譚海 卷之十二 朝士金田周防守殿物語の事
[やぶちゃん注:ここと次の話は「目錄」では以上の一つに纏められているが、本文は後者は独立項となっている(「目錄」には標題はない)。同一人物についての話であることから、カップリングした。]
○御書院番金田周防樣、御物語に、
「有章院樣、御他界の刻(きざみ)は、諸人、度を失ひ、くらやみのやうに有(あり)しが、有德院樣、紀州より入(いら)せられしまゝ、月日の明らかに成(なる)たるやうにて、人々、安堵の思ひに成(なり)たる。」
とぞ。御同人、仰(おほせ)られしは、
「世間に、「平家物語評判」とて、由井正雪が書(かき)たるもののよし、見たりし事の有(あり)しに、俊寬僧都、赦免に、ひとり、もれて、足ずりして泣(なき)たると云(いふ)事を、嘲(ののし)り評したるなどは、尤成(もつともなる)事。」
と、の給へし。
[やぶちゃん注:「御書院番金田周防」不詳。
「有章院」第七代将軍徳川家継の法名。
「有德院」徳川吉宗。
「平家物語評判」「慶安事件」の首謀者の「由井正雪」が、後代の実録物「慶安太平記」等によれば、この書を著したとされるが、私は不詳。]
○此周防樣、常憲院樣御小姓にて、別家に三千石給はり、御取立(おとりたて)ありし方也。
色々、當時の事を御物語有(あり)し中(なか)に、
「常憲院樣は、心すみやかなるもの、殊に御意に入(いり)たるゆゑ、御小姓にて相勤るに、御寢(ぎよしん)の間(ま)に蟲などいづる時、
「夫(それ)を取捨(とりすて)よ。」
と上意あれば、たとひ、毒蟲にても、何にても、其儘、手づかみにして捨(すつ)るやうなる事を、御(おん)めで遊(あそば)されし、とぞ。
有德院樣、御壯年に入らせられし時は、御短慮成(なる)事も、折々、有(あり)、放蕩の聞えもありて、
「御隱居せさせ申(まうす)べきや。」
と、三度(みたび)まで御伺(おうかがひ)有(あり)しに、
「若きものは、夫程(それほど)の事は有(ある)もの也。先(まづ)、見合(みあは)せよ。」
と、上意有(あり)て、無難に御座被ㇾ遊、終(つひ)に、天下をも、しろしめす事に成られし故、常憲院樣の御仕置せられたる事を、隨分、其儘に被ㇾ成二指置一(さしおきなられ)れける故、都(すべ)て、常憲院樣御取立の者をば、我等、式(しき)に至る迄、今もかはらず、御奉公致しをる。有難き事成(なり)。」
と、の給ひし。
周防樣、本知三千石に、御役料千石なれ共(ども)、
「此千石は、我一代の事成(なり)。」
とて、常々、暮し方を三千石にて賄(まかな)ひ、千石に遣ひ給はず、年々、金子にて除置(のけおか)れ、開き給ふ度每(たびごと)に、錢箱を、女子(によし)の居(ゐ)る所に指置(さしおか)れ、夫(それ)へ金子を投入(なげいれ)て、おかる。
「女はぬすみをせぬものなれば、氣遣ふ事、なし。」
と、いはれし。去るによりて、駿河御番被二仰付一、出立の用意し給ふも、此金子にて借用をせず、心よく、とゝのへ給ひぬ。
外の御番、仰付らるゝ方は、事に臨(のぞみ)て借金して、「旅(たび)用意」し給ふとは、格別成(なる)事也と、いへり。