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2024/03/24

譚海 卷之十二 江戶淨瑠璃はじまりの事

○江戶淨るりの初(はじめ)は、結城孫三郞といふ「說經ぶし」を、ふき屋町に、やぐらをあげて、興行せしが、はじめ也。

 虎屋榮閑といふもの有(あり)、是が談(か)たるを、「ゑいかんぶし[やぶちゃん注:ママ。]」と云(いふ)。

 ゑいかんの弟子に、外記(げき)といふもの有(あり)、「外記ぶし」と云(いふ)を語り初(はじめ)たり。

 外記より、分れて、「土佐ぶし」は出來(いでき)たる也。

 此(この)外記、後(のち)に薩摩左内と、名を、かへたり。「外記ぶし」の元祖也。

 市村竹之丞が弟、善藏といふもの、左内が弟子になりて、大薩摩主膳(おほざつましゆぜん)と云(いひ)て、「薩摩ぶし」を、かたりはじめたり。

 嵐左内といふも、さつま佐内が弟子にて、「太平記」の事を。もつぱら、語る事にせし也。

 又、一流を、かたり出(いだ)して、主膳と左内、甲乙なく、はやり、あらし左内は、やはらかなるふし、さつま主膳は、あらげなるふしを好みて、かたりたり。

[やぶちゃん注:「結城孫三郞」糸あやつり人形遣い師。江戸糸あやつり人形芝居「結城座」の座長にして名跡でもある。その初代(生没年不詳)は、寛永一二(一六三五)年に江戸で「説経節」の人形芝居「結城座」を開いた。後に義太夫の糸操り人形芝居を興行を行なっている。

「虎屋永閑」(とらやえいかん 生没年不詳)は江戸前期に活躍した浄瑠璃太夫。前名は虎屋小源太夫(小源太とも)。「永閑節」を創始した事で知られている。

「外記」「外記ぶし」「外記節」は江戸浄瑠璃の一つ。薩摩外記藤原直政(生没年未詳:江戸前期の古浄瑠璃の太夫で、薩摩浄雲の門弟。江戶で活躍し、「外記節」を創始し、江戸堺町で操り芝居を興行した)が貞享(一六八四年~一六八八年)の頃、語り出した豪放な浄瑠璃。人形浄瑠璃や歌舞伎の荒事などで行なわれたが、間もなく滅び、現在、「河東節」と「長唄」の数曲に、その影響が残る。

「市村竹之丞」歌舞伎俳優・市村座座元。初世(承応三(一六五四)年?~享保三(一七一八)年は第三代市村宇左衛門の養子。寛文・延宝(一六六一年~一六八一年)頃が活躍期で、「市村座由緒書」(享保一〇(一七二五)年書上)によれば、寛文四(一六六四)年に、玉川主膳と相座元で、三番続きの狂言を上演したとされるが、翌年、或いは、翌々年頃、大坂へ行き。その後、江戸に戻って、寛文七(一六六七)年頃、座元になったものと推定されている。役者としては、台詞術に優れ、拍子事が得意であったが、濡れ事は不得手であった。後に出家して、本所自性院に入った。現存の碑には「當山開山大阿闍梨法印安住誠阿大和尙」とある。以降、市村座の座元又は俳優として第五世まである。

「大薩摩主膳」大薩摩主膳太夫(元禄八(一六九五)年~宝暦九(一七五九)年)は浄瑠璃「大薩摩節」の家元。初世。水戸に生まれ、薩摩掾(さつまのじょう)外記に入門したとされる。別号「大薩摩外記藤原直勝」。享保(一七一六年~一七三六年)の頃から、歌舞伎劇場に出演。豪快な曲を豊かな声量で語って、人気を得た(以上の注は小学館「日本国語大辞典」他、複数の辞書に拠った)。]

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