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2024/03/06

譚海 卷之十 英一蝶の事

○英一蝶(はなぶさいつてふ)は大坂の人にて、多賀某(なにがし)といふ醫師の子なり。

 父某、多藝なるものにて、其比の御城代は石川主殿頭(とのものかみ)殿といへるに、折々、伽(とぎ)の相手にめされ、御懇意成(なり)し故、子供の事、御尋(おたづね)ありしに、

「世悴(せがれ)事は、まだ弱冠にて、殊に取とめたる才も見え申さず。無下(むげ)に役にたゝぬものに候。」

よし申(まふし)ければ、主殿頭殿、

「人はさやうにもなきもの。いづれ、同道いたし、見せよ。」

と仰(おほせ)られ、あるとき、召連(めしつ)れ參(まゐり)たれば、御逢被ㇾ成、御咄の序(ついで)、

「其方(そのはう)は何を好候や。」

と、ありしに、一蝶、十五歲成(なり)しが、怜悧なる生付(うまれつき)にて、繪を書(かく)事を好候。」

よし、申上ければ、

「左樣なる事、一だんの儀なり。いづれ江戶表へ歸鄕の時は、同道して繪の事も稽古致さすべき。」

など仰(おほせ)られ、既に御城代の任、終(をはり)給ひて御下りのとき、一蝶、御同道被ㇾ成、則(すなはち)、狩野永眞安信の弟子になし給ひしより、其時、一蝶は俗名「多賀潮古」といひ、安信の弟子なれば、安信と名乘(なのり)たり。

 然る所、其頃は常憲院公方樣の御寵愛ある「三の樣[やぶちゃん注:底本では「三」の下に編者による割補正注で、『(丸)』とある。]」と申方(かまふすた)、在(あり)て、右女房の御兄弟に、伺某殿とやら、御旗本に召立(めしたて)られ、此人、過奢(くわしや)なる人にて、新吉原遊女屋へ、時々、まゐられし太鼓持に、潮古、つねに召(めさ)れける。むかしは、太鼓持といふもの、等閑(なほざり)のものにあらず、みな、秀才のもの、或(あるい)は、一藝に名あるものならでは、貴人の伽にせざる事故(ゆゑ)、潮古も藝才をもつて、かくの如く權門(けんもん)へ往來せし事なり。

 其後(そののち)、右の御旗本、放蕩の御咎(おとがめ)にて、逼塞(ひつそく)仰付られし事に連座して、潮古も、遠島に遣されける。

 されど、さしたる罪科(つみとが)にてなきゆゑ、ほどなく免赦あり。

 島より歸(かへり)て後(のち)、「英一蝶」とは改名せしなり。

 晚來(ばんらい)[やぶちゃん注:晩年。]、深川に隱居して、禪學を好(このみ)たるゆゑ、同所、宜雲寺(ぎうんじ)の住持に、したしく親炙(しんしや)せし間(あひだ)、此寺には、一蝶が書(かけ)る繪、殊に、數多(あまた)、今に傳へたる事なり。

 又、世中(よのなか)に、

「一蝶が作。」

とて、はやり唄、書傳(かきつた)へたる物などあるも、

「彼(かの)太鼓持せし頃の、戲作(げさく)なり。」

と、いへり。

 一蝶は承應三年の出生(しゆつしやう)にて、七十餘歲にて歿したり。

 一蝶、島にありし比、出生の子供ありて、江戶へ攜歸(たぢさへかへり)たるが、是も、繪を書(かき)て名をも、又、「一蝶」と號したる故、一蝶といふもの、父子同名の事故(ゆゑ)、「一蝶」の名印(めいいん)にて、不出來成(なる)繪、ままあるは、此子どもの書たるが、まぎれたるなり。

