譚海 卷之十一 高野山金光院の住持某の事
○高野山金光院(こんくわうゐん)の住持某は、「行人派(ぎやうにんかた)」の碩學也。
出府の節(せつ)、物がたりの次(ついで)、子どもの短命なることをうれへけるに、金光院、申されけるは、
「とかく短命なるも、同じ性をうけ、生れかはることなり。京都にて、ある人の子ども、いくたり出生(しゆつしやう)しても、皆、幼少にて、短命なりし事をなげきしまゝ、我等、入棺(にふくわん)の時に行(ゆき)て加持して、小兒の手に、「光明眞言」の文を書(かか)せ送葬せしに、その後、女房、懷姙して、出產せし子ども、手をひらきたれば、我等、書(かき)たる眞言、そのまゝにて、ありたれば、前年の子ども、又、生れかはりて來(きた)る事を兩親も、しりて、いよいよ、佛事信心に、いとなみける。此功力(くりき)にて、此度(このたび)の小兒は短命せず、生長したり。周緣は、のがれかたきものなり。」
と申されけり。
又、いふ。
「はい[やぶちゃん注:肺。労咳(肺結核)が主。]の煩ひは、世に『傳へ申(まうす)病(やまひ)』とて、其類(たぐゐ)を、ひきて、子孫に及ぶ物也。是も、百日にみたぬ病中(びやうちゆう)に加持すれば、治(ぢ)する法(ほふ)あり。」
とぞ【註。この條、別本、なし。】。
[やぶちゃん注:最後は割注。
「高野山金光院」ここ(グーグル・マップ・データ)。
「行人派」「高野三方」(こうやさんかた)の一派。高野山では、中古以来、一山の衆徒が三派に分かれた。「学侶方」(がくりょかた:専ら学道修行に努めた僧衆で先に出た覚鑁(かくばん)が学侶三十六人を定めたのが始まり)・「行人方」(ぎょうにんかた:夏衆・坊人・山伏・預(あずかり)・中方・堂衆(どうじゅ)・行人・公人(くにん)等の寺院や法会の雑役・俗事に従事した下級の僧が中心となったもの)・「聖方」(ひじりかた:同山に隠遁して念仏修行する僧。後に同山の大衆で、諸国を遍歴し、説法・行商などをした者の称。「高野聖」はそれ)の三派を指す。明治元(一八六八)年、この「三方」を廃して、「学侶方」の本拠であった青巖寺を金剛峯寺と改め、一山を統轄させるようになったものである(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。
「子どもの短命なることをうれへける」この言いは津村自身のプライベートが語られているとしか読めない。津村自身の事績はよく判っていないから、非常に珍しいことである。]