譚海 卷之十二 同靑山屋敷の事
[やぶちゃん注:標題の「同」は前話に出た広島藩。]
○安藝守樣、御下屋敷、靑山にあり。善光寺脇より北へ入(いる)所にて、代々木の八幡宮の近き所也。
御屋敷内、一里餘もあり。御庭にも茶園・田畑をはじめ、田舍のごとくにて、百姓、六軒、御扶持給りて、妻子をぐして、常に住(すみ)つきて、是を作る也。
殿の御出(おいで)のときは、空宅(あきや)にして、其日は、外へ移り住(すむ)也。
御庭の廣き事、云(いふ)ばかりなし。東叡山の如く、松林、茂りたる所あり、そこに有(ある)御亭には、「松の御茶屋」と云(いふ)。紅葉ばかり、おびたゞしき所には、「もみぢの御茶屋」とて、あり。
すべて、草木、一色に一町程づつ、同じたぐひ斗(ばかり)りを植(うゑ)あつめ、皆、其物によりて、「何の御茶屋」と稱する所、いくらと云(いふ)、限(かぎり)を、しらず。
谷川、深く流れて、高き岸より臨めば、峯を行(ゆく)やう成(なる)所あり。
牡丹・芍藥も、一所々々にありて、牡丹なども、ケ程まで多くある事は、はじめて見る事也。
梅・杜若(かきつばた)抔(など)の、わかち植(うゑ)られし所、殊に面白し。
さして、築山(つきやま)・池抔とて、わかち作られたるにはあらずして、自然の景色(けしき)、殊の外に述(のべ)がたき、とぞ。
[やぶちゃん注:「安藝守樣、御下屋敷、靑山にあり」底本の竹内利美氏の後注に、『広島藩主浅野家。寛政年間』(本書の執筆終了は寛政七(一七九五)年)『は浅野安芸守重晟が当主であった。その下屋敷が青山にあったのである』とある。「江戸マップβ版」の「青山渋谷絵図(位置合わせ地図)」をリンクさせておく。『松平安藝守』とあるのがそれ。現在の「明治神宮駅」の東北直近の「神宮前(四)」附近に相当する。
「善光寺」ここ(グーグル・マップ・データ)。]