・二五グラム相当。]

 

○章魚(たこ)を煮て柔(やはらか)にするには、ゆの實(み)と、皮をまぜて、にるべし。やはらかに、にえる也。

[やぶちゃん注:「ゆの實」「柚の實」。ここはムクロジ目ミカン科ミカン属ユズ Citrus junos に同定してよかろう。]

譚 海 卷之十三 信州そば切の事 宵のそば切翌朝つかふ事 そば切滿腹の事

○信州、「冰(こほり)そば」といふ有(あり)。うちあげて、其國(そのくに)にて、冰らせたるもの也。用(もちひ)んとするとき、あつき湯をかけて、「ふた」ある物に入(いれ)、しばし置(おく)ときは、うであげたるそばのごとくになる也。

[やぶちゃん注:「冰そば」「氷蕎麥・凍蕎麥」。茹で上げた蕎麦を冷水に曝(さら)し、寒夜に凍結した後、約一ヶ月、乾燥させた蕎麦。長野県上水内郡(かみみのちぐん)柏原(かしわばら)地方(グーグル・マップ・データ)の名産。私は食べたことがない。]

 

○宵に拵へたるそばを、翌朝、くふ時は、そばを水能(すいのう)に入(いれ)て、そばへ、あつき茶を、二、三ばい、かけて、水能を、ぬり盆へ、のせ、同じものにて、ふたをして、しばらく置(おい)て用(もちふ)れば、昨日の調味に、まさるもの也。

[やぶちゃん注:「水能」「水囊」。濾(こ)し器の一種で、曲げ物の底部に、馬の尾の毛や金属などの細かい網を張ったもの。「裏ごし」に似るが、「すいのう」は網の側を下にして、出汁(だし)や煮汁・寒天液などを、濾したりするのに用いる。茹でた麺類を掬って、湯切りするのに用いる、卵形の網に長い柄の付いたものをいうこともあり、ここは後者。]

 

○蕎妄切にて滿腹せしには、「しぶ木」といふものを、少し、かむべし。立どころに、腹、へるなり。しぶ木、藥店(くすりみせ)に有(あり)。

[やぶちゃん注:「しぶ木」ブナ目ヤマモモ科ヤマモモ属ヤマモモ Morella rubra の異名。翠嵐の校門向きの教室の軒に多量に落ちて、発酵して、酒臭くなっていたのを思い出すなぁ、教え子諸君……]

譚 海 卷之十三 衣裳に鐵のさび付たるを落す方の事 米櫃へ蟲を生ぜざる方の事 掘井の水あしきを飮食につかふ事 鷄卵ぬかみそづけにする事 魚肉みそづけにする事 かいわりなぬかみそづけにする事 さしさば魚たくはへやうの事 靑梅の實をたくはふる事 大根ふろふき鹽梅仕やうの事 淺草海苔たくはへやうの事 澀柿をみそづけにする事 鴨味噌の事 燒鮒かつほぶしにかふる事 鷄肉みそ漬の事 燒松茸の事 玉子葛かけ製しやうの事

[やぶちゃん注:「かつほぶし」はママ。]

 

○麻のるゐ、釘へ懸置(かけおく)事あるに、釘の「さび」、付(つく)事あり。「さび」を落(おと)すには、梅干を、少し、ふくみて、その唾(つば)を麻へ落し、水にて、あらふときは、跡、のこらず落(おつ)る也。

 

○米櫃へ蟲を生ぜざるには、にんにくを丸のまゝにて、一つ米にまじヘ置(おく)べし。蟲、生ずる事、なし。後々は、にんにく、からに成(なる)也。其時は取(とり)かへて、入置(いれおく)べし。

 

○掘井戶の水、鐵氣(かなけ)ありて、飮(のみ)がたき時は、其水を、大釜にて、せんじ、用(もちふ)べし。釜にて、せんずれば、鐵氣、沫(あは)のやうに、かたまりて、うく也。その泡を、くみとりて、其後(そののち)、釜の湯を、冷水にして、つかふときは、飯を、たき、茶を、せんじるにも、障りなし、水道の水に變る事、なし。

 

○鷄子(たまご)をなまのまゝにて、酒の肴に、うちわり、つかふ事あり。玉子を半日斗り、ぬかみその内に漬置(つけおき)たるを、取出(とりいだ)し用(もちふ)れば、生成(なまなる)玉子に、少(すこし)、鹽氣(しほけ)ありて、一段、興、あり。

 

○かひわり菜をも、紙につゝみ、ぬかみそに、しばらく漬置(つけおき)て、取出し、肴(さかな)に用れば、風味ありて、賞翫なるものなり。漬置間(つけおくあひだ)、大(たい)てい、たばこ、五ふく[やぶちゃん注:「五服」。五回、喫煙すること。その時間。]斗(ばか)りのほど、よろし。時を過(すご)せば、鹽氣(しほけ)つよくして、あしゝ。

[やぶちゃん注:「かひわり菜」アブラナ目アブラナ科ダイコン属ダイコン変種ダイコンRaphanus sativus var. hortensis の種子を発芽させた、胚軸と子葉。所謂、「カイワレダイコン」と言うより、近年は英語で多種のそれを指す「スプラウト」(Sprout)の一つとして知られる。ウィキの「スプラウト」によれば、『主に穀類、豆類、野菜の種子を人為的に発芽させた新芽で、発芽した芽と茎を食用とする。発芽野菜(はつがやさい)』『または新芽野菜(しんめやさい)』『ともいう。生育の仕方によってモヤシなどの「もやし系」と、かいわれ大根などの「かいわれ系」がある』。『成熟した野菜よりも栄養価が高いものがあり、生食できるものは効率的に栄養素がとれるメリットがある』。『英単語のsproutは、芽や芽キャベツ、モヤシを意味する』とある。]

 

○魚肉を味噌に漬る事、紙につゝみ、漬たるよし。みそ漬、久しく成(なり)ても、鹽氣、よきほどにて、ある也。

 

○さし鯖を薄く切(きり)て、道明寺(だうみやうじ)の粉にて、酒に、ひたし、壺に漬置(つけおく)べし。冬に至りて用(もちふ)るに、風味、異樣なるもの也。但(ただし)、道明寺を、壺に半分程、入(いる)べし。酒にて、ふえて、一盃に、みちる也。尤(もつとも)、出(だ)し、用ゆるまでは、牢(かた)く、封じ置(おく)べし。

[やぶちゃん注:「さし鯖」脂ののった真鯖(条鰭亜綱棘鰭上目スズキ目サバ亜目サバ科サバ族サバ属マサバ Scomber japonicus )を背開きにして塩漬けにしたもの。塩蔵サバ。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の当該ページによれば、二『尾一組で売り買いされ』、一『尾の頭部にもう』一『尾の頭部を刺し込んで』一『対にしたところから「刺鯖」と呼ばれるようになる。平安時代以前からのもので、細々とではあるが』、『日本海の福井と鳥取に今に続いている』とあり、『福井県福井市鮎川の「刺鯖」は昔のように頭部に頭部を刺している。非常に塩辛く、また微かに発酵臭がして全体に黄ばんでいる』。『そのままで焼いて食べるか、塩抜きをして焼いて食べる』。『塩抜きしすぎると味がなくなり、そのまま焼いて食べると』、『恐ろしく塩辛い。ただ実に味わい深い。夏の畑仕事の後など、塩分濃度の補給という意味でも重宝したのではないかと思う』とあって、写真もある。

「道明寺」道明寺乾飯(どうみょうじほしいい:大阪府藤井寺市の道明寺で作られる乾飯。糯米(もちごめ)を蒸して天日に干したもので、水に浸したり、熱湯を注いで柔らかくしたりして食べる。かつて、道明寺で天満宮に供えた饌飯(さんぱん)のお下がりを乾燥貯蔵したことに始まる呼称。軍用・旅行用に貯蔵食品として重んじられた)を挽いて粉にしたもの。和菓子の材料にも用いた。]

 

○靑梅の實を、たくはふるには、靑梅を、多く、えりて、疵(きず)なきを、たくはへにする也。疵あるをば、實を、わり、種を去りて、わりたる實を、すり鉢にて、「ひしほ」の如く、すりて、細末にして、其細末なる實に、疵なき梅を、丸のままにて漬(つけ)る也。全體、梅の實に酢氣(すのき)あるゆゑ、鹽を用ゐずとも、たくはへらるゝ也。冬月、取出(とりいだ)しても、取立(とりたて)の如く、靑くて、ある也。

[やぶちゃん注:「ひしほ」「醬・醤」で「ひしお」と読む。ダイズ・コムギ・オオムギ及び生醤油などを原料に発酵させた食品。現行では「なめ味噌」などとして利用する。]

 

○「ふろふき大根」を煮るに、大根を、一、二本、おろしにて、すりて、其しぼり汁ばかりにて、大根をにる時は、風味、よろし。

[やぶちゃん注:「ふろふき大根」「風呂吹き大根」。大根を輪切りにして茹で、熱いうちに垂れ味噌をつけて食べる料理。蕪(かぶ)なども用いる。]

 

○「淺草のり」、江戶にては、入梅の節(せつ)に至れば、風味、變じて、用(よう)たゝず。春初に、「のり」を、一年つかふべき程、とゝのへ、殘らず、よく、火にあぶりて、粉にして、「びいどろ」の「ふらすこ」へ入置(いれおき)て、入用(いりよう)のとき、ふり出(いだ)して、つかふべし。風味、春のまゝにて、變ぜず。

[やぶちゃん注:「淺草のり」「淺草海苔」。紅色植物門紅藻亜門ウシケノリ綱ウシケノリ目ウシケノリ科アマノリ属アサクサノリ Pyropia tenera 。同種の産地名を被せた加工食品化した「品川海苔」・「葛西(かさい)海苔」があった。しかし、現在の当該地では絶滅(海域消失を含む)したか、或いは、殆んど見ることが出来ない絶滅危惧種である。かなり以前から東京湾では「絶滅した」とされていたが、近年、多摩川の河口で、生き残っている小さな群が発見されて、保護活動が行われている。私の「大和本草卷之八 草之四 紫菜(アマノリ) (現在の板海苔原材料のノリ類) 附・川苔(カハノリ) (カワノリ)」を参照されたい。]

 

○柿澁を味噌漬にする事、みその中へ、細き竹を、さしこみて、引出(ひきだ)し、その穴へ、酒を、一盃、つぎこみ置(おく)。一、二日過(すぐ)れば、しぶ、へるもの也。へるときは、又、口一ぱいに、つぎこむべし。如ㇾ此、度々に及ぶときは、終(つひ)にへること、なし。扨(さて)、一ケ月も過(すぎ)て、その澁を取出(とりいだ)せば、杖のやうに、ながく、かたまりて出(いづ)る也。夫(それ)を小口より切(きり)て、つかふ也。

 

○又、道明寺の粉、袋のまゝをも、みそ漬にする也。是は、みそを、つきて、樽ヘ、つめるとき、道明寺を袋のまゝ底へ漬る也。紙を去(さり)て、小口より、きりて遣ふに、「からすみ」のごとく成(なる)もの也。

[やぶちゃん注:「からすみ」「唐墨」「鰡子」「鱲子」などと書く。ボラなどの卵巣を塩漬けして塩抜き処理を施した後、天日干しで乾燥させたもので、名の由来は、その形状が中国から送られた墨=唐墨に似ていたことによる。詳しくは、「大和本草卷之十三 魚之下 鯔魚(なよし) (ボラ・メナダ)」の私の注を参照されたい。]

 

○鴨の肉ばかりを、すり鉢にて、よく摺(すり)て、みそに和し置(おき)て、寒中、大根などを、にるべし。風味、言語同斷也。

[やぶちゃん注:「鴨」「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鳧(かも)〔カモ類〕」の私の注を参照されたい。]

 

○冬、取(とり)たる鮒(ふな)・川魚の類(るゐ)、串に、さし、燒(やき)たるまゝにて、「わらづと」に、さし置(おき)、春大根などを加へ、「せうゆう[やぶちゃん注:ママ。「醬油」は「しやうゆ」が正しい。以下同じ。]」にて、にる。鮒の味、「鰹ぶし」の如く、風味、よろし。

 

○鷄(にはとり)の肉を、味噌に切漬(きりづけ)にして、用ゆる時は、串に、さし、あぶりて、用ゆ。鷄の調理の極品(ごくひん)也。

 

○早松(さまつ)だけを、紙につゝみて、飯に、うづめ、火に燒(やき)たるを取出(とりいだ)し、水にて、あらひ、灰を去り、「ね」より、引(ひき)さきて、「せうゆう」をかけ、用ゆ。精進の至(いたれる)味也。

[やぶちゃん注:「早松」食用になる菌界担子菌門真正担子菌綱ハラタケ目キシメジ科キシメジ属キシメジ亜属マツタケ節バカマツタケ  Tricholoma bakamatsutake 当該ウィキによれば、『マツタケによく似るが、やや小さく』、『全体的にやや赤みを帯びている。またマツ林ではなく、ブナ科のミズナラ、コナラ、ウバメガシなどの広葉樹林で発生する』。『香りはマツタケよりも強い』『が、調理過程で飛びやすいともいわれる』。『「さまつ(早マツ)」と呼び珍重する地域もある』とある。ネット上では、この「早マツ」を、やはりマツタケによく似た近縁種ニセマツタケTricholoma Fulvocastaneum に同定している記載が有意に見られるが、同前ウィキによれば、当該種は『シイやコナラの林に発生し、香りを持たない』とあるので、私は採らない。]

 

○「鷄子(たまご)の葛(くづ)」を、こしらゆる事、先(まづ)、酒・水・鰹ぶしにて、だしを拵へ、夫(それ)をさまし置(おき)、さめ切(きり)たる時、葛の粉、だし、水にて、とき、鷄子をわり、燒鹽(やきじほ)を「せうゆう」のかはりに多く用ゐ、葛・鷄子・燒鹽を、ひとつにして、鍋へ入(いれ)、常の葛を拵ゆるが如く、火にかけて、かきまはし、かきまはし、すれば、葛の味にて、玉子の色をなし、鹽氣(しほけ)ありて、奇なるもの也。扨(さて)、豆腐などに此(この)「くづ」を、かけて出(いだ)す也。

2024/03/27

譚 海 卷之十三 菊花枕の事 圓座のしんの事 繩座のこしらいへやうの事 刀脇差のさや製の事 肥後ふくべ懷中の法の事 きせる取あつかひの事 印判懷中步行心得の事

[やぶちゃん注:四番目の「製」は「せいする」と読んでおく。]

 

○枕は、菊の花を取りて、しんにするが、よし。絹は密(みつ)なるを用ゆべし。

「夜中、よく、匂ひて、頭痛を去る。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「菊枕」と言えば、「杉田久女 菊枕」であろう。私が電子化注したものを見られたい。]

  

○圓座の「しん」は獸の毛を人べし、和らかなる事、「ぱんや」に、かはらず。但(ただし)、圓座の底を、紙にて、はるべし。然らざれば、粉を落して、起臥おきふし)、宜(よろ)しからず。

 

○繩床(なはどこ)を、こしらふるには、いかのぼりの、かな引(びき)の絲を用(もちふ)べし。竪橫(たてよこ)に引(ひき)とほす穴、一寸はざまに明(あけ)て網(あみ)にすべし。先づ、たてなりとも、橫なりとも、一方を、こしらへて、其後、片々を、あむべし。

[やぶちゃん注:「いかのぼり」凧。

「かな引」不詳。どなたか御教授下されたい。私は凧を上げたことがない。一度だけ、幼稚園の時、上げられずに、広場で、地面を凧を引き摺りながら、泣いて歩いていた記憶があるだけである。]

 

○脇指・刀の鞘の内には、金箔を置(おく)べし。刄(やいば)、さびる事、なし。

 

○「肥後ふくべ」の「たばこ入」、懷中するには、蓋(ふた)に汗手拭(あせてふき)か、襦袢のはしを、少し、はさませて、袖に入置(いれおく)べし。驅走(かけはし)りても、落(おつ)る事、なし。

[やぶちゃん注:「肥後ふくべ」の「たばこ入」肥後産のヒョウタンの刻み煙草の粉の煙草入れということらしいが、現在、熊本が瓢簞の産地という記事はネットでは見当たらなかった。]

 

○きせるは、たばこ、のみ終(をは)りて、「きせる筒(づつ)」に仕舞(しまふ)とき、たばこを、つぎて、筒へ入(いる)べし。「やに」、出(いで)て懷中を、けがす事、なし。

 

○印判は帶の間へ入(いる)るやうにすべし。帶へ、印判の入(はい)ほどの、小(ちさ)き袋を、ぬひ付(つけ)、夫(それ)へ入置(いれおく)ときは、取出(とりいだ)して用(もちひ)るに、便宜、よろし。且(かつ)、懷中のものを、かすめ取らるゝ事あるにも、印判を失ふ事、なき也。

譚 海 卷之十三 唐紙淸書文字を拔方の事 朱印をぬく方の事 まんじゆさけ書物箱にぬり蟲を去事 經師表具あつらへやうの事 物書筆たくはへやうの事 書籍蟲ぼしの方の事 硯具あらふべき事 墨を製する方の事 菊花枕の事

[やぶちゃん注:本巻は短文の記事が多いので、関連の有無を必ずしも問わず、複数を合わせて電子化注する。但し、現在、唯一SNSとして記事リンクを張っている「X」(旧Twitter)では、表示字数が限られており、あまり長いと分割して示さなくてはならないので、相応に標題の長さで制限はする。「拔方」は「ぬくはう」。「まんじゆさけ」はママで、マンジュシャゲのこと。「經師」は「きやうじ」。]

 

 譚 海 卷の十三

 

 

〇唐紙、淸書の時、書損(かきそん)じたる文字を拔取(ぬきとる)には、拔(ぬく)べき文字の、上にも、下にも、白紙を置(おき)て、しんなき筆の、あたらしきに、水を點(てん)じ、白紙のうへより、靜(しづか)に、うちうち、する時は、文字、紙にぬきとられて、白紙となる也。鳳仙花のある比(ころ)ならば、其枝を切りて、枝の小口にて、うつときは、筆より早く、文字ぬける也。然(しか)れども、其まゝにては、鳳仙花の汁の跡、少し、きはづく[やぶちゃん注:「際附く」であろう。「際の部分に附着する」という動詞。]により、仕上(しあげ)のとき、筆に、水を、てんじて、うつときは、紙のひたるとき、「きはづく」[やぶちゃん注:前の名詞形。]、跡、つかず、となり。

 

○物書(ものかき)たる、紙にても、絹にても、朱印、押損(おしそん)ずる事、有(あり)。是を拔(ぬき)とるには、文字を、ぬくごとく、上下に白紙を置(おき)て、大根の切口にて、うつときは、朱の跡、ぬけ落(おつ)る也。

 

○「まんじゆしやげ」といふ花、俗に「彼岸花」といふ草、有(あり)。此花の枝をも、根をも、取(とり)て、搗(つき)て、しぼるときは、汁、出(いづ)る也。其汁を書物の箱の内へぬり置(おく)時は、書籍、蟲、はむ事、なし。又、繪(ゑ)を書(かく)に、「にかは」の替りに、此(この)汁を用(もちひ)る事、有(あり)。佛像など、膠(にかは)を、いむときに用ゆる事也。ゑのぐに、かはのごとく、ねばりて、落(おつ)る事、なし。

[やぶちゃん注:「まんじゆしやげ」「彼岸花」単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ヒガンバナ亜科ヒガンバナ連ヒガンバナ属ヒガンバナ Lycoris radiata 。当該ウィキによれば、『ヒガンバナは有毒植物として知られており、特に鱗茎には作用の激しいアルカロイドを約』一パーミル(per mille:千分率(せんぶんりつ)。「千分の一」を「一」とする単位。記号は「‰」)『含んでいる』。『含有されるアルカロイドとしては、リコリン(Lycorine)』五十『パーセントであるが、それ以外にも、ガランタミン(Galanthamine)』・『セキサニン (Sekisanine)』・『ホモリコリン(Homolycorine)』『などを含む』。『リコリンの語源はヒガンバナ属の学名「リコリス」に由来し』、『経口摂取すると』、『流涎(よだれ)や吐き気、腹痛を伴う下痢を起こし、重症の中毒の場合には中枢神経の麻痺を起こして苦しみ』、『死に至る場合もある』とある。私の記事では、ヒガンバナの驚くべき沢山の異名を尽してみた「曼珠沙華逍遙」があるので、是非、読まれたい。

 

○古筆(こひつ)・古畫(こぐわ)、表裝するには、先(まづ)、掛物・卷物などの全體を、拵へ定(さだめ)て後(のち)、其書畫を、上より、張付(はりつけ)るやうにすべし。さなくして、經師(きやうじ)に、あつらふれば、書畫のはしへ、絹をはり加へるゆゑ、再び表具する時は、書畫の張(はり)かけたる所、糊にて、損ずる也。

 

○物書(ものかき)終(をはり)ては、筆を、そのまゝ洗ひて、收(をさ)むべし。同じくは、筆をあらひて後(のち)、よく、ぬぐひて、さかさまに釣置(つりおく)べし。洗(あらひ)たるまゝにて收置(をさめおく)ときは、水氣(すいき)、殘る故、早く朽(くち)て、損じ安し。

 

○書物、蟲干するには、和紙の本は、二つに開(あ)けて、其まゝ、疊のうへに、たてて、干(ほす)べし。風、よく通りて、便宜、よろし。唐紙(からかみ)の本は、如ㇾ此すれば、たふるゝ故、心あるべし。

 

○硯は、日々(ひび)、洗(あらひ)て用ゆべし。停墨(ていぼく)あるときは、筆、しぶりて、文字、意の如く、かゝれず、且(かつ)、墨色、光を發せず。

 

○墨を製するには、阿膠(あけう)にても、常の「にかは」にても、紙につゝみて、炎日(えんじつ)の比(ころ)、土中へ埋め置(おき)、每日、日中に、其所(そこ)へ、水を少しづつ、ふりそゝぐ。如ㇾ此する事、七日程を經て、土中より取出(とりいだ)す時、「にかは」、にえかへりて、ひとつに成(なる)也。

 扨(さて)、それへ、油烟墨(ゆえんぼく)にても、朱(しゆ)にても、まぜて、心のごとく、形(かた)に入(いれ)、製する事也。又、形を用ゐず、「にぎり墨」にするも、あり。

[やぶちゃん注:「阿膠」(あきょう)は、山東省東阿県で作られる上質の膠(にかわ)を指し、接合剤のほか、漢方薬などにも用いる。]

譚海 卷之十二 佐竹慈伯の事 / 卷之十二~了

[やぶちゃん注:本話は本巻に多く出る津村の亡き母による思い出話である。

 本篇を以って「卷之十二」は終っている。]

 

○「佐竹慈伯といへる醫師、物がたりありしは、『我等、此度(このたび)の病氣は、きはめて、死ぬるなり。いつものわづらひと、ちがひて、骨のふしぶし、はなるゝ樣に思はるる。死ぬやまひは、更に、ことなり。』と、いはれし。はたして、其秋、うせられき。是は、醫の道に深く心得たる人にて、儒學も、よく、ありし。我(わが)親のごとくにせし人。」

とて、母の、かたられき。

[やぶちゃん注:底本では最後に割注で、『(別本缺)』とある。ここの死に至るそのような疾患は、私は不詳である。]

譚海 卷之十二 深川町大文字屋の事

[やぶちゃん注:「深川町」は「ふかがはまち」と読み、現在の江東区江東区常盤一・二丁目、高橋森下一~三丁目、白河四丁目三好四丁目平野四丁目等などを含む広域であった。]

 

○仙臺陸奥守樣、江戶藏元に、「大文字屋」とて、數家、有(あり)。

 其比(そのころ)は、仙臺米一圓受拂(うけはらひ)せし事(こと)故、此一家、繁昌して、おごりも强く、「大文字屋の衆」とて、芝居物、見に出(いづ)るにも、皆人(みなひと)、見物する事に有(あり)し。

 其一家の妻女をはじめ、娘に至るまで、皆、美人にして、みにくき女は、なかりし。

 是は、「大文字屋」のならひにて、よき娘あるものは、いやしきものをも、えらばず、もらひてよめにせしゆゑ、其筋のものにて、皆、ありしと、いへり。

譚海 卷之十二 藝州家士生田權左衞門事

[やぶちゃん注:本文頭の「又」は、前の複数の話の「安藝守」に関わる話であるため。]

 

○又、安藝守樣、御留守居に、生田權左衞門といふ人、有(あり)しが、「きりもの」にて、役義も、すぐれて、勤(つとめ)たりける。遊所(ゆうしよ)にも、度々、遊びて、江戶・大坂、ともに、人にしられたる人にて、藝州へ、大坂より出立(いでたつ)には、新町の傾城、殘らず、船まで送り、酒宴に及びて、別れをなす事、例のやうに成(なり)たり。

 然(しか)る處、中年の後(のち)、耳、聞えず成(なり)て、首尾好(しゆびよく)御暇(おいとま)給はり、國隱居(くにいんきよ)せし。

 是は、誠の「耳しひ」には、あらざりし。つくり病(やまひ)なる、よし。

「退(しりぞ)くべき時を、しりて、かく、はかりける。かしこきわざなり。」

と、人、申(まうし)あへり。

譚海 卷之十二 尾州母堂源常院殿御事

[やぶちゃん注:本文の頭に「此」(この)があるのは、前話を受けているため。]

 

○此源常院樣、佛法、殊に御信仰にて、その姬君、又、同じ信心者にましましけるが、母君、何となく、御わづらひ、あり。

 日數(ひかず)をふれど、おこたらせ[やぶちゃん注:ここは「病気が平癒し」の意。]給はぬ時、姬君、色々の願(ぐわん)をたてて、本復を佛に祈(いのり)たまひしに、ある晚の夢に、尊(たつと)き僧の來(きたり)て、

「此病氣、平癒を祈るには、千體地藏尊の像を、繪に書(かき)て成(なり)とも、造立あれ。」

と有(あり)て、おどろき[やぶちゃん注:「目が覚め」。]給へば、ふしぎに思召(おぼしめし)て、やがて母君に申させ給ひ、諸(もろ)ともに、御手づから、地藏尊の繪を、千枚、板におして、施し給ふ。そのしるしにや、すがすがと、本復ましましける、とぞ。

[やぶちゃん注:底本では最後に割注で、『(別本缺)』とある。]

譚海 卷之十二 尾州母堂源常院殿御事

[やぶちゃん注:前話を受ける。人物事績等は、前の話で言った通り、関心がなく、父葬儀の翌日のこともあり、以下、本巻最後まで、調べねばならない注は附さない。悪しからず。]

 

○此(この)安藝守樣父君は、尾州の御母、源常院樣と申(まうす)御孫(おんまご)にて、殊に御愛、深かりしが、御幼稚の時、祖母君へ御出(おいで)ありしに、

「なぞ、度々(たびたび)見えさせ給はぬ。」

と、ありしかば、

「御門より、玄關まで、かちにて參る事、何とも、くるしく候まゝ、度々は、參りかね候。」

と被ㇾ仰られ候へば、

「其事ならば、何か、くるしき。重(かさね)ては、玄關まで「かご」を、よこにつけおり候へ。」

とて、内々にて、其定(さだめ)に被仰渡しかば、例に成(なり)て、此あきの守樣も、御一生は、尾州の御玄關まで、かご、付(つけ)らるゝ事にてありし、とぞ。

譚海 卷之十二 同息女川鰭三位殿へ嫁娶の事

[やぶちゃん注:標題の「同」は前話を受ける。]

 

○此殿の妹君、京都、川鰭(かはばた)三位樣へ御再緣あり。母なる人の姉、女房にて御供して、京都に三年ありしが、江戶の御奉公とちがひて、堂上方は、女中のごとく、御一宿あれば、翌朝は、おしろい・はぐろめの具まで、御用にある事にて、諸事、たがひて、むづかしき物也とぞ。

[やぶちゃん注:底本では最後に割注で、『(別本缺)』とある。

「川鰭三位」「河鰭(かはばた)」が正しい。どの人物か、調べてみたが、関心がないので、途中でやめた。悪しからず。]

譚海 卷之十二 同御子息岩松殿の事

[やぶちゃん注:標題「同」及び冒頭の「此若殿」は前話を受けている。]

 

○此若殿、「岩松樣」と申せし。母君、老年の御子(みこ)なれば、殊の外、御てう愛[やぶちゃん注:ママ。「寵愛」は「ちようあい」でよい。]あり。

 夜晝、側(かたはら)を、はなたず、そだて候ひしが、十六に成(なら)せ給ふとき、母君、かくれさせたまひし。やがて、其比(そのころ)より、安藝守樣、岩松樣を、表へ出(いだ)し、そだてさせ給ふ。

「男子(なんし)は成人するまで、女の側にあれば、馬鹿に成(なる)もの也。」

と仰られし。

 御乳母・御側女中など、時時(ときどき)、表の役人へ對面のをりは、

「若殿、御やうすは、いかゞぞ。馴(なら)させ給はぬ男の中に御寢(おねむり)ありて、御さびしくあらん。」

など、いひ侍しに、

「『いざ。晝は、さりげなき御樣子に見へ候へど、夜は、さすがに、御(お)さびしくあるにや、朝ごとに、御枕(おんまくら)を見れば、淚にぬれて、おはしますやうす也。』と申せし。哀なる事。」

と、いひあへりしが、此殿、成人の後、かしこき君(くん)に成(なり)候ひて、御おきて、たゞしく、御一生、家中のものへ、加增などといふ事は、一度も、せさせ給はず、役人、勤功(きんこう)あれば、其時々、金子を給はり賞美せさせ給ふ。

 されば、何がしといふ家司は、はたらきある人にて、數度(すど)、賞美の金子、いたゞき、大坂藏本鴻池方(かた)へ、預け置(おき)、國元へ引(ひき)こもる時、大坂にて、町屋敷、一ケ所、右の金子にて調へ、鴻の池方より、世話いたし、安樂に暮しをはりたる有(あり)、とぞ。

譚海 卷之十二 松平安藝守殿奥方の事

○松平安藝守樣奥方は、加賀守御妹(おんいもと)也。賢女にましまして、急度(きつと)したる事を好(このま)せ給ふゆゑ、召仕(めしつかふ)るゝ女房まで、御前に居(を)る時は、あしを、くつろがさず、腰をのして、

「しやん」

と、すはるやう成(なる)ものを、好せ給ふ。

 安藝守樣、奧ヘ入(いら)せられ、奧方の御膝を枕にして休(やすま)せ給ふに、その御目覺(さめ)ぬ内は、時刻、移れども、少しも、ひざをうごかし給ふ事なく、ありし、と也。

 此奥方、女子ばかり、八人まで出生(しゆつしやう)ありて、最末に、若殿、一人、まうけ給ふ。

 夫(それ)より、儒者を召(めさ)れ、ときどき、學問・物よみを、せさせ給ふ。

『四十に成(なり)て、學問、いかゞ。』

と、人々、思ふべけれども、

『岩松殿、成人の後、「もろこし」の事など、とはるゝに、其こたへ出來ぬも、あまりなる事。』

とおもふより、はじめたる事と、仰られし。

[やぶちゃん注:「松平安藝守樣奥方」底本の竹内利美氏の後注に、『広島藩主浅野吉長の正室は、前田綱紀の女(養女)で、五代藩主吉徳の妹にあたる。彼女の生んだ若殿は宗恒で、享保二年生、幼名は岩松・仙次郎と称したが、岩松は前田家代々の幼名のようである。「寛政重修諸家譜」には、彼女所出の女子は三名しか記載されていない』とあった。]

譚海 卷之十二 朝士金田周防守殿物語の事

[やぶちゃん注:ここと次の話は「目錄」では以上の一つに纏められているが、本文は後者は独立項となっている(「目錄」には標題はない)。同一人物についての話であることから、カップリングした。]

 

○御書院番金田周防樣、御物語に、

「有章院樣、御他界の刻(きざみ)は、諸人、度を失ひ、くらやみのやうに有(あり)しが、有德院樣、紀州より入(いら)せられしまゝ、月日の明らかに成(なる)たるやうにて、人々、安堵の思ひに成(なり)たる。」

とぞ。御同人、仰(おほせ)られしは、

「世間に、「平家物語評判」とて、由井正雪が書(かき)たるもののよし、見たりし事の有(あり)しに、俊寬僧都、赦免に、ひとり、もれて、足ずりして泣(なき)たると云(いふ)事を、嘲(ののし)り評したるなどは、尤成(もつともなる)事。」

と、の給へし。

[やぶちゃん注:「御書院番金田周防」不詳。

「有章院」第七代将軍徳川家継の法名。

「有德院」徳川吉宗。

「平家物語評判」「慶安事件」の首謀者の「由井正雪」が、後代の実録物「慶安太平記」等によれば、この書を著したとされるが、私は不詳。]

 

○此周防樣、常憲院樣御小姓にて、別家に三千石給はり、御取立(おとりたて)ありし方也。

 色々、當時の事を御物語有(あり)し中(なか)に、

「常憲院樣は、心すみやかなるもの、殊に御意に入(いり)たるゆゑ、御小姓にて相勤るに、御寢(ぎよしん)の間(ま)に蟲などいづる時、

「夫(それ)を取捨(とりすて)よ。」

と上意あれば、たとひ、毒蟲にても、何にても、其儘、手づかみにして捨(すつ)るやうなる事を、御(おん)めで遊(あそば)されし、とぞ。

 有德院樣、御壯年に入らせられし時は、御短慮成(なる)事も、折々、有(あり)、放蕩の聞えもありて、

「御隱居せさせ申(まうす)べきや。」

と、三度(みたび)まで御伺(おうかがひ)有(あり)しに、

「若きものは、夫程(それほど)の事は有(ある)もの也。先(まづ)、見合(みあは)せよ。」

と、上意有(あり)て、無難に御座被ㇾ遊、終(つひ)に、天下をも、しろしめす事に成られし故、常憲院樣の御仕置せられたる事を、隨分、其儘に被ㇾ成指置(さしおきなられ)れける故、都(すべ)て、常憲院樣御取立の者をば、我等、式(しき)に至る迄、今もかはらず、御奉公致しをる。有難き事成(なり)。」

と、の給ひし。

 周防樣、本知三千石に、御役料千石なれ共(ども)、

「此千石は、我一代の事成(なり)。」

とて、常々、暮し方を三千石にて賄(まかな)ひ、千石に遣ひ給はず、年々、金子にて除置(のけおか)れ、開き給ふ度每(たびごと)に、錢箱を、女子(によし)の居(ゐ)る所に指置(さしおか)れ、夫(それ)へ金子を投入(なげいれ)て、おかる。

「女はぬすみをせぬものなれば、氣遣ふ事、なし。」

と、いはれし。去るによりて、駿河御番被仰付、出立の用意し給ふも、此金子にて借用をせず、心よく、とゝのへ給ひぬ。

 外の御番、仰付らるゝ方は、事に臨(のぞみ)て借金して、「旅(たび)用意」し給ふとは、格別成(なる)事也と、いへり。

譚海 卷之十二 一ツ橋刑部卿殿御事

○一つ橋刑部卿樣、御城(ごじやう)にて御誕生遊(あそばされ)、御生立(おんおひたち)、はかばかしく、御發明におはしましける。御幼少の時は「小五郞樣」と申(まうし)奉りし、八歲に成(なら)せ給ふ時、御大小の刀を進ぜられけるが、あやうかり思召(おぼしめし)て、「竹みつ」を進ぜられしに、小五郞様、ぬきはなち御覽ありて、頓(やが)て堀へ捨(すて)させ給ふ。御側衆、右の段、上聞に達しければ、上樣、笑(わらひ)被ㇾ遊(あそばされ)、眞劍を、又々、進ぜられける、とぞ。

[やぶちゃん注:「一ツ橋刑部卿」徳川宗尹(むねただ)。第八代将軍徳川吉宗の四男。母は谷口正次の娘於久。「御三卿」三番目の一橋家初代当主。享保六(一七二一)年生まれであるから、数え八歳は享保一三(一七二八)年。彼の元服は享保二十年。明和元(一七六四)年に四十四歳で逝去し、跡は四男治済(はるさだ)が継いだ。]

2024/03/26

譚海 卷之十二 享保中小金口鹿狩の事

[やぶちゃん注:「小金口」は後注する「小金牧」の入り「口」附近ともとれなくはないが、そうした地名が見当たらないので、「小金原」或いは「小金牧」の誤りか、写本などで判読出来ずに、「□」としたものを「口」と誤った可能性もある。]

 

○有德院樣、小金原御鹿狩(こがねはらおししかり)、遊(あそば)されし時、喜連川(きつれがは)樣も、御供にてありしが、此時の喜連川樣、聞ゆる强弓(がうきゆう)の達者にて、世にしりまゐらせし御方也。

 折ふし、御狩の時、いかり猪(しし)一つ、出來(いでき)て、人夫を蹴(け)たて、あれに、あれて、御座近くはしり來(きた)る時、御覽有(あり)て、

「左兵衞督(さひやうゑのかみ)。」

と上意ありしに、喜連川樣、頓(やが)て、弓、引(ひき)しぼり、一矢(いつし)いさせ給へば、立處(たちどころ)に猪を射とめて、事なく成りにける。

 此弓勢(きゆうせい)にや感じ思召(おぼしめし)けん、

「大義也。休息あれ。」

と御ひま給はりて、其場より喜連川樣、御暇(おんいとま)給はり、歸府、有(あり)し、とぞ。

[やぶちゃん注:「有德院」徳川吉宗。

「小金原御鹿狩」当該ウィキによれば、『江戸時代に徳川将軍が現在の千葉県松戸市の小金牧の中野牧を中心として、鹿・猪等を狩った大規模な狩で』、特に吉宗は、享保一〇(一七二五)年と、その翌年の二回行っているとあり、「吉宗」の項で、詳しい記載が載る。別にウィキの「小金牧」もあるので、見られたい。そこに、現代地図に「小金牧」を合わせた地図があるのでリンクさせておく。

「喜連川樣」下野喜連川藩第五代藩主喜連川茂氏(しげうじ 元禄一三(一七〇一)年(元禄十五年説あり)~明和四(一七六七)年)。当該ウィキによれば、享保二(一七一七)年五月、『徳川吉宗に御目見し』享保六(一七二一)年に『父が死去したため』、『跡を継いだ。弓術に秀で、一寸の強弓を扱う事で知られた』。『民政に尽力し、特に治安の安定によく努めたという。そのため、茂氏の治世のもとで喜連川藩は一度も盗賊が現れず、夜も戸締りの必要なしとまで謳われ、茂氏自身も「民政安定の名君」と称された。しかし晩年は子の氏連が先立って若死にするなど、不幸でもあったという』とある。]

譚海 卷之十二 朝士中根平藏殿狂歌の事

○「御旗本中根平藏と申(まふす)人、年久敷(としひさしく)、御右筆を勤(つとめ)給ひしが、あるとき、狂歌あり。

   筆もちてあたまかく山五十年

       男なりやこそ中根平藏

是を、有德院樣、御聞遊(おききあそば)され、御加增下されける。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「有德院」徳川吉宗。]

亡父藪野豊昭の葬儀を無事終わりました

本日、大涙雨でしたが、滞りなく亡父藪野豊昭の葬儀(初七日法要及び納骨まで)を終わりました。改めて、生前の御厚誼を御礼申し上げます。また、家族葬として参列して下さった親族方、お花を頂戴した親族方に心より感謝申し上げます。

戒名は円覚寺白雲庵住職様より、格別の御配慮を戴き、

   大豊昭雲居士(だいほうしょううんこじ)

となりました。俗名そのものを組み込んで下さった上、塔頭名の一字を配した、とてもよい戒名と存じます。父も喜んでいると存知ます。和尚様に深く御礼申し上げます。

譚海 卷之十二 淺草萱寺上人の事

[やぶちゃん注:標題の「萱寺」(かやでら)と、本文内の「榧寺」(かやでら)の表記違いはママ。後者が正しい。東京都台東区蔵前にある浄土宗池中山盈満院榧寺(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキ他によれば、慶長四(一五九九)年、『普光観智国師によって開山された。元々は「池中山盈満院正覚寺」という名称であったが、境内に榧の木』(裸子植物門マツ綱マツ目イチイ科カヤ属カヤ Torreya nucifera )『が茂っており、火災から寺を守ったという逸話から、江戸時代より「榧寺(かやでら)」と呼ばれていた』、昭和二七(一九五二)年には、末寺の山谷町宗念寺と合併した際、『正式名称も「榧寺」となった』とある。]

 

○又、享保の末、淺草榧寺に住持ありし上人、道德の御方(おかた)にて、諸人、歸依致(いたし)、十念授(さづか)り、「きとく」もおほく聞えけるが、伊勢の國の人にて、病氣にふし、既に本服心もとなく聞えし時、上人の在所より、姪・甥・伯父など、親類同道して、江戶へ參り、榧寺(かやでら)へ參りたり。侍者、

「上人の在所の親類、參りたる。」

よし、申(まうし)ければ、病床ながら、對面ありて、上人申されけるは、

「何ゆゑ、ケ樣に大勢一同に下向致したる事ぞや。定(さだめ)て、われら、重病に至りたるを聞(きき)て、我に金子・形見など貰はむ爲に來(きた)るなるべし。成(なる)ほど、我も、年來、此寺に住持し、歸依の人も、あまたあれば、財寶、なきにあらず。白無垢の小袖あたらしきほど成(なる)をも、四十二、三は持(もち)てあり。されども、是等の物、ひとつも、其方達につかはすべきことに、あらず。出家の財寶は、出家に讓るべきわけありて、それぞれ、定(さだめ)ある事なり。たとひ、まげて、此内(このうち)、ひとつなりとも、其方達へ、つかはし申事あれば、善根には、ならず。却(かへつ)て、地ごくの種をまかすることなり。最早、逢(あひ)たれば、今生(こんじやう)の暇乞(いとまごひ)は相濟(あひすみ)たり。用も、なし。早々、罷歸(まかりかへ)り候樣に。」

と申され、追(おひ)かへされたり、とぞ。

 殊勝なる事なり。

[やぶちゃん注:文末に編者割注があり、『(別本缺)』とある。

「享保の末」享保は二一(一七三六)年まで。]

譚海 卷之十二 竹姬君薩州へ御婚禮の事

[やぶちゃん注:「竹姬」のことは、前話「珂碩和尙後身の事」の注で、詳しく述べておいたので、まず、そちらを読まれたい。

 

○竹姬樣は、櫛笥(くしげ)大納言樣の御姬にて、常憲院樣の御養女にあそばされけれども、會津若君不幸の後、常憲院樣も程なく御他界也。其後とても、御代(みよ)の、ほどなく移りたるまゝ、有德院樣迄、御三人(ごさんにん)の御(お)かゝり人(びと)にて御座被ㇾ成候を、有德院樣思召(おぼしめし)によりて、薩摩の若君へ、御再緣の事、定りし也。

 其折、御かゝり人の御事(おんこと)故、御婚禮の御道具を請大名へ仰付(おほせつけ)られ、夫々(それぞれ)に獻上ありし也。

 其折、薩摩樣、我儘なる御方にて、不得心に入(いら)せられしかども、上意なれば、もだしがたく、國隱居御願被ㇾ成、其上、

「竹姬樣に、萬一、御男子、御誕生ありても、國許に世繼御座候まゝ是を立申度(たてまうしたき)。」

よし、且(かつ)、又、

「門前に水道の水を、屋敷内へかけ度(たき)。」

由など、種々(しゆじゆ)、過分の御願(おねがひ)ありしかども、有德院樣、左樣成(なる)事に御構(おかまひ)遊(あそば)されず、のこらず、願(ねがひ)のとほり、御聞濟(おききずみ)ありしと、いへり。

[やぶちゃん注:底本の竹内利美氏の後注に、『常憲院は五代将軍徳川綱吉で、有徳院は八代吉宗である。竹姫の嫁入りした薩摩殿の若君は島津継豊で、享保十四年十二月に輿入れしている。正室松平吉元の女の死後、再縁した。櫛笥大納言は大納言清閑寺熙定』(ひろさだ)『である』とある。]

譚海 卷之十二 珂碩和尙後身の事

[やぶちゃん注:この前の「譚海 卷之十二 狂人の尼勇力の事」(やはり津村の亡き母の語りである)は既にフライング公開してある。]

 

○珂碩(かせき)和尙と聞えしは、淨家の道德高き人にて、歸依する人多かりしが、奧澤[やぶちゃん注:底本では編者による傍注で『(武州荏原郡)』とある。]といふ所に、九品(くほん)のあみだ佛こん立(りう)の宿願を發し、かたの如く、造立(ざいりう)ありて、既に箔(はく)を置(おく)べき刻(きざみ)[やぶちゃん注:「その作業に当たる時」の意。]に至(いたり)て、和尙、病床に着(つき)て、程なく、往生ありけり。

 其後、會津樣奧方、男子御產(おさん)ありしに、此若君、生れ給ふより、晝夜、手をにぎり、啼(なき)いぶかりて[やぶちゃん注:使用法としては、不審だが、「何が原因か判らぬが、激しく泣くいて」という意味で採っておく。]、更に聲を、とめ給はず。

 種々(しゆじゆ)の祓(はらひ)・きたうなど、せさせ給ふに、ある陰陽師、考(かんがへ)て申(まうし)けるは、

「是は御屋敷の人、上下をわかたず、抱(いだき)まゐらせて御覽あるべし。啼止(なきやみ)給ふ事、あるべし。」

と、いひければ、申(まうす)如く、近從・女房・男よりはじめて、段々に入替(いれかは)り抱(いだき)しといへども、更に啼止給はず。

 足輕・中間類(たぐひ)に至る迄、あまねく抱申(いだきまうし)て、今は、はや、御厩(おうまや)にさぶらふ、粥焚(かゆだき)の老人ひとりに成(なり)ければ、夫(それ)を呼出(よびいだ)して、抱き奉らせける時、若君、啼(なき)いぶかり給ふ聲、止りて、にぎりたる手を開き給へば、手の内に正しく「珂碩」といふ文字あり。

 上下、あやしみ思ひて、殿に聞(きか)せ奉りしかば、此「かゆたき」を御前へ召(めさ)れて、

「さるにても、なんじ、いかなる故(ゆゑ)あるぞや。委敷(くはしく)申せ。」

と、の給ひし時、此老人、淚を流して申けるは、

「我等事は、若きほどより、奧澤の『かせき上人』に仕へ奉りし。朝夕ごとに給仕し侍(はべり)しほどに、奧澤、九品佛建立の事おこりて、いみじく造り建(たて)られしに、既に箔を置(おか)るべき一事に至(いたつ)て、上人、重病に、ふし給ふ。上人の給ひしは、

『其方、年來、召(めし)仕ひ、殊に因緣ある者なれば、申(まうす)也。我、此佛(ほとけ)、造立を、はたさず、終(つひ)に臨(のぞく)事、三世(さんぜ)の心、さはりなれば、暫(しばらく)、極樂往生を、とゞめて、二度(ふたたび)、此世に生れ出(い)で、此佛、建立を果して後(のち)、往生を、とぐへし[やぶちゃん注:ママ。]。再生の折(をり)は、必(かならず)、逢(あひ)見る事、有(ある)べし。わするゝ事、なかれ。』

