譚海 卷之十二 晩年僧事 附眞言宗灌頂の事
[やぶちゃん注:この前話「貧乏神の事」は既にフライング公開してある。]
○凡(およそ)、出家の人、幼稚より剃髮修行のものならでは、僧官にすゝむ事成(なり)がたし。俗人、老年に至り、出家するものは、たとへ才學ありても、「晚年僧」と號して昇進はなき事也。
天臺・眞言・淨家(じやうけ)ともに然り。古(いにしへ)には此制なき事なれども、近世一般に此通り也。
叔父、相知(あひしり)たる俗人、四十歲餘にて出家し、高野山に籠りて、勇猛に佛事修行し、千日の護摩などしてければ、衆僧(しゆそう)、其苦行を感じて、伴僧の班(はん)に列せし、とぞ。
かやうに勝れたる行德(ぎやうとく)なくては、大體、皆、「道心者」と號して、僧徒の班には、列せぬ事也。
俗人といへども、眞言に入(いり)て、持明灌頂(じめいくわんぢやう)をうつときは、護摩修法(しゆほふ)、ゆるされて、行(ぎやう)ずる事也。持明灌頂せざる人は、みだりに「陀羅尼」・「眞言」など唱ふる事、ならぬ事也。灌頂せぬ人、師傳なくて、眞言を行(ぎやう)ずれば、「ヲツサンマヤの罪」に墮する也。
又、俗人の數珠をする事、おほくは、外へ、すり出(いだ)すやうにする。外へすり出すは、調伏の法に用ゆる事にて、常には念珠を内のかたへ、もみ入(いる)るやうにするが、法式也。鈴を、ふるも、外へは、ふらぬ事也。手前のかたへ、ふり向(むか)ふやうにするが、常の法式なり。乞食人(こつじきにん)など、みだりに、ふりてあるく作法は、埒(らち)もなき事也。
[やぶちゃん注:「晚年僧」本篇と同内容の記事が先行する「譚海 卷之十一 求聞持修法の事」に載る。
「叔父」複数回既出の津村の叔父中西邦義。
「持明灌頂」「受明灌頂」と呼び、「伝法灌頂」以前に、一尊法、或いは、真言を授かる際に受ける灌頂。
「ヲツサンマヤの罪」「譚海 卷之十一 普通眞言藏諸尊だらにの事」で既出既注。]