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2024/03/06

譚海 卷之十 大坂燒亡の時京都の者夫婦燒死の事

○天明申年、京都大火のせつ、ある夫婦、類燒にあひ、大坂へ、にげくだり居(をり)たるが、夫(をつと)は類燒のせつより、怪我をして腰たゝず、妻は、髮ゆひなどして、とかく、夫婦、くらしける所に、寬政四年夏、大坂、又、大火にて、既に、火、ちかく、やけ來りければ、其妻、夫をすゝめ、

「負(おひ)て、立(たち)のかん。」

と、いひけるを、夫、申(まふし)けるは、

「京都、出火のせつ、こしぬけに成(なり)、やうやく、是まで、その方(はう)、介抱にて、ながらへぬれども、もはや、此體(てい)にては、生(いき)たるかひなし。殊に又、類燒に逢(あひ)ては、乞食する外なければ、『所詮、是のまゝに、燒(やけ)しなばや。』と、おもふ。その方は、いかにもして、のがれ、身を、たもつて、いかなる業(なりはひ)をもなして、ながらへよ。」

と云(いふ)。

 妻、聞(きき)て、

「それは埒もなき心入(こころいれ)なり。たとへ、此うへ、いかやうなるなんぎをなし侍るとも、何か、それを、いとひはべるべき。わが身あるかぎりは、ひとつにありて、せわいたし、なんぎはかけ申(まふす)まじ。ひらに、立(たち)のき給へ。」

と、とかく、いひこしらふるうちに、火、はや、鄰家へ燒來(やけきた)り、家主も來て、

「などて、立のき給はざるや。」

と云(いふ)。夫婦の口舌(くぜつ)[やぶちゃん注:言い争い。]を聞(きき)て、

「それ、あるまじき以の外の了簡なり。」

と、異見しけれども、聞入(ききいれ)ぬうちに、火、其家に、やけうつりければ、家主は、見すてて、にげ去(さり)ぬ。

 此妻、

「さほど、おもひつめ給ふ事ならば。」

などて、

「一人、燒(やけ)給ふを見捨(みすて)侍るべき。われも、ともに、こそ。」

とて、夫婦、にげさらずして、終(つひ)に、燒死(やけしに)たる、とぞ。

 いと、あはれなる事なり。

[やぶちゃん注:「天明申年、京都大火」天明八年一月三十日(一七八八年三月七日)に京都で発生した「天明の大火」。出火場所の名をとって「団栗焼(どんぐりや)け」、「都焼(みやこや)け」などとも称する。ウィキの「天明の大火」によれば、『京都で発生した史上最大規模の火災で、御所・二条城・京都所司代などの要所を軒並み焼失したほか、当時の京都市街の』八『割以上が灰燼に帰した。被害は京都を焼け野原にした応仁の乱の戦火による焼亡をさらに上回るものとなり、その後の京都の経済にも深刻な打撃を与えた』。同日『未明、鴨川東側の宮川町団栗辻子(現在の京都市東山区宮川筋付近)の町家から出火。空き家への放火だったという。折からの強風に煽られて瞬く間に南は五条通にまで達し、更に火の粉が鴨川対岸の寺町通に燃え移って洛中に延焼した。その日の夕方には二条城本丸が炎上し、続いて洛中北部の御所にも燃え移った。最終的な鎮火は発生から』二日後の二月二日早朝にまでずれ込んだ。『この火災で東は河原町・木屋町・大和大路まで、北は上御霊神社・鞍馬口通・今宮御旅所まで、西は智恵光院通・大宮通・千本通まで、南は東本願寺・西本願寺・六条通まで達し、御所・二条城のみならず、仙洞御所・京都所司代屋敷・東西両奉行所・摂関家の邸宅も焼失した。幕府公式の「罹災記録」(京都町代を務めた古久保家の記録)によれば、京都市中』千九百六十七町の内、焼失町数千四百二十四町、焼失家屋数は三万六千七百九十七に及び、焼失世帯六万五千三百四十戸、焼失寺院二百一寺、焼失神社三十七、死者は百五十名であったという。但し、『死者に関しては公式記録の値引きが疑われ、実際の死者は』千八百名は『あったとする説もある』。『この大火に江戸幕府も衝撃を受け、急遽老中松平定信を京都に派遣して朝廷と善後策を協議した。また、この直後に裏松固禅の『大内裏図考證』が完成し、その研究に基づいて古式に則った御所が再建されることになるが、これは財政難と』「天明の大飢饉」に『おける民衆の苦しみを理由にかつてのような壮麗な御所は建てられないとする松平定信の反対論を押し切ったものであり、憤慨した定信は京都所司代や京都町奉行に対して朝廷の新規の要求には応じてはならないと指示して』おり、また、『朝廷の動向が世間の注目を集めるようになり、尊号一件』(寛政元 (一七八九)年に光格天皇が父典仁(すけひと)親王に太上(だいじょう)天皇の尊号を贈りたい旨、江戸幕府に希望した際、老中松平定信が皇統を継がない者で尊号を受けるのは皇位を私(わたくし)するもの、として拒否した一連の事件)『などの紛争の遠因となった』とある。因みに、この「尊号一件」の後処理(同時期に第十一代将軍徳川家斉が実父一橋治済(はるさだ:吉宗の孫)に対して「大御所」の尊号を贈ろうとしていていたが、定信はこの事件で朝廷の尊号賦与を拒否した手前、この要請に対しても同様に拒否をせざるを得なくなった。これは実は定信が御三卿の一人として将軍位を狙える立場にあったところを、治済が白河藩へ放逐した政敵であったこと、治済が大御所として権力を掌握することに危機感を抱いていたことに起因し、定信としては、本末転倒乍ら、一橋治済の大御所就任を阻止するためにも典仁親王の上皇就任を拒否せねばならなかったものともされる。しかし、これによって定信は家斉の不興を買うこととなり、寛政五(一七九三)年七月二十三日に失脚している。

「寬政四年夏、大坂」「大火」寛政年中には、大坂は、三度、大火に襲われている。寛政元(一七八九) 年十二月二十二日の「東横堀焼(寛政東の大火)」と、寛政三(一七九一) 年十月九日の「堀江・嶋之内焼(寛政南の大火)」、寛政四(一七九二)年五月十七日の「北船場天満焼(寛政北の大火)」があるが、「夏」となると、最後のものとなる。百十五町が被害を一万軒以上が焼失し、大阪天満宮も焼けている。]

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