譚海 卷之十二 竹姬君薩州へ御婚禮の事
[やぶちゃん注:「竹姬」のことは、前話「珂碩和尙後身の事」の注で、詳しく述べておいたので、まず、そちらを読まれたい。]
○竹姬樣は、櫛笥(くしげ)大納言樣の御姬にて、常憲院樣の御養女にあそばされけれども、會津若君不幸の後、常憲院樣も程なく御他界也。其後とても、御代(みよ)の、ほどなく移りたるまゝ、有德院樣迄、御三人(ごさんにん)の御(お)かゝり人(びと)にて御座被ㇾ成候を、有德院樣思召(おぼしめし)によりて、薩摩の若君へ、御再緣の事、定りし也。
其折、御かゝり人の御事(おんこと)故、御婚禮の御道具を請大名へ仰付(おほせつけ)られ、夫々(それぞれ)に獻上ありし也。
其折、薩摩樣、我儘なる御方にて、不得心に入(いら)せられしかども、上意なれば、もだしがたく、國隱居御願被ㇾ成、其上、
「竹姬樣に、萬一、御男子、御誕生ありても、國許に世繼御座候まゝ是を立申度(たてまうしたき)。」
よし、且(かつ)、又、
「門前に水道の水を、屋敷内へかけ度(たき)。」
由など、種々(しゆじゆ)、過分の御願(おねがひ)ありしかども、有德院樣、左樣成(なる)事に御構(おかまひ)遊(あそば)されず、のこらず、願(ねがひ)のとほり、御聞濟(おききずみ)ありしと、いへり。
[やぶちゃん注:底本の竹内利美氏の後注に、『常憲院は五代将軍徳川綱吉で、有徳院は八代吉宗である。竹姫の嫁入りした薩摩殿の若君は島津継豊で、享保十四年十二月に輿入れしている。正室松平吉元の女の死後、再縁した。櫛笥大納言は大納言清閑寺熙定』(ひろさだ)『である』とある。]