譚海 卷之十二 俳諧師の事
○「享保のはじめ迄は、俳諧師といふ者、多からず。適々佳風などいふ人ありしかども、浪人にて、刀をさし、俳諧をするといへども、學文など、ありて、每日、物よみ、習(ならひ)にくる人、絕(たえ)ず。其比(そのころ)の名ある方々、常に往來して、客人、絕(たゆ)る事、なかりし。幼き比にて、能(よく)も覺えざりしが、中根條右衞門といふ天文(てんもん)の師匠樣ばかり、覺え居(をり)たりし。」
と物語り也。
「又、大門通(だいもんどほり)に銅屋治兵衞といふ人、俳諧を好(このみ)て、微祿して、家を立退(たちのく)時、
山がらの跡恥かしや古ふくべ
といふ發句を柱に書(かき)て出(いで)しが、後(のち)、「はいかい師」に成(なり)て、「水國」と云へり。是等が、江戶にて、俳諧師といふものの、はじまりなり。」
[やぶちゃん注:やはり、津村の母の昔語りである。
「享保」一七一六年から一七三六年まで。
「適々佳風」不詳。されば、俳号の読みも判らない。
「中根條右衞門」不詳。
「日月星辰などの運行や位置、また、距離などを見て、吉凶を占う人。俳諧師は、この頃は点者で食ってはいかれないので、主業を別に持っていた。
「銅屋治兵衞」「水國」不詳。されば、俳号の読みも判らない。]

