譚海 卷之十 豆州江川太郞左衞門殿棟札の事 附駿州かり宿村舊宅の事
○伊豆國の御代官、江川太郞左衞門殿は、往古、平家の郡司にて、其時より彼(かの)國に往(すみ)わたり、國初の時、伊豆一ケ國の御代官に仰付られける。今その住する家、「にら山」のふもとに有(あり)。
此家の棟札は、日蓮上人の筆にて、上人、家、祈禱をせられし時、かき給ふ。いまなほ、臺所の柱の上に、その書、箱に入(いれ)て、かけて、あり。
大成(おほいなる)家にて、皆、丸柱にて造り、みあぐるに、やね、はるかに見ゆるほどなれば、此札のある所も、それと、みわきがたきまゝ、しるしに、其柱に、御幣を壹本、挾(はさみ)てあるを、目あてに、それと、しるやうにして、あり。
このいへ、上人在世のとき建(たて)たるものなれば、六百年ちかく、嚴然として、ある事と、覺ゆ。
「從來、實子にて相續し、且、火災のこと、なく、門内にあるもの、疫病など、わづらふことなきは、全く、上人の功德のしからしむるゆゑ。」
と、いひ傳ふ。
又、駿河國「かりや[やぶちゃん注:底本では「や」に編者補正傍注があり、『(宿)』とある。]」といふ村に、
「賴朝卿、富士牧狩のとき、やどらせ給ふ家。」
とて、庄屋、住(すみ)て、近年までありしが、これは火災に燒(やけ)うせたり、とぞ。
惜(をし)むべき事なり。
「これも、家は、みな、皮付(かはつき)のまる柱(ばしら)にて、土へ掘込(ほりこめ)たる事、六尺に及びたれば、地震にも、こぼたれず、ありし。」
と云(いふ)。
「かり宿(やど)」は、東海道吉原より、六里、西に入(いり)て、ある村なり。
[やぶちゃん注:「江川太郞左衞門」当該ウィキによれば、『伊豆国田方郡韮山(静岡県伊豆の国市韮山町』(にらやまちょう:「江川邸(韮山役所跡)」が残る。グーグル・マップ・データ。以下同じ)『)を本拠とした江戸幕府の世襲代官で』、『太郎左衛門とは江川家の代々の当主の通称である。中でも』第三十六『代の江川英龍が著名である』とあり、『江川家は中世以来の名家であり、始祖が清和源氏源経基の孫・源頼親であることもはっきりしている。この頼親の血統は大和源氏と呼ばれ、初め宇野氏を名乗った。伊豆には平安末期に移住し、宇野治長が源頼朝の挙兵を助けた功で』、『江川荘』(えがわのしょう)『を安堵されたことにより、領域支配が確定した。その後鎌倉幕府・後北条氏など、その時代の支配者に仕えた。江川家と改めたのは室町時代のようである』とあるので、「平家の郡司」というのは、平家が実効支配していた平安末期には平家方によって、ここの郡司を拝領していたことを言っているのであろう。本巻の最新記事は寛政七(一七九五)年であるから、第三十五代当主江川英毅(ひでたけ:明和七(一七七〇)年~天保五(一八三四)年)が当主であった時期となる彼は、講談社「デジタル版日本人名大辞典+Plus」によれば、『寛政』三『年』、『伊豆韮山代官職と』、『太郎左衛門を』継いでおり、『新田開発』・『植林などにつとめ』、『朝川善庵』。『柴野栗山らと交遊があった』。『号は槐園』・『止々庵など』で、文化人としても名を残している人物である。
「駿河國」「かりや」「かり宿」現在の静岡県富士宮市狩宿(かりやど)である。]