譚海 卷之十一 澤庵・江月兩和尙蟄居の事
○臺德院殿、佛法にも立入(たちい)らせ給ひし事にて、諸宗の僧を集めて、「因果經」御論談、有(あり)。
事、終りて、衆僧(しゆそう)、皆、
「感心仕(つかまつる)。」
由、言上(ごんじやう)せしに、澤庵(たくあん)・江月(かうげつ)の兩僧計(ばかり)、
「「因果經」は、恐(おそれ)ながらケやう成(なる)義には、是(いれ)、なき。」
と言上せしかば、御氣色に、たがひて、兩僧、暫く御勘氣を蒙り、遠所に住居(すまひ)ありしと、いへり。
[やぶちゃん注:「臺德院」第二代将軍徳川秀忠の戒名。
「澤庵」(天正元(一五七三)年~正保二(一六四五)年)は「沢庵漬」で知られる江戸初期の臨済僧。諱は宗彭(そうほう)。但馬国の生まれ。堺の陽春寺、和泉の南宗寺などに歴住し、慶長一四(一六〇九)年、三十七歳で大徳寺一五三世の住持となったが、三日で退院、「寺院法度」や「紫衣(しえ)法度」を巡って幕府に抗弁し、寛永六(一六二九)年、出羽国上山(かみのやま)に流されたが、同九年、許されて京へ帰った。後水尾上皇、後に、三代将軍家光の帰依を受け、同十五年には、江戸品川に東海寺を開創した。
「江月」江戸前期の臨在僧江月宗玩(こうげつそうがん 天正二(一五七四)年~寛永二〇(一六四三)年)。和泉堺生まれで、茶人として知られる津田宗及(そうぎゅう)の子。春屋宗園(しゅんおくそうえん)の法を継ぎ、慶長一五(一六一〇)年、京都大徳寺、後、博多崇福寺などの住持となった。特に大徳寺の復興に努め、同寺内に孤篷庵などを開いた。茶道・書画・墨跡鑑定にも優れていた。「紫衣事件」に連座したが、彼一人のみ赦されている。号は欠伸子・赫々子など。諡号は大梁興宗禅師。]