譚海 卷之十一 三國筆海堂の事
○「三國筆海全書」に、弘法大師の「益田碑」、有(あり)。
篆書のやうに書(かき)たる物にて、「人」と云(いふ)字なども、人のかたちに、似たり。大師は、諸藝、皆、上流の人也。書も上畫(じやうぐわ)の中(うち)の人也。
[やぶちゃん注:「三國筆海全書」筆海堂真幸正心子の編述になる、中国・日本の名跡を集録した法帖。全二十巻。「序」は慶安五(一六五二)年。「国書データベース」のこちらから視認出来る。後に続く原影印を総て見たが、「人」の字は複数あるものの、津村の言うような強い象形文字的なものは、ない。最初のものをリンクさせておく。
「益田碑」『奈良新聞』公式サイト内の「大和路の弘法大師【6】 益田池堤(橿原市白橿町1丁目)―完成碑文を自ら揮毫」によれば、『平安時代、橿原ニュータウン周辺に』灌漑『用として造られたと考えられている益田池。益田池堤は高取川の流れをせき止めるために約』二百『メートルにわたって築かれた』。『池が完成した際の碑文「大和州益田池碑銘并序」は弘法大師空海が揮毫した。池の築造には弟子の真円らが携わり、弘法大師が改修した讃岐(香川県)の満濃池の技術が取り入れられたともされる』。『益田池堤の幅は約』三十『メートル、高さは約』八『メートル。益田池児童公園には』、『その一部、長さ約』五十五『メートル分が姿をとどめる。近くの丘陵上にある石造物「益田の岩船」は弘法大師が揮毫した石碑の台石とみる説もあり、土木技術と書に秀でた弘法大師をしのぶことができる』とあった。ここ(グーグル・マップ・データ)。]