譚海 卷之十 松平隱岐守殿調馬の事 附越前國岡村良竹(奥村良筑)咄方事
[やぶちゃん注:この前の「譚海 卷十 豆州修善寺溫泉山神の事」は既にフライング公開してある。]
○松平隱岐守定國朝臣は、田安中納言殿、御子(おんこ)にして、白川侯の御兄にておはしけるが、物によく考ましますかたにて、馬をよく性(しやう)を盡して、しろしめしけるなど、ふしぎなる事なり。
たとへば、病死したる馬を、或とき、其馬を解(わけ)て[やぶちゃん注:解剖して。]見られしに、臟腑の内に尺𢌞りにも、かたまりたる石、二つ、三つ、在(あり)ける。それをくだき、水に入(いれ)煎(せん)し、見られければ、ことごとく沫(あは)と成(なり)て消(きえ)たり。されば、此石は、馬の汗のかたまりて成(なり)たるなり。すべて馬の體中(たいちゆう)の水、調馬せらるゝ事(ごと)に、かたまりて、石となり、糞中(ふんちゆう)へ、まじり出(いづ)る。これを世に「馬肝石(ばかんせき)」と云(いふ)。それが、糞へ、まじり出(いづ)る事なく、馬の體中にて、大(おほき)くなれば、糞門、小さくして、くだらぬ故、馬の體中に滯(とどこほり)て病(やまひ)を生じ、病死する事と成(なる)なり。其石、糞、くだらず、體中にて、大きく成(なる)ことは、下手(したて)[やぶちゃん注:能力が低い馬丁。]の調馬する時に、無理に乘(のり)て馳驅(ちく)する故、馬、汗をする事、おびたゞしく、隨(したがひ)て、體中の水も、汗を、まし、かたまりて、暫時に、大(だい)なる石と成(なる)間(あひだ)、ふんへも、くだらず、體中に滯て、病となる事、と考られ、以後、調馬の法を工夫(くふう)ありて、無理に乘(のり)すくめる[やぶちゃん注:「過ぐめる」の誤記か。「乗り過ぎる」の意なら、違和感はない。]事をせられず、とぞ。
また、かの家の馬の飼料(かひれう/しれう)には、菽葉(まめのは)・大豆などを用らるゝこと、なし。只、野草をのみ、冬も尋(たづね)て飼(かは)るるなり。
「馬は、生質(きしつ)、野生にして、草をはみて、生長する物なるを、厩にたて、殊さらに菽豆(しゆくとう)の類(たぐひ)を飼用(かひもちひ)る事、本質に背(そむき)たる飼料ゆゑ、病馬、出來(いでく)る事。」
とて、かはれず。
されば、隱岐守殿、馬には、病馬ある事、稀なり。
又、
「草を飼科に用らるゝ馬故(ゆゑ)、遠乘(とほのり)にも、よろしく、時々、鎌倉往來など乘歸(のりかへ)り、又、其まま、下野(しもつけ)古河(こが)あたりまでも、其まゝにて往來するに、すべて、馬、疲(つかる)る事、なし。」
と、いへり。
隱岐守殿は、何事にも考(かんがへ)ある御方(おかた)にて、鷹を初め、其餘(そのよ)の生類(しやうるゐ)をも、解(わけ)て、御覽あり。臓腑に就(つい)て工風(くふう)を用らるゝ事、おほし、とぞ。
これを物がたりせし醫師の、いへるは、
「獸(けもの)によらず、人も、體中、汚水のとどこほりより、諸病を發するなり。されど東都の醫は、下(くだ)す事をもて、功をとる事を得たるもの、おほし。吐(はか)して、功をとる事は東都の醫は、なすは、少し。治方(ぢはう)に汗(かん)・吐(と)・下(げ)の三(みつつ)あれども、汗・下は、まだるし[やぶちゃん注:「間怠(まだる)し」。「手間取って遅い・動作や反応が鈍くじれったい」の意。]。吐法は、功、速(すみやか)なれども、我師、傳(でん)を得ざれば、吐方を用(もちひ)て治(ぢ)する事をつまびらかにせず。又、人をそこなはむ事をおそるゆゑに、せず。願くは、よく吐方を用る師に隨(したがひ)て、熟習して後、吐を用て、療治なし度(たき)事なり。凡(およそ)、人の體中の汚水、胷隔(きようかく)[やぶちゃん注:「胷」は「棟」の異体字。横隔膜と同じにとってよいだろう。]より上にある物は、吐法にて療すれば、其治、至(いたつ)て速かなり、されども吐法に熟せる醫師すくなき故、其汚水を下(くだ)して治せんとする故、療治の日數(ひかず)もかさなり、且は、まだるし。迂遠の治なれども、十人が九人まで、東都の醫は、下すより外(ほか)、しる者、なし。越前の奥村良筑、名醫にて、すべて、吐法を用て、數多(あまた)、病(やまひ)を治せり。されば、『越前の瓜蔕吐法(うりへたとはう)は名品なる』由(よし)、今世に、いひ傳ひたるは、良筑、專ら、瓜蔕を用て、治したるゆゑ、名品のやうに世上にていひ傳ふる。」よし。
