譚海 卷之十一 備前大炊殿白隱和尙歸依事
○備前の大炊頭(おほひのかみ)殿、參覲(さんきん)往來には、必(かならず)、白隱和尙の駿河の庵へ立寄(たちよ)られける。
休息の間、和尙と獻酬ありし時、和尙、申されけるは、
「我等、願ひ御座候。あれなる鑓持(やりもち)、殊に寒げに見へ候。何とぞ御盃(おんさかづき)を給はれ。」
と申されしかば、頓(やが)て、大炊殿、鑓持に盃を給はりける。
翌年、此鎚持、侍に取立(とりたて)られ、和尙の所ヘ立寄(たちより)、懇(ねんごろ)に謝し、士に成ぬる事を悅び云(いひ)ける。
「國守の盃を賜(たまは)れば、侍に取立られる事、彼(か)家の例也。」
と、いへり。
[やぶちゃん注:「備前の大炊頭」備前岡山藩主第三代池田継政(元禄一五(一七〇二)年~安永五(一七七六)年)。当該ウィキによれば、『仏教に対して信心が深く、継政は湊山に仏心寺、瓶井山に多宝塔を建立した。領民に対しても善政を敷いた名君であり、享保年間に近隣の諸藩では百姓一揆が頻発して発生したのに対して、岡山藩だけは継政の善政のために一揆が起こらず、平穏を保った』とある名君である。また、絵を狩野派に学び、能楽を好み、「能百六番」の舞台図「諷形図」を描いた文人でもあった。]