譚海 卷之十 阿波國漁舟薩摩へいたりし事 附豐臣内府墳墓の事
○阿波の南海より、薩摩へは、甚(はなはだ)、近し。一日に舟の往來、成(なし)やすし。
夫故(それゆゑ)、むかしは、時々、阿波の漁人、海上に釣漁獵して、薩摩へ至り、かしこにて、休息し歸る事故(ゆゑ)、おのづから知音(ちいん)出來、舟をかけ、煙草火(たばこび)など、もらふ所あり。
其舟をよする所、薩摩の南海濱にして、岸上に嚴重なる番所のやうなる所あり。
されども、海隅(かいぐう)なれば、番をするもの一兩人のみありて、寥々(れうれう)たる[やぶちゃん注:もの淋しくひっそりとしているさま。]事にて、さのみ何をまもる所ともみえざる所なれば、阿波の漁人も、つねにこゝろやすくかたらひよりて、得意成(なり)けるが、或る日、漁人、ふねをよせたるに、番所に一人もあらず、しばらく待居(まちをり)たれども、人氣(ひとけ)なきゆゑ、岸にのぼり、火をもらひに、番所へ入(いり)たるに、番所のうしろの門、いつもとぢてあるところ、あけて、あり。
『いかなる所にや。』
と、漁人、何心なく入行(いりゆき)てみれば、奇麗に掃除したる體(てい)にて、尤(もつとも)、人、なければ、おろおろ、入行(いりゆき)て、みれば、大成(おほきなる)石の五輪、二、三區(く)[やぶちゃん注:集めてあるのではなく、区切って建っていることを意味する単位表現。]あり。あやしみながら、なほ、入(いり)てみれば、最後の奧に、うるはしうつくれる塔一區ありて、神廟などのやうに見えたり。
そのほかには、何もなければ、立(たち)もどりて、舟に居(をり)たるとき、例の番人、薪(たきぎ)を負(おひ)て、山より歸りたれば、又、漁人、舟より、あがりて、番人と閑話し、ふと、番人に、
「此奧に御座候御墓などのやうなるものは、いかなる物にや。」
と、たづねければ、番人、大(おほき)におどろき、
「其方達、見られしや。はなはだ、隱密なる事なれば、かならず、みたるよし、人に物語なすべからず、今日は、こゝの御墓掃除なせしついで、山へ木を伐(きり)に行(ゆく)とて、錠(ぢやう)さす事を、わすれたるなり。かへすがへす、此事、沙汰なしにすべき。」
よし、ふかく誡(いましめ)ける。
さるは、豐臣秀賴の御墓をはじめ、眞田左衞門尉、其外の人々の墓にて在(あり)ける、とぞ。
此のち、番人も、心をかけて、漁人にも、したしくあひしらはず、今は、絕(たえ)て彼邊(かのあたり)へ、他邦の舟よする事を、ゆるさゞる事に成(なり)たり、とぞ。
「されば、秀賴公をはじめ、人々、大坂をのがれて、此國に落(おち)、とまり、うせられける事、虛說ならず。」
と、いヘり。
[やぶちゃん注:この二人の墓と伝えるものは、鹿児島市谷山地区の海浜に近かった位置に現存はする(「ひなたGPS」の戦前の当該地を見よ)。サイト「鹿児島のまちの話題」の「鹿児島市にある豊臣秀頼のお墓」を見られたい。写真もある。]
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