譚海 卷之十一 能裝束蜀江錦の事
○「檜垣(ひがき)」の能には、「蜀江(しよくかう)の錦(にしき)」を用(もちひ)ることの由。金入(きんいり)には、あらで、「もつかう」のやうなる、形ある物也。
上(かみ)の御物(ぎよぶつ)古く成(なり)て、「檜垣」の能、仰付(おほせつけ)られても、御用に立(たた)ざる由、觀世左近、たびたび、大岡出雲守殿へ、申出(まうしいで)られければ、
「仰出(おほせいだ)さるべき。」
よしにて、其事、果(はた)さでありしに、田沼主殿頭(とのものかみ)殿、執政の時、觀世太夫、又、申上ければ、早達(そくたつ)、仰出され、二年目にて、調ひ奉りし故、御能、興行ありし、とぞ。
今、「渡りの蜀江」は、古きにくらべては、殊に麁相(そさう)成(なる)、よし。
もろこしも、古(いにしへ)と今(いま)とは、物の精工成(なる)事、劣りたると、見えたり。
[やぶちゃん注:「蜀江錦」「文庫屋大関」公式サイトの「蜀江―しょっこう―」に『八角形と四角形を組み合わせた文様を、蜀江文様といいます。 蜀江とは中国の蜀』『の首都を流れる河のことで、この地域で、古くから良質の絹織物を産出し、その折柄の文様が八角形と四角形を組み合わせた物が多数あったことから、蜀江の名をつけたものです。 その八角形と四角形の中に唐花や器物などの文様を織り込んだものが能装束・茶器の至覆・書画の表装など名物裂として数多く残されています』とあって、その『幾何学文様』のタイプを色付け画像で視認出来る。
『「檜垣」の能』複式夢幻能の曲名。三番目物。五流、現行曲。但し、金春流は復曲(昭和四五(一九七〇)年)。世阿弥作の老女物で、幽玄の美を最高目標とした世阿弥作として確認される三番目物は、この「檜垣」と「井筒」だけであるのも注目される。「関寺小町」・「姨捨」とともに「三老女」物とよばれ、最奥の能として扱われる。肥後国岩戸(いわど)山の僧(ワキ)のもとに、毎日、水を捧げる老女(前シテ)があった。僧が名を尋ねると、「後撰集」の「年經ればわが黑髮も白川(しらかは)のみづはくむまで老いにけるかな」は自分の歌であると言い、白拍子であった過去を語り、回向を願って消える。白川のほとりに出向いた僧の前に、檜垣の庵から老女の霊(後シテ)が現われ、「美しい舞姫の、奢りの生活であったが故に、地獄で永遠に業火の水をくまねばならぬ苦しみ」を述べ、昔を懺悔(さんげ)する。藤原興範(おきのり)に水を所望されて歌を詠んだこと、老いの身を嘆きつつも、白拍子の昔を偲び、舞を舞った思い出を再現し、成仏を願って、終わる。金剛流の台本は、成仏を果たした結末になっている。華やかな過去を老いた時点から回想し、その生の時間を、さらに地獄から眺めるという、謂わば、二重の回想形式をとり、女と老いの深い世界を描く、能の名作である(以上は主文を小学館「日本大百科全書」の増田正造先生のそれに拠った)。
「もつかう」「木瓜(もくかう/もつかう)」で紋の名。鳥の巣が卵を包んでいるように見える図柄。又、瓜(うり)を輪切りにした形を図案化したものともされる。すだれの帽額 (もこう:御簾や御帳(みちょう)の懸け際を飾るために、上長押(うわなげし)に沿って横に引き回した布帛(ふはく)を言う。水引幕の類。「額隠 (ひたいかく)し」とも言う) に多く用いたところから称し、「木瓜」と当てて書く。「窠紋(かもん)」「もこう」とも呼ぶ。参照した小学館「デジタル大辞泉」で紋が視認出来る。
「觀世左近」観世元章(もとあきら 享保七(一七二二)年~安永二(一七七四)年)。
「大岡出雲守」旗本・大名であった大岡忠光(宝永六(一七〇九)年又は正徳二(一七一二)年~宝暦一〇(一七六〇)年)。江戸幕府の御側御用人、若年寄を務め、第九代将軍徳川家重の側近として活躍した。上総勝浦藩主・武蔵岩槻藩初代藩主。参照した当該ウィキによれば、『同時代に江戸南町奉行として活躍した大岡忠相(後に三河西大平藩主、いわゆる大岡越前)とは、ともに大岡忠吉の子孫に当たる関係(忠利が忠相のはとこにあたる)であり、個人的にも親交があった』とある。
「田沼主殿頭」田沼意次。天明六(一七八六)年、失脚。]
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