と、の給ひしが、果して、此若君に生れ給ひし也。我等も、上人におくれ奉りし後(のち)、詮方なきまゝ、此御屋敷へ有付(ありつき)、御厩には、さぶらふなれ。」

と、委敷、申ければ、殿も、

「不思議成(なる)事。」

に思召(おぼしめ)され、殊に、老人を、あはれみ、はぐくみ給ひし、とぞ。

 若君、成長ありて、是等の由を聞召(きこしめさ)れければ、奧澤の佛、建立を急ぎて、催し給ふ。

 萬事、いみじく出來(しゆつらい)せしかば[やぶちゃん注:ママ。]、頓(やが)て、其あくる年、卒去ありし也。

 此若君へ、常憲院樣、御養女竹姬樣と申(まうす)を、奧方に命ぜられしに、若君、不幸なりしかば、後(のち)、薩摩へ御再緣ありし也。

 竹娠樣も、若君の御緣によつて、佛道信向[やぶちゃん注:底本に「向」に編者の訂正傍注で『(仰)』とある。]の人にならせ給ひ、諸寺へも、寄附の物、數多(あまた)ありし也。

[やぶちゃん注:「珂碩和尙」「WEB版新纂浄土宗大辞典」のこちらによれば、『元和四年(一六一八)正月一日—元禄七年(一六九四)一〇月七日。大蓮社超誉松露。江戸時代前期の僧で、世田谷奥沢の九品仏浄真寺』(東京都世田谷区奥沢ここ。グーグル・マップ・データ。私の好きな寺で、当該ウィキによれば、『阿弥陀如来の印相のうち、定印・説法印・来迎印をそれぞれ「上品」「中品」「下品」に充て、親指と接する指(人差し指・中指・薬指)でそれぞれ「上生」「中生」「下生」を区別している』特徴を持つ。特に、この寺で三年ごとに行われる「二十五菩薩来迎会」、通称「お面かぶり」は。菩薩来迎の様を、本堂と上品堂の間に渡された橋を菩薩の面を被った僧侶らが渡る特異なアクロバティクな来迎のパフォーマンスで、私は死ぬまでには、一度、見たいと思っている)『の開山。武蔵国の生まれ。俗姓は野村氏。はじめ江戸覚真寺円岩について出家し、のち下総国生実おゆみ大巌寺雄誉霊巌門下の珂山に師事。寛永一三年(一六三六)珂山が深川霊巌寺二世となったため、珂碩も同行した。明暦三年(一六五七)江戸の大火によって類焼した際には霊巌寺再建の責任者として大任を果たした。寛文七年(一六六七)には毎日銭三文を貯えて九体の阿弥陀仏像と釈迦像造立の大願を成就させ霊巌寺に安置した。翌年』、『越後泰叟(たいそう)寺住職に招かれたが、延宝六年(一六七八)世田谷奥沢の村民の招きに応じて同地に移り、新たに堂宇を建立して霊巌寺から九品の仏像を移して安置した(現・九品仏浄真寺)。珂碩は医術をよくし、特に安産には効験があるとされた。また』、『さまざまな奇瑞を示したため、信徒の間に珂碩仏として信仰された』とある。元禄七年十月七日(一六九四年十一月二十三日)示寂

「會津樣奧方」「若君」「竹姬」「會津樣奧方」会津藩藩主松平正容(まさかた 寛文九(一六六九)年~享保一六(一七三一)年:当該ウィキはこちら)の嫡子久千代(正邦)を産んだ側室智現院。当該ウィキによれば、嫡子久千代(正邦)は宝永五(一七〇八)年五月、『正邦は疱瘡を患い』、十三『歳で早世した』とあり、ここに出る「若君」のモデルが彼である。彼の当該ウィキはこちら。それによると、宝永五(一七〇八)年七月二十五日、第五代将軍『綱吉の養女である』「竹姫」と『婚約するが、家督を相続することも婚礼を挙げることもなく同年』十二月二十六日(一七〇九年二月五日)に『夭折した。代わって弟・正甫が正容の嫡男となった』とある。後、竹姫は第八代将軍徳川吉宗の養女となる。而して、当該ウィキによれば、竹姫は宝永二(一七〇五)年、公卿『清閑寺熈定(ひろさだ)の娘として京都で生まれ』た。彼女は『熈定の妹で綱吉の側室であった寿光院の姪にあたり、寿光院に子が無かったため』、宝永五(一七〇八)年に『その養女となった』。二年後の宝永七(一七一〇)年八月、『有栖川宮正仁親王と婚約し、同年』十一月、『結納』となったが、享保元(一七一六)年九月、『入輿を前に親王は死去した』。『将軍吉宗の代になると、既に正室を亡くしていた吉宗に継室にと望まれたというが、実際の血縁は一切ないとはいえ』、『綱吉の養女という立場の竹姫は吉宗にとって義理の大叔母ということになるため、当時大奥の首座であり』第六『代』将軍『家宣の正室(御台所)であった天英院から「人倫にもとること甚だしい」と反対された』が、『享保年中、改めて』『将軍吉宗の養女という身分となった』。『吉宗は新たな嫁ぎ先を探すものの、過去に』二『度も婚約者が没しているということで不吉な噂も立ったらしく、さらに一説には』、『竹姫と吉宗は男女関係にあったともいわれ、どの大名家・公家も敬遠したため、婚家探しは難航した』ともされる。しかし、『天英院の縁故により』、享保一四(一七二九)年六月、『島津継豊』(つぐとよ)『と縁組が成立し』、『同年』十二月、『入輿した』。『継豊の父の島津吉貴の友人である老中の松平乗邑の斡旋もあり、さらに天英院が実家の近衛家を通してまで縁談を持ちかけてきたため、近衛家と婚姻関係が深い島津家は断り切れなかったといわれている。将軍家息女の婚家先には多くの経済的・精神的負担がかかるため、財政難であった薩摩藩にとってこの縁組みは災難以外の何物でもなかった。加えて継豊は病弱である上に、側室腹とはいえ』、『長男の益之助(のちの宗信)が誕生したばかりであったため、島津家は、もし竹姫に男子が誕生しても、継嗣にはしないなどの条件をいくつも要求した』。『吉宗や幕府もこれを無条件に受け入れ、結婚当時は夫となる島津継豊が未だ四位以上に任官していなかったにもかかわらず、「夫が四位以上の将軍家出身の姫」に与えられる「御守殿」の敬称の名乗りを許すなど、異例の厚遇を与えた。また、竹姫の住まい用として芝屋敷の北側に』六千八百九十坪の『屋敷地を無償で下賜された。さらに婚姻後』、『継豊は従四位上・左近衛中将に昇進され』、『玉川上水を芝の薩摩藩邸に分水することが許されるなど、特別な利権を多く獲得した』。『継豊との間に一女(菊姫)を儲け、この娘はのちに福岡藩藩主黒田継高の世子の重政に嫁いた』。『また竹姫は嫡母として益之助(島津宗信)や義理の孫に当たる島津重豪の養育に携わった。重豪は薩摩の気風を嫌い、言語・作法を京・上方風に改めるべき命を出すなど開化政策を推進するが、これは竹姫の影響を受けたからであると言われている。竹姫は島津家へ嫁いでから』四十四『年間、継室として、徳川家と島津家の婚姻関係の強化に努めた』。『後に隠居した継豊は鹿児島に帰国したが、竹姫は江戸に留まり』、十『年後に継豊が鹿児島で没するまで再会することなく別居生活を送った』。宝暦一〇(一七六〇)年九月、『継豊が死去』『したため、落飾し』、『浄岸院殿と称した』。安永元(一七七二)年十二月、逝去。享年六十八歳であった。『法名は浄岸院殿信誉清仁裕光大禅定尼』で『鹿児島・福昌寺に葬られた』。『浄岸院は将軍家の養女という立場を大いに利用し、島津家と徳川家の婚姻関係を深める政策を進め、薩摩藩』八『代藩主』『宗信の正室に尾張藩藩主・徳川宗勝の娘・房姫と婚約させ(寛延元年、輿入れ前に房姫が死去。寛延』二『年には房姫の妹・邦姫と宗信の婚約の話があがったが、今度は宗信が死去)、義理の孫で』第九『代藩主』『島津重豪の正室に一橋徳川家の当主・徳川宗尹の娘・保姫を迎えさせている。これらの婚姻により、島津家と徳川家との縁戚関係が深まった』とある。数奇な人生を送った竹姫のことは、本書では次の「竹姬君薩州へ御婚禮の事」にダイレクトに続いている。

「常憲院」徳川綱吉の戒名。]

2024/03/25

譚海 卷之十二 武州秩父郡をいさぎの事

[やぶちゃん注:標題の「郡」は一応、「こほり」と訓じておく。]

 

○「秩父邊(へん)に『をいさぎ』といふもの、あり。是は、四國、『犬神』といふたぐひにて、一人、此(これ)、『をい鷺(さぎ)』の血筋なるもの、有(あり)て、人の家にあるもの、何にても、此もの、ほしがり、おもふ時は、やがて、『をいさぎ』、其家に至りて、わづらはす事、あり。酒などつくるに、付(つき)たる[やぶちゃん注:「憑(つ)きたる」であろう。]には、作り込(こみ)たる酒米(さかまい)の中(なか)、ことごとく、死(しし)たる鼠のから[やぶちゃん注:「骸(から)」。死骸。]、出來(いでき)て、米に、まじり、あふれ、けがらはしき事、いふばかりなし。」

と、秩父より來(きた)る女の、ものかたり也。

[やぶちゃん注:「をいさぎ」「をい鷺」不詳(鷺類は江戸時代までの民俗社会ではしばしば妖獣と誤認され、私の怪奇談集でも枚挙に遑がないほどある)。しかし、ここに記された「犬神」の「たぐひ」であるとか、以下の、人にその妖獣の「血筋」の家があり、その人に見込まれると、激しい怪現象が惹起されるというのは、「飯綱使(いずなづか)い」の家系を直ちに想起する。「おさきぎつね」・「くだぎつね」等と呼ぶ妖狐系の妖獣で、これは私の記事では多く出ており、総てを示せ得ないほどであるのだが、取り敢えず、ここでは「柴田宵曲 妖異博物館 飯綱の法」が参考になるはずである。]

譚海 卷之十二 兩國になまづ魚出來し事

[やぶちゃん注:標題の「なまづ魚」はママ。]

 

○兩國川に、なまずの出來(いでき)たる事は、近き比(ころ)よりの事也。

「上州の方の何とやらんいふ沼に、なまず、多く、ありしが、いつの年か、水、いでて、此ぬまを押崩(おしくづ)し、川と、ひとつに成(なり)しより、なまず、流來(ながれきたつ)て、兩國へ出來たる事になりし。」

と、古き人の物語也。

[やぶちゃん注:「兩國川」隅田川の両国橋(現在より江戸時代は下流にあった)附近での呼び名。但し、江戸時代のこの附近は、高潮の際、海水が流入するところで、汽水域にはナマズ類は通常は、通年棲息は出来ないから、本当に条鰭綱新鰭亜綱骨鰾上目ナマズ目ナマズ科ナマズ属ナマズ Silurus asotus であるとすれば、弱った個体が下流域に流れてきたと考えるべきであろう。]

譚海 卷之十二 新吉原土手編笠茶屋の事

○「淺草溜(あさくさため)」のたんぼより、よしはらへ行(ゆく)土手際に、「あみ笠茶屋」とて、常に「あを笠」を釣(つり)て置(おき)たる茶や、あり。むかしは、吉原へかよふ者も、大かたは、こゝにて、あみ笠をかりて、かぶりて行(ゆく)事にせしが、今は、其跡も、なく、笠など着て、よしはらへ行(ゆく)人は、なき樣に成(なり)たり。時代のうつりかはる事、せんかたなし。

[やぶちゃん注:底本には、最後に編者割注で『(別本缺)』とある。

「淺草溜」台東区の旧浅草区地区千束村浅草溜。浅草寺北の三ヶ町耕地の間に位置した。江戸時代には、病人や若年の囚人を収容した施設で、同様の施設は品川にも設置されていた。貞享四(一六八七)年、罪人を非人頭(ひにがしら)に預けたことから起こったとされている。当初は非人小屋に収容していたが、その後、預り人が多くなったため、元禄一三(一七〇〇)年、二十四間✕四十五間の規模の地所が与えられ、二棟(一の溜・二の溜)の長屋が立てられた(平凡社「日本歴史地名大系」に拠った)。この「浅草半助地蔵尊」(グーグル・マップ・データ)が唯一の名残であるらしい。]

譚海 卷之十二 藝者菊彌深川開闢幷小山田彌一郞事

○よし町新道(ちやうじんみち)に、菊彌(きくや)といふ女藝者ありて、聲、よく、歌うたひて、殊の外、はやり、野郞[やぶちゃん注:男色専門の陰間茶屋。]の座敷へも、日々、よばれ、盛(さかん)に、もてはやされしが、野郞のうたの「さはり」に成る程にて、よし町にて、やとはぬやうに成(なり)しかば、深川八まん前へ移り、歌の師匠を、いたし、茶店を開きしかば、江戶の客、追々、したひ來りて、鄰家(りんか)まで、はんじやうし、家たてつゝ、終(つひ)に中町(なかちやう/なかまち)と云(いふ)ものに成(なり)たり。夫(それ)までは、野原のやうなる所にて、人も住(すむ)家、少(すくな)く、小山田習二などといふ者も、爰(ここ)にありてけるを、とらへられたる也。

 此習二といふは、常憲院樣の御部屋、三の丸樣の親をうち殺(ころし)たる「ばくちうち」也。

 かやうの事なれば、

「菊彌は、深川建立(こんりう)の、はじまり。」

と沙汰せし事也。

[やぶちゃん注:「よし町新道」現在の中央区日本橋人形町一丁目三丁目相当(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「深川八まん」富岡八幡宮(深川八幡)

「小山田彌一郞」「小山田習二」三田村鳶魚著「お伝の方の一族」(電子テクスト・データ)の「無頼者同士の喧嘩」以下に詳しい経緯が記されてある。

「中町」現在の、この附近。「深川門前仲町」が通りや施設に残る。]

譚海 卷之十二 奈良屋安左衞門幷新吉原の事

[やぶちゃん注:登場人物から、これまでと同じく、佳風由来の一昔話である。]

 

○奈良屋某とて、有德成(なる)町人、有(あり)。

 其子ども、兄を安左衞門、弟を茂左衞門とて、親より、十六萬兩づつ、讓金(ゆづりきん)を得て、おごりに、暮しけるまゝ、安左衞門は堺町中村座の金主となり、茂左衞門はふき屋町市村座の金主をして、日々、芝居へ入(いれ)こみ、桟敷を飾り立(たて)、藝者・役者など、かはるはがる、見舞に來りて、一日の興(きやう)を、つくろひしに、海老藏ばかり、桟敷へ、來らず、狂言へ出(いづ)る時、舞臺より式禮を、せし、ばかり也。

 安左衞門、太鼓持に、和尙人庄助(おしやうにんじようのすけ)といふ人、有(あり)て、機嫌に、かなひ、安左衞門、盃(さかづき)の肴(さかな)に、五間口の屋敷を取らせける。今に和尙人庄助が跡は、其許(そこもと)に住(すみ)てあり。

 又、新吉原、水、あしき所にて、年來、難儀せしを、安左衞門、ついえを、かまはず、掘(ほり)ぬき井戶を造らせければ、終(つひ)に、よき水を掘(ほり)得て、今に至るまで、吉原のもの、其惠(めぐみ)をいたゞく事になりぬ。「水戶尻(みとじり)」といふ所は、井戶のある所の名也。

 茂左衞門は、名跡、斷絕せしかども、安左衞門跡は、今に殘りて、深川に住(ぢゆう)す。

 定家卿長歌を買(かひ)得て、上へ奉り、

「何ぞ、望申度(のぞみまうしたき)願(ねがひ)有りや。」

と御尋被ㇾ遊(おたづねあそばれ)けるに、

「御目得仕事(おめみえしごと)を免許あるやうに。」

願(ねがひ)奉りて、今に、御目見町人にて有(ある)事也。

 

譚海 卷之十二 古來江戶狂言座元事

[やぶちゃん注:冒頭と内容から、またまた、前話同様で、津村の亡き母の、恐らくは俳諧師佳風からの聴き語りに基づくものと推定出来る。]

 

○其比までは、堺町・ふき屋町に、中村・市むら、木挽町森田勘彌・河原崎橫之助とて、座元も四軒ありしかば、芝居の繁昌にて、役者もつとむる所、多くありし也。棧敷(さじき)は、みな、三階にてありし也。江島殿沙汰より、三階は停止(ちやうじ)になり、權之助座も、つぶし置(おか)れけり。又、生島新五郞といふ役者も遠島に被ㇾ成候也。

[やぶちゃん注:私は文楽好きの、大の歌舞伎嫌いであるので、もう、基本、注をしたくない。私が全く分らぬこと以外は、以降、悪しからず。

譚海 卷之十二 芝居狂言河東ぶしを用し事

[やぶちゃん注:標題「用し」「もちひし」。前話同様で、津村の亡き母の、恐らくは俳諧師佳風からの聴き語りもの。]

 

○「其比(そのころ)は、芝居狂言に『河東ぶし』とて、所作をいたせしかば、今の狂言とは、樣子、上品にて、面白き事也し。尤(もつとも)、「出語(でがた)り」抔(など)と云(いふ)事はせず、すだれの内にて、語る斗(ばか)り也。但(ただし)、半太夫は芝居の淨るりへ出(で)る事をせず、「河東」ばかり也。「けはい坂の少將」に玉澤鱗彌と云(いふ)が成(なり)て、敵に追れて、茶やの内へ逃入(にげいり)、追手、來(きた)る時、市川門之助、曾我の五郞にて、人、かはりて出(いづ)る時、「河東」の淨るり也。「雀、海中へ入(いり)て蛤(はまぐり)と成(なる)。」と語り出(いだ)したる折(をり)の事、聞(きく)人、淚を、おとさぬは、なかりし。今に見るやうに、覺ゆる。」

と申されし。

[やぶちゃん注:「河東ぶし」「譚海 卷之十二 河東の事」の部分の私の注を参照されたい。

『「けはい坂の少將」に……』「けはい坂」はママ。歴史的仮名遣では「けはひ坂」が正しい。「壽曾我對面」(ことぶきそがのたいめん)のワン・シーン。]

譚海 卷之十二 あげ卷助六由來の事

[やぶちゃん注:またまた、前話同様で、津村の亡き母の、恐らくは俳諧師佳風からの聴き語りもの。]

 

○市川海老藏、「助六」の狂言と云(いふ)は、ゑび藏、御城(ぎじやう)の老女衆江島殿より、「紫の手ぬぐひ」もらひしを、もとだてにして、「河東(かとう)ぶし」にて、

「ひとつ印籠(いんろう) ひとつまへ ゆかりの色の紫」

などと唄ひし事、とぞ。

 今は、一流の狂言に殘りて、折々、興行する事とは、なりぬ。

[やぶちゃん注:「河東ぶし」「譚海 卷之十二 河東の事」の部分の私の注を参照されたい。

「老女衆江島」正徳四(一七一四)年に発生した大奥の大スキャンダル「江島生島事件」の彼女である。

「ひとつ印籠 ひとつまへ ゆかりの色の紫」myk1016氏のブログ「さるのちえ」の「助六の出端と河東節」を見られたい。前の二句は『一つ印籠(いんろう)一つ前』とあるが、後者は『ゆかりの筋の紫も君が許しの色見えて』である。]

譚海 卷之十二 市川海老藏の事

[やぶちゃん注:前の俳諧師「佳風」の津村の亡き母の聴き書きの語りの続き。]

 

○「市川海老藏と云(いふ)芝居役者、若き時、佳風の所へ、每日、物よみに參りたりしが、いつも、敷居の外(そと)に居(ゐ)て、内へ入(はい)らず。本を、ならひ、をはれば、やがて歸りたり。一座衆へも、ことに、うやうやしく式禮して、うやまひ、かへること、とぞ。此ゑび藏、類燒に逢(あひ)て、三升屋助十郞と云(いふ)ものの方(かた)へ泊居(とまりをり)たる時、助十郞二男を、もらひて、養子となし、今、團十郞とて、ありしが、ゑび藏、大坂へ登りたる時に、團十郞も同道せしに、大坂のたてしに、半疊(はんじやう)をうちこまれしを、殘念におもひ、病氣と成(なり)て、團十郞は、大坂にて、なくなりぬるなり。ゑび藏は、芝居役者の内にては、三代者にて、誰(たれ)にも、頭を、さげぬ事なりしに、澤村宗十郞と云(いふ)、京より來(きた)る役者、奇特のものにて、段々、上手に成(なり)て、ゑび藏と同じ座をつとめける時、はじめて、曾我兄弟の狂言を、なせしが、宗十郞の發明に、をれて、中(なか)よく成(なり)たる、とぞ。ゑび藏も、宗十郞も、「はひかい[やぶちゃん注:ママ。]」を好(このみ)て、上手なる、よし。「丸く、四角、三角なる物」、題、發句、いひけるに、ゑび藏は、

   そばからを升にはかりて盆に入れ

と申(まうし)ければ、宗十郞は、

   奉書の耳をちぎりて灸のふた

と申ける、とぞ。」

[やぶちゃん注:底本には最後に編者割注で『(別本缺)』とある。

「市川海老藏」二代目市川團十郎、後に二代目市川海老蔵となった彼であろう。詳しくは当該ウィキを見られたい。

「團十郞」これは三代目市川團十郎である。当該ウィキによれば、『父は初代團十郎の高弟初代三升屋助十郎。幼名助太郎』。同一〇(一七二五)年  、『五歳で二代目團十郎の養子となり』、同十二年、『初舞台。初名市川升五郎』。享保二十年、『養父二代目の隠居にともない、三代目市川團十郎を襲名。将来を嘱望されていたが、寛保元』(一七四一) 年、『旅先の大坂で発病し、翌年のはじめに』二十二『歳で病死した』とある。

「半疊をうちこまれし」「半疊」は、元は江戸期の劇場の土間席で観客が用いた敷物、又、これを賃貸する「半畳売り」の略語であったが、半畳は畳表へ布地を貼った粗末なもので、賃貸料は貞享年間(一六八四年~一六八八年)で五文、享和三(一八〇三)年には十文であった。「半畳を入れる」・「半畳を打ち込む」という俗語は、役者の演技などに不満・反感を表現する際、観客が、この敷物を舞台に投げる行為から起こった。

「澤村宗十郞」初代助高屋高助。彼は初代澤村宗十郎としても知られる。当該ウィキによれば、延享四(一七四七)年に、『京都中村粂太郎座で』「大矢数四十七本」の『大岸宮内を演じて大当りとなる。同年』、『江戸に下って三代目澤村長十郎と改名し』、十一『月には中村座顔見世で』「伊豆軍勢相撲錦」の『河津三郎を勤める。このときに舞台を共にしたのが二代目市川團十郎の俣野五郎』(☜ ☞)『と初代瀬川菊之丞の実盛娘熊野で、この河津と俣野の相撲に熊野がからむ所作事を見せ、豪華な千両役者が揃う「三千両の顔見世」という評判をとった』とある。]

譚海 卷之十二 同佳風物語行狀の事

[やぶちゃん注:「佳風」は前話に出た俳諧師の俳名。されば、津村の亡き母の思い出話の続きである。]

 

○「佳風の物語に、

『地藏と、いなりは、時々、はやるもの也。』

と。

『淺野家の士、四十七人、吉良殿を、夜討せし事、ケ樣の事は末の世に至りては、殊の外、大(たい)そう[やぶちゃん注:ママ。]成(なる)事に云(い)ひつたふるもの也。』

とぞ。

 佳風、子ども一人ありしが、本庄樣ヘ、小姓(こしやう)に抱へられてありける。ある時、本庄樣、桂風に、

『逢(あひ)たき。』

よしにて、門前迄、御越(おこし)有(あり)しかども、「留守」のことはり[やぶちゃん注:ママ。]いひて、逢(あひ)まゐらせず、歸しまゐらせし、とぞ。」

[やぶちゃん注:「本庄樣」美濃国高富藩を治めた譜代大名本庄家か。]

譚海 卷之十二 俳諧師の事

○「享保のはじめ迄は、俳諧師といふ者、多からず。適々佳風などいふ人ありしかども、浪人にて、刀をさし、俳諧をするといへども、學文など、ありて、每日、物よみ、習(ならひ)にくる人、絕(たえ)ず。其比(そのころ)の名ある方々、常に往來して、客人、絕(たゆ)る事、なかりし。幼き比にて、能(よく)も覺えざりしが、中根條右衞門といふ天文(てんもん)の師匠樣ばかり、覺え居(をり)たりし。」

と物語り也。

「又、大門通(だいもんどほり)に銅屋治兵衞といふ人、俳諧を好(このみ)て、微祿して、家を立退(たちのく)時、

   山がらの跡恥かしや古ふくべ

といふ發句を柱に書(かき)て出(いで)しが、後(のち)、「はいかい師」に成(なり)て、「水國」と云へり。是等が、江戶にて、俳諧師といふものの、はじまりなり。」

[やぶちゃん注:やはり、津村の母の昔語りである。

「享保」一七一六年から一七三六年まで。

「適々佳風」不詳。されば、俳号の読みも判らない。

「中根條右衞門」不詳。

「日月星辰などの運行や位置、また、距離などを見て、吉凶を占う人。俳諧師は、この頃は点者で食ってはいかれないので、主業を別に持っていた。

「銅屋治兵衞」「水國」不詳。されば、俳号の読みも判らない。]

譚海 卷之十二 田所町九兵衞女某孝行の事

○江戶、田所町(たどころちやう)に、九兵衞といへる「古(ふる)がね」を商賣するものありしに、其娘、母は、なし、てゝ親ばかりなるに、至つて孝行なりし。

 十七、八になるまで、何方(いづかた)へも緣付(えんつき)せず、晝は、親の商賣に出(いづ)る留守をなして、竃(かまど)の事を、つとめ、日のくるゝ頃まで、親のかへらざれば、皮頭巾をかぶり、立付(たつつけ)を、はきて、男のごとく、出立(いでたち)て、「てふちん」[やぶちゃん注:ママ。「提灯」は「ちやうちん」であるが、「挑灯」と書いた場合は「てうちん」。孰れにも合わない誤りである。]をさげて淺草の邊(あたり)までも、迎へに行(ゆく)事を、せり。

 容貌も、きよら成(なる)女にてありしかども、年たけるまで、片付(かたづく)事も、せでありし。

 或年の類燒の後(のち)、親子、何(いづ)かたへか、「屋うつり」せし。

 其後、おとづれを、きかず。

 母の十歲ばかりに成(なり)し頃まで、したしく、なれたりしかば、

「をりをり、思ひ出(いで)て、なつかしくおもはるゝ。」

と申されし。

[やぶちゃん注:底本には最後に編者割注で『(別本缺)』とある。この話も津村の亡き母の思い出話である。逢ってみたかった娘ではないか。

「田所町」現在の中央区日本橋堀留町二丁目(グーグル・マップ・データ)。

「立付」裁付(たっつけ)。労働用の山袴(やまばかま)で、「まった袴・ゆき袴」とも呼び「裁着・立付」とも書く。股引(ももひき)に脚絆を付けた形で、膝下が、ぴったりした袴。古くは地方武士の狩猟服であったが,戦国時代に一般化し、江戸時代には庶民の仕事着となった。相撲の呼出し・角兵衛獅子なども着用した。「軽衫」(かるさん)も同じ(この語源は「ズボン」の意味のポルトガル語の「calção」である)。]

譚海 卷之十二 おらんだ人象を獻上せし始末の事

○有德院樣御世に、阿蘭陀より象を渡したり。元來、「めを」[やぶちゃん注:底本に編者の右傍注があり、『(雌雄)』とある]、二疋、渡したりしが、長崎にて、「め」の方、なく成(なり)たるに、其時の長崎奉行、象の皮を、はぎ、象牙(ざうげ)などを、とらせられけるに、おらんだ人、申(まうし)けるは、

「象の死(しし)たる時は、我國には、左樣には致さず、人の如く、戒名を付(つけ)て、はふむり、弔ひをする事也。」

迚(とて)、達(たつ)て止(と)めけれども、御聞入(おききいれ)なく、其如く、皮など、はがせ、御持參ありしに、其骨・皮、積(つみ)たる船、道にて、水、入(いり)て、漸(やうやう)、江戶へ着岸せしかど、其船の内の象の皮をはじめ、何も、御用、立(たた)ず。

 其後、御奉行、象の眞似などを、なされて、失(うしな)給ひし、とぞ。

 扨、象は、雄(を)なるものばかり、一疋、殘りたるを、江戶へ連來(つれきた)り、

「御上覽に入るゝ。」

とて、常磐橋を越(こゆ)る時、橋板、そんじたる所ありて、象の足にて、ふみ破りたるを、やうやうにして、たすけ、取上(とりあ)げ、登城せしかば、其後、此象、橋、あるを見ては、殊の外、恐れて、渡りかねたる、とぞ。

 はじめは「濱の御殿」に置(おか)せられ、「象遣ひ」といふ者に、おほせて、物を飼(かは)せられしに、「象つかひ」、ひそかに象の飼(やしなひ)ものの内を、押領して、飼(かひ)やう、つねに、すくなかりしに、象、是を知りて、ある時、其「象つかひ」を鼻にて、卷よせ、

「ひし」

と、うごかさず、振(ふり)あげ、振あげ、石にあてて、終(つひ)に打殺(うちころ)しつる、とぞ。

 象は、兎角、饅頭を好(このみ)て、くふ物成(なる)よし。

 後には、四谷の末(すゑ)、中野といふ所に、小屋を立(たて)て入置(いれおか)れ、飼(かは)せられしかば、見物の人も、そこに行(ゆき)て見る事になりしが、數年(すねん)の後(のち)、死(しし)たる、とぞ。

 象は「はな」にて、ものを取(とり)てくふ事、人の、手にて、物を取(とる)が如し。

 竹の葉をも、くふ也。竹の葉を、枝ながら、あつめて、投(なげ)やれば、鼻にて、卷寄(まきよせ)て、

「しはしは。」

と、しごけば、竹の葉ばかり、地に散(ちり)たまるを、枝を、すてて、鼻にて、竹の葉を、あつめ取(とり)て、くふ事也。

[やぶちゃん注:先行する「譚海 卷之十二 象の事」、及び、そこに張った私の記事を参照されたい。]

譚海 卷之十二 傀儡師の事

○その頃までは、「くわいらい師」、又は「山猫まはし」とも、いふ。

 箱に紐をつけて、えりに、かけ、箱を、おふて、門ごとに立(たち)て、「をぐら山」といふうたを、うたひて、箱のうちより、ちひさき人形を、一つ、ふたつ、出(いだ)して、うたに、あはせて、うごかし、はてには、

「山ねこが、ましよ。」

とて、何やらん、「いたち」のごとき、毛にて作りたるものを取出(とりいだ)して見する事なりしが、ちかき頃に成(なり)ては、そのたぐひ、何方(いづかた)へ行(ゆき)たるにや、傳(つて)も、なし。

「ふるき物のすたるるは、をしき事なり。」

と申されき。

[やぶちゃん注:底本には、最後に編者割注で『(別本缺)』とある。なお、この話、最後の「申されき」(敬語・直接過去)から推して、津村の亡き母の述懐の思い出話と思われる。

「傀儡師」「くぐつし」とも読む(わたしは「くぐつ」の読みが好きである)。人形を使って諸国を回った漂泊芸人。特に江戸時代、首に人形の箱を掛け、その上で人形を操った門付け芸人をいう。「傀儡(くぐつ)回し」「木偶(でく)回し」「箱まわし」「首掛人形」、また、ここに出るように「山猫廻(まわ)し」などとも称した。予祝演芸として新年の風俗として、季語にもなっている。

「山猫まはし」当該ウィキによれば、『首から下げた箱の中から猫のような小動物の人形を出すことから江戸では別名「山猫」とも呼ばれた』とあった。

「ましよ」「まし」は「ます(在す・坐す)」で、「来られましたよ」の意と思われる。

「傳」「つて」で、「仲立ち」(呼びだしたり、連れて来る手段や人物)の意、或いは、「人々の口・話」の意であろう。]

譚海 卷之十二 小兒古來翫物の事

○母の、

「おさなき頃までは、子どものもてあそびとては、『常磐御前の道行』とて、土にて作(つくり)たる人形。木のふしを、けづり、色どりて、『木猿(きざる)』とて、こしらへたる二品ならでは、なかりしが、今は、種々の、もてあそびもの、なき物もなく、造り出す。世のおごりに成(なり)たるゆゑなるべし。」

と申されき。

[やぶちゃん注:底本には最後に編者割注で『(別本缺)』とある。]

譚海 卷之十二 盜賊方藤掛伊織殿事

○藤掛伊織樣と云(いふ)、盜賊御改[やぶちゃん注:底本では「御改」の右に、補正傍注で『(改役)』とある。]ありて、きびしく、惡者を、とらへ給ひ、直(ただち)に御長屋にて、せめさせ給ふに、其中に惡者にも、あらで、まぎれ取(とら)れたる者も、强き責(せめ)に逢(あひ)て苦しさのあまり、えせぬ事までも、罪におちて、「火あぶり」抔(など)になり、又は、「引き責め」にて死(しし)たる者もありて、諸人、久敷(ひさしく)恨(うらみ)を含(ふくみ)て有(あり)しが、御役御免ありし其日、あぶれ者共、押込(おしこみ)て、其屋敷を打(うち)こはし、雜具等まで、みぢんに引(ひき)ちらし、さわがしかりし事也。其屋しきは、神田御玉が池にて、ありし。

[やぶちゃん注:「藤掛伊織」喜安幸夫「隠れ浪人事件控 隣の悪党」(学研プラス・二〇〇八年刊)の「あとがき」によれば(「グーグルブックス」で視認)、

著者:元文三(一七三八)年に『火盗改に任ぜられ、その仕事振りは』、ここに記されたように惨忍に過ぎたという。『当時の落首に次のようなものがあった』。『寄れば取り 触れば取って見たがるが』『手掛け足掛け さては藤掛け』とあり、『結局』、『人々の恨みを買い、ほぼ一年で御役御免となった。そのときに、どこの誰とも知れぬ者たち数百人がお玉ガ池の藤掛屋敷を取り囲み、門を破るなどの狼藉を働いたのも事実である』とあった。

「引き責め」江戸の最高刑の一つである「鋸引(のこぎりび)き」であろう。

「神田御玉が池」ここに跡がある(グーグル・マップ・データ)。]

譚海 卷之十二 江戶の非人もとゞりをきられしはじまりの事

[やぶちゃん注:この前の「譚海 卷之十二 駿河御城杜若長屋の事」は既にフライング公開してある。]

 

○非人の「もとゞり」を切(きり)て、常の人に、わかるゝやうに、し給ひしは、大岡越前守樣、町御奉行の時、成(な)され候より、はじまりたる事也。

[やぶちゃん注:この事実はネットでは見出せない。]

譚海 卷之十二 安藝赤坂中やしきの事

○安藝守樣御中屋敷は、赤坂の内にあり。是は加藤淸正の住(すま)れたる屋敷【原頭注―是は井伊家中屋敷也。[やぶちゃん注:これは底本では二行割注。]】にて、今に類燒なく、其時の儘也。

「爰には、狸狐(りこ)など住(すみ)て、あやしき事、多し。」

とぞ。

[やぶちゃん注:「井伊家中屋敷」現在の東京都千代田区紀尾井町のホテルニューオータニの敷地附近。「旧井伊家中屋敷のカヤ」(グーグル・マップ・データ)のみが残る。]

譚海 卷之十二 尾州外山山莊の事

○尾州、外山(とやま)御下屋敷は、外人(そとびと)に見せらるゝ事を、堅く禁ぜらるゝ。行(ゆき)て見たる女房の物語りしは、

「大成(おほきなる)池あり。山を𢌞(めぐ)りて、川の如く、夫(それ)に渡せる大橋也。要害にかまへられたる所成(なる)故に、見せらるゝ事を禁じ給ふ。」

とぞ。

[やぶちゃん注:「尾州、外山御下屋敷」「江戸マップβ版」の「大久保絵図(位置合わせ地図)」をリンクさせておく。『戶山尾張殿』がそこ。現在の『戸国立感染症研究所』の関連施設を東とし、西方の外山公園地区・南の宅地群を含む広大な場所である。「要害にかまへられたる所」の「要害」とは、如何なる意味かは調べ得なかったものの、敗戦まで、かの「陸軍戸山学校」があった場所であるから、古くからの武蔵の要害の地であったことは想像出来るが、どなたか、お教え下さると幸いである。]

譚海 卷之十二 同靑山屋敷の事

[やぶちゃん注:標題の「同」は前話に出た広島藩。]

 

○安藝守樣、御下屋敷、靑山にあり。善光寺脇より北へ入(いる)所にて、代々木の八幡宮の近き所也。

 御屋敷内、一里餘もあり。御庭にも茶園・田畑をはじめ、田舍のごとくにて、百姓、六軒、御扶持給りて、妻子をぐして、常に住(すみ)つきて、是を作る也。

 殿の御出(おいで)のときは、空宅(あきや)にして、其日は、外へ移り住(すむ)也。

 御庭の廣き事、云(いふ)ばかりなし。東叡山の如く、松林、茂りたる所あり、そこに有(ある)御亭には、「松の御茶屋」と云(いふ)。紅葉ばかり、おびたゞしき所には、「もみぢの御茶屋」とて、あり。

 すべて、草木、一色に一町程づつ、同じたぐひ斗(ばかり)りを植(うゑ)あつめ、皆、其物によりて、「何の御茶屋」と稱する所、いくらと云(いふ)、限(かぎり)を、しらず。

 谷川、深く流れて、高き岸より臨めば、峯を行(ゆく)やう成(なる)所あり。

 牡丹・芍藥も、一所々々にありて、牡丹なども、ケ程まで多くある事は、はじめて見る事也。

 梅・杜若(かきつばた)抔(など)の、わかち植(うゑ)られし所、殊に面白し。

 さして、築山(つきやま)・池抔とて、わかち作られたるにはあらずして、自然の景色(けしき)、殊の外に述(のべ)がたき、とぞ。

[やぶちゃん注:「安藝守樣、御下屋敷、靑山にあり」底本の竹内利美氏の後注に、『広島藩主浅野家。寛政年間』(本書の執筆終了は寛政七(一七九五)年)『は浅野安芸守重晟が当主であった。その下屋敷が青山にあったのである』とある。「江戸マップβ版」の「青山渋谷絵図(位置合わせ地図)」をリンクさせておく。『松平安藝守』とあるのがそれ。現在の「明治神宮駅」の東北直近の「神宮前(四)」附近に相当する。

「善光寺」ここ(グーグル・マップ・データ)。]

譚海 卷之十二 同邸雛祭の事

[やぶちゃん注:標題の「同邸」は前話に出た広島藩で、本文の「安藝守樣」は第二代藩主浅野光晟以降(但し、第三代は家督を継いだ翌年年初に疱瘡で死去しており、「安芸守」の授位していない)を指す。]

 

○安藝守樣に「御家附の雛」とて、「おもての書院」に飾らせらるゝ雛、あり。是も御守殿[やぶちゃん注:前話の振姫を指す。]の比(ころ)、御持參の雛にて、世にたぐひなき物なれば、其以來、御家に祕(ひ)し、つたひて、飾らるゝ事にて、御姬樣方ありても、其方の雛にはあらず、規式(きしき)に備(そなへ)られたる「ひひな」也。

 殿の御劍(ぎよけん)は、つねの雛のごとき物なれ共(ども)、小鍛冶宗近、打(うち)たるもの、とぞ。

 其外、鑓・長刀(なぎなた)・武具をはじめ、皆、名作の物、多し。

 御夫婦をはじめ、家老・用人、次々の家司・奴・足輕の類(たぐひ)まで、皆、揃(そろへ)てあり。奧の女中も、又、其數(そのかず)に同じ事に、備(そなへ)あり。

 若君を、乳母のいだきたる、あり。此人形、若君のやうす、生(いき)たる人の如く、粉(おしろひ)斗(ばか)りを、もつて、拵へたるものとは見えず。珍しきもの也。

 尤(もつとも)疊を敷(しき)ならべ、御段(ごだん)を、しつらひて、飾る。

「誰(たれ)は、何を仕𢌞(しまはし)たる。」

と云(いふ)事、其年の、三月、「ひひな」を仕𢌞たる人の名を記して、仕廻置程(しまはしおくほど)に、大切にし給ふ也、とぞ。

[やぶちゃん注:私の家で、毎年、飾る連れ合のいものをお見せしよう。名古屋だから豪華である。今年も飾った。

 

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私は雛人形が幼稚園の頃から大好きなのである。]

譚海 卷之十二 藝州邸にて嚴島祭禮おこなはれし事

○松平安藝守樣、御先祖奥方、御城(ごじやう)より御入輿被ㇾ成(ごじゆよなられ)て、御守殿(ごしゆでん)など出來(いでき)て、華麗なる事にありし、とぞ。

 其奧樣、御願(おんねがひ)にて、

「嚴島の祭禮、御覽被ㇾ成度(なられたき)。」

よしにて、態々(わざわざ)、宮島の社人・神女(みこ)等、江戶へ召せられ、安藝守樣、築地(つきぢ)海邊(うみべ)の御下屋敷にて、祭禮、興行あり。

 例の如く、何事も劣らず、嚴島の祭禮の通りに行(おこなは)れしに、はてがたに、神供(じんく)を、神主、奉(たてまつ)る時、

「藝州にて、いつも、神の仕(つか)へ給ふ『からす』也。」

とて、二羽、飛來(とびきた)り、此神供を、ふくみて、虛空(こくう)に飛上(とびあが)りて、失(う)する事也。

 此日も、其(その)如く、神供を奉りけるに、いづこともなく、鴉、二羽、飛來りて、藝州にてある如く、ふくみ去りて、空に飛(とび)かけりて、うせければ、皆、

「神威の奇特(きどく)成(なる)事。」

を、ふしぎに沙汰せし、とぞ。

[やぶちゃん注:「松平安藝守樣、御先祖奥方、御城より御入輿被ㇾ成て」「松平安藝守」は安芸国広島藩第二代藩主浅野光晟(みつあきら 元和三(一六一七)年~元禄六(一六九三)年)である。彼は家康の外孫であったことから、松平姓を許され、初めて「松平安芸守」を名乗っているからである。而して、その「御先祖奥方、御城より御入輿被ㇾ成て」というのは、光晟の父浅野但馬守長晟(備中国足守藩主・紀伊国和歌山藩第二代藩主・安芸国広島藩初代藩主)の正妻であった徳川家康の三女、振姫(ふりひめ)=正清院(しょうせいいん)を指す。幸薄い彼女の詳しい事績は当該ウィキを見られたいが、それによれば、彼女は文禄四(一五九五)年二月に『豊臣秀吉の命により蒲生秀行と婚約』、慶長三(一五九八)年十一月に『輿入れ』したが(当時数え十九歳)、十四年後、『夫の秀行が慶長』一七(一六一二)年に三十歳の若さで『急死』してしまう。而して『元和元年』(一六一五年)、『家康の命により』、『振姫は、和歌山藩主の浅野長晟と再婚することとなり、子を置いて蒲生家を去』り元和二(一六一六)年四月に『輿入れする。翌年に和歌山に入り、長晟の次男』『浅野光晟を産むも、その』十六『日後に死去した。享年』三十八であった。従って、後の文の「安藝守樣、築地海邊の御下屋敷にて」というのは、現在の「安藝守」が父から引き継いだ「築地海邊の御下屋敷」で浅野長晟の命令で行われたと読まないとおかしいことになる。厳島神社の神使がカラスであることは、先行する「譚海 卷之八 藝州嚴島明神祭禮の事」に出ており、また、私の電子化注『「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「二」の(2)』でも考証されているので、参照されたい。]

この前後数日の私

 ルーティンの「譚海」も、たまたま辛気臭い宗教絡みのものが続き、あまり興味を惹かれるものがなく、かといって、何もしないと、落ち着かなかった。

 そこで、自宅の斜面――実際に住宅の建っている面積の恐らく五分の一以上が、無駄な平地+広い斜面+その崖下一メートル分の何の役にもたたない平地である――の、大改造――具体には、鬱蒼と蔓延している葛と竹の大伐採をやった。葛に三日、竹に三日かかって、昨日の午前中に終えた。

 葛は地面の中と表面を文字通り、八岐大蛇の如くウネウネと蔓延り、連れ合いも驚くほど長い、直径十センチ超、長さ二・五メートルのモサのような根も掘り出し、断裁した。

 然して、そ奴らによって、生きる地面も空間も奪われていた、亡き母が植えた沢山のシャガの生き残りも、伸び伸びと生えられるように救助した。

 父のため、ではない。父の葬儀までの中有(ちゅうう)みたような宙ぶらりんの時間を耐えるためにであり、いや、寧ろ、亡き母のために、やったのである。 以上

2024/03/24

譚海 卷之十二 江戶六地藏の事

[やぶちゃん注:冒頭の「又」は、仏像建立譚と遠島の連関に拠る。]

 

○又、地藏坊と云(いふ)道心、年來の心願にて、銅佛に丈六の地藏尊、六體、勸化(かんげ)造立(ざうりふ)し、上へ御願申上(おんねがひまふしあげ)、千住・品川・板橋等、六ケ所の出口へ備へたりしが、其後、又、

「六地藏、建立致し度(たき)。」

よし、願申上ければ、

「不屆。」

成(なる)よし、御咎(おんとが)にて、遠島被仰付し、とぞ。

[やぶちゃん注:ウィキの「江戸六地蔵」によれば、『宝永から享保年間』(正徳を挟んで一七一六年から一七三六年まで)『にかけて江戸市中の』六『箇所に造立された銅造地蔵菩薩坐像で』、『江戸深川の地蔵坊正元が、宝永』三(一七〇六)年に『発願し』、『江戸市中から広く寄進者を得て、江戸の出入口』六『箇所に丈六の地蔵菩薩坐像を造立した。病気平癒を地蔵菩薩に祈願したところ』、『無事治癒したため、京都の六地蔵に倣って造立したものである』とある。『鋳造は神田鍋町の鋳物師、太田駿河守藤原正儀により、像高はいずれも』二・七〇メートル『前後である。造立時には鍍金』(メッキ)『が施されていた(東禅寺の第二番は弁柄色の漆)が、現在では金箔の痕跡をわずかに残すだけとなっている。それぞれの像内には小型の銅造地蔵菩薩坐像や寄進者名簿などが納められていた。また、像や蓮台には寄進者の名前が刻まれており、寄進者は合計すると』、七万二千『名を越える』。『江東区永代寺の第六番は富岡八幡宮の二の鳥居付近にあったが、明治元年(』一八六八『年)の神仏分離令による廃仏毀釈により、旧永代寺が廃寺になり』、『取り壊された。現存する第一番から第五番までは、すべて東京都指定有形文化財に指定されている』。『第六番の代』りの地蔵『仏が、上野の浄名院(台東区上野桜木二丁目』『)に祀られている』が、『浄名院が江戸六地蔵を名乗っている事については、他の札所でも賛否両論あるらしい』とあった。また伊藤博氏のサイト「探究クラブ」の「探求 江戸六地蔵│江戸六地蔵について│」に、『江戸六地蔵(後の六地蔵)について』の項で、『造立に至る経緯』として、『江戸六地蔵が造立された経緯については、滝 善成「空無・正元と江戸六地」』『に掲載の「当国六地蔵造立之意趣」(宝永』三『年』五『月吉祥日に筆』「江戸六地蔵建立之略縁起」『所収)の文章を挙げることにします。(下記の「予」は、六地蔵を造立した地蔵坊正元)』として、『抑々予十二歳の比呂郷を出、十六歳にして剃髪受戒す。其後廿四歳の秋乃比より重病を請、廿五歳の春の末に至て、医術も叶難く死既に極れり。……父母是を悲、偏に地蔵菩薩に延命を祷奉る。自も親の歎骨髄に通、一心に地蔵菩薩に誓願すらく、我若菩薩の慈恩を蒙て、父母存生の内命を延る事を得ば、尽未来際に至るまで、衆生の為に菩薩の御利益を勧、多尊像を造立して衆生に帰依せしめ、共に安楽を得せしめんと誓、其夜不思議の霊(の俗字)験を得て重病速に本復す。其後諸国を廻無縁の衆生に多縁を結ばしむ。……帝都の六地蔵に同く、御当地の入口毎に一躰づつ金銅壱丈六尺の地蔵菩薩を六所に都合六躰造立して、天下安全・武運長久・御城下繁栄を祝願し、兼而ハ又諸国往来の一切衆生へ普く縁を結バしめんと誓』とあり、注で、『地蔵坊正元については、「何時・何処で生れ、誰について出家したのか、については何一つ明かされていない」』『とされています』。『前記引用文からすると、地蔵坊正元は』二十四『歳の時に大病を患い、病気平癒を地蔵菩薩に祈願する際に誓った菩薩像の造立を「帝都の六地蔵に同く」、つまり京都の例(京都六地蔵)に倣って、江戸市中』六『ヶ所に地蔵菩薩を一躰ずつ造立し、天下安全・武運長久・御城下繁栄を祝願したということのようです』とあったが、二回目で咎を蒙り、遠島になったことは記されていない。恐らくは、二度目のそれは、幕府から身分不相応のやり過ぎと認められて、罪となったものでもあろうか。]

