譚海 卷之十二 藝者菊彌深川開闢幷小山田彌一郞事
○よし町新道(ちやうじんみち)に、菊彌(きくや)といふ女藝者ありて、聲、よく、歌うたひて、殊の外、はやり、野郞[やぶちゃん注:男色専門の陰間茶屋。]の座敷へも、日々、よばれ、盛(さかん)に、もてはやされしが、野郞のうたの「さはり」に成る程にて、よし町にて、やとはぬやうに成(なり)しかば、深川八まん前へ移り、歌の師匠を、いたし、茶店を開きしかば、江戶の客、追々、したひ來りて、鄰家(りんか)まで、はんじやうし、家たてつゝ、終(つひ)に中町(なかちやう/なかまち)と云(いふ)ものに成(なり)たり。夫(それ)までは、野原のやうなる所にて、人も住(すむ)家、少(すくな)く、小山田習二などといふ者も、爰(ここ)にありてけるを、とらへられたる也。
此習二といふは、常憲院樣の御部屋、三の丸樣の親をうち殺(ころし)たる「ばくちうち」也。
かやうの事なれば、
「菊彌は、深川建立(こんりう)の、はじまり。」
と沙汰せし事也。
[やぶちゃん注:「よし町新道」現在の中央区日本橋人形町一丁目・三丁目相当(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「深川八まん」富岡八幡宮(深川八幡)。
「小山田彌一郞」「小山田習二」三田村鳶魚著「お伝の方の一族」(電子テクスト・データ)の「無頼者同士の喧嘩」以下に詳しい経緯が記されてある。
「中町」現在の、この附近。「深川門前仲町」が通りや施設に残る。]