譚海 卷之十二 江戶六地藏の事
[やぶちゃん注:冒頭の「又」は、仏像建立譚と遠島の連関に拠る。]
○又、地藏坊と云(いふ)道心、年來の心願にて、銅佛に丈六の地藏尊、六體、勸化(かんげ)造立(ざうりふ)し、上へ御願申上(おんねがひまふしあげ)、千住・品川・板橋等、六ケ所の出口へ備へたりしが、其後、又、
「六地藏、建立致し度(たき)。」
よし、願申上ければ、
「不屆。」
成(なる)よし、御咎(おんとが)にて、遠島被二仰付一し、とぞ。
[やぶちゃん注:ウィキの「江戸六地蔵」によれば、『宝永から享保年間』(正徳を挟んで一七一六年から一七三六年まで)『にかけて江戸市中の』六『箇所に造立された銅造地蔵菩薩坐像で』、『江戸深川の地蔵坊正元が、宝永』三(一七〇六)年に『発願し』、『江戸市中から広く寄進者を得て、江戸の出入口』六『箇所に丈六の地蔵菩薩坐像を造立した。病気平癒を地蔵菩薩に祈願したところ』、『無事治癒したため、京都の六地蔵に倣って造立したものである』とある。『鋳造は神田鍋町の鋳物師、太田駿河守藤原正儀により、像高はいずれも』二・七〇メートル『前後である。造立時には鍍金』(メッキ)『が施されていた(東禅寺の第二番は弁柄色の漆)が、現在では金箔の痕跡をわずかに残すだけとなっている。それぞれの像内には小型の銅造地蔵菩薩坐像や寄進者名簿などが納められていた。また、像や蓮台には寄進者の名前が刻まれており、寄進者は合計すると』、七万二千『名を越える』。『江東区永代寺の第六番は富岡八幡宮の二の鳥居付近にあったが、明治元年(』一八六八『年)の神仏分離令による廃仏毀釈により、旧永代寺が廃寺になり』、『取り壊された。現存する第一番から第五番までは、すべて東京都指定有形文化財に指定されている』。『第六番の代』りの地蔵『仏が、上野の浄名院(台東区上野桜木二丁目』『)に祀られている』が、『浄名院が江戸六地蔵を名乗っている事については、他の札所でも賛否両論あるらしい』とあった。また伊藤博氏のサイト「探究クラブ」の「探求 江戸六地蔵│江戸六地蔵について│」に、『江戸六地蔵(後の六地蔵)について』の項で、『造立に至る経緯』として、『江戸六地蔵が造立された経緯については、滝 善成「空無・正元と江戸六地」』『に掲載の「当国六地蔵造立之意趣」(宝永』三『年』五『月吉祥日に筆』「江戸六地蔵建立之略縁起」『所収)の文章を挙げることにします。(下記の「予」は、六地蔵を造立した地蔵坊正元)』として、『抑々予十二歳の比呂郷を出、十六歳にして剃髪受戒す。其後廿四歳の秋乃比より重病を請、廿五歳の春の末に至て、医術も叶難く死既に極れり。……父母是を悲、偏に地蔵菩薩に延命を祷奉る。自も親の歎骨髄に通、一心に地蔵菩薩に誓願すらく、我若菩薩の慈恩を蒙て、父母存生の内命を延る事を得ば、尽未来際に至るまで、衆生の為に菩薩の御利益を勧、多尊像を造立して衆生に帰依せしめ、共に安楽を得せしめんと誓、其夜不思議の霊(の俗字)験を得て重病速に本復す。其後諸国を廻無縁の衆生に多縁を結ばしむ。……帝都の六地蔵に同く、御当地の入口毎に一躰づつ金銅壱丈六尺の地蔵菩薩を六所に都合六躰造立して、天下安全・武運長久・御城下繁栄を祝願し、兼而ハ又諸国往来の一切衆生へ普く縁を結バしめんと誓』とあり、注で、『地蔵坊正元については、「何時・何処で生れ、誰について出家したのか、については何一つ明かされていない」』『とされています』。『前記引用文からすると、地蔵坊正元は』二十四『歳の時に大病を患い、病気平癒を地蔵菩薩に祈願する際に誓った菩薩像の造立を「帝都の六地蔵に同く」、つまり京都の例(京都六地蔵)に倣って、江戸市中』六『ヶ所に地蔵菩薩を一躰ずつ造立し、天下安全・武運長久・御城下繁栄を祝願したということのようです』とあったが、二回目で咎を蒙り、遠島になったことは記されていない。恐らくは、二度目のそれは、幕府から身分不相応のやり過ぎと認められて、罪となったものでもあろうか。]