譚海 卷之十二 美濃屋淸兵衞事

[やぶちゃん注:冒頭の「亦」は贅沢が祟って遠島になった前話を受けている。]

 

○亦、美濃屋淸兵衞と云(いふ)もの、あり。

 是も、骨切り[やぶちゃん注:ここは「十分でこの上ないこと・申し分のないこと」相応の身代を持った人物であること。]の町人成(なり)しが、何やら、總代運上(うんじやう)を願申立(ねがひまうしたて)、

「江戶中、人、一人より、一ケ月に、一錢づつ、運上被ㇾ下置候樣。」

に相願(あひねがひ)、[やぶちゃん注:「運上」は江戸時代には雑税の一種として、商・工・漁猟・運送などの営業に対して、一定の率で営業許可手数料を課したものを言うが、以上の美濃屋の願い出の意味が、私には、よく判らない。彼は江戸の物流搬送を扱う者たちの総代であったものか。されば、江戸の全住人から一律に、その扱い手数料として「一銭」を要求したものか。]

「不屆(ふとどき)。」

に思召(おぼしめさ)れ、遠島、仰付(おほせつけ)られしが、年、經て、赦免あり、歸府いたして、專修[やぶちゃん注:「專修念佛」。浄土宗。]の信心、道者[やぶちゃん注:底本では「道」の後に、同一ポイントの補正注で『(心)』とある。]と成(なり)て、關東に七ケ所の觀音を、丈六(じやうろく)に建立(こんりふ)せしが、いかなる事にや、千駄木觀音寺の雪隱(せつちん)にて、自害して、失(うせ)たり。

 其觀音の内、千駄木・靑山長谷寺・鎌倉の長谷の觀音など、其數(かず)の内也。

[やぶちゃん注:「一丈六尺」(約四・八五メートル)」の略で、仏像の標準的な高さとされる。

「千駄木」「の觀音堂」東京都文京区千駄木にある「観音堂」か(グーグル・マップ・データ)。

「靑山長谷寺」不詳。]

譚海 卷之十二 大傳馬町住居町人丸屋何某が事

○大傳馬町(おほでんまちやう)二丁目[やぶちゃん注:底本では「二」の右に、補正傍注で『(三)』とある。]、丸屋何某(なにがし)、とて、ゆたかなる町人、廻船抔(など)を持(もち)て、

「沖に見ゆるは丸屋が船」

と、うたひし物(もの)成(なり)しが、おごりに長じたるあまり、其妻、常憲院樣御成の節、店へ拜見に出(いで)て居(をり)て、名香を焚(たき)たりしを、御咎(おんとが)ありて、遠島、仰付(おほせつけ)られ、斷絕せし、とぞ。

[やぶちゃん注:これは、同内容の記事が、既に「譚海 卷之五 江戶町人丸屋某滅亡の事」に出ている。比較されれば、判る通り、言い訳の仕様がない全くのダブりである。]

譚海 卷之十二 正德の頃柳原土手下曠野の事 正德年中出火の事

[やぶちゃん注:「曠野」は「あらの」と訓じておく。なお、次の話も津村の実母の思い出話で連関するので、カップリングした。]

 

○母は正德の生れ成(なり)しが、其(その)幼稚のころほひは、

「大門通り、甚兵衞橋より西、家居(かきよ)も、まれまれにて、柳原土手まで見やる程の野原にて、上より、豕(いのこ/ぶた)を多く、「はなち飼(がひ)」にせさせ給ふが、晝も、往來に、あまた行逢(ゆきあふ)事にて、むくつけく、おそろしくありし事也。」

とぞ。

[やぶちゃん注:「正德」一七一一年から一七一六年まで。新吉原遊廓は明暦三(一六五七)年の大火の後、日本橋葺屋町から浅草の北部に移っているが、この景色は、その浅草の新吉原の周囲の前期の頃の、周囲のモロ田舎然とした光景が髣髴する。]

 

○「其比(そのころ)は、皆、萱(かや)やねの家のみにて、一ケ年に、二、三度程づつ、類燒に逢(あは)ざる事なきゆゑ、常に、冬は、枕元に飯をたきて「飯(めし)つぎ」に入(いれ)、わらんづ・鍬・鋤のたぐひ、寄置(およせおき)て、いねたりしが、土藏作りに仰付(おほせつけ)られありしより、漸(いよいよ)、失火、うすくなりて、四十餘年、類燒を逃(のが)れ、難ㇾ有事。」

と、物語り也。

譚海 卷之十二 半太夫外記ぶしの事 河東の事 中山佐世之助の事 式部太夫のわか山ぶしの事 うづみ太夫事 上方ぶしはじまりの事 都古路中太夫事

[やぶちゃん注:前話に続き、浄瑠璃節の系譜が並ぶので、纏めて電子化する。少々疲れたので、基本、底本の注のみを添えることとした。悪しからず。]

 

○半太夫は「外記ぶし」より出(いで)たり。又、

「榮閑が弟子也。」

共(とも)、いへり。

 又、

「薩摩左内が弟子なり。」

とも、いへり。いづれか、分ちがたし。

 半太夫が「わき」を、宇十郞と、いへり。

 又、增上寺、所化(しよけ)にヰケウといふ僧ありて、半太夫弟子に成(なり)て、好(このみ)たるまゝ、雪隱にて、かたりたるに、常に、外へもるゝ事なかりし、と也。

 上手に成(なり)て後、還俗して、「淨るり語り」となり、一流を語りいだし、「ヰケウぶし」といふ。半太夫よりは、ふし、こまやかにして、コツツリとして、花やかには、なきもの也。是は、

「一生、魚類は、くはず。」

といふ。

 又、ソウリツと云(いふ)出家、有(あり)、是は「半太夫ぶし」の上手にて、はやりたる事也。

[やぶちゃん注:「半太夫ぶし」底本の竹内利美氏の後注に、『江戸浄瑠璃の一派で、江戸半太夫が元禄年間に開創し、久しく流行したが、河東節の出現で衰えた』とある。]

 

○河東は半太夫が弟子にて、一流を語りはじめたり。

 又、「河東ぶし」に河丈・夕丈といふ兩人、有(あり)、いづれも河東が弟子にて上手也。又、河東が三味線に、山彥源匹郞といふもの有(あり)、「さみせん名人」にて、「河東ぶし」の、はやりたるも、過半は山彥が力によりて也。

「今、河東と名乘(なのる)は、河丈が子ども也。」

とぞ。

「夕丈といふは、元來、針醫也。」

といふ。

[やぶちゃん注:「河東節」同前で『江戸浄瑠璃の一流で、享保本年から流行しだした。十寸見河東』(ますみかとう)『の創始で、渋く優美でその粋な語り口がもてはやされた』とある。]

 

○うたうたひに中山佐世之助といふ、あり。

 元來、かぶきの役者成(なり)しが、歌上手にて、後に萬太夫と名を改(あらため)て、うたの芝居を取立(とりた)て、堺町に矢倉をあげて興行したり。

 萬太夫が子ども、兩人、有(あり)、小八・千吉といふ。皆歌の上手也。萬太夫、半太夫と同時のもの也。

 此小八、「新屋敷」といふ所に隱居して居(をり)たるが、親子むつまじく、子ども、孝行成(なる)ものにてありし。

 小八むすめは、二代目の瀨川菊之丞妻成(なる)よし。

 

○式部太夫とて、別に一流の淨瑠璃あり、「外記ぶし」に似たる物なり。一度、市むら座へ出(いで)て、かたりたることありしなり。

 前にいふ芝居にて、一ふしづつ、うたふ「わか山ぶし」といふものは、「說經ぶし」・「淨るりぶし」、さまぐなるふしを、まじへてうたふもの也。

 中山さよの助が、うたひしも、「わか山ぶし」也。

 

○和泉太夫とて、一流の淨るり、あり。式部太夫が親と同時代也。坂田公平(さかたきんぴら)の「上るり」ばかりを語りて、「和泉太夫ぶし」とて、「土佐外記ぶし」に、にて、夫(それ)より、あらくしく聞ゆるもの也。

 殊の外、子供など好(このみ)て、はやりたるもの也しが、後に「公平地獄めぐり」とて、死(しし)たる事を、つくりて、かたりしより、上るり、すたれて、はやらず、芝居、つぶれたり。

 老後、人形町の、「きんぴらの人形(にんぎやう)」、拵(こしふ)る所に、かゝりゐて、うせたり。

[やぶちゃん注:「きんぴらの人形」「金平人形」金平浄瑠璃(古浄瑠璃の流派の一つ。薩摩浄雲の弟子江戸和泉太夫(後の桜井丹波少掾)が創始。多くは金平の武勇談が主題で、荒々しい人形の演出が元禄以前の江戸で盛行し、江戸歌舞伎の荒事芸にも影響を与えた。「金平節」とも呼ぶ)の上演に用いた坂田金平などの操り人形。「きんぺいにんぎょう」とも読む。]

 

○「上方(かみがた)ぶし」の始(はじま)りは、「角太夫ぶし」といふ。

 その弟子、「文彌ぶし」と云(いふ)を語り初め、「文彌ぶし」、へんじて「一中(いつちゆう)ぶし」と云(いふ)に成(なり)たり。

 「一中」は、少し、やはらか成(なる)ふしに語りたり。「一中」と云(いふ)は、京都の一向宗の寺の往持成(なり)しが、「文彌ぶし」を好(このみ)て、「上るり語り」に成(なり)て、「一中」といふを、語り初めたり。「都一中」(みやこいちちゆう)」と、いヘり。

 一中が「さみせん」は、都里三といふ盲人なり。此里三も、元來、一中が旦家の勾當(こうたう)也しが、さみせん上手にて、「端(は)うた」を彈(ひき)て、住持と一所に語りあるきたるゆゑ、座頭の仲間を、かまはれ、一中と共に、江戶へ來て、里三と改名せし、とぞ。

[やぶちゃん注:「上方ぶし」同前で、『江戸に対し』、『京坂地方の浄瑠璃節を上方浄瑠璃と総称する。義太夫節を主に、文弥節、播磨節、加賀節、角太夫節などの諸流があった』とある。

「文彌ぶし」同前で、『元禄ころ』、『岡本文弥の開創した上方浄瑠塙の一派。哀調をおび、泣き節とも呼ばれた。山本土佐掾の門人』とある。

「一中ぶし」同前で、『延宝のころ』、『都一中のひらいた浄瑠璃節。享保ころにおとろえたが、五代目一中が再興して、幕末ころには』、『ふたたび』、『流行した』とある。]

 

○半中は一中が弟子也。

 「一中ぶし」は、「はもの」ばかりを語りたりしが、半中は、一流を、かたり出(いだ)し、國太夫といふて、「はもの」の外に段物を語りて、「都古路豐後掾(みやこぢぶんごのじよう)」と受領して、ふき屋町河岸(がし)へ、やぐらをあげ、芝居を建(たて)たり。

 夫(それ)より、江戶にて「豐後ぶし」と云(いふ)事、さかんに、はやりて、又、其弟子、さまざま、分れたり。

[やぶちゃん注:同前で、『都一中の門人宮古路国太夫(豊後操)か、享保年間に開創した浄瑠璃節で、江戸に流行し、それから常盤津・富本・清元・新内・園ハなどの諸流が分化した。それらを総称して豊後節ともいう』とあった。]

 

○萬太夫といふも、國太夫が弟子にて、「豐後ぶし」かたりしが、少し、不器用にて、おもくるしく聞えたり。リン中[やぶちゃん注:底本では「リン」に編者の補正傍注があり、『(林)』とある。]といふものも、國太夫が半中といひし比(ころ)の弟子にて、はやりたりしが、後(のち)、上るりをやめて、針醫に成(なり)たり。

 

○都一中が弟子に三中と云(いふ)もの有(あり)、是(これ)、新吉原にのみ、居(をり)たり。

 又、果物町に伏見屋と云(いひ)て、野郞の茶屋[やぶちゃん注:男色を専門とする陰間茶屋。]をして、大名かたへ、芝居狂言あるとき、役者を世話などいたし、大村伊勢守樣より挨拶など、給はりしが、上るり好(ずき)にて、和中といひて、一中が弟子にて有(あり)し。此和中が、かゝへの子共(こども)に、佐野川千藏といふ役者ありしが、後に、又、和中と名を改(あらため)て、淨るり太夫と成り、聲、よきまゝ、「めりやすぶし」といふを、うたひて、風好(ふうかう)とも、いへり。

 又、非人に、「一中ぶし」を、よくかたりたるもの、有(あり)しを、三中、取立(とりたて)て、「上るりかたり」となし、味中(みちゆう)と、いへり。味中も新吉原にのみ、住(すみ)たる、とぞ。

 

○都古路仲太夫は、「一中ぶし」と「豐後ぶし」との間を語りたるゆゑに、仲太夫といへり。殊に、豐後掾、江戶へ、いまだ下らざる時ゆゑ、めづらしき事にして、仲太夫、大(おほい)に、はやりたり。仲太夫、聲、よく、器用なるにまかせて、「上るり」は修行なけれども、はやりたる、とぞ。

「此仲太夫、もとは伊勢古市(いせふるいち)などの旅芝居を、かせぎて、『役者の衣裳、きせ。』といふものなりし。」

と、いへり。

 又、文中と云(いふ)も、仲太夫が弟子にて、常に仲太夫が「わき」を、かたりあるきたり。是は、堀江町の足袋屋(たびや)也し、とぞ。

 後に、リン中、此(この)文中を取(とり)たてて、「都古路」と名乘(なのり)たり。

 仲太夫が「さみせん」に、「つまいち」といふ盲人、有(あり)、はじめ、「土佐ぶし」を彈(き)たりしが、「土佐ぶし」、すたれて、「仲太夫ぶし」をひく。

 又、都古路志津京といふものあり、仲太夫が弟子也。志津摩流の手跡を、よく書(かき)たるゆゑ、かくいはれし也。志津京、上るり、殊に器用にて、後々は、仲太夫と、はりあふ程に成(なり)て、豐後掻が弟子に成(なり)て、人の知(しり)たるもの也。元來、志津摩は薪屋治右衞門[やぶちゃん注:底本では「薪屋」に編者の補正傍注があり、『(新居)』とある。]とて、松坂へ、養子家督に行(ゆき)たりしが、名古星の旅芝居などへ出(いで)て、上瑠璃[やぶちゃん注:ママ。]を好(このみ)てかたるゆゑ、舅(しうと)と不和になりて、江戶へ來りて、上るり太夫と成(なり)てありしが、後に、又、商人(あきんど)に成(なり)て、上るり、語り居(をり)たり。

 宮善といふもの、宮本善八といふ、「れいがん島」の商人なりしが、仲太夫が弟子にて、上るり功者[やぶちゃん注:底本では「功」に編者の補正傍注があり、『(巧)』とある。]なるゆゑ、宮善とて、人も、よく知りて、はやりたるもの也。

譚海 卷之十二 江戶淨瑠璃はじまりの事

○江戶淨るりの初(はじめ)は、結城孫三郞といふ「說經ぶし」を、ふき屋町に、やぐらをあげて、興行せしが、はじめ也。

 虎屋榮閑といふもの有(あり)、是が談(か)たるを、「ゑいかんぶし[やぶちゃん注:ママ。]」と云(いふ)。

 ゑいかんの弟子に、外記(げき)といふもの有(あり)、「外記ぶし」と云(いふ)を語り初(はじめ)たり。

 外記より、分れて、「土佐ぶし」は出來(いでき)たる也。

 此(この)外記、後(のち)に薩摩左内と、名を、かへたり。「外記ぶし」の元祖也。

 市村竹之丞が弟、善藏といふもの、左内が弟子になりて、大薩摩主膳(おほざつましゆぜん)と云(いひ)て、「薩摩ぶし」を、かたりはじめたり。

 嵐左内といふも、さつま佐内が弟子にて、「太平記」の事を。もつぱら、語る事にせし也。

 又、一流を、かたり出(いだ)して、主膳と左内、甲乙なく、はやり、あらし左内は、やはらかなるふし、さつま主膳は、あらげなるふしを好みて、かたりたり。

[やぶちゃん注:「結城孫三郞」糸あやつり人形遣い師。江戸糸あやつり人形芝居「結城座」の座長にして名跡でもある。その初代(生没年不詳)は、寛永一二(一六三五)年に江戸で「説経節」の人形芝居「結城座」を開いた。後に義太夫の糸操り人形芝居を興行を行なっている。

「虎屋永閑」(とらやえいかん 生没年不詳)は江戸前期に活躍した浄瑠璃太夫。前名は虎屋小源太夫(小源太とも)。「永閑節」を創始した事で知られている。

「外記」「外記ぶし」「外記節」は江戸浄瑠璃の一つ。薩摩外記藤原直政(生没年未詳:江戸前期の古浄瑠璃の太夫で、薩摩浄雲の門弟。江戶で活躍し、「外記節」を創始し、江戸堺町で操り芝居を興行した)が貞享(一六八四年~一六八八年)の頃、語り出した豪放な浄瑠璃。人形浄瑠璃や歌舞伎の荒事などで行なわれたが、間もなく滅び、現在、「河東節」と「長唄」の数曲に、その影響が残る。

「市村竹之丞」歌舞伎俳優・市村座座元。初世(承応三(一六五四)年?~享保三(一七一八)年は第三代市村宇左衛門の養子。寛文・延宝(一六六一年~一六八一年)頃が活躍期で、「市村座由緒書」(享保一〇(一七二五)年書上)によれば、寛文四(一六六四)年に、玉川主膳と相座元で、三番続きの狂言を上演したとされるが、翌年、或いは、翌々年頃、大坂へ行き。その後、江戸に戻って、寛文七(一六六七)年頃、座元になったものと推定されている。役者としては、台詞術に優れ、拍子事が得意であったが、濡れ事は不得手であった。後に出家して、本所自性院に入った。現存の碑には「當山開山大阿闍梨法印安住誠阿大和尙」とある。以降、市村座の座元又は俳優として第五世まである。

「大薩摩主膳」大薩摩主膳太夫(元禄八(一六九五)年~宝暦九(一七五九)年)は浄瑠璃「大薩摩節」の家元。初世。水戸に生まれ、薩摩掾(さつまのじょう)外記に入門したとされる。別号「大薩摩外記藤原直勝」。享保(一七一六年~一七三六年)の頃から、歌舞伎劇場に出演。豪快な曲を豊かな声量で語って、人気を得た(以上の注は小学館「日本国語大辞典」他、複数の辞書に拠った)。]

譚海 卷之十二 芝居狂言座うたひ物の事

○芝居狂言のあへしらひに、一口づつ、うたふは、「わか山ぶし」と云(いふ)もの也。

[やぶちゃん注:「あへしらひ」本来は、「能・狂言で演技の相手役の演技に応じて動くこと」を指すが、ここは、狂言で謡の部分を大勢で謡うことで、囃子座後方に横に並び、狂言方が謡いを指していよう。

「わか山ぶし」「若山節」。貞享・元祿(一六八四年~一七〇四年)の頃、江戸歌舞伎の唄うたいの上手であった若山五郎兵衛が創始した浄瑠璃節。]

譚海 卷之十二 象の事

○象(ざう)は、柔和なるもの也。象のわたりて後(のち)、世間にて繪に書(かき)たる象のかたち、かはりたり。

 渡らぬさきの繪は、皆、こはごは敷(しく)、たけきもののやうに書(かき)なしたり。

 誠の象を見て、繪のさま、にうわ[やぶちゃん注:「柔和」。]に成(なり)たり。

 何事も、推量には、及びがたき所(ところ)有(ある)もの也。

 「ゑそらごと」といふ事、ことわりなる事也。

[やぶちゃん注:本邦への象の最初の到来は、公式「福井県小浜市」公式サイト内の『広報おばま』の平成二〇(二〇〇八)年六月号(同年五月二十六日発行)のこちらのページ(六~七ページ)にある、「日本で初めてゾウが上陸したのがここ小浜。 子とした600周年の記念の年」PDFでダウンロード可能)によれば、『室町時代時代の応永一五(一四〇八)年六月二十二日小浜へ南蛮船がやってきました。亜烈進卿(あれつしんきょう)』(当該ウィキによれば、『この人物はスマトラ島パレンバンの華僑の頭目であった施進卿と考えられている。また』、この『象は』、『その後』、『日本から朝鮮へと渡っており、朝鮮においても記録上』、『最初の生きた象となっている』とある)『という南蛮の帝王の命令で、今のインドネシアのパレンバンから来た船で、室町幕府の将軍への贈り物として「黒ゾウ一匹、クジャク二対、オウム二対、そのはおか献上品」などが載っていました』(中略)。『ゾウは約一カ月かけて京へ到着、室町幕府第四代将軍足利義持に献上されました。しかし、二年七カ月後の応永一八(一四一一)年、大量の食糧の調達に困った幕府は、朝鮮国王への貢物としてゾウを贈りました。このゾウは、のちに役人を踏み殺すという事件を起こし、島流しにされたそうです』とあり、関連する「ゾウつなぎ岩」やゾウの絵図その他の記事が読めるので、参照されたい。それ以降のゾウの渡来の記事は私が電子化注した物の中に、複数、あるが、「耳囊 卷之十 文化十酉年六月廿八日阿蘭陀一番舟渡來象正寫の事」の私の注で強力に記してある(図有り)ので、そちらに譲る。博物誌は誤りもあるが、私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 象(ざう/きさ) (ゾウ)」もある。]

2024/03/23

譚海 卷之十二 商賣利得をむさぼる事

[やぶちゃん注:前の悪僧のケースを、商人(あきんど)に適用した内容で、明らかに、前の続きとして書いており、形式や論理も酷似するが、これは、僧のとは、自ずから異なる核心部があるので、独立させた。]

 

○國主の用を辨じ、利德を、むさぼり、いつはり多く世わる[やぶちゃん注:底本では、「わ」と「る」の間に編者による修正割注が『(た)』と入っている。「渡る」である。]わざ、淺まし。あき人(んど)といへども、はたして、むくいは侍るべし。

「さるを、子孫、つゞきて、さすがに、家もたえず侍るは、いかゞにや。」

と申(まうし)ければ、

「國守は、國王につゞきて、大なる『ろく』をうけ、人を、はごくみ給ふべき事なれば、利德、むさぼる者も、たちまちに、むくひはなき事にや。」

と、の給ひし。

[やぶちゃん注:底本では末尾に編者割注で『(同前)』とある。前話と同様の意で、『(別本缺)』を指す。]

葬儀用遺影

葬儀用遺影を葬儀社が、かなりブレていた顏を修正してくれ、背景を加工したものを送って下さった。以下に掲げておく。

 

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譚海 卷之十二 出家不如法の事

[やぶちゃん注:標題は「しゆつけふによほふ」。「不如法」(ふにょほう)は「仏法に反すること・戒律を守らないこと」を言う仏語。]

 

○出家の、人を、あざむき、財物を、たくはへ、ひそかに、妻子をもてるは、まさなきわざなり。

 しかし、其子孫、行(ゆく)すゑ、さかえ、幸(さいはひ)ある者、おほし。

「いかなる事にや。」

と申(まうし)ければ、

「出家は、人の死(しし)たるを、うけとり、あつかふ物なれば、その「むくい」にて、おのづから、よき幸もある事、成(なる)べし。」

と、の給ひし。

[やぶちゃん注:底本には最後に編者割注で『(別本缺)』とある。]

譚海 卷之十二 京都と江戶婦人生異なる事

[やぶちゃん注:標題の後半は「ふじん、生(うまれ)、異(こと)なる事(こと)」と読んでおく。]

 

○京都と江戶とは、女の「ひたひつき」・髮の「はへぎは」、かはるなり。

 又、都(みやこ)がたの男は、「すね」に、毛、すくなし。關東の男は、皆、「すね」に、毛ぶかく、おふる也。

 生(うま)れ付(つき)て、かはり、有(あり)。

譚海 卷之十二 龍の出んとする時の占の事

[やぶちゃん注:標題は「りゆうの、いでんとするときの、うらなひのこと」と読んでおく。]

 

○「へび」などは、町の内(うち)には、かくれて、つねには、見えぬ物なり。

 それが、時によりて、出(いづ)る事あるは、かならず、龍の出(いづ)る時の、しるしなり。同類なれば、感じて、先(まづ)みゆる、とぞ。

[やぶちゃん注:底本では末尾に編者割注で『(同前)』とある。前話と同様で、『(別本缺)』を指す。

「龍」この場合は、気象現象としての龍巻(竜巻)の発生を指すものと思われる。]

譚海 卷之十二 南に向ひたる家作の事

○南に、まさしく向ひたる家は、軒(のき)を、ひきて、造る、よろし。軒、高ければ、風、つよきとき、ちりを吹入(ふきいれ)て、あしき也。

[やぶちゃん注:底本では末尾に編者割注で『(同前)』とある。前話と同様で、『(別本缺)』を指す。]

譚海 卷之十二 水あぶる時用心の事

○水を、あびるには、先(さき)へ、すくひ、口に、ふくみながら、あぶれば、氣(き)、あがらずして、よろしき也。

[やぶちゃん注:底本では末尾に編者割注で『(同前)』とある。前話と同様で、『(別本缺)』を指す。]

譚海 卷之十二 春風しげくふく占の事

[やぶちゃん注:標題は『「春(はる)、風(かぜ)、しげく、ふく」時、』で、「占」は「うらなひ」(その予兆に拠る占い)と訓じておく。]

 

○春、南の風、しげく、ふく年は、秋、水の出(いづ)るものなり。

[やぶちゃん注:底本では末尾に編者割注で『(同前)』とある。前の『(別本缺)』を指す。]

譚海 卷之十二 人後の用心あるべき事

○物、五十年に、およべば、又、ほろぶる事あり。兼(かね)て、其用意、すべき事なり。人の家居(かきよ)なども、五十年にあまりて、燒亡せざるは、少(すくな)し。用意なくして、事に臨(のぞみ)て、まどへるは、愚(おろか)なる事なり。

[やぶちゃん注:底本には最後に編者割注で『(別本缺)』とある。]

譚海 卷之十二 今樣はやりわざの事

○「今やう」の風俗、はやり行(ゆく)を、其まゝ、まなべば、又、程なく、新敷(あたらしき)風俗、流行(はや)りて、初めのは、すたる。

 衣裳、拵ふるにも、其まゝに、こしらふれば、其(それ)、すたれたる時、俄(にはか)に拵へかふる事も成(なり)がたく、難儀なるもの也。何事も、はやり行(ゆく)風俗の中(なか)を取(とり)て用(もちふ)れば、なん[やぶちゃん注:底本では右に編者傍注があり、『(難)』とある。]もなく、うわきにも、あらで[やぶちゃん注:心のうつろいやすい気分も生じず。]、よろしき也。

 一ころ、羽織のたけ、殊の外、みぢかきが、はやりたるが、此比(このごろ)は、又、ながき尺(しやく)、はやり、短き羽織、流行る時も、ながからず、みぢかからず、能(よ)き程に仕立て用(もちふ)れば、今、又、長きが、はやりたる中(なか)にも、さのみ、短かからで、俄かにめにたゝで、宜敷(よろしき)たぐひ、有(あり)。

 袖のかたちも、また、然るべし。まるからず、角(かど)ならず、中をとりて、用るべき事也。

譚海 卷之十二 幼稚の時よく物ならすべき事

○小兒の尺は、一とせに、二寸づつ、のぶるもの也。大かた、十六歲まで、年々に、のぶる也。

[やぶちゃん注:「物ならす」は、身長の伸びるのが「平均している」ことを意味しているようである。]

譚海 卷之十二 幼稚の時よく物ならすべき事

○女は一生の間、かなづちは、手にとらぬものなり、とぞ。

譚海 卷之十二 幼稚の時よく物ならすべき事 幼稚子供遠路歩行さすまじき事

○人は、をさなきほどに、ものをば、よく、ならはすべき事也。をさなき時は、慾、少(すくな)く、心、專らなる故、習ふ事を、よく覺ゆるなり。夫(それ)は、年よりても、よく覺え居(をり)て、忘るゝ事、なし。中比(なかごろ)より、習ひし事は、覺えうかぶ事も、早きやうなれども、やがて、わするゝ事、やすし。物ごとに、心、うごきて、まぎるゝ事の、多きゆゑ也。

 

○子供の、十一、二歲になるまでは、遠く、ありかすまじき事也。子どもの實(まこと)せざる體(てい)にて、二、三里の道を、あるけば、脾胃。もめて、病(やまひ)を引出(ひきいだ)すなり。大形(おほかた)は、心得ぬ親の、

「よく、あるく。」

とて、をさなき子どもを愛し、遠く、かちにて、ともなふは、あしき事也。

譚海 卷之十二 人冥加をするべき事 おこなひ正しく勤おこたるべからず事 人の賢愚相まじはる事 人の誠かくしがたき事

[やぶちゃん注:以下、底本では、短いものが、続くが、明らかに関連性が強いと私が判断したものは、かく、纏めて電子化注することとする。三つ目の「相」は「あひ」と訓じておく。]

 

○人も冥加(みやうが)といふ事を、しるほどになれば、大(おほい)なるあやまちは、なきなり。四十に成るまで、それしらぬ人は、一生、愚にて、暮す人と云(いふ)べし。

 

○わがうへの事を、あしくいふ人にも、心ひかるべからず。また、「よし。」といふ人にも、心、引(ひか)るべからず。たゞ、我(われ)、なすべき事を、眞心(まごころ)になして、おこたらず、勤(つとめ)ゆけば、後(のち)は、自ら、わが、たゞしき事は、しるゝ也。

 

○人のなす事の上にも、

『おろかなり。』

と、みゆる事、又、

『かしこし。』

と見ゆる事、まじるもの也。顏かたちにも、

『よし。』

と見ゆる事、

『惡(あ)し。』

と、みゆる所、まじるが如し。其人の、產(うみ)たる親の、よき所に似たる子は、少(すくな)し。

 あしきところに、あやかりたるは、おほきもの也。すべて、世間の事、

『よし。』

と見ゆる事は少(すくな)く、

『惡し。』

と思ふ事の多きも、如何成(いかなる)事にや。

 あめつちの、みこゝろ、しりがたきものなり。

 

○人のよきことも、あしき事も、しばらくはかくるゝやうなれども、誠ある人に御めみ給ふ時は、よきも、あしきも、かくす所なく、よくみゆるなり。

[やぶちゃん注:「御めみ」不詳。「御目見」(お目にかかること)か。]

譚海 卷之十二 婦人慥の事

[やぶちゃん注:またしてもジェンダー・ヘイトの連発で、いやらしい女性差別発言が続く。標題は「目錄」では後者の独立標題がないこともあり、カップリングした。「慥」は「たしか」と訓じておく。なお、以下、短い感想評が続くので、同様の処理をすることとする。]

 

○利口成(なる)女の一生を、まめやかにして、をはるは、稀也。才ある女も、おほくはおごる心出來るもの也。

○都(すべ)て、をんなは、むづかしく、心づくしなるわざを、退屈せで、なすが、つとめ也。はづれたる絲を、をさめ、つづれ、つぎあはするなど、みな、退屈して、はなしがたし。長座する人にも、たいくつの心を見せず、あへしらひ居(をり)たる女房こそ、おとなしく、よき人とは、いはめ。

[やぶちゃん注:一昨日、父が逝去したが(葬儀は三月二十六日)、以下、新しいブログ・プロジェクトは気力が未だ起こらぬので、粛々とルーティンを続けるのみとする。]



父が亡くなった日の午前中に父が十九歳の時に書いた「野島貝塚」発掘記録が引用された書籍が送られて来た奇縁

父が亡くなった一昨日の午前中、父が十九歳の時に書いた「野島貝塚」発掘記録が引用された書籍が送られて来た。

私は面会時間の始まる三時ジャストに様態が悪くなって個室に移っていた父を見舞った。その五日前から、見当識が無くなっていたが(3月19日はALSで亡くなった母の十二年回忌であったので、父の写した若き日の写真を持って行ったが、目を薄っすらあけたものの、反応はついになかった)、何としても、この本を見せたく思った。途中で、担当医の女性医師も、その本を見て、大声で起こそうとして呉れたが、遂に、目を開くことなく、六時間後に急変して、逝去した。

せめても、ここにその本の当該部を掲げることで、亡くなった父への餞(はなむけ)とする――

 

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2024/03/22

父藪野豊昭は昨日逝去しました

父藪野豊昭は、誤嚥性肺炎及び急性心筋梗塞のため、昨日、午後九時二十八分、九十五歲で逝去致しました。葬儀(三月二十六日午前十時~十一時:鎌倉のカドキホール)は家族葬と致しますので、お気遣い等、御無用でお願い申し上げます。長年の御厚誼に深く感謝致します。

陸軍通信特攻隊の生き残りでした。亡き祖母が「鎌倉で一番可愛い兵隊さんでした。」とよく言っておりました。 合掌


父のフェイスブックは、父の晩年の記録として、

こちらに残してありますので、ご覧下さい。

2024/03/21

譚海 卷之十二 うぶ湯の事

○うぶ湯、わかす時、薪(たきぎ)に、「うるし」にて、ぬりたるものを、すこし、まぜて、焚(たき)たる湯を、あぶすれば、其子、成人(せいじん)の後(のち)までも、「うるし」にかぶれなやむ事、すくなし。

し。

[やぶちゃん注:底本には最後に編者割注で『(別本缺)』とある。私は、五十代後半、突然、漆のウルシオールにかぶれるようになった。お蔭で、大好きだったマンゴーも、キウイも同系列のマンゴール、及び、キウイに含まれるアクチニジンやキウェリンも虞れがあることから、食べられなくなった。悲しい。]

譚海 卷之十二 男子女子にまされる事

[やぶちゃん注:標題の「男子」は「なんし」、「女子」は「によし」と読んでおく。当時の仏教の誤った変生男子説(へんじようなんしせつ)に基づくものである。]

 

○おろか成(なる)男のする事も、かしこき女のする事よりは、まさりたるわざ、おほくあるもの也。

[やぶちゃん注:ジェンダー・ヘイト発言。]

譚海 卷之十二 人の身上盛衰の事

○人の身上(しんしやう)、心ゆきて、住(すまい)なし、家内の調度など、やうやうたらぬものなく、不自由になく成(なり)たるは、又、やうやう、其家の衰(おとろ)へんとする、はじめ也と、しるべし。

譚海 卷之十二 柿の實の皮をへぐに小刀つかひやうの事

[やぶちゃん注:標題の「柿」、本文の「柹」はママ。]

 

○柹(かき)の實をむくには、小刀(こがたな)をたてて後(のち)、小刀を、もちたるまゝに、動(うごか)さずして、柹をもちたる手を、しづかに、まはしまはしすれは[やぶちゃん注:ママ。]、皮、たいらかに、ほそく、むけて、絲のごとく、ながう、つゞく也。女は人の前にて、瓜をむくと、かきをむく所作(しよさ)、一(ひとつ)の藝なるべし。

譚海 卷之十二 水甕日々水汲かふべき事

[やぶちゃん注:「汲かふ」は「くみかふ」。]

 

○水がめの水、日ごとに、あらたに、くみかふべし。かめに殘りたる水ありとも、「ひさく」[やぶちゃん注:「柄杓」。]にて、すくひとり、ふきんにて、ぬぐひ取(とり)て、あらたなる水を入(いれる)べし。さすれば、其家の人、痢病、わづらふ事、なし。痢病は古き水のあかをのむゆゑに、おほく、やむ事なり。

[やぶちゃん注:底本には最後に編者割注で『(別本缺)』とある。]

譚海 卷之十二 茄子胡麻汁の事

○なすびを、にるには、胡麻の汁、味噌・すましの類(たぐゐ)にても、さつと、にえあがらば、薪(たきぎ)を引(ひき)て、火を、少し殘し、火にて、むす樣にすれば、なすび、とろけず、あぢはひ、よき也。

[やぶちゃん注:底本には最後に編者割注で『(別本缺)』とある。]

譚海 卷之十二 麵類そば切の鹽梅の事

○麵類の汁は、火を、ゆるやかにして、にたる汁は、たるみ、有(あり)て、味(あぢは)ひ、よろし。

 麥飯の類(るゐ)の汁は、火を强く、さはさはと、せんじあげざれば、たるみ、ありて、あしゝ。

譚海 卷之十二 正月もちをたくはへ樣の事

[やぶちゃん注:標題の「樣」は「やう」。]

○年始の餅、かめに入(いれ)、蓋をして、土藏に入置(いれおく)ときは、久敷(ひさしく)貯(たくはふ)るとも、よろし。又、かびを生(しやう)ずる事、なし。

[やぶちゃん注:この「かめ」には水が張ってあるはずである。古くから行われてきた、水中に浸けておく「水餅」(みずもち)という保存法で、小さな頃、私の母が、奇麗に洗ったバケツの中に、プラスチックのパッケージに水を入れて沈め、毎日、二つとも水を入れ替えて、庭の水道場に置いて保存していたのを思い出す。一般に一ヶ月程度の保存が可能とされており(現行では冷蔵庫で保存することとある)、カビも生えなかった。]

譚海 卷之十二 栗の子にる味の事

○栗の實は、湯にて煮るは、あしく、蒸(むし)たるは、はるかに、味(あぢは)ひ、勝(すぐ)れり。團子(だんご)も又、如ㇾ此。

譚海 卷之十二 いものあく手にしみたるを落す方の事

○根芋を、こしらへて、その「あく」の、指にしみたるには、鐵の釜にて、するときは、きよく、おつるなり。

[やぶちゃん注:底本では編者の割注で『(同前)』で、これは、前話にある『(別本缺)』と同じである。

「根芋」単子葉植物綱オモダカ目サトイモ科サトイモ属サトイモ Colocasia esculenta の親芋から出る新芽を、「おがくず」等の中で軟白栽培したもの。現在は、千葉県柏市(グーグル・マップ・データ)以外では、殆んど栽培されていない。これは、サトイモに含まれるシュウ酸(oxalic acid:構造式 HOOCCOOH で示される最も単純なジカルボン酸。二つのカルボキシ基を背中合わせに結合した分子。カルシウムイオンと強く結合する劇性性質があり、体内に入るとアシドーシスに傾いた血液中で、カルシウムと結合して結石などを生じる。このため、「毒物及び劇物取締法」によって劇物(毒物ではない)指定されている)が有意に含まれているので、灰汁(あく)抜きをする必要がある。針状結晶になったシュウ酸カルシウムは、皮膚に触れると、痒みを感じる。私は幼稚園の時、家の夕食で自然薯のトロロを太腿に、一杯分、そっくり、こぼし、モウレツな痒みに襲われたのを、記憶している。]

譚海 卷之十二 暗夜用心の事

○くらき夜に、おそろしき物、あらば、心をしづめ、よくよく、見るべし。おほかたは、ふしぎなる物は、なき也。

[やぶちゃん注:底本には最後に編者割注で『(別本缺)』とある。]

譚海 卷之十二 產子父母に肖說の事

[やぶちゃん注:「肖說」は「にる」(似る)「せつ」。]

 

○人の生れ付(つき)、一筋に、さだめがたきものなれども、大かた、女子は、かたち、てゝに似て、をのこは、母に似るものなり。

[やぶちゃん注:私は、顔の右半分を対称合成すると、母にそっくりで、みだり半分を同様にすると、父の顔になる。なお、私の父母は従兄妹同士である。]

譚海 卷之十二 田舍より來る子供食事の事

[やぶちゃん注:標題の「來る」は「きたる」。]

 

○田舍より、江戶に出(いで)てをる子供は、月に一、二度づつは、麥の飯(めし)、くはするが、よき也。左樣(さやう)にせざれば、一兩年の後(のち)、きはめて、「ひいきよ」、わづらふことあり。

[やぶちゃん注:底本には最後に編者割注で『(別本缺)』とある。

「一兩年」一年か、二年。

「ひいきよ」「脾胃虛」。前の前に話「美食病の根本なる事」の私の注の「脾胃」と「虛」を参照されたい。]

譚海 卷之十二 美食病の根本なる事

○都(すべ)て、萬(よろづ)の病(やまひ)は美食より起(おこ)る。

 しりたる人の娘、武家へ奉公に出(いで)しに、常に、一合めしといふものに、香(かう)のもの抔(あど)、そへて、くひゐたるほどは、年久敷(としひさしく)、病も、おこらず、すこやかなりしが、家へ歸りて後(のち)、病身になりて、常に心地よからずありしは、まつたく、うまき物、くひて、あるゆゑと、しられたり。

譚海 卷之十二 子供勞咳に似たる病する事

○男女ともに、十五、六歲より、廿歲(はたち)までの内に、「らうがい」とて、わづらふ事、あり。誠の「らうがい」には、あらず、これは、十五、六より、はたちごろまでは、食(しよく)を、くひ過(すぐ)るゆゑ、「ひい」[やぶちゃん注:「脾胃」。]、きよ[やぶちゃん注:「虛」。]して、食物、「ひい」に、もたるゝまゝ、痰を引出(きいいだ)し、たまり、又、せきを、おこし、氣むづかしく、わづらふを、大かたは、

「勞咳なり。」

とて、「らうがい」の療治のみを、するゆゑ、「ひい」、「きよ」は、なほらずして、日數(ひかず)を、ふれば、誠の「らうがい」に成(なり)て、しぬるなり。

 子どもの食(しよく)、すすみて、いや、くひに、くふ時は、はやく心得て、食滯(しようくたい)を、とく、りやうぢして、なほすべき事なり。

[やぶちゃん注:底本には最後に編者割注で『(別本缺)』とある。しかし、この理屈は合わない感じが強い。過食による消化器及び呼吸器の不全状態が起こり、その患者に肺結核の薬を投与し続けると、本当の肺結核になるというのは、おかしい。寧ろ、肺結核の初期症状(全く症状が生じないこともある)が風邪をひいた際と同じ症状であるのを、見過ごして、風邪の治療燒

「ひい」=「脾胃」漢方で、現在の消化器器官機能相当の様態を呼ぶが、これは解剖学的な意味とは異なり、消化管の消化吸収機能を生理的に包括したものである。

「きよ」=「虛」漢方の「虚証」(きょしょう)のこと。中医学では、病気を正気(身体の抵抗力)と邪気(病毒の破壊力)との戦いと考え、正気が衰えてくると、弱い邪気であっても負けて、病気を発症すると捉える。そうした中でも、初期は生体防御反応が乏しいために、却って症状が現れ難くなる状態をも含む。]

譚海 卷之十二 小兒小便しぶる時心得の事

○子供、をさなきが、時々、小便、しぶる事、あり。其時、心得て、煎藥(せんじぐすり)を、のましむべし。さすれば、成人(せいじん)の後(のち)も、下部(しものぶ)、とゝのひて、寢小便の病(やまひ)、なし。成人の寢小便するも、其親の、手當、せざる「あやまち」也。

譚海 卷之十二 あかぎれ療治の事

○あかぎれの口へ、「やいと」[やぶちゃん注:お灸。]、一つ、二つ、すゑて、かうやく[やぶちゃん注:「膏藥」。]、張(はり)おけば、一夜の内に、口、いえて、うれへなきもの也。

譚海 卷之十二 小豆卽時の間にあふ事

○寒の内に小豆を煮て、日に、ほして納置(をさめおけ)ば、急に、もちゐて、こしらふるにも、其まゝ、小豆、早く、にえて、用に立(たち)、よき也。

[やぶちゃん注:標題の「間」は「あひだ」。「まにあふ」では、前の句との繋ぎが、どうもよくないからである。]

譚海 卷之十二 火事用心の事

○風、はげしく、失火、多く、世間さわがしき時は、火の氣(け)、自然に盛(さかん)なるゆゑ、少しの火にても、手あやまち、出來(いでく)るもの。能々(よくよく)愼(つつしみ)て、失火せぬ用心、すべし。

 又、鼠、さわがざる夜は、出火あるもの也。心を、もちゆべし。

[やぶちゃん注:最後の一行は、古くから言われることで、鼠の持つ、ある種の鋭敏な感覚器官が、火災の初期の微妙な変異を感知して、逸早く、家屋から退去するとされる。]

譚海 卷之十二 火事用心の事

○「火事の時、先(まづ)、第一に仕(し)まふべき物は疊なり。戶障子は、なくとも、疊、なくては、類燒の後(のち)、難儀なるものなり。」

と、姑(しうとめ)のかたり給ひしなり。(別本缺)

[やぶちゃん注:底本には最後に編者割注で『(別本缺)』とある。]

譚海 卷之十二 衣裳ぬふ發明にあふ事

○衣裳を、ぬふわざの中にて、人に敎(をしへ)んとするにも、ことばなく、人々、心にて發明すべき所は、「あげつま」の一所(いつしよ)也。おのづから、ぬひゆきて、合點(がてん)すべき事也。

[やぶちゃん注:「あげつま」「上げ褄」で「褄上げ」のことだろう。褄を上に引き上げて、丸みを附け、仕立てること。細い「ふき」(は袖口や裾部分の裏地を少し出して仕立てた部分)を「笹褄」(ささづま)、太い「ふき」を「蛤褄」(はまぐりづま)と呼ぶ。]

譚海 卷之十二 八月十五夜菊を鉢うゑする事

○八月十五夜、ちいさき鉢の臺に、土を盛(もり)て、菊のつぼみたるを、切(きり)て、月のあかき前に、もていでて、土中にさせば、よく根付(ねづき)て、鉢の内にて、花をひらく也。

[やぶちゃん注:迷信と一笑することは出来ない。大潮を起こす月の引力によって、夏秋菊(七~九月に開花する)の莟に影響が与えられないとは断言出来ないと私は思う。]

