譚海 卷之十二 淺草萱寺上人の事
[やぶちゃん注:標題の「萱寺」(かやでら)と、本文内の「榧寺」(かやでら)の表記違いはママ。後者が正しい。東京都台東区蔵前にある浄土宗池中山盈満院榧寺(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキ他によれば、慶長四(一五九九)年、『普光観智国師によって開山された。元々は「池中山盈満院正覚寺」という名称であったが、境内に榧の木』(裸子植物門マツ綱マツ目イチイ科カヤ属カヤ Torreya nucifera )『が茂っており、火災から寺を守ったという逸話から、江戸時代より「榧寺(かやでら)」と呼ばれていた』、昭和二七(一九五二)年には、末寺の山谷町宗念寺と合併した際、『正式名称も「榧寺」となった』とある。]
○又、享保の末、淺草榧寺に住持ありし上人、道德の御方(おかた)にて、諸人、歸依致(いたし)、十念授(さづか)り、「きとく」もおほく聞えけるが、伊勢の國の人にて、病氣にふし、既に本服心もとなく聞えし時、上人の在所より、姪・甥・伯父など、親類同道して、江戶へ參り、榧寺(かやでら)へ參りたり。侍者、
「上人の在所の親類、參りたる。」
よし、申(まうし)ければ、病床ながら、對面ありて、上人申されけるは、
「何ゆゑ、ケ樣に大勢一同に下向致したる事ぞや。定(さだめ)て、われら、重病に至りたるを聞(きき)て、我に金子・形見など貰はむ爲に來(きた)るなるべし。成(なる)ほど、我も、年來、此寺に住持し、歸依の人も、あまたあれば、財寶、なきにあらず。白無垢の小袖あたらしきほど成(なる)をも、四十二、三は持(もち)てあり。されども、是等の物、ひとつも、其方達につかはすべきことに、あらず。出家の財寶は、出家に讓るべきわけありて、それぞれ、定(さだめ)ある事なり。たとひ、まげて、此内(このうち)、ひとつなりとも、其方達へ、つかはし申事あれば、善根には、ならず。却(かへつ)て、地ごくの種をまかすることなり。最早、逢(あひ)たれば、今生(こんじやう)の暇乞(いとまごひ)は相濟(あひすみ)たり。用も、なし。早々、罷歸(まかりかへ)り候樣に。」
と申され、追(おひ)かへされたり、とぞ。
殊勝なる事なり。
[やぶちゃん注:文末に編者割注があり、『(別本缺)』とある。
「享保の末」享保は二一(一七三六)年まで。]