譚海 卷之十二 紀藩久能丹波守殿別業の事
○久能丹波守殿下屋敷、江戶靑山にあり。
其庭、曠漠にして、草木、少(すくな)く、荒涼なる所なりしを、紀州の茶道、如心齋(じよしんさい)に作(つくら)せられけるに、大井川の景を模(も)し、數(す)十町の庭を、川原に、こしらへ、地中より、六尺餘り、小石を敷(しき)て、川となし、そのうへに、水、ながるゝ樣(やう)に造りて、所々に、ありあふ樹に、少く、うえ、そへて、風景を點輟(てんてつ)せり。景色、いはんかたなく面白し。
但(ただし)、此屋敷は、水を引(ひく)事、至(いたつ)て不自由なるを、川上に、水を、たくはふる樋(とひ)を、三つ、こしらへ、それに、水を、たくはへて、川となし、ながせるなり。
此水を、溜(ため)る桶、甚だ、大きく、こしらへ、客來の節は、二、三日前より、下人に、くみいれさせ、たゝへおきて、客來の時、水口(みなぐち)をあけて、ながるゝやうに仕掛(しかけ)たる、とぞ。
此水溜、はじめ、こしらへたてて、水を入(いれ)しかば、一夜に破壞して、工(たくみ)のごとく、成(なり)がたかりし。
「是は、あまり大なる桶故(ゆゑ)、水をくみ入て、みちたる水勢、餘りて、たもちがたく、破壞せしことなり。」
とて、桶に、水ぬきの穴を、一つ、こしらへて、水を入けれども、又、破る事、前のごとくなれば、三つまで、穴を明(あけ)て、水を、たくはヘければ、やうやく、もちこらへてあり、とぞ。
或日、茶事に召(まねか)れて、終日、夜半までありしに、水の流るゝ事、少(すこし)も減ぜず、眞(まこと)に大井川のごとく覺えし。
これを思へば、
『一晝夜、ながれて、盡(つき)ざるほどの水を思へば、くみ置(おく)桶、いかばかり大(だい)なるものならむ。』
と、思ひやられたり。
[やぶちゃん注:底本では最後に『(別本缺)』という編者割注がある。
「久能丹波守」底本の竹内利美氏の後注では、『寛政頃の丹波守といえば、大名では鳥居忠意』(ただおき:享保二(一七一七)年~寛政六(一七九四)年:当該ウィキによれば、『見目がよかったため、将軍徳川吉宗に抜擢され』、『日光東照宮への将軍の名代としての代参役を勤めた。この際に将軍家の葵紋入りの羽織を与えられている。こののちも日光代参役を何度も勤めた』。延享四(一七四七)年五月に『奏者番となり、『宝暦』二(一七五二)年に『寺社奉行を兼務した』。宝暦一〇(一七六〇)年三月には、『若年寄となったが、翌年に将軍徳川家重が死去すると』、『全ての職を辞職した』とあるので、本篇の記載時は辞任後となる)『しかない。彼は下野壬生三万石の傾主で、寺社奉行、奏者番、若年寄等を経て、老中に列している。宝暦六年』(一七六五年)、『駿河国久能山の東照宮遷宮の時、寺社奉行の故か』、『幕命により久能山におもむいている。多分その縁で、久能丹波守と呼ばれたのであろう』とあった。
「茶道、如心齋」(宝永二(一七〇五)年~寛延四(一七五一)年)は表千家第七代で、サイト「表千家不審菴」のこちらによれば、第六『代覚々斎』(紀州家の藩主頼方(後の将軍吉宗)に茶湯を教授した人物)の『長男に生まれる。家元制度の基礎を築き、七事式を制定するなど、茶道人口増大の時代に対応する茶の湯を模索した。千家茶道中興の祖ともいわれ、千利休以来の千家の道具や記録類を整理したことでも知られる』とあるから、作庭時期は、ずっと前となる。]