譚海 卷之十二 夜中地震の用心の事

○夜中、俄(にはか)に雪隱(せつちん)の匂ひする事、あり。其時は、必ず、地(ぢ)しんするものなり。こゝろを、つけて、用心すべし。

[やぶちゃん注:底本には最後に編者割注で『(同前)』とあり、これは前の前の『(別本缺)』を指す。この話、納得出来る。僅かなプレの初期微動が発生すると、長屋の共同の厠も、屋敷等の内部の設けられたそれも、土堀り或いは便槽は溜め便所であるから、それらが罅その他の隙間から流れ出て、臭うことが十分にあるからである。]

譚海 卷之十二 他行人ともなふ時の事

○たとひ、我心にあはざる人なりとも、一日、つれ立(だち)てあるき、又は、日ぐらし、むかひて、かたらふ内には、興(きやう)ある物なり。

『我に、かなはぬ人。』

とて、きらふべからず。

[やぶちゃん注:標題の「他行」は「たぎやう」と読んでおく。底本には編者割注で『(同前)』とあり、これは前の『(別本缺)』を指す。]

譚海 卷之十二 夜中起ぬる時養生の事

○人々、叶(かなひ)たる用事あり。

 夜、ひと夜、明(あか)すことありとも、夜の八つ、七つ時には、すこし、まどろむべし。さすれば、翌日、すぐに起(おき)つゞけて、用をなすといへども、疲(つかる)る事、なし。夜中は、心氣のしづまる時ゆゑ、少しまどろまざれば、翌日、つかるゝ事、甚(はなはだ)しき物也。

[やぶちゃん注:底本では、最後に編者割注で『(別本缺)』とある。

「夜の八つ、七つ時」午前二時、午前四時頃。]

譚海 卷之十二 乳母幷娵めきゝの事

[やぶちゃん注:標題「敎誘」は「けういふ」と音読みし、「正しい方向に教え誘うこと・教え導くこと・教導」の意である。]

 

○乳母を目利(めきき)するには、齒ぐきの、くろみたる女は、あしゝ。はぐきのくろき女は、かならず、瘡毒(さうどく)、有(あり)、かやうなる女の乳、嘗(なめ)る子供は、又、必(かならず)、腫物(はれもの)わづらふ事、有(あり)。

 又、耳の垢(あか)、ねばりたる女は、みな、「わきが」、有(あり)。耳の垢、ほろほろする者は、腋香(わきが)[やぶちゃん注:底本には「香」の右に補正傍注があり、『(臭)』とある。]、なき事、幾人も、こゝろむるに、皆、たがはす。

 娵(よめ)など、えらぶに、先(まづ)、耳の垢を、先に、とひ聞(きく)べき事也。

[やぶちゃん注:「瘡毒」梅毒。

「耳の垢、ねばりたる」所謂「じゅく耳」で、ベトベトした湿性耳垢を指す。日本人を含むアジア人の多く(八十%程度)はカサカサの乾性耳垢であるが、欧米人は前者が多いとされる。私はカサカサだが、私の父は前者で、亡き母は父の耳掃除をさせられるのを、非常に厭がっていた。]

譚海 卷之十二 子供敎誘の事

[やぶちゃん注:標題「敎誘」は「けういふ」と音読みし、「正しい方向に教え誘うこと・教え導くこと・教導」の意である。]

 

○子供をそだつるに、其親、常々、物語に、

「よまひ事抔(など)、いわで[やぶちゃん注:ママ。]、敎へたてたる子は、柔和にして、おとなしきもの也。常に、親の、聲、あらく、しかり、そだてたる子は、情(じやう)、こはく、意地わろく成(なり)て、わづかなる事にも、こゑ、あららげ、をしへざれば、親のいふまゝに、ならず。かやうに育たる子ども、成人の後(のち)、大かたは、親のいふ事を、うけず、我まゝに成(なる)もの也。

譚海 卷之十二 萬事陰陽を具する事

○足袋(たび)の、かたかた、つまりたる、又は、草履(ざうり)の「はなを」、かたかた、ゆるびたる、すべて、同時に出來るものにても、おなじやうにある事は、かたきもの也。

 是、陰陽自然の同(おなじ)理(ことわり)、備(そなは)りたる事也。

 右左の袖口を、ぬひて、見るに、いつも、少しづつは、かたかた、ちがひて、おなじやうに出來(でき)る事、なし。

 是にて、しられたり。

 

譚海 卷之十二 小兒養有事

[やぶちゃん注:標題は「しやうに、やしなひ」(方)、「あること。」と読んでおく。]

 

○小兒、五、六歲までは、乳(ち)を、のましむべし。其母、乳、少(すくな)くば、乳母を取(とり)て養ふべし。さあれば、成人に隨ひ、實性(じつしやう)にして、病氣、すくなきもの也。

 おほく、世間の子供を見るに、乳、少(すくなく)して、そだてたるは、生長して、不慮の病(やまひ)を得ざるもの、なし。

[やぶちゃん注:授乳開始時に分泌する最初の母乳である初乳は、新生児にとって理想的な栄養源で、高濃度で、タンパク質の含有量が高く、栄養豊富であるため、少量でも乳児小さな内臓には十分の量である。初乳は脂肪の含有量も少なく、消化し易く、最適な方法で乳児発達を始動させる成分が極めて多く含有している。また、さらに重要なことは、初乳が免疫系の構築において、極めて重要な役割を果たしているからである。初乳に含まれる細胞の内、最大でその三分の二は、感染症から身体を守ってくれる白血球であり、乳児が自分自身で感染症と闘い始める助けとなり、同じくそこには、sIgAと呼ばれる極めて重要な抗体が豊富に含まれており、これは血流の中に入っていくのではなく、消化管の内側で膜となることで、乳児を病気から守る。さらに、新生児に頻繁に大便をさせる下剤のような役割を果たす。これは子宮にいる間に摂取した、あらゆるものを、乳児が胎便(黒くて粘り気のある便)という形で、体外に排泄して、腸を健康に空にする。さらに頻繁に排便することは、新生児黄疸のリスクを低減する。乳児は高いレベルの赤血球を持って誕生しており、これが身体の周囲の酸素を取り込むが、こうした細胞が破壊される際、乳児の肝臓はこれらの処理を助け、ビリルビンという副産物を生成する。乳児の肝臓がビリルビンを処理出来る程度まで十分に発達していない場合、ビリルビンが器官内に蓄積し、黄疸を引き起こすのである(以上は母乳育児製品の会社「medela」の「初乳はなぜ大切なのでしょうか?」を参照した)。

「實性」性格が誠実であったり、実直であったりすること。]

譚海 卷之十二 たゝみこぶいやす方の事 斷機慈語

○「疊こぶ」、痛みて、せんかたなきは、皮足袋(かはたび)を、夏・冬、はなさず、はく時は、いえて、うれひなし。」[やぶちゃん注:以下、底本でも改段落している。]

 右、是までは、叔父、物語也。

 叔父、天明八年九月十一日、深川別業(べつぎやう)にして、終(をは)りたれば、爰(ここ)に、筆を、とゞむ。

 叔父、江戶大傳馬町三丁目の生(うま)れにして、行年(ぎやうねん)七十八歲也。法名を「莚邦院瓊田居士(えんはうゐんけいでんこじ)」と、いへり。[やぶちゃん注:以下、底本でも改段落している。]

 斷機慈語。

 是は、先妣(せんぴ)[やぶちゃん注:亡き母。]の物語、聞置(ききおき)たる事を、しるす。

 母は江戶大門通はせ川町の生(うまれ)にして、「竹内氏」也。天明二年、剃髮して「妙智」と號す。同七年十月廿三日、病(やまひ)を得て、家に逝(せい)せり。行年七十五歲に、なん。

[やぶちゃん注:「たゝみこぶ」「疊こぶ」思うに、畳に正座する時間が長く、その結果、下肢静脈瘤が出来ることではないか? ネットで同疾患の写真を見ると、かなり血管が、広範囲にボコボコに発生するようで、悪化すると、皮膚が炎症を起こし、皮膚の発赤や、痒み・痛みを伴うようになり、重症例では潰瘍が生じたりする場合もある、とあった。

「叔父」複数回既出で、前話にも出た津村の叔父中西邦義。

「天明八年九月十一日」グレゴリオ暦一七八八年十月十日。本巻の最新記事は、この天明八年であり、母の逝去を天明七年十月二十三日(グレゴリオ暦同年十一月二十二日)とするので、恐らくは、その直後から大晦日前までの年末二月(ふたつき)ほどの間に、この記事は書かれているのではないかと考えられる(天明八年は十二月六日でグレゴリオ暦一七八九年一月一日となる)。

この年の後期三ヶ月余りの間に本篇が書かれたことが判る。叔父への供養の雰囲気が横溢している。

「行年七十八歲」これによって中西邦義の生年は正徳二(一七一二)年と判る。津村の生年は不明。文化三(一八〇六)年五月に没しており、底本の竹内利美氏の冒頭解題によれば、行年は『七十歳を越していたらしい』とある。生年から仮に七十一を引くと、一七三六年(享保二十一年・元文元年)以前の生まれと推定出来る。

「莚邦院瓊田居士」前話を参照されたい。

「斷機慈語」これは、以下の津村の亡き母から聴いたということを、孟子の「断機の教え」に懸けて自身の忸怩たる思いに、叔父追悼の意を添えて述べたものであろう。

「母」「行年七十五歲」から津村の母は正徳五(一七一四)年生まれとなる。]

譚海 卷之十二 (靈芝の事)

[やぶちゃん注:この条、「目錄」にない。国立国会図書館本も同じ。取り敢えず、以上の標題を掲げておいた。そもそも、この内容、既に出た「譚海 卷之十一 靈芝感得の事」と内容的には、ほぼダブる。「靈芝」などは、そちらの注に譲る。]

 

○靈芝は、多く、梅樹間(うめのきのあひだ)に生ずる物也。平地に生ずるを、尊(たつと)し、とす。

 生じたるを見付(みつけ)たらば、早く採(とり)て、飯(めし)の湯氣(ゆげ)にて、蒸して、收置(をさめおく)べし。蟲ばむ事、なし。

 地に生じたるを、油斷して置(おけ)ば、蝸牛(かたつむり)、殊に好(このむ)ものにて、嘗(なめ)、損じて、數日(すじつ)の後(のち)、敗腐(はいふ)して、用(もちひ)るにたらず。

『長壽の兆(きざし)なる。』

よし、佛說に見えたり。

 叔父、別業(べつぎやう)に、兩度まで生(はえ)しを、採(とり)て收(をさめ)たり。

「『瓊田草(けいでんさう)』と稱する。」

よしにて、自法號に稱せり。

[やぶちゃん注:「叔父」複数回既出の津村の叔父中西邦義。最後の部分は、この叔父が自身の戒名「瓊田」を入れていることを意味する。次の話で「莚邦院瓊田居士」と出る。]

譚海 卷之十二 楚漢信筆の事

○楚、漢信といへる華人の寫したる壽老人の畫(ゑ)は、石上(せきしやう)に坐して有(あり)。

 二童子、立侍(りつじ)して有(あり)。

 杖・履(くつ)の類(るゐ)、側(かたはら)にあり。

 龜・鶴・靈芝(れいし)の類、石下(せきか)に有(あり)。

 普通にゑがく所のものと大(おほい)に異(ことなる)也。

[やぶちゃん注:「漢信」韓信(?~紀元前一九六年)の誤り。前漢の武将。淮陰出身。張良・蕭何とともに「漢の三傑」と称えられる。高祖に従い、蕭何の推薦で大将となり、趙・魏・燕・斉を滅ぼし、項羽を攻撃して、大功を挙げた。漢の統一後、斉王から楚王になったが、淮陰侯に左遷され、呂后(りょこう)によって殺された。

「靈芝」担子菌門真正担子菌綱タマチョレイタケ目マンネンタケ科マンネンタケ属レイシ Ganoderma lucidum 。私の「日本山海名産図会 第二巻 芝(さいはいたけ)(=霊芝=レイシ)・胡孫眼(さるのこしかけ)」を参照されたい。]

譚海 卷之十二 晩年僧事 附眞言宗灌頂の事

[やぶちゃん注:この前話「貧乏神の事」は既にフライング公開してある。]

 

○凡(およそ)、出家の人、幼稚より剃髮修行のものならでは、僧官にすゝむ事成(なり)がたし。俗人、老年に至り、出家するものは、たとへ才學ありても、「晚年僧」と號して昇進はなき事也。

 天臺・眞言・淨家(じやうけ)ともに然り。古(いにしへ)には此制なき事なれども、近世一般に此通り也。

 叔父、相知(あひしり)たる俗人、四十歲餘にて出家し、高野山に籠りて、勇猛に佛事修行し、千日の護摩などしてければ、衆僧(しゆそう)、其苦行を感じて、伴僧の班(はん)に列せし、とぞ。

 かやうに勝れたる行德(ぎやうとく)なくては、大體、皆、「道心者」と號して、僧徒の班には、列せぬ事也。

 俗人といへども、眞言に入(いり)て、持明灌頂(じめいくわんぢやう)をうつときは、護摩修法(しゆほふ)、ゆるされて、行(ぎやう)ずる事也。持明灌頂せざる人は、みだりに「陀羅尼」・「眞言」など唱ふる事、ならぬ事也。灌頂せぬ人、師傳なくて、眞言を行(ぎやう)ずれば、「ヲツサンマヤの罪」に墮する也。

 又、俗人の數珠をする事、おほくは、外へ、すり出(いだ)すやうにする。外へすり出すは、調伏の法に用ゆる事にて、常には念珠を内のかたへ、もみ入(いる)るやうにするが、法式也。鈴を、ふるも、外へは、ふらぬ事也。手前のかたへ、ふり向(むか)ふやうにするが、常の法式なり。乞食人(こつじきにん)など、みだりに、ふりてあるく作法は、埒(らち)もなき事也。

[やぶちゃん注:「晚年僧」本篇と同内容の記事が先行する「譚海 卷之十一 求聞持修法の事」に載る。

「叔父」複数回既出の津村の叔父中西邦義。

「持明灌頂」「受明灌頂」と呼び、「伝法灌頂」以前に、一尊法、或いは、真言を授かる際に受ける灌頂。

「ヲツサンマヤの罪」「譚海 卷之十一 普通眞言藏諸尊だらにの事」で既出既注。]

譚海 卷之十二 文昌帝の事

[やぶちゃん注:前の前の話の「妙見菩薩の像」と関係する。]

 

○漢に「文昌帝」と稱するは、則(すなはち)、北辰(ほくしん)也。則(すなはち)、妙見菩薩(めうけんぼさつ)と稱する、同じ事也。

 隨仕(ずゐし)の役人、二人、有(あり)、一人は儒形(じゆけい)にて「司命」を掌り、一人は鬼形(きぎやう)にて、斗(ます)を負(おひ)て立(たて)り。文章を守る神也。書籍のはしに、押(おし)てある鬼形、則、是也。

[やぶちゃん注:「文昌帝」文昌帝君。別名を文昌神と呼ぶ、道教の神で、当該ウィキによれば、『学問や科挙を司る』。『北斗七星の「天枢、天璇、天玑、天権」』『を総称して文昌宮と呼ぶが、功名・福禄・寿命などを司るとされたそれを神格化したもの』で、『起源については』、『黄帝の子孫の揮が文昌帝君になったという説もある。揮は周から元にかけて』九十七『回』、『この世に生まれ、学問を志す者に尽くしたのち、道教の神として祀られるに至った。また、唐の優れた文筆家・張亜が神格化されたものだという説もある』。『南宋の時代、科挙の普及に伴い学問や科挙を司るとして文昌帝君が学校に祀られるに至った。以後、元・明・清の時代、知識人の間で特に信仰を集めた』。『元の頃から梓潼神(しどうしん)と同一視されているが、本来は別の神である。梓潼神、別名・梓潼帝君は、晋の張悪子が戦死したのち神格化されたもの。六朝の頃から信仰されているが、宋代には福禄と名籍を司る神として科挙受検者に信仰された。このことから、梓潼神と文昌帝君が同一視されている』。『四川の地方神であった梓潼神と星神である文昌帝君が同一視されたことについては、明代・清代にも様々な議論があったようで、清の趙翼も』「陔余叢考」で『詳述している』。『それによると、もともとは別の神であるから分離すべきとの主張が、明の弘治年間』(一四八八年~一五〇五年)『に行われていた。趙翼も、基本的には』、『この立場を支持しているが、「こういった認識が一部の士大夫の間であったとしても、文昌帝君と梓潼帝君の融合はもはや抜きがたい」とも述べている』。『科挙の無くなった現代においても、台湾の文昌帝君の祭祀されている廟には、合格祈願のため』、『受験票のコピーを納める受験生が多くいる。二階堂善弘は、日本の天神・菅原道真がもっぱら受験のための神として扱われている現象とほぼ同じであろうとしている』とある。

「北辰也。則、妙見菩薩」先行する「譚海 卷之四 下野相馬領妙見菩薩祭禮の事」の私の注を参照されたい。

「司命」星の名。北斗七星の魁(かい:桝(ます)形の部分)の上方にある文昌宮六星の第四星。天帝の居所という北極星の傍らにあり、人間の寿命を司(つかさど)るとされている。第五星の「司中」、第六星の「司祿」とともに「三台星」と称し、地上における三公のように、天帝を補佐する高位の星である。特に、道教では、人間の寿命台帳を管理するほか、人間の行為の善悪を監視する三尸虫(さんしちゅう)や竈神(かまどがみ)の報告に基づいて、寿命の増減を行う神と考えられた。「楚辞」の「九歌」には「大司命」・「少司命」の二神が見えるから、以上の『「儒形」にて「司命」を掌り、一人は鬼形にて、斗を負て立り。文章を守る神也』とは、その二神を指すか。但し、「香港中文大學」公式サイト内の「雅共賞」「生命之神」のページに載る二神の姿は、孰れも人形(ひとがた)である。]

譚海 卷之十二 平澤左内林家より北辰の像をゆづられし事

○平澤左内[やぶちゃん注:底本には「左」の右に編者の補正傍注があり、『(佐)』とある。]と云(いふ)は、隨貞と號し、易學に妙を得て、うらなひ、あつる事、神(しん)の如し。

 林家へも招(まねか)れて、參り、其術の神なる事を感じ、林家傳來の妙見菩薩の像を讓られし事あり。

 叔父、平澤氏に易を習(ならひ)て、時々、出席せられしに、平澤氏門人に、光三儀德雲といへる、狐、有(あり)、本所某(なにがし)の旗本の地に居住する、よし。

 人間(にんげん)にある事、凡(およそ)八百餘年に及べり。

 其物語に、

「世間に善狐あり、惡狐あり。惡狐は、常に、人を、まよはし、たぶらかす事をなして、業(なりはひ)とす。善狐は、善事に隨逐(ずゐちく)する事を好みて、高僧碩儒(せいきじゆ)の許(もと)による所を、なす。仍(よつ)て、說法講學の席には、折折、狐、まじりてある事。」

とす。

「かくの如くして、智識、增長し、年月(としつき)を經(へ)ぬれば、人間に生(しやう)を轉ずる。」

よし也。

「此德雲も、今、世上に交(まじは)る人、十八人、あり。皆、博學の人なる。」

よし。

「德雲、人に物を敎受する願(ねがひ)ありて、是まで、十一人に諸藝を傳受せし也。今、一藝、天文學を人に傳へ殘(のこ)せり。『是を、つたへ終(をは)れば、志願成就して、來生(らいせい)を人間に受(うく)る。』よし、いへり。」

と、佐内、物がたり也。

[やぶちゃん注:この話、先行する「譚海 卷之十二 平澤左内卜筮幷光三儀德雲が事」と内容が、かなりダブる。そちらの私の注を参照されたい。

「叔父」事実上、この叔父に対して書かれた前の「卷之十一」に頻出する津村の叔父、中西邦義。]

譚海 卷之十二 古筆目利了意物語の事

○古筆目利(めきき)、了意、物語せしは、[やぶちゃん注:底本では、名の「意」の右に編者による補正注があり、『(延)』とある。「りやうえん」と読んでおく。彼、了延は、代々の古筆鑑定家の家柄で、通り名をまさに「古筆了延」(こひつりょうえん 宝永元(一七〇四)年~安永三(一七七四)年)と称した。江戸時代前期の古筆鑑定家ノ古筆宗家第五代古筆了珉(りょうみん 正保二(一六四五)年~元禄一四(一七〇一)年:原姓は平沢。古筆別家初代一村の孫で、宗家第四代了周が早世したため、その跡を継いだ。別家の了仲とともに幕府に仕え、寺社奉行支配の古筆見(こひつみ)となった)の直孫に当たり、子であった古筆了音の実子である。父を継いで、古筆宗家第七代となった。名は長泰・最門。別号に玄仲庵がある(講談社「デジタル版日本人名大辞典+Plus」の複数の項目を参照した。]

「『古筆三筆』と稀する中に、道風(たうふう)・行成(ゆきなり)兩卿の眞蹟は、稀にあるものなれど、佐理卿の眞蹟は、至(いたつ)て稀也。いまだ、眞蹟をみざる。」

由を、いへり。又、

「世問に源九郞義經の書といふもの、時々、あれども、皆、うたがはしき物也。義經の眞蹟と云(いふ)もの、絕(たえ)て、世間になき事。」

と、いヘり。

[やぶちゃん注:「道風」小野道風(おののとうふう/みちかぜ 寛平六(八九四)年~康保三(九六七)年)は貴族で能書家。かの参議小野篁の孫で、官位は正四位下・内蔵頭。当該ウィキによれば、『それまでの中国的な書風から脱皮して和様書道の基礎を築いた人物と評されている。後に、藤原佐理と藤原行成と合わせて「三跡」と称され、その書跡は』「野跡」』(かせき・「小野」の「野」から)『と呼ばれる』とある。名を音で読むのは、当時の敬称の通例。

「行成」藤原行成(ふじわらのこうぜい/ゆきなり 天禄三(九七二)年~万寿四(一〇二八)年)は公卿。当該ウィキによれば、『藤原北家、右少将藤原義孝の長男。官位は正二位・権大納言』で『世尊寺家の祖』。『当代の能書家として三蹟』(=三跡)『の一人に数えられ、その書は後世「権蹟」』『(ごんせき)と称された。書道世尊寺流の祖』である。

「佐理」藤原佐理(ふじわらのさり/すけまさ )は、当該ウィキによれば、『公卿・能書家。藤原北家小野宮流、摂政関白太政大臣』『藤原実頼の孫。左近衛少将・藤原敦敏の長男。三跡の一人で草書で有名』とある。但し、「佐理卿の眞蹟は、至て稀也。いまだ、眞蹟をみざる」とあるが、引用元に、現行では国宝指定など、真筆のリストが載る。

「義經の眞蹟と云もの、絕て、世間になき事」その通りである。私も確かな真筆なるものを見たことがない。「藤澤浮世絵館」の二〇一八年の企画展「藤沢と義経伝説」で、白旗神社に伝来する「伝義経御真筆」を見たが、史実上、頗る怪しいものであった。]

2024/03/20

譚海 卷之十二 紀藩久能丹波守殿別業の事

○久能丹波守殿下屋敷、江戶靑山にあり。

 其庭、曠漠にして、草木、少(すくな)く、荒涼なる所なりしを、紀州の茶道、如心齋(じよしんさい)に作(つくら)せられけるに、大井川の景を模(も)し、數(す)十町の庭を、川原に、こしらへ、地中より、六尺餘り、小石を敷(しき)て、川となし、そのうへに、水、ながるゝ樣(やう)に造りて、所々に、ありあふ樹に、少く、うえ、そへて、風景を點輟(てんてつ)せり。景色、いはんかたなく面白し。

 但(ただし)、此屋敷は、水を引(ひく)事、至(いたつ)て不自由なるを、川上に、水を、たくはふる樋(とひ)を、三つ、こしらへ、それに、水を、たくはへて、川となし、ながせるなり。

 此水を、溜(ため)る桶、甚だ、大きく、こしらへ、客來の節は、二、三日前より、下人に、くみいれさせ、たゝへおきて、客來の時、水口(みなぐち)をあけて、ながるゝやうに仕掛(しかけ)たる、とぞ。

 此水溜、はじめ、こしらへたてて、水を入(いれ)しかば、一夜に破壞して、工(たくみ)のごとく、成(なり)がたかりし。

「是は、あまり大なる桶故(ゆゑ)、水をくみ入て、みちたる水勢、餘りて、たもちがたく、破壞せしことなり。」

とて、桶に、水ぬきの穴を、一つ、こしらへて、水を入けれども、又、破る事、前のごとくなれば、三つまで、穴を明(あけ)て、水を、たくはヘければ、やうやく、もちこらへてあり、とぞ。

 或日、茶事に召(まねか)れて、終日、夜半までありしに、水の流るゝ事、少(すこし)も減ぜず、眞(まこと)に大井川のごとく覺えし。

 これを思へば、

『一晝夜、ながれて、盡(つき)ざるほどの水を思へば、くみ置(おく)桶、いかばかり大(だい)なるものならむ。』

と、思ひやられたり。

[やぶちゃん注:底本では最後に『(別本缺)』という編者割注がある。

「久能丹波守」底本の竹内利美氏の後注では、『寛政頃の丹波守といえば、大名では鳥居忠意』(ただおき:享保二(一七一七)年~寛政六(一七九四)年:当該ウィキによれば、『見目がよかったため、将軍徳川吉宗に抜擢され』、『日光東照宮への将軍の名代としての代参役を勤めた。この際に将軍家の葵紋入りの羽織を与えられている。こののちも日光代参役を何度も勤めた』。延享四(一七四七)年五月に『奏者番となり、『宝暦』二(一七五二)年に『寺社奉行を兼務した』。宝暦一〇(一七六〇)年三月には、『若年寄となったが、翌年に将軍徳川家重が死去すると』、『全ての職を辞職した』とあるので、本篇の記載時は辞任後となる)『しかない。彼は下野壬生三万石の傾主で、寺社奉行、奏者番、若年寄等を経て、老中に列している。宝暦六年』(一七六五年)、『駿河国久能山の東照宮遷宮の時、寺社奉行の故か』、『幕命により久能山におもむいている。多分その縁で、久能丹波守と呼ばれたのであろう』とあった。

「茶道、如心齋」(宝永二(一七〇五)年~寛延四(一七五一)年)は表千家第七代で、サイト「表千家不審菴」のこちらによれば、第六『代覚々斎』(紀州家の藩主頼方(後の将軍吉宗)に茶湯を教授した人物)の『長男に生まれる。家元制度の基礎を築き、七事式を制定するなど、茶道人口増大の時代に対応する茶の湯を模索した。千家茶道中興の祖ともいわれ、千利休以来の千家の道具や記録類を整理したことでも知られる』とあるから、作庭時期は、ずっと前となる。]

譚海 卷之十二 秋葉權現防火采配

○遠州、秋葉山權現より、采配を出(いだ)す也。此さいはひにて、火難の時、火に向(むかひ)て打(うち)ふれば、火、橫ざまに、なびきて、火災を遁(のが)るゝ事、不思議の靈德也。秋葉山より、每年、一度づつ、采配を施す日あり。其時を、しりて、もらひに行(ゆく)べし。

 江戸、石原の旅宿にても、いだす也。

[やぶちゃん注:「秋葉山權現」先行する「譚海 卷之六 同國秋葉山權現の御事(フライング公開)」を参照されたい。

「采配」本来は、紙の幣(しで)の一種で、昔、戦場で大将が手に持ち、士卒を指揮するために振った道具。厚紙を細長く切って作った総(ふさ)を、木や竹の柄につけたものを指すが、ここは、その形がそれに似ているところから「はたき・ちりはらい」のことであろう。但し、ネットで調べたところでは、現在は通常の火防御札であるようだ。

「石原の旅宿」現在の調布市にあった甲州街道の上石原宿、或いは、下石原宿であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。何故、ここで配布されたのかは、不明。]

譚海 卷之十二 佛像七寶を腹籠りにする事

○佛像を彫刻して、腹ごとに、七寶(しちほう)を納(をさむ)る事、あり。

 珊瑚(さんご)・こはくの類(るゐ)、平生(へいぜい)、「さげもの」に用(もちひ)る結(むすび)じめの穴の有(ある)物は、用ひず、珠にして、穴なきものを、えらび、用る事ゆゑ、價(あたひ)、甚(はなはだ)、貴(たか)し。殊に、瑠璃(るり)は、得がたきものの第一也。「眞(しん)るり」といふもの、世間に、絕(たえ)てなき事故(ゆゑ)、「るり」に代(かはり)て、「びいどろ」を用ゆる事也。

[やぶちゃん注:「七寶」は仏教で貴重とされる七種の宝。当該ウィキによれば、『七種(ななくさ)の宝、七珍ともいう。工芸品の「七宝」(七寶瑠璃、七宝焼)の語源と言われている。専ら』、『工芸品の七宝をシッポウとよび、仏教の七宝をシチホウと』呼び、『サンスクリット語』では『サプタラットナ、パーリ語』では『サッタラタナ』と呼ぶ。「無量寿経」に『おいては』、「金・銀・瑠璃・玻璃・硨磲(しゃこ)・珊瑚・瑪瑙」とされ、「法華経」『においては』、「金・銀・瑪瑙・瑠璃・硨磲・真珠・玫瑰(まいかい)」と『される』とある。この内、『瑠璃は、サンスクリット語では』バイドゥーリヤ(漢音写:「吠瑠璃」(べいるり))、『パーリ語で』『ヴェルーリヤ』で、『青色の宝玉で、アフガニスタン産ラピスラズリと推定されている。後に、青色系のガラスもさすようになった』とあり、玻璃は、サンスクリット語』漢意訳で「水精」(すいしょう)、『無色(白色)の水晶、後に、無色のガラスを指す』とし、『硨磲は、シャコガイの殻、又は白色系のサンゴ』、『玫瑰は、詳細は不明であるが、赤色系の宝玉とされる』とある。

「びいどろ」ガラス。]

2024/03/19

譚海 卷之十二 不動經の事

○「不動經」は、

「擬經(ぎきやう)也。」

と、いへども、甚(はなはだ)有難(ありがたき)もの也。

 全體、不動尊は、勇猛の相(さう)を示して、人身の五臟に配したる本尊也。

 左手に縛(ばく)[やぶちゃん注:「縛繩(ばくじよう)」。]を取(とり)て、不退の心を堅く持(じ)し、右手に賓劍を取て、金剛の定心(ぢやうしん)を、たゆまぬ形、也。火焰に坐し給ふは、煩惱を消滅し給ふ「かため」也。シキの方(はう)にては、不動尊を火焰にてつゝみたる事に拵(こしら)ふ事也。都(すべ)て、請尊の火焰を帶(おび)給ふは煩惱を燒除(しやうじよ)するの儀也。

[やぶちゃん注:「不動經」正しくは「仏說聖不動經」であるが、津村の言う通り、真の仏典ではなく、本邦の修験道で唱えられる不動明王の経であり、実際には、日本で成立した偽経である。

「擬經」はママ。この語は「中国で経(けい)書を摸擬して著作すること」を言うので、誤字。「偽作された仏教経典」の謂いだから、「僞經」が正しい。]

譚海 卷之十二 金銀錆おとす法の事

○金銀、錆(さび)を落(おと)すには、「あく」[やぶちゃん注:「灰汁(あく)」。]をせんじたる湯の中へ、ひたして、取出(とりいだ)せば、さび、おちて、もとの色に、てる也。

 張付(はりつけ)の金紙、さびたるには、「わら灰」の湯を、紙に、ひたし、夫(それ)にて、ぬぐふ時は、曇りたる所、殘らず落(おつ)る也。

譚海 卷之十二 伊勢御はらいの事

[やぶちゃん注:「御はらい」はママ。]

 

○伊勢の御師(おんし)より、每年、送り來(きた)る「大祓(おほはらへ)」といふものは、神體にはあらず、元來、「はらへ」の「ぬさ」を入(いる)る箱也。「一萬度」・「五千度」など號するは、大倭姬命(やまとひめのみこと)の祝詞(のりと)を、「一萬度」・「五千度」など修(しゆ)し唱ふるを、いふ也。神道にては、鏡を、絲に、つりて、中央に懸(かけ)て、夫(それ)を神體とする也。

[やぶちゃん注:「伊勢の御師(おんし)」全国的には、「おし」と読み、特定の社寺に所属して、その社寺へ参詣者・信者のために祈祷・案内をし、参拝・宿泊などの世話をしたり、本人に代わって、参詣や御札を受け取って届けるといったことも勤め、各地に赴いて、参詣の慫慂等も行った神職集団を指す。但し、特に伊勢神宮のその職のみは、「おんし」と読んで区別した。

譚海 卷之十二 五萬雷神名付の事

[やぶちゃん注:この前の「大黑天緣起の事」は既にフライング公開してある。]

 

○東西南北中央に雷神あり。其名號(みやうがう)は「最勝王經」に見えたり。此名號を書(かき)て、天井に張置(はりおく)所へは、雷(かみなり)、落(おつ)る事、なし。

譚海 卷之十二 護摩の瀉水・さんしやうの事

○梅・柳・ざくろ・桃など、皆、靈木也。

 護摩の瀉水(しやすい)の散杖(さんじやう)には、多く、梅・柳を用ゆ。「大元明王(たいげんめうわう)の法」を修(しゆ)するには、ざくろ・さんしやう[やぶちゃん注:「山椒」。]を用(もちひ)る事也。

[やぶちゃん注:「瀉水」仏語で、清浄(しょうじょう)を念じ、香水(こうずい)を灑水器(しゃすいき)に入れて壇場に注ぐこと。また、その香水。

「散杖」仏具の一つ。密教の修法の際、香水を散ずるのに用いる杖状のもの。梅・柳などの枝で約三十五~五十五センチメートルぐらいの長さに作るが、一定はしていない。また、一流では杖頭に八重蓮華を刻む。

「大元明王の法」「大元帥法」(たいげんすいほう)のこと。真言密教の大法の一つ。口伝では、「帥」の字を読まず、「たいげんのほう」と言う。悪獣や外敵などを退散させる力を持つとされる鬼神である大元帥明王を本尊として、鎮護国家・敵軍降伏のために修する法。承和六(八三九)年に常暁が唐から伝えた。仁寿元(八五一)年以降、正月八日から七日間、朝廷で修せられ、また「承平天慶(じょうへいてんぎょう)の乱」(同時期に発生した平将門の反乱と藤原純友の反乱)などでも、この修法が行われた。]

譚海 卷之十二 草木賞玩盆花等の事

[やぶちゃん注:この「盆花」は「お盆に供える花」の意ではなく、「盆」栽として「賞玩」する「花」樹・草「花」を指している。]

 

○鉢植の物に「無雙花」[やぶちゃん注:底本では右に編者による補正注があり、『(佛桑花)』とある。「ぶつさうげ」(ぶっそうげ)と読む。]といふ花、甚(はなはだ)、見事成(なる)もの也。花形、「むくげ」に似て、紅(くれなゐ)の色、さながら、「もみ」[やぶちゃん注:「紅絹(もみ)」。紅花で染められたとされる鮮やかな紅色の生地。現在は紅花では殆んど作られていない。]の色の如し。薩摩より來(きたる)物也。暖國の物なれば、寒氣に堪(たへ)かねて、冬に至りて、多く、枯るゝ也。

 是に次(ついで)では、「みせばや草(ぐさ)」といふ物、見事なり。

 蘭の中には、「巖石蘭(ぐわんせきらん)」といふ物、鉢うえ[やぶちゃん注:ママ。]にして、翫(もてあそ)ぶべきものなり。葉に、白き星の文(もん)あり、「金星草(きんせいさう)」のたぐひなり。よく茂生(もせい)するものにて、花は、三月の頃、ひらく。花形、蘭のごとし。

 又、「松葉蘭」といふものあり。土に植(うゑ)ては枯るゝ也。「忍ぶ土(づち)」といふ物、「植木や」にあり、夫(それ)にて、ううる也。是は、土にあらず、古き木の腐れたるを、細末にしたる物なれば、夫にて、ううれば、能(よく)たもつ也。日のあたる所を、いむ。只、室中(へやうち)の盆翫(ぼんぐわん)に、そなへて、時々、水をそゝぐ時は、茂生す。幽致、いはんかたなき物也。

 又、「絲石菖(いしせきしよう)」といふ物、有(あり)。葉の長さ、一、二寸也。葉の細き事、絲の如し。香爐に、うえて、几上(きじやう)に置(おく)べし。甚(はなはだ)、佳景なり。

 此二種、皆、薩摩より來(きた)る。「松葉蘭」は、近來、遠州よりも來る。深山の石上(せきしやう)に生(おゆ)るものと、いへり。

 「麒麟角」は、火災を、よくるよし。琉球にては、生垣にうえ付(つけ)てあり。暖國故、よく生長すると覺えたり。此邦(このはう)[やぶちゃん注:日本。]にては、寒中、「むろ」に入(いれ)、よく圍(かこ)ひ置(おか)ざれば、たもちがたし。

 「さぼてん」も、暖地ならでは、花の咲(さく)ほどには、長ずること、かたし。

 「あたん」・「緋桃桐」抔といふ物も、皆、冬は、「むろ」に入るなり。水の出ざる赤土のむろならでは、たもちがたし。「もみのから」にて、かたく、つめて、かこひ置(おき)、春、暖(あたたか)に成(なり)て取出(とりいだ)しみれば、枯(かれ)しほれたる根に成(なり)てあるを、たびたび、水をそゝぎ、晝は、日のあたる所に出(いだ)し養へば、靑き色に歸り、花、咲(さき)、長(ちやう)ずるなり。「むろ」のやしなひ、誠に、むづかしき事なり。

[やぶちゃん注:「無雙花」→「佛桑花」アオイ目アオイ科アオイ亜科フヨウ連フヨウ属ブッソウゲ Hibiscus rosa-sinensis当該ウィキによれば、『中国南部原産の説やインド洋諸島で発生した雑種植物であるとの説もあるが、原産地は不明である。本土への渡来は、慶長年間』(一六一〇年頃)『に薩摩藩主島津家久が琉球産ブッソウゲを徳川家康に献じたのが』、『最初の記録として残っているという』とある。

「みせばや草(ぐさ)」バラ亜綱バラ目ベンケイソウ科ムラサキベンケイソウ属ミセバヤ Hylotelephium sieboldii当該ウィキによれば、『古典園芸植物の一つであり、玉緒(たまのを)とも呼ばれる』。『和名は「見せたい」という意味の古語が変形したもので、高野山の法師が詠んだ和歌にちなんでいるといわれている』。『古くから園芸用に栽培されているものが日本全国各地に見られ、それらが逸出し』、『群馬県などで野生化している。栽培逸出でないと考えられているのは、香川県小豆島の寒霞渓のみであったが、近年』、『奈良県内で別の自生地が発見された。変種まで含めると、エッチュウミセバヤ』(ベンケイソウ属ベンケイソウ変種エッチュウミセバヤ Hylotelephium eboldii var. ettyuense )『が富山県の河川上流の山岳地帯に見られる』。『命名が高野山に由来していることなどから、古くはもっと広い地域に分布していたと考えられる。日本国外では、中国湖北省に変種と考えられる株の自生が確認されている。その他同属の近縁種が東アジアの山岳の岩塊地帯に多く見られる』とあった。

「巖石蘭」単子葉植物綱ラン目ラン科ガンゼキラン属ガンゼキラン Phaius flavus当該ウィキによれば、『常緑樹林内の地上に生える地性ランで、地表には偽球茎が並ぶ。偽球茎は卵形で高さ』三センチメートル『にもなる。葉は数枚が偽球茎の先端から伸びる。その基部は葉鞘状に巻いて少し伸び、先端で葉身が分かれ、大きいものは高さ』五十センチメートル『程に伸びる。葉は楕円形で大きく、少し縦しわがある』。『花は初夏に咲く。偽球茎の基部の横から花茎が伸び、葉の上近くまで出て十数個前後の花を穂状につける。花は鮮やかな黄色。花弁はやや細長く、全体に筒状に咲いて花びらは広がらない。唇弁には縦じわが多く、やや赤みが濃くなっている』。『日本国内では本州では静岡県と紀伊半島、およびそれ以南の四国と九州、伊豆諸島と琉球列島に分布し、国外では台湾からフィリピン、マレーシア、インドに分布する』。『古くからエビネ類』(ラン科エビネ属 Calanthe )『とともに観賞用に栽培された。花も喜ばれるが、葉が黄色い水玉模様の斑入りになる株があり、これもよく栽培された。この斑入りのものを特にホシケイランと呼ぶ』。『ただし』、乱獲『採集が行われたために、現在では日本国内では野生株を見るのは』、『困難な状況にある』。『性質は強健であるが、凍結させると株が弱ってしまう。また、乾燥を嫌う』とあった。但し、底本の竹内利美氏の後注では、『石蘭。ヒトツバの漢名。常緑の羊歯類の一種で、ともに観賞用に栽培された』とある。これは、シダ植物門シダ綱ウラボシ目ウラボシ科ヒトツバ属ヒトツバ Pyrrosia lingua で、当該ウィキによれば、『比較的』、『乾燥した場所に生える着生植物で、岩や樹皮上に生えるが、地上を覆うこともよくある。匍匐茎は針金状で硬くて長く伸び、あちこちから根を出す。表面には盾状の鱗片がつく。匍匐茎からはまばらに葉が出て、葉は立ち上がり気味で、高さ』は、三十~四十センチメートルに『なる。葉は』、『はっきりした柄を持った楕円形の単葉』で、『葉は厚手で、やや硬い革質で』あり、『表面は一面に細かい星状毛で覆われ、毛羽だって見える。基部には長い葉柄がある』。『葉は厚みがあって硬く革質、表面には星状毛を密生しているので毛羽立って見え、黄緑色。新芽は毛がはっきりしていて白く見える。形は楕円形から卵状楕円形』で、『胞子のう群は』、『すべての葉につく訳ではない。胞子葉が特にはっきり分化してはいないが、胞子のつく葉の方がやや背が高くなり、葉の幅が狭くなる傾向はある。胞子のう群はほぼ半球状で、互いに寄り合って、葉の裏面に一面につく』。『日本では関東以西の本州から琉球列島に分布する。やや乾燥した森林内に多く、岩の上や樹木の幹に着生する。特にウバメガシ林では林床に密生することがある。国外では朝鮮半島南部、中国(揚子江以南)、台湾からインドシナに分布する』。『着生植物として栽培鑑賞するには』、『やや大柄すぎるのか、あまり利用されない。また、人家の庭などに出現することも多くない』。『しかし、葉の変わりものは山野草のひとつとして栽培されてきた』とあった。私のガンゼキランと、このヒトツバのどちらが正しいかは、私は植物には冥いので、自信はない。しかし、盆栽として楽しむのであれば、私はガンセキランの方が相応しいとは思う。

「金星草」栗葉蘭(くりはらん:シダ植物門シダ綱ウラボシ目ウラボシ科クリハラン属クリハラン Neocheiropteris ensata )又は「三手裏星(みつでうらぼし:ウラボシ科ミツデウラボシ属ミツデウラボシ Selliguea hastata )」の古名。前者は当該ウィキによれば、『いくつもある単葉の葉を持つシダのひとつで、日本産のものの中では』、『やや大柄な方に属する。地上から立ち上がる葉をつけ、その質が薄いが堅くてつやがある点で、かなり目立つシダである』。『地上に生えるか、岩の上に着生状に出る。根茎は細長く這い、鱗片があり、ややまばらに葉をつける』。『葉は長さ』三十~七十センチメートル『位になり、そのおよそ三分の一くらいが葉柄である。葉はほぼ立ち上がり、先端がやや斜めになる。葉身はほぼ披針形で先端は鋭尖頭、つまり』、『やや細く突き出す。葉身の基部の方では葉身が葉柄に流れ、葉柄にヒレが出たようになる』。『葉身は薄く、紙質で、触るとぱりぱりしたような感触がある。主軸は表裏の両側に盛り上がり、側脈の主なものもはっきりと刻まれたように見える。表面には密着した鱗片がある。胞子嚢群はほぼ円形で、主脈の両側にやや不規則に数列にわたってつき、ほぼ葉全体にわたるが、縁沿いにはつかない』。『名前の由来は薄くて側脈がはっきりした葉の感じがクリの葉に似るため。別名をウラボシ、ホシヒトツバとも言う』。『森林内の木陰の岩の上に生える。特に湿ったところが好みで、水のあるところに出現することが多い。水流の少ない渓流わきや、時には用水路にも出てくる。条件がよければ人里近くの茂みの下などでも見られる。大柄でかたまりになって生えるのでよく目立つ』。『日本では本州の関東以西、九州までと沖縄本島に生育し、アジアでは朝鮮(済州島)、台湾、中国からインドにかけて分布する』。但し、『この種は変異が多く、いくつかの変種や種が記載されているが、それらの扱いについては判断が確定していないようである。国外の近縁種についても分けるべきかどうかの議論があ』り、『奇形もいくつか知られて』いる』とあり、後者は当該ウィキによれば、『日本では』、『この属で最も普通に見られる種である。名前は葉が大きく三つに裂けることから。ただし、十分成長しないとこの形にならない』。『葉は単葉』で、『茎はやや太くて横に這い、針金のような根を出して岩に固着する。茎の表面は密生する褐色の鱗片に覆われる。まばらに葉をつける』。『葉は長い葉柄を持ち、大きいものでは葉柄は』二十センチメートル『以上、葉身は』三十センチメートル『以上に達するが、たいていは全体で』二十センチメートル『位までである』。『葉柄は細くて硬く、褐色で基部は黒みを帯び、全体につやがある。葉全体の長さの半分近くを葉柄が占めている』。『葉身は単葉だが、成長すると基部で大きく三裂する。分裂しない場合は全体は披針形で鋭尖頭、つまり』、『基部の方が幅広い楕円形で、先端はやや細く伸びる。分裂する場合は基部から左右に大きく裂片が突き出る。左右の裂片は中心となる葉ほどは長くならず、左右やや斜め先端方向に出る。葉質は薄くて硬く、表面は緑で多少つやがある』。『胞子嚢群は葉の裏側、主脈に沿って左右に一列をなして配置する。個々の形は円形で、やや主脈に近い位置にある』。『日本では北海道南西部から琉球列島にかけて分布し、この類では最も目にするものである。国外では朝鮮南部、中国、台湾、フィリピンに産する』、『各地の低山で岩の上などに付着して見られる着生植物である。苔の生えた岩の上に出るが、結構』、『道端でも見かける』とあった。

