譚海 卷之十二 松平安藝守殿奥方の事
○松平安藝守樣奥方は、加賀守御妹(おんいもと)也。賢女にましまして、急度(きつと)したる事を好(このま)せ給ふゆゑ、召仕(めしつかふ)るゝ女房まで、御前に居(を)る時は、あしを、くつろがさず、腰をのして、
「しやん」
と、すはるやう成(なる)ものを、好せ給ふ。
安藝守樣、奧ヘ入(いら)せられ、奧方の御膝を枕にして休(やすま)せ給ふに、その御目覺(さめ)ぬ内は、時刻、移れども、少しも、ひざをうごかし給ふ事なく、ありし、と也。
此奥方、女子ばかり、八人まで出生(しゆつしやう)ありて、最末に、若殿、一人、まうけ給ふ。
夫(それ)より、儒者を召(めさ)れ、ときどき、學問・物よみを、せさせ給ふ。
『四十に成(なり)て、學問、いかゞ。』
と、人々、思ふべけれども、
『岩松殿、成人の後、「もろこし」の事など、とはるゝに、其こたへ出來ぬも、あまりなる事。』
とおもふより、はじめたる事と、仰られし。
[やぶちゃん注:「松平安藝守樣奥方」底本の竹内利美氏の後注に、『広島藩主浅野吉長の正室は、前田綱紀の女(養女)で、五代藩主吉徳の妹にあたる。彼女の生んだ若殿は宗恒で、享保二年生、幼名は岩松・仙次郎と称したが、岩松は前田家代々の幼名のようである。「寛政重修諸家譜」には、彼女所出の女子は三名しか記載されていない』とあった。]