譚海 卷之十一 古筆七平・平林庄五郞・藤田永壽事
○寬保の比、七平と言(いふ)者ありて、古筆の事に、甚(はなはだ)、功者にて、了延が家ののも、及ぶ事成(なり)がたきほど也。
仍(よつ)て、「古筆七平」と世に稱したり。
叔父、是(これ)にたよりて、本朝の古筆の事を、能(よく)知(しり)たり。
又、手跡は、平林庄五郞弟子也。
古法帖の事は、庄五郞、能(よく)、辨じたるゆゑ、華人の名讀法帖(めいどくほふてふ)の事をも、覺へ傳ヘたり。
或は、藤田永壽と云(いふ)人、朝暮、往來して、古筆の事をも、よく畫(ゑがき)せり。
この永壽、元來、狩野家の門人成(なり)しが、畫の上手成(なる)にまかせて、少し、我まゝなる家の法(はう)に背(そむき)たる事ども有(あり)しかば、狩野家勘當の人にて、醫を業(なりはひ)として居(をり)たる人也。茶の湯は、尾州の茶道、松本見休(けんきふ)と云(いふ)人の弟子にて、有樂流(うらくりう)の奧旨を殘(のこり)なく傳へたり。後に川上宗雪にたよりて、子供をば、其弟子にして、千家の事をも窮(きは)めたり。
[やぶちゃん注:「寬保」一七四一年から一七四四年まで。徳川吉宗の治世。
「古筆七平」不詳。本邦近世以前の書道・絵画・茶道には全く興味なく、冥いので、以下、人名は注さない。悪しからず。
「叔父」本巻で冒頭に出て、途中にもしばしば登場する津村の叔父である中西邦義。]