「松葉蘭」シダ植物門マツバラン綱マツバラン目マツバラン科マツバラン属マツバラン  Psilotum nudum 当該ウィキによれば、マツバラン科 Psilotaceaeでは、『日本唯一の種で』、『日本中部以南に分布する』。『茎だけで葉も根ももたない。胞子体の地上部には茎しかなく、よく育ったものは』三十センチメートル『ほどになる。茎は半ばから上の部分で何度か』二『又に分枝する。分枝した細い枝は稜があり、あちこちに小さな突起が出ている。枝はややくねりながら上を向き、株によっては先端が同じ方向になびいたようになっているものもある。その姿から、別名をホウキランとも言う。先端部の分岐した枝の側面のあちこちに粒のような胞子のうをつける。胞子のう(実際には胞子のう群)は』三『つに分かれており、熟すと黄色くなる』。『胞子体の地下部も地下茎だけで根はなく、あちこち枝分かれして、褐色の仮根(かこん)が毛のように一面にはえる。この地下茎には菌類が共生しており、一種の菌根のようなものである』。『地下や腐植の中で胞子が発芽して生じた配偶体には葉緑素がなく、胞子体の地下茎によく似た姿をしている。光合成の代わりに多くの陸上植物とアーバスキュラー菌根』(arbuscular mycorrhiza)『共生を営むグロムス門の菌類と共生して栄養素をもらって成長し、一種の腐生植物として生活する。つまり他の植物の菌根共生系に寄生して地下で成長する。配偶体には造卵器と造精器が生じ、ここで形成された卵と精子が受精して光合成をする地上部を持つ胞子体が誕生する』。『日本では本州中部から以南に、海外では世界の熱帯に分布する』。『樹上や岩の上にはえる着生植物で、樹上にたまった腐植に根を広げて枝を立てていたり、岩の割れ目から枝を枝垂れさせたり』、『といった姿で生育する。まれに、地上に生えることもある』。『日本ではその姿を珍しがって、栽培されてきた。特に変わりものについては、江戸時代から栽培の歴史があり、松葉蘭の名で、古典園芸植物の一つの分野として扱われる。柄物としては、枝に黄色や白の斑(ふ)が出るもの、形変わりとしては、枝先が一方にしだれて枝垂れ柳のようになるもの、枝が太くて短いものなどがある。特に形変わりでなくても採取の対象にされる場合がある。岩の隙間にはえるものを採取するために、岩を割ってしまう者さえいる。そのため、各地で大株が見られなくなっており、絶滅した地域や、絶滅が危惧されている地域もある』とあった。

「忍ぶ土」ネット上ではここに書かれたようなものは、確認出来ない。

「絲石菖」単子葉植物綱ショウブ目ショウブ科ショウブ属セキショウ Acorus gramineus ととってよいか。「絲」は美称であろう。

「麒麟角」トウダイグサ科トウダイグサ属キリンカク Euphorbia neriifoliaShu Suehiro氏のサイト「ボタニックガーデン」のこちらで、解説と画像が視認出来る。そちらによれば、『おそらくはインドの中部から東部、南部が原産です。現在では、他の熱帯地域で観葉植物として栽培されています。よく分枝し、耐乾性植物で多肉質』、二~六『メートルの高さまで成長します。主幹や大きな枝は丸く、比較的若い小枝には』五『稜があります。葉は卵形や長楕円形、または』、『へら状で、枝の先端につきます。花は小さな杯状花序で、』二『月から』三『月に咲きます。花冠は存在しませんが、総苞には』二『個の』、『ほぼ円形から卵形の、長さ』三~七ミリメートルの『真っ赤な花苞があります』とあった。

「さぼてん」ナデシコ目サボテン科 Cactaceae当該ウィキによれば、『日本には』十六『世紀後半に南蛮人によって持ち込まれたのが初めとされている。彼らが「ウチワサボテン」の茎の切り口で畳や衣服の汚れをふき取り、樹液をシャボン(石鹸)としてつかっていたため「石鹸のようなもの」という意味で「石鹸体(さぼんてい)」と呼ばれるようになったとする説が有力』『であり』、一九六〇『年代までは「シャボテン」と表記する例もあった』とある。

「あたん」単子葉植物綱タコノキ目タコノキ科タコノキ属アダン Pandanus odorifer であろう。当該ウィキによれば、『亜熱帯から熱帯の海岸近くに生育し、非常に密集した群落を作る。時にマングローブに混生して成育する』。『日本では南西諸島の内、トカラ列島以南、奄美大島、沖縄の沿岸域に分布する』。『中国南部や東南アジアにも見られる』。『亜熱帯から熱帯の海岸に生える』とある。

「緋桃桐」不詳。思うに「桐」は「桃」に引かれた衍字ではあるまいか? 「緋桃」なら、バラ目バラ科サクラ属(スモモ属)ハナモモ Prunus persica で、当該ウィキによれば、『原産地は中国。花を観賞するために改良されたモモで、花つきがよいため、主に花を観賞する目的で庭木などによく利用される。日本で数多くの品種改良が行われ、種類が豊富。観賞用のハナモモとして改良が行われるようになったのは江戸時代に入ってからで、現在の園芸品種の多くも江戸時代のものが多い。サクラの開花前に咲くことが多い』。『桃の節句(雛祭り)に飾られる。結実するが実は小さく、食用には適さない』とある。]

本日 母 テレジア聖子 十三年忌

本日は、ALSで亡くなった、私の母、テレジア聖子の十三年忌――病床の父に、父が、昭和三七(一九六二)年に、「箱根園国際村」の「ブラジル館」で撮った母の写真を持って行こう――


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譚海 卷之十二 澁谷八幡宮別當種樹妙をえたる事

[やぶちゃん注:「種樹」は「たねぎ」と訓じておく。]

 

○澁谷八幡宮の別當、樹を、ううる事に、妙を得て、諸方より招待せられ、草木を、ううる事、敎へ習ふ人、多し。其物語に、

「茶椀蓮(ちやわんばす)の實(み)を一つ、鷄卵の「はし」を、少し、つきやふりて[やぶちゃん注:ママ。]、其内へ入(いり)たる口を、見えぬやうに、よくよく、繕ひ、かくして、鷄(にはとり)の籠(かご)に入置(いれお)けば、鷄、其玉子を、かへさんとて、度々(たびたび)あたゝむる也。よきころに成(なり)たると覺ゆる時、其玉子を取出(とりいだ)して打(うち)わりてみれば、蓮の實、葉を生じ、つぼみをなして有(あり)。其儘、茶椀の中へ水を入(いれ)、ひたし置(おく)時は、一、二日の際に、花、開く也。然れども、蓮の實を入たる玉子の穴を、よく、つくろはねば、鷄、誠の玉子と思ひて、あたゝむる事、なし。穴をつくろふ事、第一の手段也。」

とぞ。

[やぶちゃん注:「澁谷八幡宮」先の「卷之十一 朝士長崎七郞右衞門殿の事 附歰谷金王院別當の事」の後者の「澁谷金王院の別當」と同一人物で、恐らくは現在の金王八幡宮である。

「茶椀蓮」現代の感覚からは「種樹」と言う謂いは奇異であるが、「爪紅茶碗蓮」(つまべにちゃわんばす)で、多年性水生植物である蓮(ヤマモガシ目ハス科ハス属ハス Nelumbo nucifera )の小型種のこと。「碗蓮」とも言う。]

譚海 卷之十二 光琳乾山の事

○光琳(くわうりん)といへるは、乾山(けんざん)の兄なり。兄弟ともに、諸藝に達したる者なり。

 京都所住のころ、三井八郞右衞門と同道にて、加茂祭(かものまつり)、拜見に行(ゆき)たりしが、光琳、其日は、「金さらさ」の「羽おり」を着(ちやく)しけるが、歸路に堤の邊(あたり)にて夕立に逢(あひ)しかば、八郞右衞門は、いそぎ、人家に、はしり入(いり)て、雨を凌ぎ居(をり)たりしに、光琳、羽織ながら、ぬれぬれて、杖にすがり、漸(やうやう)にして、いり來(きた)れば、八郞右衞門、

「衣裳のぬるゝに、など、早くおはさぬ。」

と、いひし時、光琳、笑つて、

「我等、八十に及(および)たれば、いそぎて、つまづきなどせば、病氣にならんも、無益なるゆゑ、靜(しづか)に、あるきたり。阿呆なこと、いふ人かな。」

と、いへりしとぞ。

[やぶちゃん注:底本では、最後に編者割注で『(別本缺)』とある。]

譚海 卷之十二 天狗名義考の事

○「天狗名義考」と云ふ書、奈良の春日(かすが)にあり。天狗のことを、委(くは)しくしるしたり。尾州やをつ山大忍の著述なり。

[やぶちゃん注:底本では最後に『(別本缺)』という割注がある。

「天狗名義考」(てんぐめいぎ(みょうぎ)こう:現代仮名遣)は江戸中期の真言律宗の僧、諦忍妙龍(たいにんみょうりゅう 宝永二(一七〇五)年~天明六(一七八六)年:俗姓は仙石氏、号は雲蓮社空華で、美濃国生まれ。尾張国八事山興正寺第五世)の著。江戸の西村源六他が版元で、宝暦四(一七五四)年板行。「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」のこちらで原版本が総て視認出来る。また、ガリ版刷であるが、丁寧な訓点がしっかり施されていて読み易いものが、国立国会図書館デジタルコレクションの『未刊・稀覯書叢刊』第一輯「第一 天狗名義考」(壬生書院編輯部昭一四(一九二九)年刊)で、やはり、全文を視認出来る。

「尾州やをつ山」現在の愛知県名古屋市昭和区八事本町(やごとほんまち)にある高野山真言宗八事山(やごとさん)興正寺(こうしょうじ)。通称「八事観音」。妻の実家の近くで、私は亡き義母に連れられて参ったことがある。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

2024/03/18

譚海 卷之十二 山神の像の事

○美濃の國の僧、物語しは、

「在所にて、知(しり)たる人の許(もと)に、『山神の像』といふものを畫(ゑが)きたるを所持せり。兩面の頭(かしら)にて、手足は、猿の如し、斧を、かつぎて立(たて)る像也。猿の功をへたるが、『ひゝ』といふものに成(なり)たるが、山神に成(なる)事。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:この造形は、即座に、ピンとくるものがある。「両面宿儺」(りょうめんすくな)である。詳しくは、当該ウィキを見られたいが、『仁徳天皇の時代の飛騨に現れたとされる異形の人物、もしくは鬼神で』、「日本書紀」には『武振熊命に討たれた凶賊とする一方で、岐阜県においては』、『毒龍退治を行ったり、寺院の開基となった豪族とする伝承も残されている』とある。私は大学生の時、父母と旅した高山の千光寺で、円空の両面宿儺像を直に見、激しく感動した(宝物館の建設に取り掛かった直後で工事中であったが、住職が我々の来訪を見て、特別に見せてくれ、解説もしてくれた。拝観料も受け取られずに、である)。円空一代の最高傑作の一つと言ってよいと私は思っている。]

譚海 卷之十二 平澤左内卜筮幷光三儀德雲が事

○寳曆の比(ころ)、平澤左内と云(いふ)人有(あり)。

 易に通じたる事、妙を得て、物を、おほひ[やぶちゃん注:「覆ひ」]、うらなはするに、其内の物を、さして、中(あつ)る事、神の如し。

 林大學頭殿へも、度々、謁して、林家より、天府の像を給りて安置せし也。

 又、

「本所旗元[やぶちゃん注:ママ。旗本。]衆何某の地面に、住居(すまい)する白狐(びやくこ)あり。八百歲に及ぶ。」

と、いへり。

 みづから、「光三儀とくうん」と稱して、左内所へも、折々、來りて、易學を論じたり。「とくうん」、物語に、

「數年(すねん)、藝術を、人に、をしへ、傳ふる事を願(ねがひ)とす。如ㇾ此、業(わざ)、成就すれば、人間に生(うまる)るゝ事とす。利慾名聞(みやうもん)に拘(こだは)りたる人は、ともに語るに、足らず。世間に、十八人ならでは、ともなふて語る人、なし。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「寳曆」一七五一年から一七六四年まで。林家第四代林榴岡(はやしりゅうこう)か、第五代鳳谷 (ほうこく)。

「天府の像」こうした用語は知らないが、この「天府」とは、天空の中心である北斗七星に与えられた妙見(北辰(ほくしん))菩薩のことを指しているものと思われる。

「平澤左内」江戸中期の易者で医師。宝暦の頃、江戸で知られ、市中の売卜者の中で「平沢流」を名乗る者が多く出たという。通称は左内の他に左仲とも。医術にもすぐれ、著作に「卜筮経験」・「卜筮秘伝鈔」「医道便益」などがある(講談社「デジタル版日本人名大辞典+Plus」に拠った)。]

譚海 卷之十二 淺野家家士堀部安兵衞弟りうさいの事

[やぶちゃん注:なお、この前話の「京八坂の塔の九輪のはづれたるを直したる事」は既にフライング公開してある。]

 

○淺野家の家士堀部安兵衞弟、田宮りうさいと云(いふ)人、あり。今年、天明七年、猶、存命なり。

 又、安兵衞妻、九十七歲にて、今年、卒したり。

[やぶちゃん注:文末に編者割注があり、『(別本缺)』とある。

「淺野家家士堀部安兵衞弟りうさい」確認出来ない。

「天明七年」一七八七年。

「安兵衞妻、九十七歲にて、今年、卒したり」この記載で、この記事全体が、作り話と判る。「堀部安兵衞」こと、堀部武庸(たけつね)の妻は、彼のウィキによれば、『偽者の妻』という項があり、『討ち入りから』七十『年後の安永』三(一七七四)年、『武庸の妻を名乗る妙海尼(堀部ほり)という老女が泉岳寺に庵を結んで、赤穂浪士の昔語りを始めて、江戸で評判になった。しかし、武庸の妻』『きちは享保』五(一七二〇)年に四十五『歳で死去しており、この老女は偽物である』とあった。以上の話は、その偽物出現の後であるから、懲りない輩は、陸続としてあったということになろうか。]

譚海 卷之十二 薩州蛇皮刀の鞘となす事

○薩摩には、すべて、大(だい)成(なる)へび、あり。其皮を、はぎ、長き儘にて、大小のさや張(はり)て、「金(きん)ため」に塗(ぬり)たる、往々、有(あり)。「薩摩の蛇皮(へびかは/じやび)」とて、「鮫(さめ)ざや」の類(るゐ)に用(もちひ)る也。

[やぶちゃん注:「薩摩には、すべて、大成へび、あり」無論、そんな大蛇は、薩摩には棲息しない。幕府には独立国と称して、実際には薩摩藩が過酷に統治していた琉球国を介して、南アジアに棲息するニシキヘビ類(ヘビ亜目ムカシヘビ上科 Henophidiaニシキヘビ科 Pythonidae)を密輸していたものと思われる。]

譚海 卷之十二 水戶家士某百歲に成ける春發句の事

○「安產樹(あんざんじゆ)」といふ物は、「木のきれ」にて、おらんだ人、持渡(もちわた)る。此樹の影を、水に、うつして、產婦に、其水を飮(のま)しむれば、安產する事也。

[やぶちゃん注:「安產樹」アブラナ目アブラナ科アブラナ科アナスタチカ属アンザンジュ Anastatica hierochuntica 。一年草。高さ約十五センチメートル。アラビア・シリア・エジプトの砂漠地域に成育する。開花すると、葉は落ちる。枝が湾曲し、全体は毬状を成す。産産婦が、この木の乾燥した葉を(本文の「木のきれ」は誤り。但し、後のリンクの写真を見るに、そう錯覚するのも腑に落ちる)、水に浸し、葉が開くと、安産するという。「含生草(がんせいそう)」「えるこそう」とも。英文の当該ウィキ写真をリンクさせておく。]

譚海 卷之十二 水戶家士某百歲に成ける春發句の事

○天明七年、ことし水戶家中某(なにがし)、百歲に成(なり)ける發句に、

   百壽の字

    命(いのち)毛(け)長し

             筆はじめ

とて、「百壽の字」、出(いで)て、すり物して、それにしるして、人に與へたるなり。

[やぶちゃん注:底本では最後に割注で、『(別本缺)』とある。]

譚海 卷之十二 名人道三詠歌幷貝原篤信養生訓の事

○名人道三の歌に、

   人はたゞ食と淫事(いんじ)をつゝしまば

             老翁ひとし其年のかず

   食はたゞよくあたゝめてやはらかに

            たらざる程ぞ藥にもます

 又、增上寺某僧正の「海老の畫」の讚に、

   此ゑびの腰まがる迄生(いき)たくば

      食をひかへて獨寢(ひとりね)をせよ

 此外、貝原篤信(かいばらあつのぶ)の、「養生訓」といふ書などみるべし。深切に養生の理(ことわり)を話(はなし)たる物也。

[やぶちゃん注:「道三」不詳。「だうさん」と読んでおく。

「ゑび」はママ。

『貝原篤信の「養生訓」』福岡藩藩士で本草学者貝原益軒(寛永七(一六三〇)年~正徳四(一七一四)年)が正徳二(一七一二)年に書いた養生指南書。「中村学園大学・中村学園大学短期大学部」公式サイト内の「貝原益軒アーカイブ」の「養生訓」のページで、『益軒全集』(明治四三(一九一〇年刊)・『有朋堂文庫』本「益軒十訓」(大正二(一九一三)年)・貝原守一博士校訂本・岩波文庫本・講談社学術文庫本を参考にして入力された活字本(PDF・分割版)が、全文、読める。因みに私は既に、ブログで『貝原益軒「大和本草」より水族の部』の電子化注を同サイトの同書のPDF版を底本に完遂している。]

譚海 卷之十二 犬にくはれたる時の療治の事

○犬にくはれたるには、「まむし」に、くはれたる療治を用(もちひ)るよし。くはれた る所を、絲にて、かたくむすび、疵口ヘ、酢と酒とを、煮(に)かへらかして、そゝぎ、其跡へ「まちん」を、ぬり、灸を、すう[やぶちゃん注:ママ。]れば、直(なほ)る也。

 又、東本願寺、地中(ぢちゆう)の寺[やぶちゃん注:同寺の中の塔頭のこと。]より出(いだ)す藥、奇妙に、なほる也。犬に、くはれて、十日ばかりの内に、此藥を用れば、一人も、怪我ある事、なし。

[やぶちゃん注:前の消毒法は、それなりの軽度の咬症による感染症にはそれなりに有効である感じはする。狂犬病の感染から発症までの潜伏期間は、咬まれた部位等によってさまざまであるが、一般的には一〜二ヶ月で、一度、発症すれば、致死率は、ほぼ百%である。

「まちん」「譚海 卷之六 武州千住驛北蒲生領の人に托せし狐の事 / 卷之八 江戶本所にて人に托せし狐にまちんをくはせし事(フライング公開二話)」の後者の「まちん」の私の注を見られたい。]

譚海 卷之十二 痢病の事 かくの病名名目の事

○痢病(りびやう)は、古(いにしへ)は男子を「滯下(たいげ)」といひ、女子を「帶下(たいげ)」といひしを、後漢の仲景に至りて、はじめて「痢」の字を製したり。

 「利」は「元享利貞(げんかうりてい)」の「利」にて、「物の、とをる。」事也。それが病(やまひ)によりて、滯(とどこほ)る症を引出(ひきいだ)したるゆゑ、「利」の字に「病」をかけて造りたる、とぞ。

 「痢」は、物の滯るゆゑ、とほるやうに療治する事にて、仲景より通藥(つうやく)を用(もちひ)る事に成(なり)たる事也。

 暫く、止(とどま)りて、又、發(はつす)るを、「休息痢」と云(いひ)、物のくはれぬを、「禁口痢」と云(いふ)。

 腹も、いたまずして、大便、赤く下るを、「刮腸(かつちやう)の症」とて、難澁の痢也。

「唯、何となくして、はらわたの、くだる症。」

といふ。[やぶちゃん注:以下は、底本でも改段落している。]

 痛症(つうしやう)を「覆溢(ふくいつ)」と云(いふ)。

[やぶちゃん注:『女子を「帶下(たいげ)」といひし』本邦では、専ら、女性の生殖器からの分泌物を指し、「こしけ」と呼ぶ。正常なものと、病的な要因による異常なものの二種がある。

「後漢の仲景」漢末の本草家で医師であった張仲景(生没年未詳)名は機、仲景は字(あざな)。長沙(湖南省)の長官だったとされ、当時の医療法を伝える「傷寒雑病論」が有名。利時珍の「本草綱目」にも、彼の見解が多く引用されてある。

『はじめて「痢」の字を製したり』確かに、後漢の最古の漢字字典「説文解字」には載らないから、この説は、案外、正しいのかも知れない。

「元享利貞」「易経」で「乾」(けん)の卦(け)を説明する語。「元」を万物の始め、善の長、「亨」を万物の長、「利」を万物の生育、「貞」を万物の成就と解し、天の四徳として春夏秋冬・仁礼義智に配する。

「刮腸」小刀で内臓を抉り取ること。]

譚海 卷之十二 攝州勝雄寺谷中石壁に觀音像ある事

○攝州、勝雄寺(かつをうじ)の山中には、數十丈の谷に臨(のぞみ)たる石壁に、千手觀音の像を彫付(ほりつけ)たる有(あり)。二、三丈もある、甚(はなはだ)大(だい)成(なる)像也。人力の及ぶ所にあらず。

「箕面(みのお)の辨財天、爪にて、ゑり付(つけ)給へり。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「勝雄寺」現在の大阪府箕面市にある高野山真言宗応頂山勝寺(かつおうじ:グーグル・マップ・データ。以下同じ)としか思えないが、公式サイトも、当該ウィキも、「石壁」「千手觀音の像」は記載がない。津村、また、似非情報屋に騙されたか。

「箕面の辨財天」勝尾寺の何南西にある現在の本山修験宗箕面山(みのおさん)瀧安寺(りゅうあんじ)。本尊は弁財天。当該ウィキによれば、『宝くじの起源である富籤(くじ)発祥の地とされて』いる、とある。]

譚海 卷之十二 妙の字の事

○「妙」の字は佛子の造りたる字にて、儒書には、皆、「玅」の字に書(かき)てあり。「字言」にも「妙」の字は俗字のよし、しるしたれども、「妙法蓮華經」をはじめ、皆、「妙」の字を用(もちひ)る事、深き義ある事なり。

[やぶちゃん注:「佛子」仏教者・仏教僧。

「玅」「妙」の異体字。

「字言」ありそうな漢字字典名だが、不詳。]

譚海 卷之十二 うずまさ明王御事

[やぶちゃん注:標題「うずまさ」、本文「うずさま」はママ。後者には、底本では右に傍注があり、『(烏頭沙摩)』とある。]

 

○「うずさま明王」と云(いふ)は、雪隱の守護神也。禪家の雪隱に安置してあるは、此本尊也。

 たとへば、人家に、病者、有(あり)て、枕上にて祈禱をするに、病者、大小便を、其席にて、する時は、行者(ぎやうじや)、「うずさま明王」の呪(じゆ)を誦(ず)しをれば、不淨を除(のき)て、穢(けがれ)にならぬ也。

 佛法の自在成(なる)事、如ㇾ此。

[やぶちゃん注:「うずさま明王」「烏頭沙摩」「明王」烏樞沙摩明王(うすさまみょうおう:サンスクリット語「ウッチュシュマ」の漢音写)は密教における明王の一尊。当該ウィキによれば、「烏枢瑟摩」『「烏蒭沙摩」「烏瑟娑摩」「烏枢沙摩」とも表記される。真言宗・天台宗・禅宗・日蓮宗などの諸宗派で信仰される。台密では五大明王の一尊である。日蓮宗では「烏蒭沙摩明王」の表記を用い、火神・厠の神として信仰される』。『「うすしまみょうおう」(烏枢志摩明王、烏枢瑟摩明王)とも呼ばれる』。「大威力烏枢瑟摩明王経」『などの密教経典(金剛乗経典)に説かれる。明王の一尊であり、天台宗に伝承される密教(台密)においては、明王の中でも特に中心的役割を果たす五大明王の一尊に数えられる』。『不浄を転じて清浄となす働きを持ち』、『憤怒尊として炎に包まれている』。『これらの特徴により、心の浄化はもとより』、『日々の生活のあらゆる現実的な不浄を清める功徳があるとする幅広い解釈によって、あらゆる層の人々に信仰されてきた火の仏である。その性質から「不浄潔金剛」とも呼ばれ、「火頭金剛」と同一視された』。『烈火をもって不浄を浄化することから、寺院の便所に祀られることが多い』。『また、この明王は、(妊娠した人の)胎内にいる女児を男児に変化させる力を持っていると言われ、男児を求めた平安時代の公家に広く信仰されてきた』。『静岡県伊豆市の明徳寺』(昔、何度もリピーターした「嵯峨沢館」の対岸直近にあったので(ここ。グーグル・マップ・データ)、一度、参詣したことがある。今はかなり綺麗になっているが(サイト「たびらい」の『ひときわ異彩を放つ天城「明徳寺」珍スポット、トイレの神様とは?』の写真を参照)、当時は、寺は開いているものの、寺内には全く人気(ひとけ)なく、奥に、古い厠を模したものがあり、それを跨ぐと、下の病いに利くとされ、私はしっかり跨いだのを覚えている)『などでは、烏枢沙摩明王が下半身の病に霊験あらたかであるとの信仰がある』。「穢跡金剛霊要門」では、『釈尊が涅槃に入ろうとした時、諸大衆諸天鬼神が集まり悲嘆している中、蠡髻梵王』(らいきつぼんおう)『のみが天女との遊びにふけっていた。そこで大衆が神仙を使って彼を呼んだが、慢心を起こした蠡髻梵王は汚物で城壁を作っていたので近づくことが出来なかった。そこで釈尊は神力を使って不壊金剛』(ふえこんごう)『を出現させた。金剛は汚物をたちまちに大地と変えて蠡髻梵王を引き連れてきた。そこで大衆は大力士と讃えた』。『烏枢沙摩明王は彫像や絵巻などに残る姿が』、『一面六臂であったり』、『三面八臂であるなど、他の明王に比べて表現にばらつきがあるが、主に右足を大きく上げて片足で立った姿であることが多い(または蓮華の台に半跏趺坐で座る姿も有名)。髪は火炎の勢いによって大きく逆立ち、憤怒相で』、『全ての不浄を焼き尽くす功徳を表している。また』、『複数ある手には輪宝や弓矢などをそれぞれ把持した姿で表現されることが多い』とある。]

譚海 卷之十二 萬燈會幷南都東大寺黃金燈籠等の事

 

 譚 海 卷の十二

 

 

〇吾國にて「萬燈會(まんどう(とう)ゑ)」を行(おこなは)るゝ所は、紀州高野山、奈良の興福寺、讚岐の金毘羅權現と三ケ所斗(ばか)り也。

 懸樋(かけひ)にて、油をつぐ事也。奇代の佛事也。

 又、奈良には、黃金にて造りたる物、多し。東大寺の燈臺は黃金也。

「火袋の内へ、三人ばかり入るゝ程の大(おほき)さにて、眞黑に垢(あか)付(つき)て、わかりがたけれ共(ども)、火袋の穴、有(ある)所斗(ばかり)、金色(きんじき)に光(ひかり)て、朝日に映ずれば、かゞやく。」

よし、いへり。

 興福寺にも、黃金の千體佛、有(あり)。

「皆、聖武帝の御時、金華山より奉る金(きん)を以て、造らせ給ふ。『末代、伽藍修覆の爲に用(もちひ)るべき。』とて、黃金にて、多く、物を、こしらへ置(おき)給ふ。」

と云へり。

[やぶちゃん注:「萬燈會」多くの灯明を灯(とも)して、仏・菩薩を供養し、衆人の罪障を懺悔(さんげ)し、滅罪を祈願する法会。現行では、有名なものは、東大寺・薬師寺・高野山などのものだが、全国の寺及び一部の神社(例えば京の八坂神社)で行われており、津村の「紀州高野山、奈良の興福寺、讚岐の金毘羅權現と三ケ所斗り也」という謂いは、おかしい。逆に、明治の神仏分離に強く反対した「金毘羅大權現」の後身の一つである現在の真言宗象頭山松尾寺(グーグル・マップ・データ。当該ウィキはここ)、及び、同じく後身の、同じ琴平町(ことひらまち)にある金刀比羅宮(ことひらぐう)では、孰れも、万灯会は行われていないようである。]

2024/03/17

ブログ・アクセス2,120,000突破記念 譚海 卷之十一 朝士長崎七郞右衞門殿の事 附歰谷金王院別當の事 / 卷之十一~了

[やぶちゃん注:本「卷之十一」最終電子化は、昨夜午前零時前に、二〇〇六年五月十八日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の二〇〇五年七月六日)、本ブログが2,120,000アクセスを突破した記念として本巻の公開終了を、それとする。【二〇二四年三月十七日午後十二時五十六分:藪野直史】]

 

○長崎七郞右衞門と云(いふ)人、御家人にて、四谷内藤宿に住し、妙に種樹(しゆじゆ)の業(なりはひ)を得て、都下の植木を業とするもの、したひ、學ばずといふ事、なし。

 又、澁谷金王院(こんのうゐん)の別當も、種樹の事に通曉する人にて、常に物語(あり)有しは、

「貧僧、柏木(かしはぎ)を好(このみ)て、おのづから、其道に達せるゆゑ、思ひかけず、招待にも逢ひ、人に術(じゆつ)を傳ふるやうにも成(なり)て、今は、樂(たのしみ)の一つを、別に設(まふけ)たる事也。まして、世を救ひ、人をめぐむ業など、よき事なさば、功も、十倍なるべきを。」

と、いはれし。

 ことわり成(なる)事に、おぼへぬ。[やぶちゃん注:以下は底本でも改段落となっている。]

 此一言(ひとこと)は、叔父中西邦義の物語を書記(かきしる)すもの也。

 叔父、富貴の家に生れて、生涯、風流を好み、老に至る迄、世塵の事に關(かかは)らず。因(よつ)て、壯年に學びし事、老(おい)て、一事も、忘るゝ事、なし。

 此(この)件々(けんけん)の事も、一夕(いつせき)、暗記の物語にて、問(とひ)を、再び擧(あげた)たるもあらず。

 ことし、天明七年、七十七歲にて、猶、存命の人也。

[やぶちゃん注:「長崎七郞右衞門」不詳。

「四谷内藤宿」新宿区新宿内藤町(ないとうまち)のこの附近にあった(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「澁谷金王院」恐らくは現在の金王八幡宮である。國學院大學の最初の一年、私は、並木橋近くの路地を入った代官山の三畳に下宿にいた。金王八幡宮は私の通学路であった。貧しい、慘めな一年だった。

「叔父中西邦義」既出の本巻で冒頭に出て、途中にもしばしば登場する津村の叔父である中西邦義。以下の叙述から、この「卷之十一」の恐らくはその殆んどが、この叔父に捧げられたものであることが、最後に明らかになった。

「天明七年」一七八七年。本書の執筆終了は寛政七(一七九五)年。]

譚海 卷之十一 松・なつめ・山吹の事

○松には、露(つゆ)、生(しやう)ずるもの也。

 栗の下には、草を生ぜず。

 棗(なつめ)の實を貯(たくはふ)べからず。棗を、くひたる鼠は、人、そこなふ也。

 松は汐(しほ)のさす池邊(ちへん)に、よろし。

 山吹は、湯地(ゆち)に、よろし、とす。

[やぶちゃん注:「棗」バラ目クロウメモドキ科ナツメ属ナツメ Ziziphus jujuba var. inermis (南ヨーロッパ原産、或いは、中国北部の原産とも言われる)の伝来は、奈良時代以前とされているが、果実は有毒ではなく、食用や薬用にもなるので、不審。「棗を、くひたる鼠は、人、そこなふ也」とあることから、何らかの民間の迷信の類いであると思われる。]

譚海 卷之十一 黃菊毒なき事

○黃花(きばな)は、菊ばかり、毒、なし。其餘は、毒、有(あり)。黃は、いまだ、地(ち)の氣(き)を、はなれざる故也。白菊は、都(すべ)て、毒、なし。紅花は、是に次(つぐ)也。

[やぶちゃん注:黄色い花は黄菊以外を有毒と断定するのは、ちょっと、おかしい。確かに本邦の春を告げる黄花のキンポウゲ目キンポウゲ科フクジュソウ属フクジュソウ Adonis ramosa は重症では死亡に至る有毒植物(キンポウゲ科 Ranunculaceaeの植物は多くが有毒である)だが、十七世紀に本邦に渡来したヒマワリは、無毒で、果実は煎って食用になり、生薬として出血性下痢に用いられるからである。

「紅花」キク亜綱キク目キク科アザミ亜科ベニバナ属ベニバナ Carthamus tinctorius 。「紅花」と言うように、花は、初めは鮮やかな黄色なのであるが、後に、オレンジ色を経て、徐々に赤くなる。]

譚海 卷之十一 鉢植の梅やしなひ方の事

○鉢植(はちうゑ)の梅は、「つぎ木」、殊に、よろし。

 花、謝(しや)して[やぶちゃん注:萎(しぼ)んで。]後(のち)、暑中には、炎天に、ほし、かはかせて、枯(かる)るほどにして、少しづつ、水をそゝぎ、精氣を、とむべし。

 しかすれば、木、傷(いた)みて、早く、葉、落(おつ)る也。

 葉、落れば、其儘、こやしを、そゝぎ、室(むろ)に入(いれ)て、あたゝかに、養ふべし。

 溫氣に感じて、早く、芽を、もち、冬月に、花を開く形。

 用捨、甚(はなはだ)むづかし。年を經て、自然に規矩(きく)を得(う)べし。

譚海 卷之十一 無雙花の事

[やぶちゃん注:「無雙花」はママ。「佛桑華(花)」が正しい。]

 

○「ぶつさうげ」と云(いふ)者、琉球より、渡り來り、秋、花、咲(さき)、緋(ひ)ちりめんの如く、美敷(うつくしき)事、比類なし。多く、寒に破られ、枯(かる)る也。

[やぶちゃん注:「佛桑華(花)」(ぶつさうげ/ぶっそうげ)ビワモドキ亜綱アオイ目アオイ科フヨウ属ブッソウゲChinese hibiscus はハイビスカスの和名。]

譚海 卷之十一 松ばらんの事

○鉢に植(うゑ)て、席上に翫(もてあそ)ぶには、「松葉蘭」と云(いふ)に、しくもの、なし。

 是は、深山の巖上(がんじやう)に生(しやう)ずる物にて、至(いたつ)て、葉、濃(こき)に、烟霞(えんか)の氣(き)を帶(おび)たり。日(ひ)に、あつる事を、いむ。四時、ものの蔭に置(おき)て賞すべし。土にて、つちかふ事を、いむ。くされ木(ぎ)のぼろぼろするを、細末(さいまつ)にして、夫(それ)にて植(うう)るなり。席上に置(おき)て、折々、淸水(しみづ)、そゝぐべし。翠色(みどりいろ)、年をへて、衰へず。淸絕(せいぜつ)也。

[やぶちゃん注:「松ばらん」「松葉蘭」シダ植物門マツバラン綱マツバラン目マツバラン科マツバラン属マツバラン Psilotum nudum 。先行する本書の「卷之五 遠州深山中松葉蘭を產する事」を参照されたい。]

譚海 卷之十一 靈芝感得の事

○靈芝を感得するは長壽の兆(きざし)也。「瓊田草(けいでんさう)」とも、いへり。生(しやう)じたるを見付(みるけ)たらば、早く取(とり)て、飯(めし)の湯氣(ゆげ)にて、蒸し收(をさ)め、たくはふべし。久敷(ひさしく)地上に置(おく)時は、「なめくじり」、好(このみ)て、なむるゆゑ、蟲を生じ、朽(くち)て、取用(とりもちひ)がたし。

[やぶちゃん注:「靈芝」担子菌門真正担子菌綱タマチョレイタケ目マンネンタケ科マンネンタケ属レイシ Ganoderma lucidum 。私の「日本山海名産図会 第二巻 芝(さいはいたけ)(=霊芝=レイシ)・胡孫眼(さるのこしかけ)」を参照されたい。

「感得する」思いがけなく手に入れることを言う。

「「瓊田草」「玉芝」とともにレイシの異名らしい。]

譚海 卷之十一 ゐんこ・きうかん・鸛幷狆・五色鼠の事

[やぶちゃん注:「ゐんこ」と「きうかん」はママ。鳥の「鸚哥」は歴史的仮名遣でも「いんこ」でよく、「九官鳥」は歴史的仮名遣では「きうくわんてう」である。

 なお、この前の「ギヤマンの事」は既にフライング公開してある。『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 鷲石考(1)』も見られたい。]

 

○「いんこ」と云(いふ)鳥は、食物、砂糖を水に入(いれ)て飼ふ事也。飼付(かひつけ)のしかた、鳥を飼ふ商買の者も知る物[やぶちゃん注:ママ。]、稀也。よりて、久敷(ひさしく)たもつ事、かたし。

 「をし鳥」は、高價なるは、十金にも至る。能(よく)人に馴(なれ)たるは、人を追(おひ)て、鼻紙の上に、とゞまる。

 キウクワンは、物をいふ事、「あふむ[やぶちゃん注:ママ。歴史的仮名遣は「あうむ」が正しい。]」に、まされり。籠にありて、寂寞なる時は、唐音(たうおん)の歌を、うたふ。をかしきものなり。

 鸛(こふのとり)[やぶちゃん注:底本では右に補正傍注があり、『(鶴)』とする。]は狐狸の類(るゐ)も窺(うあかが)ふこと、あたはず。二鸛、籠の中にありて、狐の來(きた)るを、はし[やぶちゃん注:「嘴」。]にて、指殺(さしころ)せしを見たり。

 おらんだの猿は、鼠色の如く、尾、殊に長く、卷(まき)て、背に、をさむる也。

 狗(いぬ)は「水犬(みづいぬ/すいけん)」を最上とす。菓子を與ふるは、胃を壞りて[やぶちゃん注:ママ。「壞(こわ)して」の誤記か。]、あし。鰹節に、飯にて、飼ふべし。

 つねの「ちん」は、生大(しやうだい)すれども、「水犬」は、いつも同じ事也。

 五色(ごしき)の鼠は、白鼠を染(そめ)たる物也。

[やぶちゃん注:「いんこ」オウム目オウム科 Cacatuidae のインコ類。当該ウィキを見られたい。後のオウムも含めてなら、私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鸚䳇(あふむ) (オウム・インコ)」がある。なお、オウム・インコの本邦への渡来は、オウムとインコが区別されていなかったことから、時期の確定は難しい。詳しくは、国立国会図書館の「レファレンス共同データベース」の『日本におけるインコの歴史を知りたい。特に、日本にインコが入ってきた(輸入された)のはいつか、また、インコは最初からペット用として入ってきたのかが知りたい。』の回答の中にオウムを含めて史料・解説が示されてある。

「をし鳥」鳥綱カモ目カモ科オシドリ属オシドリ Aix galericulata 。私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴛鴦(をしどり)」を見られたい。

「キウクワン」スズメ目ムクドリ科キュウカンチョウ属キュウカンチョウ  Gracula religiosa 。私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 秦吉了(さるか) (キュウカンチョウ)」を見られたい。

「鸛」→「鶴」とあるが、この訂正注には、その根拠に、甚だ、疑問がある。前者はコウノトリ目コウノトリ科コウノトリ属コウノトリ Ciconia boyciana 、後者はツル目ツル科 Gruidae のツル類となるが、コウノトリは本邦に「渡り」でやってくること、ツル類は留鳥の種が複数あるからである。私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鸛(こう)〔コウノトリ〕」、及び、「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鶴」を見られたいが、コウノトリも、ツル類(特に大型のツル目ツル科ツル属タンチョウ Grus japonensis 等)も、小型の哺乳類を捕食するから、「狐狸の類」の幼体・子どもならば、確実に捕獲すると考えられるからである。

「おらんだの猿は、鼠色の如く、尾、殊に長く、卷て、背に、をさむる也」尾長猿(オナガザル上科 Cercopithecoidea のオナガザル類。旧世界猿の主群)と推定される。磯野直秀先生の「明治前動物渡来年表」(『慶應義塾大学紀要』四十一号二〇〇七年三月発行。同大学「学術リポジトリ」のこちらPDFでダウンロード可能)によれば、元禄一三年十二月六日(グレゴリオ暦一七〇一年一月十七日)の条に、『徳川光圀没』とし、そこに彼が多数の外来種の動物を、多数、飼育していたことを記され、そこに『尾長猿』が、既に挙がっており、寛政元(一七八九)年六月の条に、『このときの蘭船が将来』した『鳥獣類』のリストがあり、その中にも、『尾長猿』三匹という記載がある。本書の執筆終了は寛政七(一七九五)年であるからである。

「水犬」不詳。紅殻氏のブログ「帝國ノ犬達」の「江戸時代の犬種・唐犬とムク犬」に、『農犬(のうけん・むくげいぬ。農はケモノ偏)』(最後の注は「㺜犬」)の項に、『ムク犬とは「体毛がふさふさした犬」のこと。現代ではどの品種に該当するか不明ですが、江戸時代の図譜では「狆とは別種の長毛犬」とされていました』。『ペキニーズやラサ・アプソのような唐犬なのか、朝鮮産のムクイヌなのか、ヨーロッパから来た小型テリアなのか。狆と共に輸出されたことで明治初期に姿を消してしまい、謎の存在となっております』。『習性は「よく水中に入」「水犬なり」』(☜)『と解説されており、ますます正体不明』とあり(引用画像有り)、『さまざまな文献に取り上げられているムク犬ですが、標本や遺物は残されていません』とあった。

「ちん」「狆」。「生類憐れみの令」で知られる徳川綱吉は、自身が大の愛犬家で、まさにこの狆を、百匹も飼い、駕籠で運ばせていた。]

譚海 卷之十一 快痛玉の事

○「快痛(くわいつう)」と云(いふ)玉(たま)、鼠色の如く、大きなる物也。雨を祈るに用(もちひ)るよし。安倍常之進と云(いふ)者、添書(そへがき)を書(かき)たるを見たり。

[やぶちゃん注:「快痛」不詳。恐らくは、動物の体内結石と思われる。

「安倍常之進」不詳。]

譚海 卷之十一 スランカステインの事

○おらんだ人、スランカステインと云(いふ)石を持來(もちきた)る。

 是は、「まむし」の口より、吐(はき)たる石也。

 透(すき)とほりてみゆるを、上品とす。

 人の腫物(はれもの)、毒蟲にさゝれたる所などへ、此石を、あつれは[やぶちゃん注:ママ。]、其儘、取(とり)つひて、うみをすひ、毒をも、すひとる也。

 うみ・毒を、吸盡(すいつく)せば、此石、

「ほろり」

と落(おつ)る也。

 其時、人の乳(ち)を、しぼりて、茶碗などへ入置(いれおき)、此石を乳にひたす時は、燒石(やきいし)の水に入(いり)たる如く、聲(こゑ)、有(あり)て、吸(すひ)たる毒を、乳汁の中へ吐出(はきいだ)す也。毒を吸たる儘にて、乳に、ひたさゞれば、石の精、死(しし)て、ふたたび用(もちひ)る事、あたはず。

[やぶちゃん注:「ランカステイン」(オランダ語 slangensteen (スランガステーン:「蛇の石」の意)である。江戸時代、オランダ人が伝えた薬石の名で、蛇の頭から採取するとされた、黒くて、碁石に似た白黒の斑紋を持った石。腫れ物の膿を吸い、毒を消す力を持つとされ、「蛇頂石」「吸毒石」とも呼んだ。所謂、中国の「竜骨」(古代の象や、その他何でもかんでも変わった化石は「竜骨」と称した)である。これは私の非常に得意な分野の一品で、既に私は、

「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「龍」の注

でマニアックにしてフリーキーに追跡している。かなり長いが、是非、ご覧あれかし。ページ内検索に「須羅牟加湞天」(スランカステンと読む)を入れてお捜しあれ。捜すのが面倒な方は、私のブログの

「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 龍骨」

をどうぞ(同内容)。結論だけを言っておくと、この「毒石」の成分は、燐酸石灰と少量の炭酸石灰及び稀少の炭素との化合物で、それは即ち、動物の骨を焼いたもの、或いは、古代の動物の化石に他ならない。実は、既に本書に二箇所出現している。

「譚海 卷之一 同國の船洋中を渡るに水桶をたくはへざる事幷刄物をろくろにて硏事」

に「レキステイン」で出ており、また、

「譚海 卷之二 唐山白牛糞疱瘡の藥に用る事」

にも、「フランカステヰン」で登場している。さらに私の、

『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 鹿の耳(11) 山神と琵琶』

「北越奇談 卷之三 玉石 其十八(毒石=竜骨=スランガステイン)」

も参照されたい。

譚海 卷之十一 おらんだ矢に毒を塗幷ヘイサラバサラの事

○紅毛人、其邦(くに)にて、矢に毒藥を塗(ぬり)て猿を射る時は、矢の跡、疣(いぼ)に成(なり)て落(おつ)る也。

 其「こぶ」を、「ヘイサラバサラ」といふ。

 雞卵(けいらん)の形の如く、色も、たがはず、堅く見事成(なる)物也。

 是にて、小兒(しやうに)の經絡(けいらく)の所を、なづれば、疱瘡(はうさう)を輕くして、怪我(けが)ある事、なし。

 又、人の眼(め)を撫(なづ)る石、おらんだより、持渡(もちわた)る事也。

 其石にて、眼のかすみたる時、撫れば、明らかに、覺ゆる也。蠻名(ばんめい)を忘れたり。

[やぶちゃん注:「ヘイサラバサラ」(ポルトガル語:pedra (「石」)とbezoar (「結石」)を重ねた語のカタカナ音写か)は、一般には、近世以降、四足獣類の体内結石、及び、悪性・良性の結節性腫瘍等を指す。本邦では、「鮓荅」が一般的で、通常は、これで「さとう」と読む。その正体は、牛・馬・豚・羊・犬などの胆石や腸内の結石で、古来、諸毒の解毒剤とされたり、「雨乞いの呪(まじな)い」の呪具として用いられた。「石糞」「馬の玉」「ドウサラバサラ」等、異名が多い。私の記事では、古い順に、

「耳囊 卷之四 牛の玉の事」(二〇一二年)

「柴田宵曲 續妖異博物館 診療綺譚」(二〇一七年)

「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 狗寳(いぬのたま) (犬の体内の結石)」(二〇一九年二月十一日)

「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 鮓荅(へいさらばさら・へいたらばさら) (獣類の体内の結石)」(二〇一九年二月十九日)

があるので、見られたい(一番最後のものがよいだろう)。本冒頭の「紅毛人、其邦にて、矢に毒藥を塗て猿を射る時は、矢の跡、疣に成て落る也」というのは、ちょっと異国人が奇異感を高めることを狙って、屋矢毒・類人猿・疣が捏造している感じがするが、矢毒のレベルが低く、ゴリラなどの大型種或いは個体の場合、抗原抗体反応で、致命的な腫瘍や壊死を惹起せず、皮膚表面へと毒物を塊りと成して押し出し、瘤状に固くなり、それが剥落するということは、あっても不思議ではない。毒から生じた、それを、「ヘイサラバサラ」と呼ぶことと、その形状を『雞卵の形の如く、色も、たがはず』白く、『堅く見事成物』と表現しているのは、先にリンクした「鮓荅」のポピュラーな結石的属性と、よく一致している。

 後者の、眼のかすみを治癒するという石の名は、「オクリカンキリ」(ラテン語:oculi cancri。但し、元来は「カニの眼」の意である)で日本語では「蜊蛄石」(ざりがにいし)と呼ぶ。これは、十脚(エビ)目抱卵亜(エビ)目異尾(ザリガニ)下目Astacideaザリガニ上科Astacoideaのザリガニ類の、胃の中にある胃石(二個あるとも言う)の古称であり、辞書によっては、胃石は石灰質で、食物を砕く働きをするものであるが、昔は、この胃石をとり出して、眼病の薬や、肺病などの民間療法の薬、或いは、利尿剤に用いていたとあるが、事実、この胃石には、吸収しやすい形の非結晶ACCAmorphous Calcium Carbonate)で、カルシウムが含まれているだけでなく、様々な栄養素や免疫成分が凝縮されており、薬効が、実際にあるのである。私の記事では、古い順に、

「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 龍骨」(二〇一四年)

『毛利梅園「梅園介譜」 水蟲類 福蟹(フクガニ) / ニホンザリガニ』(二〇二二年)