京都の醫荻野左衞門、吐法を著(あらは)したる書にも、
『しるし、ある。』
と、いへり。
『胷隔より下にある汚濁をば、下利(げり)して、功を、とるべし。胷隔より上にある汚濁をば、吐法ならでは、速(すみやか)に取難(とりがた)し。』
とぞ。
[やぶちゃん注:「松平隱岐守定國朝臣は、田安中納言殿、御子(おんこ)にして、白川侯の御兄」伊予国松山藩第九代藩主にして定勝系久松松平家宗家第十代の松平定国(宝暦七(一七五七)年~文化元(一八〇四)年)。御三卿田安徳川家初代当主田安宗武の六男。また、かの白河侯松平定信のすぐ下の実弟でもあり、言わずもがな、第八代将軍徳川吉宗の孫に当たる。
「馬肝石」馬の「鮓答」(さとう)である。各種獣類の胎内結石、或いは、悪性・良性の腫瘍や、免疫システムが形成した異物等を称するもので、漢方では、現在でも高価な薬用とされているようである。私の「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 鮓荅(へいさらばさら・へいたらばさら) (獣類の体内の結石)」の注を読んで戴くのが一番、手っ取り早い。「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 狗寳(いぬのたま) (犬の体内の結石)」もある。比較的新しいものでは、『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 五馬 三馬 二馬の竒談(3)』が参考になろう。
「菽葉マメ目マメ科 Fabaceaeの植物の葉。特にその中でも食用にするものを言う。大豆・小豆・ササゲ・エンドウ・ソラマメ・インゲンマメ・ラッカセイなどの葉となる。
「汗」療治として発汗を起こさせて症状を緩和・療治する法であろう。
「吐」同じく口から吐き出させるそれであろう。
「下」肛門・尿路等から排出させるそれであろう。
「奥村良筑」医師奥村良竹(宝暦一〇(一七六〇)年~貞享三(一六八六)年)。名は直、号は南山。良竹(良筑とも書いた)は字(あざな)。越前国府中松森村(現在の福井県武生市)生まれ。父は道喜。十余歳で駿府(府中)藩医山崎良伯に就いて、医を学び、一時、大坂に出たが、帰郷して医を業とし、府中藩医となって本多侯に仕えた。後、本多侯の息女に従って京都に上り、後藤艮山(こんざん)・並河天民(なみかわてんみん)らの説を聞き、帰郷した。古医方に通じたが、その中でも、吐法が埋もれているのを惜しみ、研究を積み、吐剤を臨床に活用し、新治療を開き、京都など、各地から多くの弟子が参集した。著述をなさなかったが、その治法は永富独嘯庵(ながとみどくしょうあん)「吐方考」や、荻野元凱(おぎおげんがい)「吐方編」など門人らの著述によって窺える(朝日新聞出版「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。
「瓜蔕吐法」スミレ目ウリ科キュウリ属メロン 変種マクワウリ Cucumis melo var. makuwa の蔕(へた)を生薬とした催吐剤(現代の胃洗浄に相当する。なお、マクワウリの原産地は複数のサイトで「南アジア」・「中国」・「インド」・「北アフリカ」などと錯綜している。当該ウィキでは『南アジア』とし、『この系統のウリが日本列島に渡来したのは古く、縄文時代早期の遺跡(唐古・鍵遺跡)から種子が発見されている』とあった)。サイト「医食同源」の「21.瓜(蔕)—催吐作用と瀉下作用—」に「苦み成分はメロトキシン」として解説が載るので読まれたい。すっかり忘れていたが、二〇一三年三月三十日附のブログ記事「耳囊 卷之六 吐藥奇法の事」に、この処方が載り、私が同前の記事を引いて注もしていた。我(われ)、大呆け也!]

