譚海 卷之十 肥州長崎奉公人幷遊女揚屋の事
○肥前長崎の商家は、多分、大坂のものなり。二季の出代(でがはり)にも、大坂より奉公人をよび仕(つか)ふ事、とぞ。
[やぶちゃん注:「出代」「出替」とも書く、江戸時代、一年、又は、半年契約の奉公人が、雇用期限を終えて入れ替わること。また、その日。古くは二月二日と八月二日であったが、寛文九(一六六九)年、幕令で三月五日と九月五日と改められた。八月(後に九月)のものを、「後の出替わり」という。]
丸山の遊所は八町[やぶちゃん注:八百七十三メートル。]計(ばかり)もあり、揚屋などは、はなはだ壯麗なる事にて、疊(たたみ)千疊も敷(しか)るゝ家あり。
遊女は、五、六百人もあるベし。太夫揚代(あげだい)は、晝夜にて、銀六拾四匁なり。それより數品(すひん)下りて、金壹步、或は、銀六匁までに至る。
太夫一人にて、かぶろ二人、新造五、六人程づつも進退するなり。
遊女の衣裳は、すべて唐織なり。首の飾は、皆、「べつかう」のくし・かうがいにして、櫛三枚ほどづつ、かんざしも、「べつかう」にて拵(こしらへ)たるを、十二、三本ほどづつ、さす事なり。
客は唐山(たうざん)の人の外、大坂・京師等より來(きた)る商人(あきんど)、晝夜、絕(たえ)ず。
朱塗の勾欄を飾(かざり)たる手輿(てごし)をもて、「かご」にかへて、送迎を、なす。他邦に見ざる繁華の事なり。