『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 海老上﨟』

が参考になろう。]

2024/03/16

譚海 卷之十一 能裝束蜀江錦の事

○「檜垣(ひがき)」の能には、「蜀江(しよくかう)の錦(にしき)」を用(もちひ)ることの由。金入(きんいり)には、あらで、「もつかう」のやうなる、形ある物也。

 上(かみ)の御物(ぎよぶつ)古く成(なり)て、「檜垣」の能、仰付(おほせつけ)られても、御用に立(たた)ざる由、觀世左近、たびたび、大岡出雲守殿へ、申出(まうしいで)られければ、

「仰出(おほせいだ)さるべき。」

よしにて、其事、果(はた)さでありしに、田沼主殿頭(とのものかみ)殿、執政の時、觀世太夫、又、申上ければ、早達(そくたつ)、仰出され、二年目にて、調ひ奉りし故、御能、興行ありし、とぞ。

 今、「渡りの蜀江」は、古きにくらべては、殊に麁相(そさう)成(なる)、よし。

 もろこしも、古(いにしへ)と今(いま)とは、物の精工成(なる)事、劣りたると、見えたり。

[やぶちゃん注:「蜀江錦」「文庫屋大関」公式サイトの「蜀江―しょっこう―」に『八角形と四角形を組み合わせた文様を、蜀江文様といいます。 蜀江とは中国の蜀』『の首都を流れる河のことで、この地域で、古くから良質の絹織物を産出し、その折柄の文様が八角形と四角形を組み合わせた物が多数あったことから、蜀江の名をつけたものです。 その八角形と四角形の中に唐花や器物などの文様を織り込んだものが能装束・茶器の至覆・書画の表装など名物裂として数多く残されています』とあって、その『幾何学文様』のタイプを色付け画像で視認出来る。

『「檜垣」の能』複式夢幻能の曲名。三番目物。五流、現行曲。但し、金春流は復曲(昭和四五(一九七〇)年)。世阿弥作の老女物で、幽玄の美を最高目標とした世阿弥作として確認される三番目物は、この「檜垣」と「井筒」だけであるのも注目される。「関寺小町」・「姨捨」とともに「三老女」物とよばれ、最奥の能として扱われる。肥後国岩戸(いわど)山の僧(ワキ)のもとに、毎日、水を捧げる老女(前シテ)があった。僧が名を尋ねると、「後撰集」の「年經ればわが黑髮も白川(しらかは)のみづはくむまで老いにけるかな」は自分の歌であると言い、白拍子であった過去を語り、回向を願って消える。白川のほとりに出向いた僧の前に、檜垣の庵から老女の霊(後シテ)が現われ、「美しい舞姫の、奢りの生活であったが故に、地獄で永遠に業火の水をくまねばならぬ苦しみ」を述べ、昔を懺悔(さんげ)する。藤原興範(おきのり)に水を所望されて歌を詠んだこと、老いの身を嘆きつつも、白拍子の昔を偲び、舞を舞った思い出を再現し、成仏を願って、終わる。金剛流の台本は、成仏を果たした結末になっている。華やかな過去を老いた時点から回想し、その生の時間を、さらに地獄から眺めるという、謂わば、二重の回想形式をとり、女と老いの深い世界を描く、能の名作である(以上は主文を小学館「日本大百科全書」の増田正造先生のそれに拠った)。

「もつかう」「木瓜(もくかう/もつかう)」で紋の名。鳥の巣が卵を包んでいるように見える図柄。又、瓜(うり)を輪切りにした形を図案化したものともされる。すだれの帽額(もこう:御簾や御帳(みちょう)の懸け際を飾るために、上長押(うわなげし)に沿って横に引き回した布帛(ふはく)を言う。水引幕の類。「額隠(ひたいかく)し」とも言う)に多く用いたところから称し、「木瓜」と当てて書く。「窠紋(かもん)」「もこう」とも呼ぶ。参照した小学館「デジタル大辞泉」で紋が視認出来る。

「觀世左近」観世元章(もとあきら 享保七(一七二二)年~安永二(一七七四)年)。

「大岡出雲守」旗本・大名であった大岡忠光(宝永六(一七〇九)年又は正徳二(一七一二)年~宝暦一〇(一七六〇)年)。江戸幕府の御側御用人、若年寄を務め、第九代将軍徳川家重の側近として活躍した。上総勝浦藩主・武蔵岩槻藩初代藩主。参照した当該ウィキによれば、『同時代に江戸南町奉行として活躍した大岡忠相(後に三河西大平藩主、いわゆる大岡越前)とは、ともに大岡忠吉の子孫に当たる関係(忠利が忠相のはとこにあたる)であり、個人的にも親交があった』とある。

「田沼主殿頭」田沼意次。天明六(一七八六)年、失脚。]

譚海 卷之十一 伊藤四郞兵衞狂歌の事

○伊藤四郞兵衞と云(いふ)者、「蘆似枯脛」と云(いふ)題にて、

   やせすねに似たる渚のあしなれば

     波の立居(たちゐ)にくたびれやせん

 

譚海 卷之十一 本阿彌家來前川三右衞門幷高橋孫左衞門の事

○本阿彌家來に、前川三右衞門と云(いふ)者、有(り)。

 先祖、正宗の刀を所持せしが、微碌して、刀をば、賣拂(うりはら)ひ、其刀の袋、殘りたるを、茶入にかけて、傳へたるを、高橋孫左衞門と云(いふ)者を呼(よび)て、茶を振𢌞(ふるまひ)たる時、孫左衞門、此茶入の袋を見て、昔織(むかしおり)にて、しほらしき物故(ゆゑ)、稱美せしかば、亭主、

「正宗の刀の袋にて有(あり)し。」

由、語りしに、孫左衞門、申(まうし)けるは、

「我等所持に、宗旦の作の「茶杓刀(ちやしやくとう)」と銘あるを持(もち)たり。此きれの殘りあらば、給(たまは)りて、茶杓の袋にすべき。」

由、所望せしかば、亭主も、

「『刀』とある茶杓の袋には、正宗の袋の『きれ』、いかにも。打(うち)あひて、よかりけり。」

とて、頓(やが)て、其切(そのきれ)を贈(おくり)しかば、高橋、悅(よろこび)に堪(たへ)ず、頓て、狂歌を讀(よみ)て、禮に送られたり。

   持(もち)ふりし名のみ茶杓の竹みつも

           きれのよさにて銘は正宗

と、いと入興(にうきやう)に及(および)し、とぞ。

譚海 卷之十一 廣東ぎれの事

○「廣東切(かんとんぎれ)」と云(いふ)は、「古金欄」より古き物也。島[やぶちゃん注:「縞」。]に織(おり)たる物也。

 「太子かんとう」と云(いふ)は、上宮太子の御物(ぎよぶつ)也。

 「鎌倉かんとう」と云は、蘭溪禪師の袈裟の切(きれ)也。何(いづ)れも「古金欄」より、價、十倍成(なる)もの也。

[やぶちゃん注「廣東切」これは「縬広東」(しじらカントン)のことか。名物切(めいぶつぎれ)の一つで、白地に黒茶の細い格子縞を現わしたもので、布面に「しじら」(洋服地のクレープ(crape)に当たるもの。生地全体に「しぼ」(皺)・「しじら」(縬)のある織物の総称。広義には縮緬(ちりめん)も含まれる)がある。中国の広東附近の産で、室町時代から江戸初期まで輸入された。「縬間道」(しじらかんとう)とも呼んだ。]

譚海 卷之十一 古金襴印金ぎれの事

○「古金欄(こきんらん)」と云(いふ)は、皆、千年に及ぶ「切(きれ)」也。何れも、唐物(からもの)にて、「うるし」にて、もやう[やぶちゃん注:「模樣」。]の「かた」を付(つけ)、金箔にて留(とめ)たる物故(ゆゑ)、洗ひても、落(おち)る事、なし。大燒(おほやき)ぎれ・けいとう切(ぎれ)・花うさぎ・富田切(とみたぎれ)・ふたへづる等、「古金欄」の名物也。

 又、「印金(いんきん)」と云(いふ)も、唐(もろこし)にて、織物のもやう、種々(しゆじゆ)、出來(でき)ざる時、繪を絹に書(かき)て、金箔を繪のうへを[やぶちゃん注:ママ。「に」だろう。]押付(おしつけ)たる故、「印金」と云(いふ)也。「印金緞子(いんきんどんす)」、是也。

譚海 卷之十一 茶入袋ぎれの事

○茶入の袋に用(もちひ)る名物の「切(きれ)」は、「大内切」と云(いふ)。大内義隆の北のかたの几帳(きちやう)の切也。「淸水切(きよみづぎれ)」と云(いふ)は、京都淸水觀音の御戶帳(おんとちやう)の切也、もやう、梅にから鳥(どり)あり。「金春切(こんぱるぎれ)」といふは、古(こ)金らんの類(たぐゐのもの也。島[やぶちゃん注:「縞」。]に織(おり)たる中(なか)に、金にて、「あま龍(りやう)」あるもの也。「揃太夫切」は「もえき地(ぢ)」[やぶちゃん注:「萌黃地(もえぎぢ)」だろう。]に、金の鱗形(うろこがた)付(つき)て、あり。

譚海 卷之十一 旅茶器銘入の事

○叔父所持に旅茶器、有(あり)。木を「ひやうたん」の形に挽(ひき)て、上に、茶を、はくやうに拵へ、中に茶筌(ちやせん)・杓(しやく)を取るやうにし、下に茶碗を納(いるる)るやうにしたる三重の香合(かうがう)也。[やぶちゃん注:以下は、底本でも改行している。]

 遠州自筆の銘、有(あり)。曰(いはく)、

『一瓢顏飮三碗盧歌兩我所ㇾ好此外無ㇾ他』

[やぶちゃん注:「叔父」」既出の本巻で冒頭に出て、途中にもしばしば登場する津村の叔父である中西邦義。

「一瓢顏飮三碗盧歌兩我所ㇾ好此外無ㇾ他」自身はないが、訓読すると、「一瓢(いつへう)の顏(かほ)、飮(の)むこと、三碗、盧(ろ)の歌(うた)、兩(ふたつながら)、我(われ)、好む所。此の外、他(ほか)に無し。」か。]

譚海 卷之十一 いまり五郞太夫の事

○「いまり」、五郞太夫と云(いふ)もの、「いまり燒」の上手也。

 依之(これによりて)、遠州、臺德院殿へ申上(まうしあげ)、南京(なんきん)へ燒物に遣(つかは)され、五郞太夫、南京にありて、種々(しゆじゆ)の物を燒(やき)て渡したる也。後に、五郞太夫、「ぬけ荷」をたくみて、其科(とが)を恐れて、南京に留(とどま)りて、歸京せず。「祥瑞(しやうずい)」と改名して、彼(かの)國にて卒したり。「祥瑞」を唐音に「しよんずい」と唱ふ。「しよんずい」に成(なり)て、燒(やき)て渡したる物、殊に高價也。其名に、

「五郞太夫吳詳瑞」

と有(あり)、手跡、至(いたつ)て見事也。

 南京人、代(かは)りて書(かき)たるにや。

[やぶちゃん注:この人物については、「有田町歴史民俗資料館」公式サイト内の恐るべき膨大な論考「有田の陶磁史」で考証されている。例えば、ここを見られたい。後は、各自ご自由に。悪しからず。]

譚海 卷之十一 井戶茶わんの事

○「井戶」と云(いふ)は高麗燒也。南京燒よりも、高麗を茶事には賞翫する也。

 最初、井戶左馬之助と云(いふ)人、朝鮮陣の時、持來(もちきたり)せしより、「井戶燒」と號して、珍重に賞翫する也。其子孫、御家人にて、今に本所に住居(すまい)也。

譚海 卷之十一 いまり焼の事

[やぶちゃん注:標題の「焼」はママ。]

 

○「いまり燒」は備前[やぶちゃん注:底本では「備」の右に訂正傍注で『(肥)』とある。]也。「いまり」の柿右衞門と云(いふ)が、燒(やき)たる皿、稀にある物也。至(いたつ)て高價也。世間に絕(たえ)てなきものゝ故、珍重とす。錦手燒の類(るゐ)成(なる)もの也。

譚海 卷之十一 古瀨戶藤四郞の事

○古瀨戶といふは、尾張の地名也。古瀨戶の名器は、ハクアンと云(いひ)、至(いたつ)て稀成(なる)物にて、古瀨戶燒の元祖也。井戶より高價成(なる)物也。「なまこ藥」と稱するを、第一とす。藥の跡、多く付(つき)たるほどを、極品(ごくひん)とす。

[やぶちゃん注:鶴田純久氏のサイト「伯庵 はくあん」のこちらに非常に詳しい解説と当該茶碗の画像が載るので読まれたい。それによれば、この名は、『古唐津の流れ』で、『幕府の医官曾谷伯庵』(寛永七(一六三〇)年没。六十二歳)『の所持していた茶碗を本』とし、『その手のものを伯庵という。陶祖藤四郎の作であるといい、利休時代の黄瀬戸ともいい、あるいは朝鮮製と中国製ともいい、諸説入り乱れている』とある。なお、こちら(講談社「デジタル版日本人名大辞典+Plus」)には、同姓同名の曾谷伯庵(そだにはくあん)が載るが、生没年が後ろへずれているから、別人である。彼の父の曾谷宗祐は没年が一六三一年で近い。]

譚海 卷之十一 飛鳥川茶入の事

[やぶちゃん注:前話に茶入れ「飛鳥川」が出る。]

 

○「飛鳥川」と云(いふ)茶入は、古瀨戶燒也。

 遠州、壯年の時、京都にて、此茶入を見られしに、

「まだ、用(もちひ)るには、あたらしきもの也。」

と、いはれしが、其後、老年に堺に居(を)られし時、又、此茶入を見られて、

「よきほどの用ひ比(ごろ)に成(なり)たり。」

とて、所持、有(あり)。

   昨日と過(すぎ)けふと暮して飛鳥川

      流(ながれ)て早き月目也鳧(なりけり)

と云(いふ)古歌を箱書付(はこかいづけ)に致され、「あすか川」と稱して、名物無雙の物にいひ傳へたる器なり。

 都(すべ)て、茶入の名物といふものは、皆、古瀨戶燒也。古瀨戶の「藤四郞燒」と云(いふ)もの、何れも天下の名器とするもの也。

 茶入と云(いふ)物は、本朝にのみ、翫(もてあそ)ぶものにて、唐土(たうど)には、茶入と云(いふ)物は、なき事也。

 世間に

「唐物の茶入。」

と稱し、祕藏するも、皆、「藤四郞燒」の古器也。

 「夏山藤四郞」と云(いふ)名物の茶入、白き藥の跡、もやうの如く付(つき)て有。(あり)。

   夏山の靑葉がくれの遲櫻

     あらはれてみゆ二つ三つ四つ

と云(いふ)遠州自筆の歌、添(そへ)て有(あり)。

 又、大坂町人、鴻の池所持に、「わくらば」と云(いふ)茶入、有(あり)。「可中」と書(かき)て、「わくらば」とよむ也。是も藤四郞燒の名物也。價、千兩なるもの也。

[やぶちゃん注:茶道のことは、全く関心がないので、一切、注さない。悪しからず。]

譚海 卷之十一 茶器目利の事

[やぶちゃん注:【 】は底本では二行割注。]

 

○都(すべ)て、茶器の目利(めきき)と云(いふ)事は、何の手と、定めたる事も、遠州より、定(さだま)りたる事にて、其已前は、なき事也。

 されば、遠州ほど、茶事に委敷(くはしう)立入(たちいり)たる人は、なきゆゑ、常に臺德院殿[やぶちゃん注:第二代将軍徳川秀忠の法名。]の御噺し相手に召(めさ)れ、茶事に付(つき)ては、萬事、御入用、遠州へ任せられける故、遠州、公儀の御預り金を、一萬兩程、引(ひき)こみ致され、勤(つとめ)にかゝり、家も斷絕に及ぶ程の事成(なり)しに、井伊掃部頭殿・洒井左衞門尉殿、今一人【右、誰にか、ありけん。】、三人、氣の毒に思はれ、

「遠州程のものを、一萬兩の金子にて、家、斷絕させん事、惜(をしむ)べき事。殊に、上(かみ)の御伽(おとぎ)にも召(めさ)れ、御慰(おなぐさみ)に成(なる)人なれば。」

とて、相談ありて、三人の大名より、竊(ひそか)に、一萬兩の金子を、つぐのひ出(いだ)されける。

 遠州、感謝に堪(たへ)ず、洒井家へは「飛鳥川(あすかがは)」と云(いふ)茶入、井伊家ヘは宗祇の黑木の墨跡、今一人の大名へも、何か重器を贈られける。皆、名物の茶器成(なる)、とぞ。

[やぶちゃん注:「黑木」高級材の黒檀のことであろう。]

譚海 卷之十一 小堀遠州・古田織部の事

○「小堀遠州は、古田織部弟子也。」

といへども、左(さ)には非ず。

 遠州、境(さかひ)[やぶちゃん注:底本には「境」の右に訂正傍注で『(堺)』とある。]の點天寺[やぶちゃん注:底本には「點」の右に訂正傍注で『(默)』とある。]といふ住持へ遣(つかは)したる書にあるには、

『織田有樂、堺奉行を勤られし時、織部を正客にて茶湯(ちやのゆ)有(あり)けるに、織部、器用なる人なれども、茶事には不案内なる事、おほし。其日、眞(しん)の臺子(だいす)の飾付(かざりつけ)なるに、炭の時、炭を所望して、臺子へ、顏をさし入(いれ)ければ、爐の火氣に堪(たへ)かね、急に顏を引(ひき)のけんとして、臺子の柱にかしらを打あて、飾り付たる茶入、まろび落(おち)て、はきたる茶抔(など)、席中へ、こぼれ、散々の體(てい)也。全體、臺子には、炭を所望なきもの成(なる)を、しらずして、所望ありし故、如ㇾ此あやまちも有(あり)ければ、有樂、おかしく思はれ、枕を持出(もちいで)て、織部に申されけるは、

「貴殿、茶は、平日の事にて、珍敷(めづらしく)有(ある)まじければ、小姓共に、たてさせて參らせん。是にて、一寢入(ひとねいり)、せられよ。」

とて、枕を、あたへられける。』。

 其日の姶終、遠州、勝手取持(かつてとりもち)にて、見聞(みきき)たるよしを書(かき)たるを見れば、遠州は、織部弟子にあらざる事、明らかにしられたり。

[やぶちゃん注:「堺」「の」「黙」「天寺」不詳。

「眞の臺子」台子は水指などの茶道具を置くための棚物の一種で、茶道の点前(てまえ)に使用する茶道具。一般的には格式の高い茶礼(されい:禅宗における飲茶の礼法)で用いられ、特に「真台子」(しんだいす)は献茶式などで使用される。真台子を使う点前は、茶道の点前の精神的・理論的根幹を成すものとされ、奥儀・奥伝・奥秘などと呼ばれて最後に伝授される習わしになっている。「真台子」は真塗り四本柱の最も格が高いとされており、大きさは幅九十一センチメートル・奥行き四十二センチメートル、高さ六十七センチメートル程度と、非常に大きい。通常は皆具(水指・杓立・建水・蓋置の四つを同一素材・同一意匠で揃えたもの)を合わせる(以上は書画・骨董商「株式会社 栄匠堂」サイト内の「台子(だいす)の基礎知識」に拠った。写真有り)。]

譚海 卷之十一 同人茶の湯歌幷待合壁書の事

[やぶちゃん注:「同人」は前話を受け、千利休のこと。]

 

○利休居士詠歌に、

   茶の湯とはたゞ湯をわかし茶をたてて

        のむばかりなる事としらずや

とあるも禪機に叶へり。

 又、利休の壁書(へきしよ)とて、待合に書付(かきつけ)て張置(はりおく)文(ふみ)有(あり)。千家には、

「僞書也。」

と、いへども、おもしろきもの也。都(すべ)て、詠歌の心と違(たが)ふ事なき物也。

譚海 卷之十一 利休路次の歌幷石燈籠の事

○利休へ、路次(ろし)の事を尋(たづね)しに、

  松かしはもみぢぬからに散積(ちりつも)る

            おく山里の秋ぞかなしき

と云ふ慈鎭和尙の御詠をとりて、

「景容(けいよう)すべし。」

と答(こたへ)ける、とぞ。

 又、石燈籠を庭へ置(おく)事は、利休、曉(あかつき)、鳥邊野を過ぐるに、墓所の煙、ほのかに見えて、殊に幽寂に覺えしかば、夫(それ)より後(のち)、石燈籠を庭へ置(おき)て、火をともし、幽栖(いうせい)の觀(くわん)を備へける事と成(なり)たりと、いふ。

[やぶちゃん注:以上の前の話は、元禄一四(一七〇一)年に刊行された茶書「茶話指月集」(さわしげつしゅう)から採ったもの。同書は藤村庸軒が、師の元伯宗旦から聞いた話を、久須美疎安(くすみそあん)が編集したもので、千利休の最初の説話集ともいうべきもの。利休に関する逸話が多く収められている、江戸中期の代表的な茶書。国立国会図書館デジタルコレクションの『茶道古典全集』第十巻(千宗室等編・淡交新社・昭和三六(一九六一)年刊)のここで、当該部(右ページ後ろから三行目以降)を正字で視認出来る。また、後者は、個人サイトと思しい「GLN(GREEN & LUCKY NET)からこんにちは」の「石燈籠の展開」の「庭園の石燈籠」の「1 茶の湯と石燈籠」に、『茶の湯を侘びと数寄の茶道に大成させた千利休の頃、茶室と茶庭についても、草庵の数寄屋とその露地と云う今日の原形が出来上がりました。そしてこの頃、石燈籠と茶庭との最初の触れ合いが始まりました。当時の記録に、「何処其処の露地に燈籠があった」とか、「どんな石燈籠が良い」とか、「その置場所は何処が良く、何時火を灯したら良いか」などと記されています。天正十五』(一五八七)年に『千利休の書いた「台子(ダイス)かざり様之記」の中にも、「朝にても夜にても、石とうろに火ともしては、しゃうじを立る物也」とあります。しかし、その頃既に何処の茶庭にも石燈籠があったのだ、と云うことにはなりません』。『寛永七』(一七〇一)年の『序のある茶道の由来法式格言などを記した』「貞要集」(じょうようしゅう)に、『千利休のことに関連して次のようなことが記されています』(以下は恣意的に漢字を正字化し、句読点・返り点、及び、推定の読みを変更・追加した)

   *

石燈籠、路次に置(おき)候は、利休、鳥邊野、通りて、石燈籠の火、殘り、面白(おもしろく)靜成(しづかなる)體(てい)思ひ出(いで)て、路次へ置申候よし、云傳(いひつたへ)有ㇾ之候。又、等持院にて、あけはなれて、石燈籠の火を見て、面白がり、夫(それ)より火を遲く消し申(まふす)由、云傳(いひつたふ)る。

   *

『このように寺社から古びた石燈籠を茶庭に移す、と云う第一段階が始まりました』とあったので、原拠が判明した。

「路次」ここは、「露地」で、茶室に附属する庭(腰掛侍合・雪隠・中門などの施設や、「つくばい」・灯籠・井泉・飛石などが配置される)のあしらい方を言っている。

「慈鎭和尙」鎌倉時代前期の僧慈円。

「景容すべし」「その情景を心に想起して作庭するのがよろしい。」の意であろう。

「松かしはもみぢぬからに散積るおく山里の秋ぞかなしき」これは、上記原本、及び、ネットの諸記事でも、

   松かしはもみぢぬからに散積る

       おく山里の秋ぞかなしき

が正しいようである。慈円の「拾玉集」を見たが、この一首はなかった。]

譚海 卷之十一 釣花生・水こぼし・竹花生の事

○釣花生(つりはないけ)は、全體、船にかたどりたるゆゑ、花を生(いけ)るにも、出船・入船・泊船といふ事、有。

 此事、千家には沙汰なけれども、有樂流(らくりう)には口傳(くでん)、有(あり)。

 花生に、くさりの一筋、かゝりたるかたを、「へさき」とし、二筋かゝりたる方(かた)を、「とも」と定(さだめ)て、一筋有(ある)方へ、かたよせて、花を生るを「出船」と云(いふ)也。二筋有方ヘ片寄(かたよせ)て生るを「入船」と云(いふ)。眞中に生るを「泊舟」と云也。釣花生に「松本船」・「淀屋船」と云(いふ)名器、有(あり)。何もサハリ也。

 當時、此二つ、松平出羽守殿、買上られ、彼(かの)家にあり。何(いづれ)も、千兩餘の價(あたひ)の物也。二つ、共(とも)に、「唐受(からうけ)サハリ」にて、希代の物也。

 常に賞翫する古器は、「朝鮮サハリ」・「堺サハリ」など也。

 又、「棒の先」と云(いふ)釣花生、有(あり)。唐(もろこし)の古代の輿(こし)の、棒の先を張(はり)たるかね故(ゆゑ)、如ㇾ此、號、有(あり)。

 其かねの「かたく」を、つぎ足(たし)して、釣花生にしたる物にて、又、拂底(ふつてい)成(なる)物也。かねの色、金の如く、光りて見ゆる也。

 又、水指(みづさし)にも用(もちひ)て「棒の先」と稱する物、有。同物也。

 又、「水こぼし」に「骨はき」と云(いふ)物あり、是も拂底なる金物(かなもの)也。手にて撫(なづ)れば、さらさらするものを上品とす。

 唐人(たうじん)の魚を食(くひ)て、骨を、はく、器なれば、此名あり。

 又、竹花生の濫觴は、豐臣太閤、小田原陣の時、伊豆の「にら山」に在陣、有(あり)。雨中、徒然(つれづれ)によりて、茶湯(ちやのゆ)を催されしに、千利休、「にら山」の竹を伐(きり)て、花を生(いけ)しより、世に翫(もてあそ)ぶ事に成(なり)たり。此花生、太閤、祕藏ありしが、後に利休、惡事露顯の時、太閤、いかりて、此花生を打(うち)わられけるを、黑田如水、拾ひ上(あげ)て、錫(すず)にて内を繕(つくろひ)て、「園城寺(おんじやうじ)」と號し、再び、花生にせられたり。當時、園城寺は、

「丹羽家にあり。」

と云(いふ)。江戶町人、冬木方にもありと云(いふ)。何れか、眞僞、わからず。

[やぶちゃん注:以下以外は、興味がないので、注しない。悪しからず。

「サハリ」「響銅(さはり)」。銅に錫(すず)・鉛を加えた合金で、叩くと良い音を発するため「響銅」と書かれ、「佐波理」とも書かれる。その語源は「箋注和名類聚抄」では、「鈔鑼」が、「沙不良」・「佐波利」と転訛したものという。正倉院文書に『迊羅五重鋺』という記述があり、「迊羅」は「佐波理」を指すものと推定されている。「佐波理」は、鋳造・挽物(ひきもの)仕上げに適した銅合金で、東京国立博物館の法隆寺献納宝物中の加盤などが、これに当たると考えられる。正倉院宝物中の加盤の表面観察結果では。銅に、錫・鉛が数%含まれていることが報告されている。室町時代以後、茶器の建水(けんすい:茶碗を清めたり、温めたりしたときに使った湯や水を捨てるために使うもの。「(水)こぼし」とも言う)・水指・花瓶などにこの名称が用いられ、「砂張」とも書かれているが、上代とは合金の比率が異なっている。明治初期に書かれた「銅器説」では『銅一貫目 鉛三百目 錫百目』(器物用)。『銅一貫目 鉛五十目 錫二百目』(鳴物用)、『銅一貫目 鉛五十目 錫二百目又は三百目』などの合金比を挙げている(主文は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]

譚海 卷之十一 ほや香爐の事

○香爐に「ほや」と云(いふ)物、有(あり)。古歌に、

  信濃なるほやの渡りの夕暮に

     しばし里ある秋のみた山

と云(いふ)歌の心をとりて、名付(なづけ)たる物也。

 「ほや」とは、秋草、花すゝきなどの、穗ある物を、とりて、かりに家を作り、やねをふきたるをいふ也。

 香爐のおほひ、「ほや」の形に似たるより、名付たる事也。

[やぶちゃん注:示された一首は、ネットでは確認出来ない。

「ほや」「穗屋」。ススキ等の穂で屋根を葺いた家。]

譚海 卷之十一 盆山石の事

○盆山石(ぼんさんせき)は、東山殿に、八つ、石、有(あり)。

 其二つ、尾州家に傳(つたへ)られて、ともに名物の重器也。

 一(ひとつ)は「夢の浮橋」、一は「クセンハツカイ」と號す。

 「夢の浮橋」は、元來、後醍醐天皇の御物(ぎよぶつ)にして、定家卿の和歌の意をとりて、勅名ありし物也。

 「クセンハツカイ」は、佛經に「九山八海」と云(いふ)事あり、夫(それ)にかたどりて名付(なづけ)たるものか。

 又、「觀音のシキ[やぶちゃん注:「式」。]の法」に、「クセンハツカイ」と云(いふ)事、有(あり)。印像(いんざう)は九頭龍なれば、夫にかたどりて、名付たる物か。子細、わからず。

 其節の六石は、うせて傳らず。惜(をしむ)べき事也。

 又、京都紫野大德寺塔中、大空庵に、「殘雪」と云(いふ)盆石、有(あり)。賴朝卿御臺所政子所持の物なり。甚(はなはだ)大なる石にて、四人程にて舁(かき)て持(もち)たるゝ石也。

 盆山に、砂を敷(しく)事をば、「うつ」と云(いふ)也。盆山に砂うつ歌、東山殿御詠と云(いひ)傳へたり。

  盆山の前にはふたつ濱庇(はまびさし)

     うしろに遠き海ぞえならぬ

此心を以て、

「砂、うつこと。」

とす。

[やぶちゃん注:「夢の浮橋」現存する。「徳川美術館」公式サイト内のこちらで画像が見られる。

「クセンハツカイ」「九山八海」本来は、仏教の世界観で考える小宇宙の総称で、須彌山(しゅみせん)を中心とし、鉄囲山(てっちせん)を外囲とする、山・海の総称。中央の須彌山と外囲の鉄囲山と、その間にある持双山・持軸山・担木山・善見山・馬耳山・象鼻山・持辺山の七金山を数えて「九山」とし、九山の間に、それぞれ、大海があると説く。海は「七海」が内海で、八功徳水を湛え、第八海が外海であって鹵水海(えんすいかい)、この中の四方に、四大陸が浮かび、我々は、その南の大陸(南閻浮提)に住むとされる。この名を持つ庭石・盆石は複数あるようだが、信頼出来る論文中に『岩質不明』とあり、この義政の遺愛のそれは、現存しない模様である。

「觀音のシキの法」「シキ」は「式」。式法。思うに「観音懺法」(かんのんせんぼう)のことか。観音を本尊にして修(しゅ)する懺悔(さんげ)供養の法で、死者のために罪業を懺悔して、その消滅を請い、追福を祈るものである。

「京都紫野大德寺塔中、大空庵」現行の大徳寺境内(グーグル・マップ・データ)には、この名の塔頭は確認出来ない。

『「殘雪」と云盆石、有』この名の盆石は複数あるようだが、当該のものらしきものは、発見出来ない。

「盆山の前にはふたつ濱庇うしろに遠き海ぞえならぬ」この歌、ネットでは確認は出来ない。下句の意味が不審だが、「砂を打つことによってのみ、あくまで海を暗示させるもので、海を描ことは出来ない。」といった意味か。]

譚海 卷之十一 東山殿附書院の事 かりろく袋の事

○床脇(とこわき)の付書院(つけしよゐん)へは、喚鐘(くわんしよう)を釣(つり)て、右の柱に「しゆもく」[やぶちゃん注:「撞木」。]を懸(かく)る事(こと)、故實也。

 是は、慈照院殿、東山へ閑居の時、机を其まゝ、付書院へ仕付(しつけ)、物書(ものかく)便(たより)とし、明り障子を付(つけ)て、夫(それ)より東山を眺望の便にせられ、用事有(ある)時は、喚鐘を打(うち)て、人を召(めさ)れしより、かくする事也。

 又、座敷の柱に、「かりろく」と云(いふ)物を懸る事、有(あり)。是は禁中に飾らるゝものにて、藥物(やくもの)を器に納(いれ)て、紅の絹にて、袋を拵へ、釘にかけて邪(じや)を避(さく)る者也。袋の仕立(したて)も、其かたち、ありて、拵(こしらへ)る也。

[やぶちゃん注:「東山殿」足利義政の通称。

「付書院」床の間の脇の、外の縁側の内側に沿って作り出した開口部のこと。 原型は貴族や僧侶が読書などをするための机代わりに造られた、縁側に張りだした出窓のようなもので、開口部に小障子を入れ、明かり取りとしていた。後年、床や床腋棚がセット化され、座敷飾りの定番として定着した。神戸の不動産・建築会社「アイビスGROUP」公式サイト内の「付書院」のページに図と写真が載る。

「喚鐘」本来は、勤行や法会などの開始を報じる小形の梵鐘・半鐘を指す。また、後に「茶の湯」で用意が整って客に入室を合図するために鳴らす鐘をも指すようになった。

「慈照院」同じく足利義政の法号(慈照院喜山道慶大禪定門)。ここで語られているのは、慈照寺(銀閣寺)境内の東北にある東求堂(とうぐどう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。「NHK for School」のこの動画解説がよい。この付書院は、現存する最古の書院造りとして知られる。

「かりろく」「訶梨勒」。名古屋の「真宗高田派紹光山願隆寺」公式サイト内の『新年に飾る厄除けのお香「訶梨勒(かりろく)」作りのご案内』が、写真もあって判り易い。『新年や慶事の席に飾られる袋物のこと。中には、お香と訶子の実が入って』おり、『古来、薬用の実として大切に保存されていた訶梨勒(訶子の実)が病を治す霊力を尊ばれ、現在はお守りがわりとして袋物に形を変えたものと考えられてい』るとある。]

2024/03/15

譚海 卷之十一 茶湯の濫觴の事

○茶湯の濫觴は、全く、室町、慈照院殿、東山に閑居有(あり)、八疊の座敷にて茶湯ありしが、奈良の僧、珠光にいたりて、六疊の座敷と、なせり。東山殿は吉畫(きちぐわ)ばかりを懸物にせられたるが、珠光(じゆくわう)、初(はじめ)て、法語を懸物にして、人に法(ほふ)を示しながら、茶湯をなせる、とぞ。

 又、一說には、

「一休和尙、圓晤(ゑんご)禪師の墨跡を所持有(あり)しを、珠光へ、よせられしより、法語を用(もちひ)る事に成(なり)たり。」

とも、いヘり。

 珠光の弟子武田紹鷗(せうおう)、紹鷗の弟子、「千の利休」にて、豐臣太閤に昵近(じつきん)して、茶事(ちやじ)、盛(さかん)に行(おこなは)るゝ事に成(なり)たり。又、利休は一休和尙の禪に參じたるより、「休」の字を慕(したひ)て、名とせり、とぞ。

[やぶちゃん注:「慈照院」足利義政の法号。

「珠光」室町中期の茶人で、浄土宗の僧村田珠光(むらたじゅこう 応永二九(一四二二)年又は三十年~文亀二(一五〇二)年)。当該ウィキによれば、『「わび茶」の創始者とされる人物。なお僧侶であり』、『本来ならば苗字は持たないが、慣習的に「村田珠光」という呼び方が広まっている』。『「しゅこう」と濁らないとする説もある』とある。

「武田紹鷗」誤り。武野紹鷗(たけのじょうおう 文亀二(一五〇二)年~弘治元(一五五五)年)が正しい。当該ウィキによれば、戦国時代の堺の豪商(武具商或いは皮革商)で茶人。また、『紹鷗の弟子、「千の利休」にて』というのも正しくない。確かに、利休は紹鷗を茶人として高く評価しており、彼の『茶湯は、千利休、津田宗及、今井宗久に影響を与え、彼らによって継承された』。『特に利休は「術は紹』鷗、『道は珠光より」と説いており、これによって』彼の『名声が広く知られることとなった』とはあるものの、直弟子とは記されていない。]

譚海 卷之十一 多賀潮古の事

○多賀潮古といふは、英一蝶(はなぶさいつてふ)が壯年の時の名也。

 叔父、家に、「潮古」名印の二幅對有(あり)。「時宗朝比奈草摺引」・「牛若丸辨慶五條の橋」の所を繪がきたり。辨慶、頭(かしら)にかぶりたる頭巾は袈裟也。

 すべて、山法師(やまほふし)を初(はじめ)て、諸寺の僧、軍陣に出(いづ)る時、袈裟をば、離(はな)ちがたき物ゆゑ、帽子のかはりに、頭を包(つつみ)て出(いで)たる事也。

 潮古、其古實を、よく知(しり)たる故、あざやかに能(よく)書(かき)なせり。今も、天台宗にては、袈裟を、たゝみて、頭を包む口傳(くでん)有(あり)て、たゝみて、かぶるやう。その如くにすれば、頭巾のかわりに成(なる)事也、とぞ。

[やぶちゃん注:「多賀潮古といふは、英一蝶が壯年の時の名也」誤り。英一蝶は剃髪後に「多賀朝湖(たがてうこ)」と名乗っている。先行する「卷之十 英一蝶の事」の私の注の引用部を参照されたい。

「叔父」既出の本巻で冒頭に出て、途中にもしばしば登場する津村の叔父である中西邦義。]

譚海 卷之十一 大關侯所藏雪舟觀音の畫幅の事

○大關家(おほぜきけ)に、雪舟の書(かき)たる觀音の圖(づ)有(あり)。墨繪也。

 中央に、高山有(あり)て、峯巒(はうらん)[やぶちゃん注:峰。]より、白雲、たなびき出(いづ)る體(てい)を、ゑがき、絕頂に觀音、端座まします。

 麓に、一人の唐人(たうじん)、ひとを提(あげ)て、谷へ、なげ落(おと)す。

 なげられたる唐人、さかしまに落(おち)ながら、合掌したる所ありて、觀音の圓座の中に、此(この)合掌したる人の影、移りたる所を、繪がき、上邊に、雪舟、眞蹟にて、金泥を以て、「普門品(ふもんぼん)」の「墮落金剛山」の文を言(かき)、

『雪舟行年六十三歲書』

と有(あり)。

 誠に奇代の懸物にして、神、人を動(うごか)すに、堪(たへ)たり。

[やぶちゃん注:調べたが、少なくとも、この絵は、現在の本邦には存在しない模様である。

「大關家」下野国黒羽藩主家大関家。

「雪舟」「六十三歲」彼は、応永二七(一四二〇)年生まれなので、満年齢で換算すると、文明一四(一四八二)年となる。

『「普門品」の「墮落金剛山」の文』サイト「日本仏教学院」の「観音経とは」を参照されたい。]

譚海 卷之十一 岸波の畫の事

○「岸波(きしなみ)」といふ繪は、東山殿同朋、相阿彌(さうあみ)、書始(かきはじ)めたる事にて、雪舟・古法眼元信(こほふげんもとのぶ)・探幽・法印養朴(やうぼく)まで、何れも、是を寫し書(かき)たり。

 初(はじめ)は一幅にて、高岸(たかぎし)に波のうちよする體(てい)を、書たる物也しを、探幽などは、二幅對に書(かき)て、岸に、波と、別々に書(かき)わけたる有(あり)。

 然れども、相阿彌に及ぶ者、なし。相阿彌は畫(ゑ)の名人也。

[やぶちゃん注:「東山殿」足利義政の通称。

「相阿彌」(?~大永五(一五二五)年)は室町時代の絵師・鑑定家・連歌師。姓は中尾、名は真相(しんそう)。父は芸阿弥、祖父は能阿弥で、三代引き続いて足利将軍家に「同朋衆」として仕えた。「阿弥派」の絵画の大成、書院飾りの完成、書画の管理・鑑定、造園、香、連歌、茶道など、多方面で活躍した(当該ウィキに拠った)。

「古法眼元信」室町時代の絵師狩野元信(かのう もとのぶ 文明八(一四七六)年?~永禄二(一五五九)年)。狩野派の祖正信の子で、狩野派二代目。京都出身。後に法眼に叙せられ、後世「古法眼」と通称された。

「法印養朴」狩野常信(寛永一三(一六三六)年~正徳三(一七一三)年)の号の一つ。江戸前期の画家で、江戸幕府に仕えた狩野派(江戸狩野)の御用絵師。木挽町狩野家二代目。当該ウィキによれば、彼は宝永元(一七〇四)年に、『孔子廟に七十二賢像を描いた功で法眼に叙され』、さらに同五(一七〇八)年、『内裏造営で賢聖障子を描き、翌』六年(一七〇九)年十一月には、『前年の画事と』、『江戸城修理の功績を賞され』、『中務卿法印位を得て』いる。]

譚海 卷之十一 說文長箋の事

○「說文長箋(せつもんちやうせん)」といふ書は、唐(たう)の時に出來(でき)て、字書の肝要とする物也。篆書の形なども、殊によし。三十卷有(あり)。渡りたる本、少(すくな)き物ゆゑ、知(しり)たる人、稀成(なる)もの也。

[やぶちゃん注:「說文長箋」後漢に書かれた最古の漢字字典「說文解字」(許慎撰)の内、大徐本と呼ばれるテクストによる、明(本文の「唐」は誤り)の趙宦光(ちょうかんこう:宋王朝の子孫)の撰になる注釈書。一六三一年刊。特に同辞書の篆書の研究書として名高い。]

譚海 卷之十一 朝鮮人書法の事

○朝鮮人の書は、皆、趙子昂(てうすがう)流(りう)也。朝鮮の紙は、土佐紙の如く、厚きものなれども、下品成(なる)物也。

[やぶちゃん注:「趙子昂」(一二五四年~一三二二年)は元代の儒者で書画家。名は孟頫(もうふ)。王羲之の書の正統を守り、画は山水画を得意とし、院画風を排して、唐・北宋に復帰することを主張し、実践した。書に「蘭亭帖十三跋」、著に「松雪斎文集」などがある。]

譚海 卷之十一 明朝の董其昌戲鴻堂法帖の事

○董其昌(とうきしやう)が法帖を、「戲鴻堂(ぎこうだう)」と云(いふ)。夫(それ)には、吾朝、佐理(さり/すけまさ)卿の書を載(のせ)て有(あり)。日本國・海外の書、深く「二王」の跡を學ぶ。子孫、永く珍藏とすと、賞鑑(しやうがん)せり。

[やぶちゃん注:「董其昌」(一五五五年~一六三六年)明末に活躍した文人で、特に書画に優れた業績を残した。清朝の康熙帝が彼の書を敬慕したことは有名である。その影響で清朝に於いて、正統の書とされた。また、独自の画論は、文人画(南宗画)の根拠を示し、その隆盛の契機を作った。董其昌が後世へ及ぼした影響は大きく、「芸林百世の師」と尊ばれた(当該ウィキに拠った)。

「佐理卿」藤原佐理(天慶七(九四四)年~長徳四(九九八)年)は平安中期の公卿で能書家として知られる。摂政関白太政大臣藤原実頼の孫。「三跡」の一人で「草書」で有名である。

「二王」前話に出た王羲之・王献之の父子を指す。]

譚海 卷之十一 淳化法帖二王の事

○「淳化法帖」は、もろこしにて、古人の手蹟を上木せし濫觴也。「淳化法帖」にも、幾本[やぶちゃん注:異本が。]も有(ある)由。

 然れども、眞本は、

『二王の書に、轉畫(てんかく)のあるを、よしとす。』

と、米元章がいへる事を、王元美が四部稿に著(しる)したり。

 「轉畫」をば「特筆」とも、いヘり。

 「曰」と云(いふ)字、「田」の字などの、右へ引(ひき)て、下へ、まはす筆勢を、轉ぜず、一筆に書(かく)が、正體(せいたい)なれども、義之が、それを誤(あやまり)て、下へ、まはす所にて、筆を轉じたるを、「轉筆」といふ也。義之が誤たる所が、則(すなはち)、眞本の證とするよし、なり。

[やぶちゃん注:「淳化法帖」(じゅんかほうちょう)は北宋の淳化三(九九二)年、太宗の命により、王著(おうちょ)が内府所蔵の歴代の書跡を刻したもの。歴代帝王法帖(巻一)・歴代名臣法帖(巻二〜四)・諸家古法帖(巻五)・王羲之(巻六〜八)・王献之(巻九と巻十)の全十巻。翻刻本が多く作られた。ここに出る「二王」は最後の二人を指す。

「米元章」北宋末の文人で書画の大家であった米芾(べいふつ 一〇五一年~一一〇七年)の字(あざな)。彼は書では、蘇軾・黄庭堅・蔡襄(さいじょう)とともに宋の「四大家」と称され、絵では、「米法山水」を始め、文人画に新生面を開いた。

「王元美」明の元官人の文学者王世貞(一五二六年~一五九〇年)の字。号に弇州山人(えんしゅうさんじん)。所謂、「古文辞派」で、李攀龍(りはんりょう)らとともに,「後七子」の一人として古典主義文学運動を進め、李の死後は、その運動、及び、当時の文壇の指導者として活躍した。その文学論は「芸苑巵言(げいえんしげん)」に纏められている。「四部稿」というのは、彼の書いた膨大な「弇州山人四部稿」を指す。]

譚海 卷之十一 嶧山の碑幷草書・行書・楷書の事

○李斯(りし)が「驛山(えきざん)の碑」は、大篆を、八分(はつぷん)減じて、書(かき)たる物にて、「八分字(はつぷんじ)」の濫觴也。

 夫(それ)より、後漢に至りて、章帝、「八分」を略して、草書を書始(かきはじめ)られし故、「章草」と云(いふ)物、出來(いできた)たり。草書は、後漢の張芝、「章草」を略し、書たるより始(はじま)り、行書は、又、後漢の劉德寔、草書を略せしより、出來たり。楷書は、又、行書により出(いで)て、最(もつとも)末(すゑ)に出來たる事也。「眞書(しんしよ)」をば、「正書」ともいひ、「楷書」とも云(いふ)。

 孔子の廟下に、楷木(かいぼく)といふもの生(しやう)じ、正敷(まさしく)、生長せしものゆゑ、楷書の名に取(とり)たる事也。

[やぶちゃん注:「嶧山の碑」は「嶧山刻石」とも呼ばれる、秦の始皇帝が、山東省の嶧山を巡遊した際に建てた記念碑。紀元前二一九年に刻まれたもので、その文字は秦の悪宰相李斯が書いたと伝えられるが、原石は失われて、現存しない。現在、見ることの出来る「嶧山刻石」は北宋の徐鉉(九一六年~九九一年)が写したものを元にした拓本である(滋賀県東近江市五個荘竜田町(ごかしょうたつたちょう)にある「公益財団法人 日本習字教育財団 観峰館」公式サイト内の「嶧山碑(えきざんひ)」に拠った)。

「八分字」漢字の書体の名。隷書の一種。漢代に蔡邕(さいゆう)が、又は、秦代に王次仲がつくり出したとされる。その書体が、「八」の字が分散しているように見えることから名づけられたとも、また、篆書二分と隷書八分との混じった書体であるので名づけられたともいう。

「章帝」後漢の第三代皇帝。在位は七五年から八八年まで。

「張芝」(生没年不詳)は後漢の書家。太常の官に上った名士張奐の子として生まれ、幼時から学問に励んだが、終生、仕官せず、書の修練を積んで,特に草書をよくした。鍾繇(しょうよう:後漢末から三国時代の魏において活躍した書家。同時に政治家・武将としても活躍したとされており、かの曹操や曹丕(そうひ)に仕え、魏の建国にも力を尽くしたことで宰相にまでなった人物)・王羲之とともに、「古今三筆」の一人。

