譚海 卷之十一 淳化法帖二王の事
○「淳化法帖」は、もろこしにて、古人の手蹟を上木せし濫觴也。「淳化法帖」にも、幾本[やぶちゃん注:異本が。]も有(ある)由。
然れども、眞本は、
『二王の書に、轉畫(てんかく)のあるを、よしとす。』
と、米元章がいへる事を、王元美が四部稿に著(しる)したり。
「轉畫」をば「特筆」とも、いヘり。
「曰」と云(いふ)字、「田」の字などの、右へ引(ひき)て、下へ、まはす筆勢を、轉ぜず、一筆に書(かく)が、正體(せいたい)なれども、義之が、それを誤(あやまり)て、下へ、まはす所にて、筆を轉じたるを、「轉筆」といふ也。義之が誤たる所が、則(すなはち)、眞本の證とするよし、なり。
[やぶちゃん注:「淳化法帖」(じゅんかほうちょう)は北宋の淳化三(九九二)年、太宗の命により、王著(おうちょ)が内府所蔵の歴代の書跡を刻したもの。歴代帝王法帖(巻一)・歴代名臣法帖(巻二〜四)・諸家古法帖(巻五)・王羲之(巻六〜八)・王献之(巻九と巻十)の全十巻。翻刻本が多く作られた。ここに出る「二王」は最後の二人を指す。
「米元章」北宋末の文人で書画の大家であった米芾(べいふつ 一〇五一年~一一〇七年)の字(あざな)。彼は書では、蘇軾・黄庭堅・蔡襄(さいじょう)とともに宋の「四大家」と称され、絵では、「米法山水」を始め、文人画に新生面を開いた。
「王元美」明の元官人の文学者王世貞(一五二六年~一五九〇年)の字。号に弇州山人(えんしゅうさんじん)。所謂、「古文辞派」で、李攀龍(りはんりょう)らとともに,「後七子」の一人として古典主義文学運動を進め、李の死後は、その運動、及び、当時の文壇の指導者として活躍した。その文学論は「芸苑巵言(げいえんしげん)」に纏められている。「四部稿」というのは、彼の書いた膨大な「弇州山人四部稿」を指す。]
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