譚海 卷之十二 半太夫外記ぶしの事 河東の事 中山佐世之助の事 式部太夫のわか山ぶしの事 うづみ太夫事 上方ぶしはじまりの事 都古路中太夫事
[やぶちゃん注:前話に続き、浄瑠璃節の系譜が並ぶので、纏めて電子化する。少々疲れたので、基本、底本の注のみを添えることとした。悪しからず。]
○半太夫は「外記ぶし」より出(いで)たり。又、
「榮閑が弟子也。」
共(とも)、いへり。
又、
「薩摩左内が弟子なり。」
とも、いへり。いづれか、分ちがたし。
半太夫が「わき」を、宇十郞と、いへり。
又、增上寺、所化(しよけ)にヰケウといふ僧ありて、半太夫弟子に成(なり)て、好(このみ)たるまゝ、雪隱にて、かたりたるに、常に、外へもるゝ事なかりし、と也。
上手に成(なり)て後、還俗して、「淨るり語り」となり、一流を語りいだし、「ヰケウぶし」といふ。半太夫よりは、ふし、こまやかにして、コツツリとして、花やかには、なきもの也。是は、
「一生、魚類は、くはず。」
といふ。
又、ソウリツと云(いふ)出家、有(あり)、是は「半太夫ぶし」の上手にて、はやりたる事也。
[やぶちゃん注:「半太夫ぶし」底本の竹内利美氏の後注に、『江戸浄瑠璃の一派で、江戸半太夫が元禄年間に開創し、久しく流行したが、河東節の出現で衰えた』とある。]
○河東は半太夫が弟子にて、一流を語りはじめたり。
又、「河東ぶし」に河丈・夕丈といふ兩人、有(あり)、いづれも河東が弟子にて上手也。又、河東が三味線に、山彥源匹郞といふもの有(あり)、「さみせん名人」にて、「河東ぶし」の、はやりたるも、過半は山彥が力によりて也。
「今、河東と名乘(なのる)は、河丈が子ども也。」
とぞ。
「夕丈といふは、元來、針醫也。」
といふ。
[やぶちゃん注:「河東節」同前で『江戸浄瑠璃の一流で、享保本年から流行しだした。十寸見河東』(ますみかとう)『の創始で、渋く優美でその粋な語り口がもてはやされた』とある。]
○うたうたひに中山佐世之助といふ、あり。
元來、かぶきの役者成(なり)しが、歌上手にて、後に萬太夫と名を改(あらため)て、うたの芝居を取立(とりた)て、堺町に矢倉をあげて興行したり。
萬太夫が子ども、兩人、有(あり)、小八・千吉といふ。皆歌の上手也。萬太夫、半太夫と同時のもの也。
此小八、「新屋敷」といふ所に隱居して居(をり)たるが、親子むつまじく、子ども、孝行成(なる)ものにてありし。
小八むすめは、二代目の瀨川菊之丞妻成(なる)よし。
○式部太夫とて、別に一流の淨瑠璃あり、「外記ぶし」に似たる物なり。一度、市むら座へ出(いで)て、かたりたることありしなり。
前にいふ芝居にて、一ふしづつ、うたふ「わか山ぶし」といふものは、「說經ぶし」・「淨るりぶし」、さまぐなるふしを、まじへてうたふもの也。
中山さよの助が、うたひしも、「わか山ぶし」也。
○和泉太夫とて、一流の淨るり、あり。式部太夫が親と同時代也。坂田公平(さかたきんぴら)の「上るり」ばかりを語りて、「和泉太夫ぶし」とて、「土佐外記ぶし」に、にて、夫(それ)より、あらくしく聞ゆるもの也。
殊の外、子供など好(このみ)て、はやりたるもの也しが、後に「公平地獄めぐり」とて、死(しし)たる事を、つくりて、かたりしより、上るり、すたれて、はやらず、芝居、つぶれたり。
老後、人形町の、「きんぴらの人形(にんぎやう)」、拵(こしふ)る所に、かゝりゐて、うせたり。
[やぶちゃん注:「きんぴらの人形」「金平人形」金平浄瑠璃(古浄瑠璃の流派の一つ。薩摩浄雲の弟子江戸和泉太夫(後の桜井丹波少掾)が創始。多くは金平の武勇談が主題で、荒々しい人形の演出が元禄以前の江戸で盛行し、江戸歌舞伎の荒事芸にも影響を与えた。「金平節」とも呼ぶ)の上演に用いた坂田金平などの操り人形。「きんぺいにんぎょう」とも読む。]
○「上方(かみがた)ぶし」の始(はじま)りは、「角太夫ぶし」といふ。
その弟子、「文彌ぶし」と云(いふ)を語り初め、「文彌ぶし」、へんじて「一中(いつちゆう)ぶし」と云(いふ)に成(なり)たり。
「一中」は、少し、やはらか成(なる)ふしに語りたり。「一中」と云(いふ)は、京都の一向宗の寺の往持成(なり)しが、「文彌ぶし」を好(このみ)て、「上るり語り」に成(なり)て、「一中」といふを、語り初めたり。「都一中」(みやこいちちゆう)」と、いヘり。
一中が「さみせん」は、都里三といふ盲人なり。此里三も、元來、一中が旦家の勾當(こうたう)也しが、さみせん上手にて、「端(は)うた」を彈(ひき)て、住持と一所に語りあるきたるゆゑ、座頭の仲間を、かまはれ、一中と共に、江戶へ來て、里三と改名せし、とぞ。