「劉德寔」不詳。或いは、中国後漢末の蜀漢初代皇帝劉備の親族であった劉徳然 (生没年不詳)のことか? 当該ウィキによれば、『劉備が』十五『歳の時、劉徳然は彼と共に、儒学者の盧植に師事していた。この時、父の劉元起は自分の息子のみならず、大器と評価した劉備にも同等の学資を与えて援助したという』。但し、小説「三国志演義」では、『劉元起は史実に近い形で劉備を援助していたこととなっているが(第』一『回)、劉徳然の名は登場しない』とある謎の人物である。

「楷木」中国原産のムクロジ目ウルシ科カイノキ属カイノキ Pistacia chinensis当該ウィキによれば、『中国名は、黃連木(別名:楷木)』とあり、『カイノキは、直角に枝分かれすることや小葉がきれいに揃っていることから、楷書にちなんで名付けられたとされる。別名のクシノキは、山東省曲阜にある孔子の墓所「孔林」に弟子の子貢が植えた』、『この木が代々』、『植え継がれていることに由来する。また、各地の孔子廟にも植えられている。このように孔子と縁が深いことから、学問の聖木とされる』。『また、科挙の進士に合格したものに楷の笏を送ったことから、その合格祈願木とされていた』とある。]

譚海 卷之十一 宗の茂古林笹書の事

○茂古林(むくりん)といふは、宋の時の僧にて、其墨蹟、茶事にも賞翫して懸(かく)る也。拂底(ふつてい)成(なる)物也。たまたま、あれば、皆、「笹書(ささがき)」とて、行・草をまぜて書(かき)たる書法にて、字體は、皆、はねたる筆勢、有(ある)故、

「笹の葉に似たり。」

とて、「茂古林の笹書」と稱する也。

[やぶちゃん注:「茂古林」古林清茂(くりんせいむ 一二六二年~一三二九年)は、南宋末から元代に於ける禅林の第一人者。「茂古林」(むくりん)と称された。号を休居叟(休居子)といい、「仏性禅師」の号を贈られている。法弟は多く、特に了庵清欲・竺仙梵僊(来日僧)、我が国の月林道皎・石室善玖が知られる。グーグル画像検索「古林清茂 茂古林 笹書」をリンクさせておく。]

譚海 卷之十一 關帝能書の事

○關帝も能書の中の人也。「朱竹」と云(いふ)畫(ゑ)も、關帝の書(かき)はじめられたる由を云へり。

 此邦にても、狩野永眞が「赤茄子」と稱するは、朱にて、茄子を書たる物にて、甚(はなはだ)珍重すべき物也。

[やぶちゃん注:「關帝」ここは、後漢末期に劉備に仕えた武将の関羽のこと。

「狩野永眞」狩野派(江戸狩野)の絵師狩野安信(慶長一八(一六一四)年~貞享二(一六八五)年)の号。狩野孝信の三男で、探幽・尚信の弟。狩野宗家の中橋狩野家の祖。英一蝶は弟子に当たる。]

譚海 卷之十一 三國筆海堂の事

○「三國筆海全書」に、弘法大師の「益田碑」、有(あり)。

 篆書のやうに書(かき)たる物にて、「人」と云(いふ)字なども、人のかたちに、似たり。大師は、諸藝、皆、上流の人也。書も上畫(じやうぐわ)の中(うち)の人也。

[やぶちゃん注:「三國筆海全書」筆海堂真幸正心子の編述になる、中国・日本の名跡を集録した法帖。全二十巻。「序」は慶安五(一六五二)年。「国書データベース」のこちらから視認出来る。後に続く原影印を総て見たが、「人」の字は複数あるものの、津村の言うような強い象形文字的なものは、ない。最初のものをリンクさせておく

「益田碑」『奈良新聞』公式サイト内の「大和路の弘法大師【6】 益田池堤(橿原市白橿町1丁目)―完成碑文を自ら揮毫」によれば、『平安時代、橿原ニュータウン周辺に』灌漑『用として造られたと考えられている益田池。益田池堤は高取川の流れをせき止めるために約』二百『メートルにわたって築かれた』。『池が完成した際の碑文「大和州益田池碑銘并序」は弘法大師空海が揮毫した。池の築造には弟子の真円らが携わり、弘法大師が改修した讃岐(香川県)の満濃池の技術が取り入れられたともされる』。『益田池堤の幅は約』三十『メートル、高さは約』八『メートル。益田池児童公園には』、『その一部、長さ約』五十五『メートル分が姿をとどめる。近くの丘陵上にある石造物「益田の岩船」は弘法大師が揮毫した石碑の台石とみる説もあり、土木技術と書に秀でた弘法大師をしのぶことができる』とあった。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

譚海 卷之十一 松花堂の事

○松花堂は、生涯、墨を製して書(かき)たる故、墨色にて、眞跡は、わかるゝ也。書樣(かきざま)は弘法大師の流(りう)也。畫は琉球の法なり。

[やぶちゃん注:「松花堂」江戸初期の真言僧で文化人であった松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう 天正一〇(一五八二)年~寛永一六(一六三九)年)。姓は喜多川。俗名は中沼式部。堺生まれ。当該ウィキによれば、『書道、絵画、茶道に堪能で、特に能書家として高名であり、書を近衛前久に学び、大師流や定家流も学び,独自の松花堂流(滝本流ともいう)という書風を編み出した。近衛信尹、本阿弥光悦とともに「三筆」と称せられた』。『茶道は小堀政一』(遠州)『に学んだ』とある。]

譚海 卷之十一 定家卿・日蓮上人・一休和尙墨蹟の事

○古筆の中(うち)、定家卿と、日蓮上人の眞跡程(ほど)、高價成(なる)物は、なし。

 定家卿、小倉色紙の内、世間に、人、知(しり)て名物と稱するは、十七枚に限りたり。其餘は眞蹟の色紙といへ共(ども)、高價には、あらず。

 右十七枚の内、拂(はらひ)ものに出(いづ)れば、一枚の價、金千兩づつ也。極め料(れう)も、古筆方へ百兩づつ、出(いだ)す事也。

 日蓮上人は、蔓陀羅、殊に高價なり。眞蹟は稀れなるものゆゑ、若(もし)、有(ある)時は其宗門の者、いかほどにも調(ととのふ)る事故(ゆゑ)、價は際限なし。是は身延山より極(きは)め出(いだ)す也。

 其次は、一休和尙の墨跡也。是は、大德寺より極め書出(かきいだ)すを、かんやうとす。

譚海 卷之十一 手鑑のはじめにおす古い筆の事

○手鑑(てかがみ)のはじめには、聖武天皇と光明后宮の御筆を、並(ならべ)て張(ある)事、御夫婦の御筆(おんひつ)、傳(つたは)りたるを、祝儀に用(もちひ)る事、定(さだめ)たる例(ためし)也。

 ある人の試筆(ためしふで)に、

   手鑑や聖武皇帝明(あけ)の春

と、いへるも可ㇾ興(おこりなるべき)發句(ほつく)也。

 聖武・光明の御筆、皆、經文ばかり有(あり)。聖武天皇は行書にて遊したるを、最上の物とす。

 光明子(くわうめいし)は、「鳥のした繪」と讀(よみ)する物を第一とす。白紙に金泥にて、花鳥の繪を書(かかれ)たる物へ、墨にて、經文を書(かか)れたる物也。

 聖武帝宸筆、紺紙金泥は、常に有(ある)物也。五色(ごしき)に染(そめ)たる紙に遊したる物、至(いたつ)て稀成(なる)ものとす。

譚海 卷之十一 本朝古筆の事

○本朝古筆の内に、「名物切れ」と稱するものは、小野道風(をののたうふう)の書、「本阿彌ぎれ」と云(いふ)もの、第一也。唐紙地(からかみぢ)に書(かき)たるもの也。佐理卿は「とほし切れ」と讀(よみ)す。

 是は紙の地紋、「絹もし」[やぶちゃん注:意味不明。]のごとくなるやうに見ゆる故、「もし」は、「物をふるひとほす」によりて、「とほし切れ」と云(いふ)也。

 又、一種、「箔切(はくぎ)れ」と云(いふ)物、有(あり)。是は、紙の地に、銀泥にて箔を引(ひき)たるに、書(かき)たるもの也。

 爲家卿は、種々(しゆじゆ)あれども、「越前切れ」といふを、第一とす。紙は白地にて、半分に、橫に、靑き色、まじりたるもの也。爲明卿は「こよみ切(ぎれ)」と云(いひ)、「古今集」を、曆のやうに、細く書(かき)たるもの也。

 定家卿も、種々あるが中(なか)にも、『「後撰」の五首切』といふを最上とす。高價なる物也。

 後水尾院の宸翰は、「引(ひき)さきたんざく」と云(いふ)を賞翫とす。紙を短册のやうに引(ひき)さきて、遊(あそば)したるものにて、殊に拂底(ふつて)なるもの也。

 聖德太子は、皆、經文(きやうもん)を書(かき)給ふ斗(ばかり)也。其中に「寶塔(はうたう)ぎれ」といふは、高價なるもの也。金泥にて、寶塔を書(かき)て、其中に經文を、一字づつ書(かか)れたる物也。

 天滿宮は金字の「法華經」斗(ばか)り也。普通には、紺紙金泥成(なる)物なれど、天滿宮斗(ばかり)は、紫地の紙に金泥也。多く、筑紫安樂寺より出たる物也。

 古筆にて、延方(のぶかた)にて、天滿宮の御筆を、

「雷除(かみなりよけ)の守(まもり)也。」

とて、一字づつ、きり出(いだ)して所望の者に施す。禮金一兩づつ出せば、もらはるゝ也。

[やぶちゃん注:「延方」これは、現在の茨城県潮来(いたこ)市延方(のぶかた)ではなく、その北西に接する潮来市須賀南にある曲松須賀天満宮(グーグル・マップ・データ)のことではあるまいか?。]

 又、天滿宮の御筆といへば、大かた、加賀守殿へ買上(かひあげ)らる。前田家は菅原氏なれば、何程(いかほど)ありても、價をおしまず、買上らるゝ事故(ゆゑ)、天滿宮の御筆は、殊の外、拂底に成(なり)たり。

 鎌倉八幡宮寶物には、

「天滿宮の遊(あそば)したる「大般若經」あり。」

と、いへり。

 親鸞上人の筆は、「八百屋きれ」と云(いふ)を最上とす。金一枚ほどの價也。

 文覺上人の筆は、反古(ほご)のうらに書(かき)たる物ばかり也。

 連歌師宗祇は、「大倉色紙」と云(いふ)あり。「やけとうし」[やぶちゃん注:意味不明。]に書(かき)たる物也。

 後醍醐天皇は「芳野切」と云(いひ)、御製の歌を遊したる物也。

 弘法大師は「鼠心經(そしんきやう)」と號す。「般若心經」の章を草(さう)にて書たるもの也。

 紀貫之は、「古今集」を書たる有(あり)。「高野切」と稱す。

 傳敎大師は「燒(やき)ぎれ」と號す。白紙に經文を書たる紙、上下、火にやけたる跡、有(あり)て、經文の所は、殘りたるもの也。いくらありても、皆、やけ切れ斗(ばか)り也。

 小野の道風は「奈良切」と云(いひ)、名物也。「法華經」を書たる物也。

 源三位(げんさんみ)賴政は、「平等院切れ」と云(いふ)。淺黃と白き紙に、「朗詠集」を書たる物也。

譚海 卷之十一 古筆七平・平林庄五郞・藤田永壽事

○寬保の比、七平と言(いふ)者ありて、古筆の事に、甚(はなはだ)、功者にて、了延が家ののも、及ぶ事成(なり)がたきほど也。

 仍(よつ)て、「古筆七平」と世に稱したり。

 叔父、是(これ)にたよりて、本朝の古筆の事を、能(よく)知(しり)たり。

 又、手跡は、平林庄五郞弟子也。

 古法帖の事は、庄五郞、能(よく)、辨じたるゆゑ、華人の名讀法帖(めいどくほふてふ)の事をも、覺へ傳ヘたり。

 或は、藤田永壽と云(いふ)人、朝暮、往來して、古筆の事をも、よく畫(ゑがき)せり。

 この永壽、元來、狩野家の門人成(なり)しが、畫の上手成(なる)にまかせて、少し、我まゝなる家の法(はう)に背(そむき)たる事ども有(あり)しかば、狩野家勘當の人にて、醫を業(なりはひ)として居(をり)たる人也。茶の湯は、尾州の茶道、松本見休(けんきふ)と云(いふ)人の弟子にて、有樂流(うらくりう)の奧旨を殘(のこり)なく傳へたり。後に川上宗雪にたよりて、子供をば、其弟子にして、千家の事をも窮(きは)めたり。

[やぶちゃん注:「寬保」一七四一年から一七四四年まで。徳川吉宗の治世。

「古筆七平」不詳。本邦近世以前の書道・絵画・茶道には全く興味なく、冥いので、以下、人名は注さない。悪しからず。

「叔父」本巻で冒頭に出て、途中にもしばしば登場する津村の叔父である中西邦義。]

譚海 卷之十一 よのだ三郞右衞門刀劔目利の事

[やぶちゃん注:「目利」は「めきき」。]

 

○「よのだ[やぶちゃん注:底本では補正傍注で、『(よだ)』とある。]三郞右衞門」と云(いふ)人、有(あり)。京都北野の社家、十二人、有(あり)、其末子にて、江戶へ來り、刀・脇差の事を業(なりはひ)とし居(をり)たるが、天性(てんせい)、刀の目利上手にて、默阿彌家にも、「よのだ」に及ぶものなきほどの事也。

 宗近の刀を所持せしが、眞作にて、めづら敷(しき)物也。

 柳原にて、「牛王義弘」の刀を、金二步に買(かひ)得て、無雙の物に極(きはま)り、堀田相模守殿へ、七百金に買上(かひあげ)られし也。

[やぶちゃん注:「よだ」「三郞右衞門」不詳。

「堀田相模守」下総国佐倉藩藩主であった正俊系堀田家の誰かであろう。]

譚海 卷之十一 本阿彌の事

○本阿彌光悅は、刀劍の目利(めきき)は元よりにして、諸道通達の人也。

 禪法に參じ、書畫に勝れ、茶道諸細工の事をも得たる人也。

 光悅が燒(やき)たる茶碗に、「加賀光悅」といひて、名物の器あり。價(あたひ)三百金の物也。光悅が燒たる茶碗は、普通成(ある)ものも、百金ばかりの價に當るもの也。蒔繪なども、上手なり。

 光悅が拵(こしらへ)たる硯箱、所持せり。住吉詣(すみよしまうで)の所を、光悅みづから、蒔繪したるなり。

 又、光悅が弟に、「空中(くうちゆう)」といふもの有(あり)。是も、光悅におとらぬ好事(かうず)の人にして、作る所のもの、數品(すひん)有(あり)。何れも珍重する物也。

[やぶちゃん注:「本阿彌光悅」当該ウィキを参照されたい。

『光悅が弟に、「空中」といふもの有』養子の孫の誤り。本阿弥光悦の養子である光瑳(こうさ)の長男本阿弥光甫(ほんあみこうほ 慶長六(一六〇一)年~天和二(一六八二)年)である。彼は「空中斎」(くうちゅうさい)と号し、「空中」の名でよく知られる。家業の刀剣鑑定に長じ、光悦の影響を強く受けて、茶・香を嗜み、絵画・彫刻もよくしたが、ことに作陶に優れた。技巧に優れた作品を残したが,楽三代道入に学び、また、後世、「空中信楽(しがらき)」と呼ばれる独特の信楽風の茶陶を多く作っている。代表作は楽茶碗では「寒月」、信楽には水指・茶碗・香合などがある。本阿弥家と光悦について著した「本阿弥行状記」上巻を纏めている(朝日新聞出版「朝日日本歴史人物事典」を主文に用いた)。]

譚海 卷之十一 横谷宗與宗祇幷奈良俊永等の事

[やぶちゃん注:冒頭は前話を受けている。]

 

○後藤家の外に、橫谷宗與(よこやそうよ)と云(いふ)物[やぶちゃん注:ママ。]、彫物の上手也。

 宗與が子に宗珉(そうみん)といふは、後藤代々の名人にも越(こえ)たる程の上手にて、「一輪牡丹」などと云(いふ)ものは、宗珉が彫(ほり)はじめたる事也。

 すべて、宗珉作は、高價なる物成(なり)しを、宗珉が子どもに、「えせ者」有(あり)て、そでもなきものに、

「親の作りたる。」

よしの極(きわ)めを出(いだ)し、あらぬ物に、「宗珉」の銘など彫(ほり)て、僞りて、こしらへしゆゑ、宗珉の作、下品に成(なり)て、價も減じたる事也。

 又、奈良の俊永といふものあり。彫物(ほりもの)の名人にして、當時、彫物を業(なりはひ)とするもの、おほく、俊永の形を、手本にして、ほりいだす事也。

[やぶちゃん注:「橫谷宗與」(慶長一八(一六一三)年~元禄三(一六九一)年)は初代の装剣金工で横谷派の祖。名は友周。通称は治(次)兵衛。京都生まれで、京で後藤殷乗(いんじょう)に師事した後、寛永年間に江戸に出て、後、幕府に仕え、彫物役となった(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「宗珉」(寛文一〇(一六七〇)年~享保一八(一七三三)年)は横谷家二世。江戸に生まれ、後藤殷乗の門人である初代横谷宗与の実子とも、養子ともいう。初め、父以来の幕府御彫物役を勤めていたが、後藤家の因襲にとらわれた家彫(いえぼり)に飽きたらず、役を辞し,自由な題材・材質・構図等を採り入れ、当時の彫金界で一世を風靡した。作品は小柄・笄・目貫・縁頭(ふちがしら:刀の柄(つか)の両端の金具のこと。 柄の先(握りの前)の金具を「頭」といい、刀の茎の入り口を「縁」と呼ぶ。 この二つは基本的には一緒に作られているものが「縁頭」とされる)と多岐に渡り、赤銅魚々子(しゃくどうななこ)地に肉高の高彫色絵のほか、四分一地に彼の創意になる「片切彫」があり、図柄は虎・獅子・獅子牡丹・一輪牡丹などが多い。また、画家の英一蝶と親交が深く、一蝶の下絵になる作も現存している。一門に宗与のほか、横谷英精・柳川直政・大森英昌・古川元珍らがおり、その分脈は、おおいに栄え。「町彫(まちぼり)の祖」として、高く評価されている(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「俊永」不詳。]

譚海 卷之十一 彫物師後藤家來由事

○彫物は、後藤家初代祐乘(ゆうじよう)、名人也。當時に至りて、「祐乘」などといふ者は、一向、拂底(ふつてい)にして、世間に眞作は、なき程の事也。後藤家に「三作」と稱するは、光乘・卽乘・貞乘也。中(なか)に就て、郞乘を上手と稱す。光乘は祐乘より四代目、貞乘は享保年中の人也。又、顯乘といふも上手と稱する也。

[やぶちゃん注:「後藤家初代祐乘」後藤四郎兵衛(以下、この名を継ぐ)。初代祐乗(永享一二(一四四〇)年~永正九(一五一二)年)。名は正奥。美濃生まれ。足利義政に仕え、彫金、特に目貫の名匠として有名。

「光乘」(享祿二(一五二九)年~元和六(一六二〇)年)四代。名は光家。京生まれ。織田信長に仕え、大判分銅の役を勤めた。

「貞乘」不詳。ウィキの「後藤四郎兵衛」には、この名のりの者はいない。「程乘」はいるが、「享保年中」よりも前で、合わない。それに合うのは、十一代後藤「通乘」か、十二代後藤「壽乘」である。

「中に就て、郞乘を上手と稱す」同前ウィキで、八代後藤「卽乘」の誤りであろう。

「顯乘」同前で、七代後藤「顯乘」のこと。]

譚海 卷之十一 古來鍔名物の事

○信長公の比(ころ)の甲胃の「かぶと師」に、信家(のぶいへ)と云(いふ)物[やぶちゃん注:ママ。]有り。此者の作りたる鍔(つば)、名物也。至(いたつ)て稀成(なる)也。おそらく、或は、「この手がしは」など云(いふ)名の鍔、有(ある)也。

「おそらくは、信長公より、森蘭丸へ賜りたる鍔にて、天下にあるまじといヘる作也。」

とぞ。

 但(ただし)、此時代の鍔は、大きくて、三寸・四寸も、はゞある物故(ゆゑ)、當時の「花車(はなぐるま)」好(このみ)たる世には、用ひがたき物也。

 信家の子孫、面頰鍛冶(めんぼほかぢ)にて、今に越前の國に住居(すまい)せり。

 又、古鍔(こつば)には、越前の鍔師喜内といふものの作りたるを珍重する也。

 其次には、房吉と云(いふ)を名人と稱する也。

 古鍔には、石見國より出(いづ)る、「とちはた」と云(いふ)を勝(すぐ)れたり、とす。

 「赤坂遠山」、或は、「遠山赤坂庄左衞門」などと云へる鍔、中古にては、名物と稱する也。

[やぶちゃん注:「信家」(生没年不詳)は戦国から安土桃山時代の甲冑師。明珍(みょうちん)家十七代という。永正から天文(一五〇四年~一五五五年)の頃に製作された。古来、高義・義通とともに明珍三作の一人で、一説に、武田信玄に仕え、「信」の一字を賜わって「信家」を名乗り、鍔を作ったとも伝えられるが、現今では、この甲冑工とは別人とされている(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「花車」御所車に多くの花を飾った図柄のもの。居合刀・居合道専門店「濃州堂」公式サイト内の「鍔 波に片輪車図 銘:貞克作」で現物が見られる。

「とちはた」「栃畑鍔(とちはたつば)」。このQ&Aサイトの回答に、『通称石見銀山、地元では大森銀山と呼びますが、世界遺産登録で正式名「石見銀山遺跡」となりました』。『現在の住所では「島根県大田市大森町」になります』(ここ。グーグル・マップ・データ)。『この銀山内に栃畑という場所があるのです』。『「銀山之内栃畑と申所、山荒地大積り拾六町余、」』と記録に残り、『栃畑谷間歩群、栃畑谷という所があります』(中略)。『栃畑鐔』(「鐔」(つば)は「鍔」に同じ)は『別名』を『銀山鐔・金山鐔』と呼び、『江戸時代では、石見国の物産品の一つとされ、栃畑鐔の名は刀装具の専門書物にも記載されてます』。『銀山栃畑を中心に、そこに住む銀山職人の余技の作と伝えられてます』。『特徴は』、『ずばり』、『「縄目縁」で』、『鐔の耳が縄目のキザキザのようになっております』。『ほとんど無銘鉄地透し鐔ですが、初期の「銀山住守重」の銘の鐔はちょっと貴重です』。『桃山時代末から、江戸中期頃まで、この大森で作られたといいます』とあった。グーグル画像検索「栃畑鍔」をリンクさせておく。]

2024/03/14

譚海 卷之十一 同じく新刀の事

[やぶちゃん注:「同じく」は前話「本朝名刀幷鍛冶の事」を受けたもの。前に同じく注は附さない。「新刀(しんたう)」とは、近慶長年間(一五九六年~一六一五年)以後に製作された刀の総称である。]

 

○新刀(しんたう)には、和泉守兼定と云(いひ)、關物(せきもの)にて高價也。昔は金三百兩計(ばかり)の料(れう)成(なり)しが、今は、十分一に成(なり)たり。

 又、一條の住(ぢゆう)、堀川圖寂と云(いふ)物、有(あり)。新刀の中(うち)にて、是を第一と稱する。豐臣太閤の時に當りて、「朝鮮釜山海(ぷさんのうみ)に於て打(うつ)」と云(いふ)銘などあるもの也。

 又、「梅只明壽」[やぶちゃん注:底本では「梅」と「只」に編者による右訂正注があり、前者に『(埋)』、後者に『(忠)』とある。]といふものあり、上作也。堀川の國廣も、肥前の忠吉も、明壽の弟子也。肥前の忠吉、殊に稱美の物也。忠吉は松平信濃守殿家中にて、俸祿百五十石給はり、子孫、今に相績して有(あり)。夫(それ)ゆゑ、信濃守殿には、忠吉の打(うち)たる刀、數多(あまた)有(あり)。

 「二王(にわう)」といふも、周防(すはう)の物にて、甚(はなはだ)切(きれ)もの也。出來は、全體、下品成(なる)物にて、忠吉・國廣などよりは、賤しく見ゆる也。

「『三入(みいり)二王』と銘の有(ある)刀ありしに、此『三入』は法名(ほふみやう)なれば、價(あたひ)、のぼりがたし。『三入』の文字を磨落(するおと)せば、高價に成(なり)ぬる。」

よし、いひたれども、其(それ)、「後(あと)三入」の「往(ゆき)二王」と有(あり)。

銘の物を見れば、「三入」は法名にはあらず、住所の名なる事をしらざりし也。

 繁慶(はんけい)は、享保年中[やぶちゃん注:一七一六年~一七三六年。]の鍛冶にて、當時、甚(はなはだ)、高價なる物也。

 「虎徹(こてつ)」といふも、繁慶より、少し已前の新刀なれども、劣らぬ價のもの也。「忍岡邊に於て作る」と銘ある物也。「池の端」に、今に子孫、住居(まい)するよしを聞(きけ)り。

 又、近來(きんらい)、粟田口(あはだぐち)の住、「一竿子(いつかんし)忠綱」といふ新刀、有(あり)。見事成(みごとなる)事、いふべきやうもなきもの也。全體、彫物師なれども、刀をうつ事、殊に妙を得たり。新刀にても拂底(ふつてい)成(なる)物にて、金子、四、五十兩の價也。紀州殿、大刀にて百兩に御買上に被ㇾ成候事也。

譚海 卷之十一 本朝名刀幷鍛冶の事

○本朝の名刀は、天國・天座・神息(しんそく)・伯耆守安綱・紀身太夫行平(きしんたいふゆきひら)・三條小鍛冶宗近など也。何れも名作にて、奇特有(ある)事、多き物也。

 伯耆守安綱は、天下に二振(ふたふり)ならでは、なき、よしを、いへり。一振は、公儀の御物(ぎよぶつ)にて「あざ丸」と云(いひ)、惡七兵衞景淸が帶せしもののよし。今一振とは、「鬼切」とて、越後家か、會津家に有(あり)。又或人のいへるは、何れの社にか有(あり)けん、安綱の刀を神禮に勸請せし有(ああり)。一とせ、其神主、江戶へ持參して、本阿彌方(かた)へ見せけるに、彼(かの)家の者も、殊に感嘆し、

「神禮なれば、極札(きはめふだ)出(いだ)さん事は、勿體なし。」

とて、拜見せししるしに、

「安綱に紛(まぎれ)なき。」

よしの證狀を出(いだ)しける、とぞ。

[やぶちゃん注:「極札」刀剣などを鑑定して、それが確かなものであることを証明したもの。短冊形の小札に書き記すのが普通であった。]

 又、友成と云(いふ)も名刀也。作は古備前也。裏銘に「君萬歲(きみばんざい)」とあるものゆゑ、

「『君萬歲』の友なり。」

とて稱美する事也。佐竹家に一振、有(あり)。其足輕、八島幸右衞門と云(いふ)者、所持せしを、主人へ奉れる也。

「月水[やぶちゃん注:メンスのこと。]の女房、此刀を振(ふり)たるに、其手の跡、刄(やいば)に移りて、さび付(つき)たる事、ありし。」

と、いへり。

 此刀は、平氏の能登守敎經の帶せしものと云(いへ)り。

 又、外に「鶯友成」といふ物有(あり)。來曆(らいれき)[やぶちゃん注:「曆」はママ。]、さだかに覚えず。

 此外に、「三作(さんさく)」と云(いふ)は、粟田口(あはたぐち)藤四郞吉光・五郞入道正宗・牛王義弘(ごわうよしひろ)也。此内、吉光は誠に上品とす。短刀ばかり、あるものなり。名刀の次には、是を第一と稱して、價(あたひ)も比類なきもの也。公儀の御物に「本庄(ほんじやう)正宗」といふ、あり。是は上杉家より獻ぜし物也。本庄は上杉の家老の名字也。此刀、はじめに上杉の足輕、帶せしものなるに、足輕の事故(ゆゑ)、刀のつくろいも、せず、鞘(さや)など、われ損じて、われめより、刄(やいば)、少し、あらはれて見へしほど也。此足輕、大豆の俵物を背負(せおひ)て、道を行(ゆき)たるに、大豆俵より、もりて、刄に、こぼれかゝれば、あやまたず、大豆、ふたつにきられて、落(おち)たり。あまたたび、如ㇾ此成(なる)を見て、本庄氏、足輕に、此刀を乞得(こひえ)て所持せしを、後に、主人へ奉れる物なと云(いへ)り。

 又、三池の傳太(てんた)・大原さねもり・來(らい)國光・來國俊抔(など)いふもの、「三作」に劣らぬ上作也。「來」と云(いふ)は、皆、古備前者(もの)也。

[やぶちゃん注:刀剣には全く興味関心がないので、注は附さない。悪しからず。]

譚海 卷之十一 毘沙門天王軍神の事

○毘沙門天王は、軍陣の守護神也。

 唐の玄宗、軍前に命じて、契丹(きつたん)を征伐ありしに、戰ひ、利、あらざる聞えありしかば、玄宗、則(すなはち)、玄弉三藏に命じて、祈禱有(あり)し時、玄弉、毘沙門天を念じて、「だらに」を唱(となふ)る時、天王、空中に光を放(はなち)て現じ給ふ。頓(やが)て、一夜の内に、契丹の陣中、鼠、數萬(すまん)出(い)で、弓箭・兵具を、くひ破りしかば、契丹、戰ひ、まけて、走りたる、よし。「毘沙門靈驗記」に見えたり。

[やぶちゃん注:「玄弉」二箇所とも、底本も国立国会図書館本も、「弉」は、この字である。この字は「奘」の異体字であるから、誤字ではない。

「毘沙門靈驗記」正しくは恭道著の「毘沙門天王靈驗記」で、「霞亭文庫」の文化九(一八一二)年板本の「第一」の掉尾にある「大唐國(だいたうこく)毘沙門天王霊驗(れいげん)毘沙門摩利支天(まりしてん)辯才天女(べざいてんによ)を軍神(いくさがみ)に祝(いわう)事」(読みは一部を同巻目録のものも援用した。歴史的仮名遣の誤りはママ)がそれ。ここから視認出来る。]

譚海 卷之十一 劔術九字傳の事

○劍術に「九字(くじ)の法(はう)」とて、傳(つたへ)たる事あり。

 是は、佛法には沙汰のなき事也。

「印をむすび、九字をきる事は、仙人の傳へたる法。」

の由。

「古(いにしへ)、周の太公望、傳へて、軍陣に用ひたるより、此法あり。」

と、いへり。

 全體の古法は、今の世にするやうに、九字を、きり、印を結ぶ事には、非ず。

「兩の手を、ひらき、向ふ方(がた)へ、あてて、『陣々堂々(ぢんぢんだうだう)。』と、二返(にへん)、唱(とな)ひ[やぶちゃん注:ママ。]ながら、する事也。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「九字の法」九字護身法。当該ウィキによれば、『主に修験道において「臨・兵』(ひょう)『・闘・者・皆・陣・列・在・前」の九字の呪文と九種類の印によって除災戦勝等を祈る作法である。この行為は九字を切る(くじをきる)』、『九字切り(くじきり/くじぎり)とも表現される。仏教(密教)で正当に伝えられる作法ではなく、道教の六甲秘呪という九字の作法が修験道に混入し、その他の様々なものが混在した日本独自の作法である』とある。]

譚海 卷之十一 柔術に死活の法ある事

○「やはら」に「死活(しくわつ)の法(はう)」といふ有(あり)。

 死は、ある事なれども、活法は稀也。

 「やはら」には、人の胸の脇・乳(ち)の下をうつ事を、殊に恐るゝ也。乳の下の骨は、薄紙のごとく、柔(やはら)か成(なる)ものゆゑ、弘(ひろ)く、さはる時は、骨を、うち折(をり)て氣絕するゆゑ、群集(ぐんしゆ)の中を往來するには、殊に兩の臂(ひぢ)を脇につけて、はなさぬやうにして、用心をすべし。

 「あて身」といふも、乳の下の骨を、あつる事にて、其儘、悶絕に及び、甚敷(はなはだしき)は死ぬるなり。

 活法を傳へて聞(きき)おけるは、

「氣絕したる人の足のふしぶしを、手ぬぐひなどにて、堅く、くゝりて、氣の洩(もれ)ざるやうにして、其人の腹の上に、またがり、兩手をもつて、其人の丹田を、力一ぱい、ぐつぐつと、おす時は、死人、息出(いきいで)て、蘇生する。」

と、いへり。

 聞傳(ききづた)へたるまでにて、いまだ、試(こころみ)たる事なければ、しかるや否やは、いまだ、しらず。

譚海 卷之十一 關流劔幷柔術の事

譚海 卷之十一 關流劔幷柔術の事

○「關流」と云(いふ)劍術は、表六本にて、四十八本に成(なる)也。

 叔父、壯年の時、習(ならひ)たる流(りう)也。「やはら」をば、「腰まはり」と云(いふ)流(りう)なり。柔術は、明曆の比、支那より王道元と云(いふ)人、來りて、長崎にて敎(をしへ)しより弘(ひろま)りたる事にて、其已前、「やはら」と云(いふ)事は、本朝にては、しらざる事也。

[やぶちゃん注:「關流」関口新心流のことか。江戸初期に関口氏心(せきぐちうじむね)が開いた柔術流派で、柔術という語の嚆矢であるとされる。柔術と併せて、剣術・居合術も伝承し、この三術で一武術体系を築いた流派で、幕末まで紀州徳川家御流儀の一つであった。詳しくは参照した当該ウィキを見られたい。

「明曆」一六五五年から一六五八年まで徳川家光の治世。

「王道元」小学館「日本大百科全書」の「柔術」の解説に、『近世柔術流派の形成期に、中国医学による経絡原理や拳法の技法が明人陳元贇(ちんげんぴん)(江戸)や王道元(おうどうげん)(長崎)』(☜)『らによって、わが国に紹介され、秋山四郎左衛門義時の楊心流など諸流に当身(あてみ)の術、殺活の法として取り入れられた。やがて元禄』『前後には、各藩それぞれ独自の柔術が採用され、関口流から分かれた渋川伴五郎義方の渋川流や、吉岡流から独立した江畑杢右衛門満真の為我流が有名となった』とある。]

譚海 卷之十一 朝士鈴木淸兵衞殿劍術の事

○享保の比、御天主[やぶちゃん注:底本に補正傍注で『(守)』とする。]番に、鈴木淸平と云(いふ)人、有(あり)。劍術の名人にて、「キトウ流」と云(いふ)を傳へたる人也。

 此人、物、書(かく)時に、かたはらより、其筆を取らんとするに、取得たる人、なし。

 其比の酒井雅樂[やぶちゃん注:底本に補正割注で『(頭)(守)』とある。それで「うたのかみ」と読める。]殿、又、劍術の名人にて、立逢(たちあは)れけるが、負(まけ)て、鈴木の弟子になられたり。

[やぶちゃん注:「享保」一七一六年~一七三六年。

「鈴木淸平」鈴木清兵衞邦教。滝野遊軒の弟子。

「キトウ流」「起倒流柔術」。

「酒井雅樂」「頭」後に老中首座となった上野前橋藩第九代藩主・播磨姫路藩初代藩主の雅楽頭系酒井家第十四代酒井忠恭(ただずみ 宝永七(一七一〇)年~安永元(一七七二)年)か。]

譚海 卷之十一 人を追かくる時にとなふる歌事

○「逢坂の關の淸水に影見えて今やひくらん望月のこま」。

 此歌を劍術の口傳(くでん)にいひたるには、人を追(おひ)かくる時には、かならず、此歌を唱へながら追かくれば、追(おは)るゝ人、つまづきたふるゝと、いへり。

[やぶちゃん注:この一首は、

    延喜御時月次(つきなみ)御屛風に

   相坂(あふさか)の關の淸水に影見えて

            今や引くらむ望月の駒

で、「拾遺和歌集」の「卷第三 秋」に載る紀貫之の一首(一七〇番)。延喜六(九〇六)年に詠まれた、内裏の一年の各月に行われる年中行事の模様を描いた月次絵屏風の絵に添えられた歌である。「相坂の關」「逢坂の關」(グーグル・マップ・データ。以下同じ)に同じ。「望月の駒」信濃、現在の長野県佐久市望月にあった放牧場。ここの朝廷への貢馬の「駒牽き」の儀は古くは旧曆八月二十三日が特異点の望月であった。]

譚海 卷之十一 蟇目の矢の事

○蟇目(ひきめ)には、名將の矢を用(もちひ)る事を尊ぶ也。

 享保の比、根の井斯兵衞といふ「ひきめ」の名人、有(あり)。是は、

「源九郞義經の矢を所持し傳へて、夫(それ)にて、奇特、多かりし。」

といふ。

 菅谷平兵衞と云(いふ)者、狐、託(たく)して、口ばしりたるに、根の井氏の高弟、蟇目にて、狐を射殺したり。

 狐の、祟(たたり)をなすものなれども、其法を用て殺されたるには、狐も、祟る事、あたはぬにや、何事もなくてありし也。

[やぶちゃん注:「蟇目」朴(ほお:モクレン目モクレン科モクレン属ホオノキ節ホオノキ Magnolia obovata )又は桐(シソ目キリ科キリ属キリ Paulownia tomentosa )製の大形の鏑(かぶら)矢。犬追物(いぬおうもの)・笠懸けなどに於いて射る対象を傷つけないようにするために用いた矢の先が鈍体となったもの。矢先の本体には数個の穴が開けられてあって、射た際にこの穴から空気が入って音を発するところから、妖魔を退散させるとも考えられた。呼称は、射た際に音を響かせることに由来する「響目(ひびきめ)」の略とも、鏑の穴の形が蟇の目に似ているからともいう。私の「耳囊 卷之三 未熟の射藝に狐の落し事」及び同じ「耳囊」の「卷之九 剛勇伏狐祟事」や「卷之十 狐蟇目を恐るゝ事」の本文や私の注をも参照されたい。怪奇談集では、頗るポピュラーな物の怪退散の武家式の呪的アイテムである。]

譚海 卷之十一 濃州正木太郞太夫鐵のくさりの事

○濃州に正木太郞太夫といふ人、有(あり)。大力にて、大まさかりにて、大木の松を、うち切(きり)たる程の强力(がうりき)也。

「劍術の奥旨を得ん事。」

を、遠州秋葉權現に祈請して、一萬日、かの山に罷りたり。權現より、鐵の「くさり」を給はり、盜難・劍術をよくる事、神異、有(あり)。

 仍(より)て、諸人、正木氏に懇望して、「くさり」を調(ちやう)じもらひ、

「居間に懸置(おく)時は、極(きはめ)て諸難を、よくる。」

と、いへり。

 「あや川」某と云(いふ)すまひ取(とり)[やぶちゃん注:相撲取り。]有(あり)相撲の上手にて、無雙の聞えありしが、正木氏のもとに行(ゆき)て、業(わざ)の進(すすま)ん事を乞(こひ)ければ、正木、逢(あひ)て、

「奇特の事也。さらば、先(まづ)、我等の體の輕重を試み見よ。」

とて、「あや川」に身をまかせたり。

 「あや川」、立寄(たちより)て抱(だ)き揚(あぐ)るに、正木、さしも大兵(たいひやう)の生れにて、長(たけ)も平人に越(こえ)たる人なれ共(ども)、いとかろらかに抱揚られたり。

 又、暫くして、

「已前の如く、試(こころみ)よ。」

と、いへば、「あや川」、立寄て、いだき揚(あげ)んとするに、磐石(ばんじやく)の如く、重く成(なり)て、一向に動かされず。

 夫(それ)より、正木が弟子に成(なり)て、體の輕重の法(はう)を傳へ、いよいよ、相撲の名人になりたり、とぞ。

[やぶちゃん注:秋葉権現絡みではあるが、以降は、こうした武道系の物語へとスライドしてゆくのである。]

譚海 卷之十一 深川六軒堀上竹さぬき事

[やぶちゃん注:最後の割注は前話と同様の処理をした。]

 

○深川六軒堀に、「よりたけ讚岐」といふ者、金毘羅權現の利益を深く蒙りたるもの、あり。

 元來、船頭の家に奉公せしに、十五歲に成(なり)ける時、其親、大病を受(うけ)て、卒中風(そつちゆうぶ)のごとく、半身、かなはず、存命不定(ふぢやう)に成(なり)ける時、此讚岐、鄰家にて、「午日坊太郞敵討(ごじうばうたらうかたきうち)」といふ本を讀たるを聞覺(ききおぼ)えて、こんぴら權現の、利生(りしやう)の事あるを、たふとく覺え居(をり)ければ、何卒、此父の大病、蘇生させたく、其夜より仙臺河岸(せんだいがし)の水に、ひたり、一心に金毘羅權現を念じ、親の平意を祈りける。

 晝は、船の事に𨻶(ひま)なき身なれば、奉公の暇(いとま)をぬすまず、每夜、九つ時[やぶちゃん注:午前零時。]より、一時(いつとき)づつ、水中にありて、苦行祈念したり。

 寒中の事にて、こゞえて、あまたゝび、死なんとせし事ありしかども、權現、加護ましましければ、まぬかれ、三七日(さんしちにち)[やぶちゃん注:二十一日間。]、滿ずる夜に至りて、權現、まのあたり見え給ひて、ねんごろに示現(じげん)ましまし、祕印加持(ひいんかじ)の法を傳へ給ひければ、悅びにたへず、そのまゝ家に歸りて、父の病氣を加持しければ、立どころに平愈せり。

 それより、諸人の病氣を加持するに、奇特ある事、あげて、かぞへがたし。

 終(つひ)に、今は、金毘羅權現の加持三昧の修驗者になりて、「讚岐」といふ受領改名せし事に成(なり)たり。

 權現、示し給ふ樣(やう)は、

「すべて、人間に難病、種々(しゆじゆ)の病氣あるは、そのものの先祖に菩提を得ずして、うかびがたく迷ひゐるものの所爲なり。さるがゆゑに、病者を加持するには、念佛をもちて、加持すべし。その先祖も、念佛の功力(くりき)にて、成佛するなり。成佛せんとて、子孫につきて、惡病を生じ、救ひを、もとむるゆゑなり。又、加持を用(もちひ)て人を救ふとも、年わかき内は、障碍(しやうがい)おほきものなれば、障碍を除(のけ)るにも、念佛を用て、加持するに、しかず。」

と示し給ひし、とぞ。

 此(この)「讚岐」、かたのごとくの船頭の者ゆゑ、一文字(ひともんじ)を辨(わきま)ふる事なけれども、御符(ごふ)を書(かく)事は示現(じげん)にて得しゆゑ、何(な)にか、墨(すみ)ぐろに書(かき)て、あたふるに、しるし、あらずといふ事、なし。

「今は、市中(いちなか)をいとひて、葛西(かさい)半田稻荷の神主に成(なり)たり。」

と、いへり。

 ある人の曰(いはく)、

「讃岐事(こと)、近來(ちかごろ)、慾心出來(いでき)たるゆゑ、加持のしるしも、まへかたの樣(やう)には、なし。」

と、いへり。

「すべて、加特祈禱のしるしある人も、後に、印(しる)し、なくなるは、慾に染(そむ)る心、出來(いでく)るゆゑ、しか、ある事なり。」

とぞ【註。この條、別本になし。】。

[やぶちゃん注:「深川六軒堀」現在の江東区森下一丁目、常盤一・二丁目、新大橋二・三丁目で、ここの中央附近(グーグル・マップ・データ)。

「午日坊太郞敵討」不詳。読みもいいかげんに附した。

「卒中風」「脳卒中」に同じ。脳動脈に生じた出血や血栓などの障害のため、突然、意識を失って倒れ、運動・言語などの障害が現われる疾患の総称。脳出血・蜘蛛膜下出血・脳梗塞など。

「葛西半田稻荷」葛西地区の稲荷は多数あり、特定不能。

 而して、この篇で、巻頭より長々と続いた護摩・線香プンプン系話群が終わる。]

譚海 卷之十一 金毘羅權現の事

[やぶちゃん注:最後の割注は前話と同様の処理をした。]

 

○金毘羅權現と申(まうす)は、釋迦如來、いまだ、王宮にすみ給ひし時、其庭に住(すみ)給ふ神也。

 本朝にても、利益(りやく)あらたなる事、かぞへがたし。

 水戶讚岐守殿に仕(つかへ)し女房、讚州の者にて、江戸屋敷に久しくありて、母に對面せざる事を歎(なげき)て、常に權現を念じ祈(いのり)にけるに、ある夜、此女房、いづくとも行(ゆき)がたなく、うせて、在所をしらず。

 大(おほい)に尋ね騷ぎたるに、三日をへて、住居(すまい)せし家の屋上に立(たち)てゐたりしかば、大に、人々、あやしみ、たすけおろしたるに、正氣なく、其まゝにて寢入(ねいり)、三日をへて、起(おき)あがり、手をひらきたれば、手に、梵字、書(かき)てあり。

 女房、水を乞(こひ)て、其水にて、手の梵字を、洗ひおとし、みづから飮(のみ)たれば、正氣付(しやうきづき)て、平生のごとくに成(なり)、物語けるは、

「あまり、母に逢(あは)ざる事の戀しく、金毘羅權現へ、ひとへに起請し奉りししるしにや、夢中の樣(さま)にて、在所へ行(ゆき)て、母にも逢(あひ)て歸りたる。」

と、いへり。

 讚州より、江戶へ詰合(つめあは)する家元[やぶちゃん注:ママ。「家士」「家來」の誤記か誤判読。]、

「在所を出立する時、此女房を、まさしく、見たる。」

よし、後に語りたる、とぞ。

 在所の便(たより)にも、

「女房來りて 母に逢て しばらく物語せしが やがて いづくともなく見うしなひたる」

よし、後に、くはしく聞(きこ)へて、いよいよ、ふしぎなる事にいひあひて、權現のみちびきて、なさせ給ふ事、うたがひなき事を、

「有がたき事。」

に、いへり【註。この條、別本になし。】。

[やぶちゃん注:「水戶讚岐守」底本の竹内利美氏の後注に、『讃岐國高松の初代藩主の松平頼重は水戸初代藩主徳川頼房の長子で分家独立した。以後高松藩主は讃岐守を称している』とある。]

2024/03/13

譚海 卷之十一 吉永昌庵辨財天問答事

[やぶちゃん注:最後の割注は前話と同様の処理をした。]

 

○吉永昌庵といふ醫師、深く辨財天に歸依し、信心無雙の人なりしかば、夢中に、天女に謁し奉りて、一七日(ひとなぬか)の間(あひだ)、寢たるごとくにて、問答あり。

 天女の託宣に、

「我(われ)、三國にあそぶといへども、汝がごとく、如法眞實の供養をうける[やぶちゃん注:底本では「け」と「る」の間に編者の補正註があり、『(た)』の脱字とする。]事なし。」

と、の給ひて、程々の示現(じげん)を蒙りたり。

 覺(さめ)て後(のち)、みづから、其次第を筆記し、祕藏せる一卷あり。其書、今、靑山出泉寺といふ眞言比丘の寺に納めあり。

 昌庵、吉夢の旨(むね)によりて、宇賀神を用ゐず、「最勝王經」の所說によりて、辨財天の像を造立(ざうりふ)し、兩親の齒髮(しはつ)を用ゐて、僅に植(うゑ)て、兩親を、卽(すなはち)、辨財天となし、七寶(しつぱう)を腹ごめにし、和說を盡して、本尊となせり。

 右造立の半(なかば)に至りて、典藥の命ありて召出(めしいだ)されし。

「全く、天女の加護、むなしからず。」

と、いへり。

 一生、福德自在にして、終りたる人なり。

 又、昌庵、「最勝王經」の圖を、「まんだら」に繪書(ゑがか)む發願(ほつぐわん)ありて、狩野梅春を、かたらひて、成就せしに、金泥を、摺鉢にて、すりて用ゐたり、とぞ。「まんだら」、五十幅に餘り、莊嚴無雙のことなり。都(すべ)て、貳萬貳千兩の金子を費し、成就したり。

 有德院公方樣、此「まんだら」、上覽ありて、

「本朝無雙の『まんだら』也。」

と上意ありたる、とぞ。

 後に、昌庵、此「まんだら」を、覺樹王院(かくじゆわうゐん)權僧正へ、寄附し、僧正、本所猿江へ隱居の時、隨身(ずゐじん)あり。彼(かの)寺に納置(をさめおき)たりしに、天明六年春、彼寺、類火にかゝりたる時、此「まんだら」も燒失せり。をしむべき事なり【註。この條、別本になし。】。

[やぶちゃん注:この話先行する「卷之一 官醫池永昌安辨財天信仰の事」、及び、それに続く「卷之一 覺樹王院權僧正の事」に酷似した話が、分離して載る。そちらを見られたい。津村、老いたり!

