譚海 卷之十一 歡喜天修法の事
○歡喜天(かんぎてん)は天竺の神にて、甚(はなはだ)利益ある事故(ゆゑ)、やゝもすれば、皆人(みなひと)、立身修法などする者、おほし。
但(ただし)、信仰の心、深くとも、自身に陀羅尼など、となへ、修法などは、せまじき事也。
いかに信仰すれば迚(とて)、凡夫なれば、我(われ)しらずに不敬成(なる)事あるとき、卽時に、罪をあたへ給ふ事、嚴然たる事也。出家を賴みて、祈念をしてもらふべし。自身には、かならず、つかふまじき事也。
歡喜天は慾界(よくかい)の主(しゆ)にて、
「諸尊諸佛の捨(すて)させ給ふ惡人をも、助くべし。」
とある誓願なれば、惡人ほど、願ふ事、叶(かなふ)ものにて、只今、首きらるゝ座におもむく者をも、助給ふほどのいちじるき驗(しるし)有(ある)は歡喜天計(ばかり)也。
もとより、慾界の主なれば、慾心の願(ぐわん)をば、殊に受(うけ)させ給はずと云(いふ)事、なし。
一度(ひとたび)、念じ丹誠に抽(ぬきんで)る人、富貴(ふうき)に至らざるもの、なし。
然れども、後々は、又、殊の外、窮して身をうつ程の事に至る人、十人に九人迄は、皆、然り。
是(これ)、念願する人の、未來にて受(うく)べき宿福を、現在の身へ取(とり)こして與へ給ふゆゑ、一旦は、心のごとく、富貴になる事なれども、未來の宿福、盡(つき)ぬる時は、もとの貧窮に成(なり)かへりて難儀すもの也。
ケ程(かほど)のあらたなる天部ゆゑ、又、付(つき)從ふ眷屬の内にも、殊にむづかしき神など有(あり)て、念ずる人、少しにても、不敬のふるまひ有れば、眷屬の神、怒りて、「ばち」をあたふる事故(ゆゑ)、歡喜天は、さも、ましまさでも、「ばち」を蒙る事は此次第也。
歎喜天は、とかく卓拔の人か、如法(によほふ)眞實の出家など、念ずるものにて、修法、勇猛に成就すれば、富貴、自在に成(なり)て、一生、安樂の思ひを究むる事と成(なる)也。
歡喜天、修する律義の僧たりとも、多(おほく)は色欲に墮落するもの也。
全體、天竺にては、俗人の修する法也。
[やぶちゃん注:「歡喜天」当該ウィキを参照されたい。]
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