譚海 卷之十一 岸波の畫の事
○「岸波(きしなみ)」といふ繪は、東山殿同朋、相阿彌(さうあみ)、書始(かきはじ)めたる事にて、雪舟・古法眼元信(こほふげんもとのぶ)・探幽・法印養朴(やうぼく)まで、何れも、是を寫し書(かき)たり。
初(はじめ)は一幅にて、高岸(たかぎし)に波のうちよする體(てい)を、書たる物也しを、探幽などは、二幅對に書(かき)て、岸に、波と、別々に書(かき)わけたる有(あり)。
然れども、相阿彌に及ぶ者、なし。相阿彌は畫(ゑ)の名人也。
[やぶちゃん注:「東山殿」足利義政の通称。
「相阿彌」(?~大永五(一五二五)年)は室町時代の絵師・鑑定家・連歌師。姓は中尾、名は真相(しんそう)。父は芸阿弥、祖父は能阿弥で、三代引き続いて足利将軍家に「同朋衆」として仕えた。「阿弥派」の絵画の大成、書院飾りの完成、書画の管理・鑑定、造園、香、連歌、茶道など、多方面で活躍した(当該ウィキに拠った)。
「古法眼元信」室町時代の絵師狩野元信(かのう もとのぶ 文明八(一四七六)年?~永禄二(一五五九)年)。狩野派の祖正信の子で、狩野派二代目。京都出身。後に法眼に叙せられ、後世「古法眼」と通称された。
「法印養朴」狩野常信(寛永一三(一六三六)年~正徳三(一七一三)年)の号の一つ。江戸前期の画家で、江戸幕府に仕えた狩野派(江戸狩野)の御用絵師。木挽町狩野家二代目。当該ウィキによれば、彼は宝永元(一七〇四)年に、『孔子廟に七十二賢像を描いた功で法眼に叙され』、さらに同五(一七〇八)年、『内裏造営で賢聖障子を描き、翌』六年(一七〇九)年十一月には、『前年の画事と』、『江戸城修理の功績を賞され』、『中務卿法印位を得て』いる。]