[やぶちゃん注:「上方ぶし」同前で、『江戸に対し』、『京坂地方の浄瑠璃節を上方浄瑠璃と総称する。義太夫節を主に、文弥節、播磨節、加賀節、角太夫節などの諸流があった』とある。
「文彌ぶし」同前で、『元禄ころ』、『岡本文弥の開創した上方浄瑠塙の一派。哀調をおび、泣き節とも呼ばれた。山本土佐掾の門人』とある。
「一中ぶし」同前で、『延宝のころ』、『都一中のひらいた浄瑠璃節。享保ころにおとろえたが、五代目一中が再興して、幕末ころには』、『ふたたび』、『流行した』とある。]
○半中は一中が弟子也。
「一中ぶし」は、「はもの」ばかりを語りたりしが、半中は、一流を、かたり出(いだ)し、國太夫といふて、「はもの」の外に段物を語りて、「都古路豐後掾(みやこぢぶんごのじよう)」と受領して、ふき屋町河岸(がし)へ、やぐらをあげ、芝居を建(たて)たり。
夫(それ)より、江戶にて「豐後ぶし」と云(いふ)事、さかんに、はやりて、又、其弟子、さまざま、分れたり。
[やぶちゃん注:同前で、『都一中の門人宮古路国太夫(豊後操)か、享保年間に開創した浄瑠璃節で、江戸に流行し、それから常盤津・富本・清元・新内・園ハなどの諸流が分化した。それらを総称して豊後節ともいう』とあった。]
○萬太夫といふも、國太夫が弟子にて、「豐後ぶし」かたりしが、少し、不器用にて、おもくるしく聞えたり。リン中[やぶちゃん注:底本では「リン」に編者の補正傍注があり、『(林)』とある。]といふものも、國太夫が半中といひし比(ころ)の弟子にて、はやりたりしが、後(のち)、上るりをやめて、針醫に成(なり)たり。
○都一中が弟子に三中と云(いふ)もの有(あり)、是(これ)、新吉原にのみ、居(をり)たり。
又、果物町に伏見屋と云(いひ)て、野郞の茶屋[やぶちゃん注:男色を専門とする陰間茶屋。]をして、大名かたへ、芝居狂言あるとき、役者を世話などいたし、大村伊勢守樣より挨拶など、給はりしが、上るり好(ずき)にて、和中といひて、一中が弟子にて有(あり)し。此和中が、かゝへの子共(こども)に、佐野川千藏といふ役者ありしが、後に、又、和中と名を改(あらため)て、淨るり太夫と成り、聲、よきまゝ、「めりやすぶし」といふを、うたひて、風好(ふうかう)とも、いへり。
又、非人に、「一中ぶし」を、よくかたりたるもの、有(あり)しを、三中、取立(とりたて)て、「上るりかたり」となし、味中(みちゆう)と、いへり。味中も新吉原にのみ、住(すみ)たる、とぞ。
○都古路仲太夫は、「一中ぶし」と「豐後ぶし」との間を語りたるゆゑに、仲太夫といへり。殊に、豐後掾、江戶へ、いまだ下らざる時ゆゑ、めづらしき事にして、仲太夫、大(おほい)に、はやりたり。仲太夫、聲、よく、器用なるにまかせて、「上るり」は修行なけれども、はやりたる、とぞ。
「此仲太夫、もとは伊勢古市(いせふるいち)などの旅芝居を、かせぎて、『役者の衣裳、きせ。』といふものなりし。」
と、いへり。
又、文中と云(いふ)も、仲太夫が弟子にて、常に仲太夫が「わき」を、かたりあるきたり。是は、堀江町の足袋屋(たびや)也し、とぞ。
後に、リン中、此(この)文中を取(とり)たてて、「都古路」と名乘(なのり)たり。
仲太夫が「さみせん」に、「つまいち」といふ盲人、有(あり)、はじめ、「土佐ぶし」を彈(き)たりしが、「土佐ぶし」、すたれて、「仲太夫ぶし」をひく。
又、都古路志津京といふものあり、仲太夫が弟子也。志津摩流の手跡を、よく書(かき)たるゆゑ、かくいはれし也。志津京、上るり、殊に器用にて、後々は、仲太夫と、はりあふ程に成(なり)て、豐後掻が弟子に成(なり)て、人の知(しり)たるもの也。元來、志津摩は薪屋治右衞門[やぶちゃん注:底本では「薪屋」に編者の補正傍注があり、『(新居)』とある。]とて、松坂へ、養子家督に行(ゆき)たりしが、名古星の旅芝居などへ出(いで)て、上瑠璃[やぶちゃん注:ママ。]を好(このみ)てかたるゆゑ、舅(しうと)と不和になりて、江戶へ來りて、上るり太夫と成(なり)てありしが、後に、又、商人(あきんど)に成(なり)て、上るり、語り居(をり)たり。
宮善といふもの、宮本善八といふ、「れいがん島」の商人なりしが、仲太夫が弟子にて、上るり功者[やぶちゃん注:底本では「功」に編者の補正傍注があり、『(巧)』とある。]なるゆゑ、宮善とて、人も、よく知りて、はやりたるもの也。
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