 此子をば、「飮(のん)だふれ一蝶」と號する、とぞ。

[やぶちゃん注:「英一蝶」(承応元(一六五二)年~享保九(一七二四)年)は、芸人で画家。当該ウィキによれば、『本姓は藤原、多賀氏、諱を安雄(やすかつ?)、後に信香(のぶか)。字は君受(くんじゅ)。幼名は猪三郎(ゐさぶらう)、次右衛門(じゑもん)、助之進(すけのしん)(もしくは助之丞(すけのじょう))。剃髪後に多賀朝湖(たがちょうこ)と名乗るようになった』。『名を英一蝶、画号を北窓翁(ほくそうおう)に改めたのは晩年になってからである』が、現行では専ら「英一蝶」で呼ばれる。『翠蓑翁(すいさおう)、隣樵庵(りょうしょうあん)、牛麻呂、一峰、旧草堂、狩林斎、六巣閑雲などがある』。『伊勢亀山藩の侍医』で『藩お抱えの国許の医師』『多賀伯庵(たがはくあん)の子として京都で生まれ』た。『父伯庵は』、『一蝶が』十五『歳のころ(異説では』八『歳のころ)、藩主の石川憲之に付き従っての江戸詰めが決まり、一家で江戸へ転居する』。『絵描きの才能を認められた一蝶は、藩主の命令で狩野派(江戸狩野)宗家の中橋狩野家当主狩野安信に入門したものの、後に破門されたと言われる。多賀朝湖という名で「狩野派風の町絵師」として活躍する一方、暁雲の号で俳諧に親しみ、俳人の宝井其角や松尾芭蕉と交友を持つようになる。書道は玄竜門下に学ぶ。名を江戸中に知られるようになり、町人から旗本、諸大名、豪商まで、広く親交を持つ。版画の作品はないが、肉筆浮世絵に近い風俗画に優れた作品を残している。また、吉原遊廓通いを好み、客として楽しむ一方』、『自ら幇間としても活動していた。その話術や芸風は、豪商や大大名すらも』、『ついつい』、『財布を緩め、ぱっと散財してしまうような見事に愉快な芸であったと伝わっている』。『元禄』六(一六九三)年、『罪を得て』、『入牢』となる。『理由は不明で』、二『ヵ月後に釈放され』たが、五年後の元禄一一(一六九八)年、『今度は』「生類憐れみの令」に『対する違反』(釣りを好んだ他)『により、三宅島へ流罪となった』。『配流中の罪人には、親族から年数度の仕送り(物品)が許されていたが、一蝶は制限ある仕送りに』、『毎度のように画材を要求』し、『江戸の自分を贔屓にしてくれる人々や』、『島で自分に便宜を図ってくれ』てい『る人達のため、さらには』、『江戸に残した母の家計のために、絵を描き続けた。乏しい画材を駆使しての創作活動であったが、江戸の風俗を活き活きと描いたり、島民の求めに応じて描いたりした多数の縁起絵などが残されている。一蝶は』、『いつも』、『江戸の方角へ机を向け、創作活動をしていたと伝わり、そこから「北窓翁」の雅号が生まれた。この時期の風俗画は、推定も含め』、「四季日待図巻」・「吉原風俗図巻」・「布晒舞図」・「松風村雨図」の四点が『確認されている。画材こそ良質とはいえないが、江戸を偲び、我が身を省みて心情を託して描かれた作品群は、一蝶の代表作の一部として知られる。この時期に描かれた作品を特に』「島一蝶」と呼び、『一蝶を支援した御用船主の梅田藤右衛門がいた新島には』十六『点が伝わり、御蔵島にも絵馬や』「鍾馗図」が『残る。一方、三宅島には』、「七福神図」一幅『のみ』であったが、『これは火山噴火や火災で失われた』。またその外、『江戸での』「島一蝶」『人気を受けて、島を訪れた富山の売薬行商人が買い漁り、持ち出されたためである』。『島では、絵を売った収入で』、『居宅を購入して「家持ち流人」となって商いも営み、島役人とも』、『うまく付き合い、流人としては』、『ゆとりのある暮らしをしていた』。『世話をしてくれていた名主の娘との間に、子を成している』。『また、配流中の元禄』一五(一七〇二)年には、随筆「朝清水記」(あさしみずき)を書いている。宝永六(一七〇九)年、『将軍徳川綱吉の死去による将軍代替わりの大赦によって許され』十二『年ぶりに江戸へ帰る。このころから』「英一蝶」と『名乗り、深川の宜雲寺』(現在の東京都江東区にある臨済宗妙心寺派の寺。ここ。グーグル・マップ・データ)『に住まい、市井の風俗を描く人気絵師として数々の大作を手がけた。また、吉原での芸人活動も続けていたらしく、豪商の奈良屋茂左衛門や紀伊國屋文左衛門らとの交遊の話が伝わる』。『江戸に帰った一蝶が、島流し以前に自身が描いた四季絵を見せられて、喜び』、『懐かしんで書いた一文が』「浮世絵類考」に『収録されている。「此道(岩佐又兵衛・菱川師宣などによる画)予が学ぶ所にあらずといへども 若かりし時あだしあだ浪のよるべにまよひ 時雨朝がへりのまばゆきもいとはざるころほひ 岩佐菱川が上にたゝん事を思ひては」。自らもそういう浮世絵のような風俗画を描いたと述懐しており、この文からは岩佐・菱川両者の作品群に対する一蝶の意識を感じられる』。享年七十三であった。]

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