譚海 卷之十一 聖徳太子大成經の事
○「聖徳太子の『太成經』は、土器篋(はらばこ)[やぶちゃん注:読みは珍しい底本のルビ。土器で出来た箱。]より取出(とりいだ)せる。」
と云(いふ)事、有(あり)。
此說、「龍猛(りゆうみやう)ぼさつ」眞言を、銀塔の内より取得たるといふに同じ。
かやう成(なる)事にて、
「僞書なり。」
といへる沙汰もあるにや。「舊事本紀(くじほんぎ)」抔をも、さやうにいふ事也。
湯立(ゆだて)・雨乞(あまごひ)等の事は、すべて「舊事紀」に見えたり。
[やぶちゃん注:「聖徳太子の『太成經』」正しくは「先代舊事本紀大成經」(せんだいくじほんきたいせいきょう)。当該ウィキによれば、『聖徳太子によって編纂されたと伝えられる教典。複数の研究者によって偽書とされている』。『正部三十八巻と副部三十四巻の計七十二巻に分かれている。正部には神代七代から推古天皇までの歴史と祭祀、副部には卜占・歴制・医学・予言・憲法など広範な内容が記され、神道の教典としての格を備えている』が、延宝七(一六七九)年、『江戸の書店で』、「先代舊事本紀大成經」(七十二巻本)と『呼ばれる書物が発見されたとされた』。その『内容が公開されると』、『大きな話題となり、学者や神職、僧侶の間で広く読まれるようになった。しかし』、同『経の内容は伊勢神宮別宮の伊雑宮』(いざわのみや)『の神職が主張していた「伊雑宮が日神を祀る社であり、内宮・外宮は星神・月神を祀るものである」という説を裏づけるようなものであることがわかり』、『内宮・外宮の神職がこの書の内容について幕府に詮議を求めた』。二年後の天和元(一六八一)年、『幕府は大成経を偽書と断定し、江戸の版元「戸嶋惣兵衛」、書店にこの書物を持ち込んだ神道家』『永野采女と』、『僧』『潮音道海』(ちょうおんどうかい)『偽作を依頼したとされた伊雑宮の神職らを処罰した。後に』この経を『始めとする由緒の明らかでない書物の出版・販売が禁止された。しかし、幕府の目を掻い潜って』「大成経」は『出回り続け、垂加神道などに影響を与え』た、とある。
「龍猛ぼさつ」龍猛菩薩。真言密教の付法相承の第三祖。真言宗では、伝統的に大乗仏教の思想的大成者と目される龍樹(ナーガルジュナ)と同一視するが、大乗仏教の龍樹が、はたして密教を説いたかどうかという点、また、歴史上に、その足跡をたどることの出来る第五祖金剛智との時代的な開きなどから、常識的には疑問もある。不空訳「三十七尊出生義(しゅっしょうぎ)」や、不空三蔵の伝記によれば、生存年数を数百歳とする。空海の「付法伝」にみる龍猛は、人間としての伝記ではなく、妙雲如来或いは遍覆初生(へんぷくしょしょう)如来)なる観自在菩薩の変化身(へんげしん)としての事跡が記されている(小学館「日本大百科全書」に拠った)。
「舊事本紀」平安前期に成立した史書。全十巻。著者未詳。大同以後、承平六年以前(八〇六年~九三六年)の成立とされる。「神代本紀」・「陰陽本紀」以下、十一に分け、神代から推古天皇までの天皇の事跡を述べたもの。物部氏の記事に詳しく、「国造本紀」とともに重要視される。「舊事紀」「先代舊事本紀」とも呼ぶ。
「湯立」神前の大釜で湯を沸かし、巫女や神職が、その熱湯に笹の葉を浸して、自分の体や、参列者に振り掛ける儀式。古くは神意を伺う方式であったと思われるが、後世には湯を「浄め祓う力のあるもの」と見做し、舞と結合して芸能化した。「ゆだち」と読んでもよい。]