「吉永昌庵」不詳。但し、「有德院」は吉宗のことであり、同時代の医師に一字違いで吉永升庵(よしながしょうあん 明暦二(一六五六)年~享保二〇(一七三五)年)がいる。肥前長崎生まれで、オランダ商館医に外科を学び、漢方と蘭方を合せた医術に通じていた。わが国初の軍陣外科書「軍陣金創秘極巻」や「阿蘭陀外科正伝」などがある。或いは、この人か、その関係者であろうとは思われる。]

譚海 卷之十一 吉永昌庵辨財天問答事

[やぶちゃん注:最後の割注は前話と同様の処理をした。]

 

○吉永昌庵といふ醫師、深く辨財天に歸依し、信心無雙の人なりしかば、夢中に、天女に謁し奉りて、一七日(ひとなぬか)の間(あひだ)、寢たるごとくにて、問答あり。

 天女の託宣に、

「我(われ)、三國にあそぶといへども、汝がごとく、如法眞實の供養をうける[やぶちゃん注:底本では「け」と「る」の間に編者の補正註があり、『(た)』の脱字とする。]事なし。」

と、の給ひて、程々の示現(じげん)を蒙りたり。

 覺(さめ)て後(のち)、みづから、其次第を筆記し、祕藏せる一卷あり。其書、今、靑山出泉寺といふ眞言比丘の寺に納めあり。

 昌庵、吉夢の旨(むね)によりて、宇賀神を用ゐず、「最勝王經」の所說によりて、辨財天の像を造立(ざうりふ)し、兩親の齒髮(しはつ)を用ゐて、僅に植(うゑ)て、兩親を、卽(すなはち)、辨財天となし、七寶(しつぱう)を腹ごめにし、和說を盡して、本尊となせり。

 右造立の半(なかば)に至りて、典藥の命ありて召出(めしいだ)されし。

「全く、天女の加護、むなしからず。」

と、いへり。

 一生、福德自在にして、終りたる人なり。

 又、昌庵、「最勝王經」の圖を、「まんだら」に繪書(ゑがか)む發願(ほつぐわん)ありて、狩野梅春を、かたらひて、成就せしに、金泥を、摺鉢にて、すりて用ゐたり、とぞ。「まんだら」、五十幅に餘り、莊嚴無雙のことなり。都(すべ)て、貳萬貳千兩の金子を費し、成就したり。

 有德院公方樣、此「まんだら」、上覽ありて、

「本朝無雙の『まんだら』也。」

と上意ありたる、とぞ。

 後に、昌庵、此「まんだら」を、覺樹王院(かくじゆわうゐん)權僧正へ、寄附し、僧正、本所猿江へ隱居の時、隨身(ずゐじん)あり。彼(かの)寺に納置(をさめおき)たりしに、天明六年春、彼寺、類火にかゝりたる時、此「まんだら」も燒失せり。をしむべき事なり【註。この條、別本になし。】。

[やぶちゃん注:この話先行する「卷之一 官醫池永昌安辨財天信仰の事」、及び、それに続く「卷之一 覺樹王院權僧正の事」に酷似した話が、分離して載る。そちらを見られたい。津村、老いたり!

「吉永昌庵」不詳。但し、「有德院」は吉宗のことであり、同時代の医師に一字違いで吉永升庵(よしながしょうあん 明暦二(一六五六)年~享保二〇(一七三五)年)がいる。肥前長崎生まれで、オランダ商館医に外科を学び、漢方と蘭方を合せた医術に通じていた。わが国初の軍陣外科書「軍陣金創秘極巻」や「阿蘭陀外科正伝」などがある。或いは、この人か、その関係者であろうとは思われる。]

譚海 卷之十一 五穴辨天の事

[やぶちゃん注:最後の割注は前話と同様の処理をした。]

 

○辨財天は海邊巖洞黑地にましますよし、「最勝王經」に見えたり。

 相州江の島など、南海をうけて龍池を備(そなへ)たるをみれば、池形、說(とく)に符合せるも不思議なる事なり。

「金掘(きんほり)のひらきたる所。」

の樣にいふ人もあれど、全く、强(しひて)、ベからざる物なり。

 本朝に「五穴の辨天」といふあり。「江州竹生島」・「藝州嚴島」・「奥州金華山」・「駿州富士の洞(ほら)」・「相州江の島」なり。

 五ケ所の土を取(とり)て辨財天を修(しゆ)する法あり。

 又、「最勝王經」に「しらまんだ山」といふ所の方(かた)にありて、金を出す事を、說(とき)たり。

 本朝にも奧州・羽州の地、北にあたりて、いにしヘより、黃金を出(いだ)す事なれば、黃金は、北の方にある事、經說に、たがはず。殊に金華山は辨財天の靈場にて、參詣の者、沙金を踏(ふみ)て、往來するよしを聞(きく)にも、「最勝王經」の所說旁(かたがた)、うたがひなき物に覺えぬ【註。この條、別本になし。】。

[やぶちゃん注:「しらまんだ山」不詳。]

譚海 卷之十一 普通眞言藏諸尊だらにの事

[やぶちゃん注:最後の割注は前話と同様の処理をした。]

 

○「普通眞言藏」といふ書には、諸尊の「だらに」をはじめ、鼠を去る「だらに」まで載(のせ)てあり。受明灌頂(じゆめいくわんぢやう)を遂(をへ)たる人ならでは、直(ぢき)に唱へ行ふこと、ならぬ法也。

 すべて、佛法に、「だらに」をはじめ、諸經を讀誦するに至るまで、如法(によほふ)の比丘より、傳へ受けて行ふ法の物なり。

 無下の俗師、傳もなくて唱へおこなへば、「ヲツサンマヤの罪」に落(おつ)る事也。

 叔父、家にある下女、髮に、鼠(ねづみ)、つきて、三夜まで、元結を、かみきり、驚き恐れたれば、叔父、受明灌頂を遂げし人ゆゑ、やがて、鼠を去る「だらに」を誦し又、紙に書(かき)て、「こより」にして、下女がもとゆひに結(ゆひ)そへにし、其夜より、鼠、來らず。はたして印(しるし)ありけり。

「行ふ人は、凡夫なれども、法は、佛の傳へ給ふものゆゑ、末世なりといへども、如ㇾ此奇特あり、たふとき事なり。」

と、いへり【註。この條、別本になし。】。

[やぶちゃん注:「普通眞言藏」真言陀羅尼六百余を収録した真言大辞典で、既に注した江戸中期の真言僧浄厳(じょうごん 寛永一六(一六三九)年~元禄一五(一七〇二)年)が書いたもの。

「受明灌頂」真言の行者として深く密教を学ぼうとする者に対して行われる儀式。

「ヲツサンマヤの罪」文字だけで理解しようとすることを、密教では「越三昧耶」(オツサンマヤ)と称して、憎み嫌い、そのために受ける罪障を、かく言った。

「叔父」本巻で冒頭に出て、途中にも登場した津村の叔父である中西邦義。]

譚海 卷之十一 日蓮宗中山相傳加持の事

[やぶちゃん注:「□□」は底本自体の脱字表記。【 】は割注。底本では、前話と『同前』とあるのを、字起こしした。]

 

○日蓮宗の中に、「中山相傳(ちゆうざんさうでん)の加持」といふ者は、多くは、狐をつかひて、行ふ事あり。

 先年、右の加持をする僧あり、病人に口ばしらせて、思ふ事をいはせて後(のち)、加持にて、本性(ほんしやう)にかへし、祈禱するを、

「奇妙なる事。」

に、沙汰せしかば、試に、行(ゆき)て見たるに、

『全く、狐をつかひてする事。』

と覺えたり。

 加持を願ひに集(あつまり)たる人を、一席に居(を)らしめて、一度に加持をすること也。

 「法花經」の「方便品(はうべんほん)」を一卷づつ、紫の「ふくさ」に包(つつみ)たるを、人ごとに、もたせ、左右の手に、さゝげもたせて、しばらく呪(じゆ)を唱へて後、其一卷をば、取(とり)のけ、そのさゝげ持(もち)し手をば、そのまゝにて、

「經を持(もち)たるごとく、心得て、ゐよ。」

と、いふて、又、呪を唱へ加持すれば、其人、ふるひ、をのゝきたちて、口ばしる樣子なり。

 我々も、空手(くうしゆ)にて、左右の手をならべ坐(ざ)したるに、しばらくして、左の大指(おやゆび)の爪の間より、入(はい)る物、あり。小き蛛(くも)ほどの樣(やう)なる物、

「ひなひな」

と脈所(みやくどころ)まで入(はいり)たりと覺えたれば、

「さてこそ、狐は入(はい)らんとするなれ。年來、修行したる功力(くりき)はこゝの事也。」

と、一心不座に陀羅尼を唱へ、三寶を念じたれば、脈所より戾りたり。□□に及(および)しかば、

「我家門(わがかもん)にても、『中山の加持』は殊に新法(しんほふ)也。皆、狐をつかふ事なれども、年久しくありて、狐、其僧に別(わかる)る時は、大に難儀なるめにあふ事なり。」

といへり【註。この條、別本になし。】。

[やぶちゃん注:「中山相傳」千葉県市川市中山にある正中山遠壽院(しょうちゅうざんおんじゅいん:グーグル・マップ・データ)で現在も続く祈禱であるようだ。個人ブログ「Gomaler's~神社仏閣巡り~癒しを求めてⅢ」の「正中山遠壽院(2018年2月17日参拝)」(境内の写真有り)に、『根本御祈祷系授的傳加行所と称され、また荒行堂とも通称されるように正中山修法の相伝を使命とする加行道場をして、約四百年の伝統と歴史を有する日本仏教界でも特異な寺院である』とあった。但し、狐を祈禱に関わらせることは、触れていない。同寺の公式サイトでも、現国學院大學の千々和到教授の論文「遠寿院所蔵の起請文-Part2」の中で、ある資料に、『規制されている内容』があり、それは『単なる修行中のきまりではありません。今後行僧が祈祷師としてやってよいこと、悪いことを規定しております。たとえば、上人の置文では、祈祷にあたっては相伝の旨を守り、「臨時・私」の新義を交えてはいけないとか、「便狐」(狐を使う祈祷でしょうか)を執行してはいけないとか』(☜ ☞)『「侘立」(たくだて、つきものの祈祷)や「子消」(こけし、無理に流産させることでしょうか)はむやみに』(☜ ☞)『やってはいけない、などと具体的に決められています』とあるだけであるが、これは、わざわざ禁じている、無暗にと添えているということは、嘗つて、この中山相伝の祈禱の中には、狐を呪(じゅ)に関わらせた例があったことがあるからこその禁であろうと推定が出来る。

譚海 卷之十一 高野山金光院の住持某の事

○高野山金光院(こんくわうゐん)の住持某は、「行人派(ぎやうにんかた)」の碩學也。

 出府の節(せつ)、物がたりの次(ついで)、子どもの短命なることをうれへけるに、金光院、申されけるは、

「とかく短命なるも、同じ性をうけ、生れかはることなり。京都にて、ある人の子ども、いくたり出生(しゆつしやう)しても、皆、幼少にて、短命なりし事をなげきしまゝ、我等、入棺(にふくわん)の時に行(ゆき)て加持して、小兒の手に、「光明眞言」の文を書(かか)せ送葬せしに、その後、女房、懷姙して、出產せし子ども、手をひらきたれば、我等、書(かき)たる眞言、そのまゝにて、ありたれば、前年の子ども、又、生れかはりて來(きた)る事を兩親も、しりて、いよいよ、佛事信心に、いとなみける。此功力(くりき)にて、此度(このたび)の小兒は短命せず、生長したり。周緣は、のがれかたきものなり。」

と申されけり。

 又、いふ。

「はい[やぶちゃん注:肺。労咳(肺結核)が主。]の煩ひは、世に『傳へ申(まうす)病(やまひ)』とて、其類(たぐゐ)を、ひきて、子孫に及ぶ物也。是も、百日にみたぬ病中(びやうちゆう)に加持すれば、治(ぢ)する法(ほふ)あり。」

とぞ【註。この條、別本、なし。】。

[やぶちゃん注:最後は割注。

「高野山金光院」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「行人派」「高野三方」(こうやさんかた)の一派。高野山では、中古以来、一山の衆徒が三派に分かれた。「学侶方」(がくりょかた:専ら学道修行に努めた僧衆で先に出た覚鑁(かくばん)が学侶三十六人を定めたのが始まり)・「行人方」(ぎょうにんかた:夏衆・坊人・山伏・預(あずかり)・中方・堂衆(どうじゅ)・行人・公人(くにん)等の寺院や法会の雑役・俗事に従事した下級の僧が中心となったもの)・「聖方」(ひじりかた:同山に隠遁して念仏修行する僧。後に同山の大衆で、諸国を遍歴し、説法・行商などをした者の称。「高野聖」はそれ)の三派を指す。明治元(一八六八)年、この「三方」を廃して、「学侶方」の本拠であった青巖寺を金剛峯寺と改め、一山を統轄させるようになったものである(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「子どもの短命なることをうれへける」この言いは津村自身のプライベートが語られているとしか読めない。津村自身の事績はよく判っていないから、非常に珍しいことである。]

譚海 卷之十一 澤庵・江月兩和尙蟄居の事

○臺德院殿、佛法にも立入(たちい)らせ給ひし事にて、諸宗の僧を集めて、「因果經」御論談、有(あり)。

 事、終りて、衆僧(しゆそう)、皆、

「感心仕(つかまつる)。」

由、言上(ごんじやう)せしに、澤庵(たくあん)・江月(かうげつ)の兩僧計(ばかり)、

「「因果經」は、恐(おそれ)ながらケやう成(なる)義には、是(いれ)、なき。」

と言上せしかば、御氣色に、たがひて、兩僧、暫く御勘氣を蒙り、遠所に住居(すまひ)ありしと、いへり。

[やぶちゃん注:「臺德院」第二代将軍徳川秀忠の戒名。

「澤庵」(天正元(一五七三)年~正保二(一六四五)年)は「沢庵漬」で知られる江戸初期の臨済僧。諱は宗彭(そうほう)。但馬国の生まれ。堺の陽春寺、和泉の南宗寺などに歴住し、慶長一四(一六〇九)年、三十七歳で大徳寺一五三世の住持となったが、三日で退院、「寺院法度」や「紫衣(しえ)法度」を巡って幕府に抗弁し、寛永六(一六二九)年、出羽国上山(かみのやま)に流されたが、同九年、許されて京へ帰った。後水尾上皇、後に、三代将軍家光の帰依を受け、同十五年には、江戸品川に東海寺を開創した。

「江月」江戸前期の臨在僧江月宗玩(こうげつそうがん 天正二(一五七四)年~寛永二〇(一六四三)年)。和泉堺生まれで、茶人として知られる津田宗及(そうぎゅう)の子。春屋宗園(しゅんおくそうえん)の法を継ぎ、慶長一五(一六一〇)年、京都大徳寺、後、博多崇福寺などの住持となった。特に大徳寺の復興に努め、同寺内に孤篷庵などを開いた。茶道・書画・墨跡鑑定にも優れていた。「紫衣事件」に連座したが、彼一人のみ赦されている。号は欠伸子・赫々子など。諡号は大梁興宗禅師。]

譚海 卷之十一 禪堂に安置する大元の事

○禪宗の本堂に「大元(だいげん)」といふ物、有(あり)。是は、釋迦如來滅後五百年に當りて、天竺にして、佛法、滅せんとせし時、此人、現じて、八萬四千の佛舍利を、世界へ投(なげ)て、此厄(やく)を救ひたるより、禪家の護法神にする事也。

 夫故(それゆゑ)、右の手を額ヘかざして立(たち)たる像也。是、佛舍利の散在せるを望(のぞみ)たる體(てい)也。

 此像、「大元」とばかり覺えて、いかなる人とも、しりたる人、稀也。是は、

『阿育王の化生(けしやう)成(なる)。』

由、「日用童子問」といふ書に見えたり。

[やぶちゃん注:大元」なかなか見つからなかったが、個人ブログ「matta 街の散歩…ひとりあるき」の「禅宗の伽藍神、大元の像…『北斎漫画』五編」に絵があった。

「阿育王」古代インドのマウリヤ朝の第三代の大王にして仏教の守護者として知られるアショカ王(在位:紀元前二六八年頃~ 紀元前二三二年頃)のこと。]

譚海 卷之十一 本所羅漢寺開山象先和尙の事

○象先(ざうせん)和尙は、本所、羅漢寺の開山にして、勇猛成(なる)人也。「大般若」六百卷を血書(けつしよ)したる人也。

 すべて、血書するには、左の大指(おやゆび)と、人指(ひとさしゆび)との際(きは)を割(さき)て、血を出(いだ)して、其肉へ、筆を入(いれ)て、血に染(そみ)たるをもて、書(かく)事、本式也。

 堀田相模守、寺社奉行の時、御成(おなり)の觸(ふれ)に越(こえ)れしに、和尙、端座して居(ゐ)たる所へ、おはして、

「明日は御成也。火の元の用心、せらるべし。」

と仰(おほせ)られしかば、象先、

「御成は、何のために侍る。」

といふ。

「川狩(かはがり)に入(いら)せらるゝ也。」

と答られしに、

「もう、殺生も、よいほどにしたが、よからう。よい年をして。」

と、いはれけるを聞(きき)て、堀田殿、驚き仰天ありしとぞ。[やぶちゃん注:以下は底本でも特異的に改行している。]

 後に、是等の事、上聞に達し、感じ思召(おぼしめさ)れ、五百金を賜り、其金を、直(ただち)に公儀に留置(とめおか)れけるよしにて、利息として、一ケ年に五十金づつ、下し給はる事に成(なり)たり。

 是は、「新地寺料御法度」に止(とめ)させ給ひしかば、「寺料」とはなくて、かくある事、とぞ。

 有(あり)がたき事共(ことども)也。

[やぶちゃん注:「象先和尙は、本所羅漢寺の開山にして」誤り。同寺の開山は「鐵眼道光」(てつげんどうこう)であり、同寺の公式サイトの「年表」によれば、正徳三(一七一三)年に、]『寺社奉行本多弾正、羅漢寺を宝洲に預ける。本山の撰により象先、羅漢寺住持となる』とある。なお、この羅漢寺は当時は本所五の橋の南(ここ。グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)にあったが、明治四一(一九〇八)年に東京都目黒区下目黒に移転し(ここ)、現在は「天恩山五百羅漢寺」と称し、宗派は、嘗つては黄檗宗であったが、今は浄土宗系の単立寺院である。大学時代、中目黒直近の目黒区東山に下宿していた折り、好きで、頻繁に五百羅漢を見に行ったものだった。特に貘(ばく)の像が大のお気に入りであった。写真も撮ったが、書庫の藻屑となって見当たらない。見つけたら、ここに添える。

「堀田相模守」誤り。当時は三河国伊保藩主であった本多忠晴(ほんだただはる)である。正徳三年まで寺社奉行を務めた。文武両道の名君だったとされる。

「御成」正徳三年時は、第七代将軍徳川家継である。]

譚海 卷之十一 京白川の奥岩窟仙人の事

[やぶちゃん注:複数の前に続く白隠和尚物。]

 

○同じ和尙、在京の時、白川の奧へ行(ゆか)れけるに、岩窟にすむ人、あり。

 入口には、「よし簑」一枚を寄(よせ)かけて有(あり)。

 入(いり)て見れば、五十歲計成(ばかりなる)男、白髮は、おどろのごとく、亂れ、淺黃(あさぎ)單物、一つ著(き)て有(あり)。一脚、有(あり)て、其上に「金剛經」一卷、のせて有(あり)。此外に隨身の器物、一つも見えず。

 和尙、暫(しばらく)、物語せしに、此人、

「年來、食する事なく、喝すれば、溪水(たにみづ)を飮(のみ)て暮す。」

と、いへり。

「冬月、單物一つにて、寒くは、おはさずや。」

と、いはれければ、此人、すねを、かきあげて見せしに、汗、うるほひ、肌、暖(あたたか)にして、酷暑に坐する人の如し。

「丹田(たんでん)を、ねりて、如ㇾ此成(なる)。」

由、養生の術を語りぬるを、和尙、書記(かきしる)して、「野仙閑語」と題號せし書(しよ)あり。

 此人、「白幽先生」と號するよし。

「三百八十歲に至る。」

と、いへり。

 和尙、別(わかれ)を告(つげ)て辭する時、此人、十町餘りも送りて、わかれ去れり。

 後(うしろ)かげを見送りたるに、冰雪(ひようせつ)[やぶちゃん注:氷と雪。]の山路を分(わけ)て行(ゆく)事、鳥の飛(とぶ)如く、速(すみやか)に見えたり。

 其後、又、和尙、

「尋行(たづねゆき)たるに、其所にあらず、行方を知らず。」

と云ふ。

[やぶちゃん注:「丹田」中国の道家や仙術の「内丹術」に於いて、気を集めて煉ることにより、霊薬の内丹を作り出すための体内の部位。一般には「臍下丹田」(せいかたんでん)を指し、臍(へそ)のすぐ下辺りを指す。そこを、円を描くように気を回して練り込んでいくことによって、精力・気力ともに充実してくるとされる。]

譚海 卷之十一 備前大炊殿白隱和尙歸依事

○備前の大炊頭(おほひのかみ)殿、參覲(さんきん)往來には、必(かならず)、白隱和尙の駿河の庵へ立寄(たちよ)られける。

 休息の間、和尙と獻酬ありし時、和尙、申されけるは、

「我等、願ひ御座候。あれなる鑓持(やりもち)、殊に寒げに見へ候。何とぞ御盃(おんさかづき)を給はれ。」

と申されしかば、頓(やが)て、大炊殿、鑓持に盃を給はりける。

 翌年、此鎚持、侍に取立(とりたて)られ、和尙の所ヘ立寄(たちより)、懇(ねんごろ)に謝し、士に成ぬる事を悅び云(いひ)ける。

「國守の盃を賜(たまは)れば、侍に取立られる事、彼(か)家の例也。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「備前の大炊頭」備前岡山藩主第三代池田継政(元禄一五(一七〇二)年~安永五(一七七六)年)。当該ウィキによれば、『仏教に対して信心が深く、継政は湊山に仏心寺、瓶井山に多宝塔を建立した。領民に対しても善政を敷いた名君であり、享保年間に近隣の諸藩では百姓一揆が頻発して発生したのに対して、岡山藩だけは継政の善政のために一揆が起こらず、平穏を保った』とある名君である。また、絵を狩野派に学び、能楽を好み、「能百六番」の舞台図「諷形図」を描いた文人でもあった。]

譚海 卷之十一 解脫上人の事

○白隱和尙、物語に、

「明惠(みやうゑ)上人は、春日明神を、まさしく拜し給ふ。

 解脫上人は拜し給ふ事、なし。

 解脫、ふかく此事を歎(なげき)て、

『いかなれば明惠には邦まれ給ひ、山僧には拜まれ給ふ事、なき。』

と祈請し給ひければ、社壇の御戶(おんと)の内より、御うしろすがた、ほのかに見えさせ給ふ時、猶々、かこち給ふに、明神、託宜に、

『明惠は、信施の心、ふかし。そこには、此心なきゆゑ、みゆる事、なし。せめて願ふ事のわりなきまゝ、かくまでも見ゆる事ぞ。』

との給ひしに、解脫、猶、心をえずして歸り給ふに、ある時、房(ぼう)の庭に、夥敷(おびただしき)音のする事、有(あり)。

 解脫、ひそかに伺ひ見られければ、さまざまの鬼形(きぎやう)したる、えもいはぬものども、むらがり滿(みち)て、喰(くらひ)あひ、たゝかひあれど、其くるしみ、堪(たへ)がたく見へければ、ふしぎに思はれける時、香染(かうぞめ)の衣、著(き)たる僧、忽然と現じて、

『彼(か)のものどもは前生(ぜんしやう)に、皆、僧也(なり)しが、心施の心なくして、徒(いたづら)に一生を過(すご)しけるゆゑ、今、かく、魔界の身と成(なり)て、苦しみを受(うく)る事ぞ。』

と告(つげ)給ふ。上人、

『さるにても、信施の心持は、いかなる事に侍るにや。』

と問(とひ)給ふに、又、僧、答(こたへ)ての給ふやう、

『信施の志(こころざし)とは、深く衆生を哀みて、濟度の心、有(ある)を、いふ也。たとへ、今、身は淸淨眞如に、寶珠のごとく、みがきたりとも、信施の心なくては、甲斐なし。上人も、さるが爲に、遠からずして、彼等が眷屬にしたがひて、かくの如く、無量の苦しみを受(うく)べきぞ。』

と告(つげ)給ひて、又、かきけちて、此僧、見へず。

 上人、是より、深く慚愧して、常に化益(けやく)の心、深くおはしければ、後々は、明神、正しく拜まれ給ふ、といふ事、あり。

 此事、經說にもありや、搜しくるに、「一切經」の中に十三所まで見へたり。信施は菩提心の一大事成(なる)由、記し有(あり)。」

と、いはれける。

 又、和尙、申されしは、

「我酒を呑(のみ)、五辛をくらへども、心智の戒をたもてば、戒を破らず、たとひ二百五十戒をたもつとも、心智の戒なくては、いたづら事也。」

[やぶちゃん注:本篇は「卷之十一」の冒頭の中で、初めて興味深く読んだ。

「解脫上人」鎌倉前期の法相宗の僧貞慶(じょうけい 久寿二(一一五五)年~建暦三(一二一三)年)の勅諡号。祖父は藤原南家の藤原通憲(信西)、父は藤原貞憲。釈迦如来・弥勒菩薩・観音菩薩・春日明神を深く信仰し、戒律の復興に努め、法相教学の確立に大きな役割を果たした。その一方で、朝廷の信任も厚く、勧進僧と力を合わせ、由緒ある寺社の復興にも大きく貢献した、と当該ウィキにある。

「明惠上人」私はブログで「栂尾明恵上人伝記」電子化注を終えており、「明恵上人夢記」の電子化注を進行中である。御存知ない方は、当該ウィキを見られたい。

「五辛」当該ウィキによれば、『五つの辛味ある野菜のこと。五葷ともいう。酒と肉にならんで、仏教徒では禁食されている食べ物である。具体的には韮(にら)、葱(長ねぎ、玉ねぎ)、蒜(にんにく)、薤(らっきょう)、生姜(しょうが)のことである』。「楞厳経」(しゅげんきょう)の『巻八に、この五種の辛味を熟して食すと』、『淫が』、『めばえ、生で食すと』、『怒りが増し、十方の天仙は』、『この臭みを嫌い、離れてゆく』(此五種之辛、熟食發淫、生啖增恚、十方天仙嫌其臭穢、咸皆遠離)』『とある』。『もともとはインドのバラモンで禁忌とされていた。道教でも』、『同様に心が落ち着かず修行の邪魔になるとされ、食べないほうが良いとされている』。『地域や時代によっては』、『生姜が五辛に含まれなかったりすることがあり、生姜の代わりに香菜(コリアンダー)が含まれたり、長ねぎと玉ねぎを分けて、五辛にするなど経典や場所によって違いがある』とある。]

譚海 卷之十一 白隱和尙一切經七度窺れし事

[やぶちゃん注:「窺れし」は「みられし」と訓じておく。]

 

○白隱和尙の博學は雙(ならぶ)もの、なし。

 「一切經(いつさいぎやう)」を、七度(しちたび)、見られける、とぞ。

 參詣の人、何(いかなる)宗門によらず、參りて敎(をしへ)を乞ふ時、卽(すなはち)、其人の宗旨によりて、經中(きやうちゆう)の疑問を發せらる。眞言宗のものには、「大日經」の中(うち)の語を以て問(とひ)を擧(あげ)、淨土宗の人には、「三部經」の中の事を、難則(なんそく)にせられける。

 皆、不用意に出(いださる)る所也。

[やぶちゃん注:「三部經」「淨土三部經」。大乗仏教の経である「佛說無量壽經」・「佛說觀無量壽經」・「佛說阿彌陀經」の三経典を合せた総称。法然を宗祖とする浄土宗・西山浄土宗、親鸞を宗祖とする浄土真宗(この二宗は現在の日本では最も信者人口が多い)に於いては、これらを根本経典としている。

「難則」難しい問い糺し。

「不用意」問うた人が、全く、あらかじめ想定していなかった法問。]

譚海 卷之十一 如法衣の事

○如法衣(によほふえ)といふは麻絲にて織(おり)たる衣にて、梅の樹を煎(せん)し[やぶちゃん注:ママ。]出(いだ)して、其汁にて染(そめ)たるもの也。「もくらん」といふは、則(すなはち)、是をいふ也。本色(ほんいろ)の物は、河内の法花寺といふ尼寺より、製し出(いだ)すを上品とす。製し出す工力(こうりよく)、一年ばかりのひまを費(ついやす)事也。

[やぶちゃん注:「如法衣」一般には正式なものは「七条袈裟の如法衣」を指す。「古来より仏の法に従ったもの」という意味合いがある。「仏の法」とは「仏の教えに従った物を作り、身に付けなければならないという考え方」を指す。

「もくらん」「木蘭色(もくらんじき)」。染め色の名。赤みのある灰黄色。「きつるばみ」「こうぞめ」とも呼ぶ。参照した小学館「デジタル大辞泉」に色画像が載る。]

譚海 卷之十一 白隱和尙の事

○白隱和尙上京の時、女院(にようゐん)、御所の御招待にて、院參あり。

 其時、女院の御裝束、紫縮緬の御衣(みころも)に、緋縮緬の袈裟にてましましけるを、和尙、拜し奉りて、

「出離を求(もとむ)るものは、ケ樣成(かやうなる)御裝束にては、あるまじき。」

よし、申(まふし)上られしにより、後々は如法衣(によほふえ)にかへて入らせ給ふ。

「殊勝なる御事成(なり)。」

とぞ。

 和尙、一度、院參ありて、度々、召(めさ)れん事を、うるさく思はれ、心宗(しんしゆう)のむね[やぶちゃん注:仏心を悟ることを教えること。]を一卷にしなし、「鬼あざみ」と號して奉られける。

 又、一說には、

「此法(ほふ)、語、あまり、かどめきたるさまの書なりしゆゑ、「鬼あざみ」とは、院中にて、名付(なづけ)させ給ふ。」

とも、いへり。

 和尙、遷化の後(のち)、此ゆゑによりて、「獨妙禪師」と諡號(しがう)を賜りける、とぞ。

[やぶちゃん注:「女院」思うに後桜町天皇であろう。現在の皇室史における最後の女性天皇であり、在位九年の後、明和七年十一月(一七七一年一月)、甥であった後桃園天皇に譲位して太上天皇(院)となっている。但し、白隠は明和五年に遷化しているから、彼が逢った時は彼女は現役の天皇であった。筆者津村が、かく後に語るに際し、「女院」と称したに過ぎない。

「獨妙禪師」正しくは「神機獨妙禪師」。]

譚海 卷之十一 十句觀音經の事

○「觀世音。南無佛。與佛有因。與佛有緣。佛法僧緣。常樂我淨。朝念觀世音。暮念觀世音。念々從心起。念々不離心。」と云(いふ)文は、元來、京都山科にある僧の傳へたる事也。

 此僧の伯父、京都にありけるが、重病、大事に成(なり)、旦夕(たんせき)に迫(せま)りしかば、

「見舞に行(ゆか)ん。」

とて、山科より京へ趣く道にて、ある茶店に休(やすみ)たるに、眠(ねむり)を、もよほして、暫く、まどろみたる内に、天滿宮、託宣あり。

「汝が伯父、定業(ぢやうごふ)の死、いまだ至らず。此文を唱へ念ぜば、平癒すべし。」

とて、再遍、をしへさせ給ふ。

 僧、夢さめて誦(じゆ)し見るに、能(よく)覺へたれば、頓(やが)て、伯父の許(もと)ヘ行(ゆき)て、示現(じげん)の次第を語り、諸(もろ)ともに、朝夕(あさゆふ)、となへ、念ぜしかば、病氣、平癒せり。

 此事、洛中に傳聞(つたへきき)て、專ら、當時、諸人、唱ふる事也。

 其比、白隱和尙、在京にて、此文を聞(きき)て、試(こころみ)に「一切經」を捜されければ、「皓王觀音經」といふ中に、この文、有(あり)。和尙、感嘆して、弟子にも傳へ誦(となへ)られける。

 和尙、此文をば、「十句觀音經」と名付(なづけ)て弘(ひろめ)られける。

 其後、他國にも弘(ひろま)りて、所々にて、唱ふ人、おほし。

 そもそも、天滿宮は、天台圓頓戒の守護神にましませば、かたがた、かゝる奇特も、ある事、むべなるにこそ。

[やぶちゃん注:「十句觀音經」(現代仮名遣:じっくかんのんぎょう)当該ウィキによれば、「大正新脩大蔵経」には『収録されていない偽経であるが、日本では』「延命十句観音経」『という経名で信徒向けの日課経本に掲載されることが多く』、『原田祖岳』(明治四(一八七一)年~昭和三六(一九六一)年:曹洞宗の僧。臨済宗の禅も兼修したことで知られる)も「延命十句觀音經講話」(原田祖岳著・正信同愛會『同愛叢書』第六輯昭和七(一九三二)年刊。以下は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像を視認して起こした)『大乘極致の信仰も哲理も實行法も完全に具つて居るといふ、大變結構なお經文』とし、『僅か』四十二『文字の最も短い経典として知られている』。『江戸時代に』経名に『「延命」の』二『字を付加し、弘通させたのは臨済宗中興の祖といわれる白隠である』とある。

「皓王觀音經」正しくは「仏說高王觀世音經」。当該ウィキによれば、『中国で撰述された偽経』で、『東魏の丞相高歓に因む応験が経名の由来とされる。霊験説話によって』、中国の『南北朝時代以降、庶民の観音信仰に大きな影響を与えた』。「大正新脩大蔵経」では『疑似部に収められている。この経を一千遍誦滿すれば重罪は消滅すると説く』とある。

「天台圓頓戒」古くは「圓戒」。天台宗で行われる大乗菩薩の守る戒で、法華によって組織された天台円教の理念と「梵網経」などによる菩薩戒(三聚(さんじゅ)浄戒)との結合によって立てられた戒で、これを受けるときは、既に成仏が約束され、これを犯すことがあっても、受けることによって得た止悪修善の原動力である戒体は失われない等と説く(平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。]

2024/03/12

譚海 卷之十一 永平寺開山道元禪師白山權現と和歌贈答の事

[やぶちゃん注:最後の【 】は底本では二行割注。]

 

○道元禪師、白山へ參詣有(あり)し時、紅葉(もみぢ)の最中(さいちゆう)成(なり)しかば、社頭にて、

「白山、何としてか、紅葉。」

と、いはれしとき、權現、形をあらはし給ひて、

「しら露のおのがすがたを其儘に

   もみぢにおけばくれないの玉」

と示し給ふ、とぞ【此歌、「一休和尙の歌。」といふ說あり。「おのか心」と有(あり)。】。

[やぶちゃん注:「おのか心」「おのが心」で前書であろう。しかし、調べたところでは、これは撰者不詳の「道歌百人一首麓技折」(天保四(一八三三)年冬刊)によれば、室町中期の臨済宗の歌僧正徹書記の一首で、

    眞如有緣(うえん)の心を

 白露のおのが姿をそのままに

     もみづに置けば紅の玉

と載る。]

譚海 卷之十一 鎌倉建長寺梶原施餓鬼會の事

○鎌倉、建長寺にも、「梶原施餓鬼」と云(いふ)法事、每年、行ふ事也。

 是も梶原平三(へいざう)景時の靈、往時、建長寺の和尙に解脫を乞(こひ)しより、此事、今に、絕(たえ)ず有(あり)と、いふ。

[やぶちゃん注:私のサイト版「新編鎌倉志卷之三」の「○建長寺」の項の「山門」の条に(古い電子化なので、正字不全を正して引用した)、『額は、建長興國禪寺、二行に書す。宋ノ子曇が筆なり。山門の樓上に十六羅漢(ラカン)あり。いつの時か紛失して、今八體あり。又此門下にて、七月十五日に、梶原施餓鬼(カジハラセガキ)と云を行ふ。相傳ふ、昔し開山』(宋の大覺禪師蘭溪道隆)『在世の時に、武者一騎來て、施餓鬼會の終りたるを見て、後悔(コウクハイ)の色有て歸る。時に禪師これを見て、呼(ヨビ)かへさせて、又施餓鬼會を設(モフ)けて聽(キ)かしむ。時に彼武者、我は梶原景時(カヂハラカゲトキ)が靈なりといひて謝(シヤ)し去る。爾(シカ)しより以來、此寺には每年七月、施餓鬼の會終て後(ノチ)、梶原施餓鬼と云を設るなり。心経を梵音(ボンヲン[やぶちゃん注:ママ。])にて、二三人にて誦(ヨ)む。餘(ヨ)の大衆は無言にて行道するなり。是を此寺にて梵語心經と云なり。』とある。]

譚海 卷之十一 江戶神田明神平將門の靈なる事

○江戶神田明神は、正しく平將軍將門の靈を祭る社(やしろ)也。

 淺草、日輪寺は遊行派(ゆぎやうは)也。

 其寺に、將門の石塔、有(あり)て、寺庫(てらのくら)に收め有(あり)。

 法名は「貴阿彌陀」といふ也。

「是は、そのかみ、將門の靈、其阿(きあ)上人[やぶちゃん注:「他阿上人」とも表記するようである。]の許(もと)に行向(ゆきむか)ひ、解脫を願ひし時、上人、弟子に被ㇾ成(なられ)、法名つけてとぶらはれし故(ゆゑ)。」

と、いへり。

「さるがゆゑに、神田明神社頭の鍵(かぎ)は日輪寺にありて、九月祭禮の前日には、五日輪寺の僧、明神へ參りて、「あみだ經」讀誦して、厨子の鍵を明(あけ)て、祭禮を行ふ事也。しからざれば、神輿(しんよ)、あへて出(いづ)る事、なし。」

と、いへり。

 此事、俊鳳(しゆんほう)和尙といふ人の物語り也。俊鳳和尙は淨家の人にして、禪學の旨をも、ふかく、えられし故、日輪寺の招待にて禪法を說(とか)れし故、時々、遊行上人にも、出府の時は、對面ありて、講談に及びし也。

 元來、遊行派の宗意(しふい)は禪法より出(いで)て、念佛を修(しゆ)する事ゆゑ、禪宗の旨を會得せれば、宗旨の立意、明らめがたき事也。

 此俊鳳に就て、白隱和尙の會下(ゑか)の僧俗、多く悟入を得たる者、有(あり)。

 白隱和尙は、「禪宗の智識」と稱する人なれど、不辯(ふべん)にて、人を說得する事、ならぬ人故(ゆゑ)、未底(みてい)の者は、俊鳳の示教(しきやう)によりて發明せし事也。

[やぶちゃん注:「淺草、日輪寺」東京都台東区西浅草にある時宗神田山日輪寺(グーグル・マップ・データ)。将門の霊が神田明神に祀られた経緯は、サイド・パネルの同寺の説明版の写真を見られたい。

「未底の者」見たことがない熟語だが、時宗の真底にあるところ禅宗との通底するところの宗派の真意を弁えていない者の意であろう。]

譚海 卷之十一 增上寺二世上人火車來現の事

○增上寺二世上人は、正しく火車(くわしや)の來現(らいげん)を得て、往生を大衆に示し給ふ人也。

 夫(それ)より、增上寺には、火車の論に及(およぶ)事なし。上人、火車に乘(のり)て、西方に飛行(とびゆか)れし時、辭世の歌に、

  火宅をばまたもや出(いで)む小車(おぐるま)に

         乘(のり)得てみればわがあらばこそ

[やぶちゃん注:「增上寺二世上人」室町時代の聡譽酉仰(ゆうこう 応永二五(一四一八)年~長禄三(一四五九)年)。永享一一(一四三九)年に増上寺二世となっている。「深義集」を講義するなど、教学に通じた。下総出身。俗姓は千葉。号は明蓮社聡誉。編著に「五重口伝抄」などがある。

「火車」この場合は、妖怪や怪奇現象、及び、妖怪としてのそれではないようである。後者の「火車」なら、私の怪奇談に数えるに遑がないほどあるが(新しいのものでは『柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「火車」』を見られたい)、西方浄土へ向かう「火車」というのは、私は、聴いたことがないだが?

譚海 卷之十一 深川靈嚴寺住持忍海上人の事

○靈嚴寺(れいがんじ)住持、忍海上人へ謁して、度々、淨土門のことを論じける頃、上人、禪宗の旨は、徹底なかりしにや、ある時の物語に、

「祟(たたり)の人は、妄念を消滅して、悟入せんとすれども、妄念を拂ひ盡(つく)さん、成(なり)がたき、わざなり。」

と、いはれしかば、

「其時、『まよひぬる心の外(ほか)に道も、なし。』と、其まゝに、念佛して、ゆけ。」

と申せしかば、承伏せられける。

[やぶちゃん注:「靈嚴寺」浄土宗道本山東海院霊厳寺。当時と現在では位置は同じで、ここ当該ウィキによれば、寛永元(一六二四)年、『雄誉霊巌上人の開山により、日本橋付近の芦原を埋め立てた霊巌島(現在の東京都中央区新川)』(ここ)『に創建された。数年後に檀林が設置され、関東十八檀林の一つとなった』。しかし、明暦三(一六五七)年一月十八日から二十日にかけて、『江戸の大半を焼失した』「明暦の大火」に『より』、『霊巌寺も延焼』し、『境内や周辺で』一『万人近くの避難民が犠牲になったという』。而して、翌『万治元』(一六五八)年、『徳川幕府の火事対策を重視した都市改造計画の一環として、現在地に移転した』とある。

「忍海上人」不詳。]

譚海 卷之十一 渭圭法印悉曇字の事

[やぶちゃん注:主人公は前話に続く形である。]

 

○眞福寺住持、渭圭法印は、悉曇(しつたん)の學に、無雙の人也。

 ある時、刀の銘に「※州」[やぶちゃん注:「※」=「亡」の第一画を除去した中に「米」の字体。]と書(かき)たる物、出(いで)たり。

 持(もち)たる人、子細を辨(わきま)へかねて、林家(りんけ)をはじめ、諸方の儒林(じゆりん)へ尋糺(たづねただ)しけれども、更に、よみ得たる人、なし。

 渭圭法印に尋しかば、

「『播州』と、よみたり。「康煕字典」に「※」の字、出(いで)て、「はん」と聲(せい)あるに同じ事也。是は、悉曇には左點の文字を右點に書(かく)事、ある。よりて、此法を以て讀(よみ)たる事也。」

 果して、播州に違(たが)はざりければ、諸方の學者、感嘆して、

「悉曇の智識也。」

と沙汰せり。

 湯島靈雲寺にある修事(しゆじ)の次第、梵文をも、あやまりを駁(ばく)し、改(あらため)たる程の人也。

 自ら、

「悉曇學(しつたんがく)は、我にて絕(たえ)べし。傳へ學べき人、なし。」

と當(まさ)に嘆息せられし、とぞ。

[やぶちゃん注:「悉曇の學」(現代仮名遣「しったんのがく」)は小学館「日本大百科全書」によれば、『日本に伝来した梵語(サンスクリット)についての学問』、及び、『それに用いられた文字のこと』をも指す。『悉曇Siddhamという名称は、梵語の音を表にしたもの(字母表という)の頭初に、nama sarvajñāya siddhamと書いて、その字母表の成立を祝福する習慣があったことから出たとされる。梵語字母表は』、勿論、『インドで作成され、子供の学習に用いられたものであるが、中国では南北朝時代に』、「涅槃経」の「文字品(ぼん)」『の解釈に伴って』、『盛んに研究されるようになった。唐代には語学としても研究され、智広』の「悉曇字記」は『ことに発音に詳しい。唐代中期以後、密教が盛んとなるにつれ、音声神秘観が重視されて、梵語のままに唱える真言・陀羅尼が盛行した。その教風・教義が平安初期に日本に渡来し、密教の隆盛とともに悉曇の学も勃興した。入唐八家(にっとうはっけ)(最澄、空海、常暁、円行、円仁、恵運、円珍、宗叡(しゅうえい))は』、『いずれも悉曇に関係はあったようであるが、なかでも空海は』、『真言宗の悉曇、円仁は天台宗の悉曇の祖となった。これらの時代の悉曇を集大成したのが安然(あんねん)の』「悉曇蔵」で『ある。その後、真言・天台の各宗各派において』、『その学は継承され、院政時代の天台の学僧明覚によってさらに音声学的に研究され』、次第に『中国語学と一体となって韻学というべきものが形成されるようになった。ここから国語研究の機運がおきたのである。明治以後は西欧の梵語学と交替するが、日本における語学研究の基礎を開いた功は大としなければならず、現代のサンスクリット語学でも、古代に東方へ伝播したこの学の存在を無視することはできない』とある。

「※」(「※」=「亡」の第一画を除去した中に「米」の字体)中文サイトのこちらの「播」に、「𠤻」として「異體字圖譜」の中に見出せた。]

譚海 卷之十一 愛宕下眞福寺渭圭法印の事 附多岐尼天修法祕書の事

○叔父、「あたご」の下、眞福寺(しんぷくじ)、渭圭(いけい)法印の弟子にて、法印入滅の後(のち)、其著述の書籍を、悉(ことごとく)、語り受(うけ)て所特せり。

 叔父故宅の名主に、馬込勘解由(まごめかげゆ)といふ者有(あり)。ある大名へ用金を借置(かしおき)て、返濟なく、莫大に滯(とどこほり)し故(ゆゑ)、迷惑に及び、「多伎尼天(だきにてん)の法」を修