譚海 卷之十 勢州壬生の山中巖洞の事
[やぶちゃん注:「壬生」は本文の「丹生(にう/にゆう)」(にう/にゅう)が正しい。三重県多気(たき)郡多気町の一地区(旧勢和村の中心集落)であった旧丹生村(現在の三重県多気町丹生(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。古く飛鳥時代から水銀・辰砂(硫化水銀からなる鉱物)の産地として知られ(「続日本紀」)、江戸期まで続いた。仏像の鍍金(メッキ)・建造物の朱塗りに使われ、建久六(一一九五)年の東大寺再建に丹生水銀二万両が献納されている(「東大寺造立供養記」)。江戸時代には伊勢白粉(いせおしろい)の原料として松坂商人を育てた。神宮寺(丹生大師)に当時の採掘用具などが保存されている(主文は小学館「日本大百科全書」を参考にした)。但し、その指示するものは、自然の洞窟ではなく、「水銀坑跡」であり、公開されている坑の写真を、複数、ネットで見たが、鍾乳洞等でもない。]
○勢州丹生の山中に巖洞(いわやどう)ありて、奧へ入(い)る事、よほど、はるかにて、大成(おほいなる)穴、有(あり)、石鍾乳、はなはだ、おほく生(しやう)ず。
「昔、水銀をほりたる穴のよし。」
いひ傳へたり。
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