譚海 卷之十一 關流劔幷柔術の事
譚海 卷之十一 關流劔幷柔術の事
○「關流」と云(いふ)劍術は、表六本にて、四十八本に成(なる)也。
叔父、壯年の時、習(ならひ)たる流(りう)也。「やはら」をば、「腰まはり」と云(いふ)流(りう)なり。柔術は、明曆の比、支那より王道元と云(いふ)人、來りて、長崎にて敎(をしへ)しより弘(ひろま)りたる事にて、其已前、「やはら」と云(いふ)事は、本朝にては、しらざる事也。
[やぶちゃん注:「關流」関口新心流のことか。江戸初期に関口氏心(せきぐちうじむね)が開いた柔術流派で、柔術という語の嚆矢であるとされる。柔術と併せて、剣術・居合術も伝承し、この三術で一武術体系を築いた流派で、幕末まで紀州徳川家御流儀の一つであった。詳しくは参照した当該ウィキを見られたい。
「明曆」一六五五年から一六五八年まで徳川家光の治世。
「王道元」小学館「日本大百科全書」の「柔術」の解説に、『近世柔術流派の形成期に、中国医学による経絡原理や拳法の技法が明人陳元贇(ちんげんぴん)(江戸)や王道元(おうどうげん)(長崎)』(☜)『らによって、わが国に紹介され、秋山四郎左衛門義時の楊心流など諸流に当身(あてみ)の術、殺活の法として取り入れられた。やがて元禄』『前後には、各藩それぞれ独自の柔術が採用され、関口流から分かれた渋川伴五郎義方の渋川流や、吉岡流から独立した江畑杢右衛門満真の為我流が有名となった』とある。]

