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2024/03/26

譚海 卷之十二 珂碩和尙後身の事

[やぶちゃん注:この前の「譚海 卷之十二 狂人の尼勇力の事」(やはり津村の亡き母の語りである)は既にフライング公開してある。]

 

○珂碩(かせき)和尙と聞えしは、淨家の道德高き人にて、歸依する人多かりしが、奧澤[やぶちゃん注:底本では編者による傍注で『(武州荏原郡)』とある。]といふ所に、九品(くほん)のあみだ佛こん立(りう)の宿願を發し、かたの如く、造立(ざいりう)ありて、既に箔(はく)を置(おく)べき刻(きざみ)[やぶちゃん注:「その作業に当たる時」の意。]に至(いたり)て、和尙、病床に着(つき)て、程なく、往生ありけり。

 其後、會津樣奧方、男子御產(おさん)ありしに、此若君、生れ給ふより、晝夜、手をにぎり、啼(なき)いぶかりて[やぶちゃん注:使用法としては、不審だが、「何が原因か判らぬが、激しく泣くいて」という意味で採っておく。]、更に聲を、とめ給はず。

 種々(しゆじゆ)の祓(はらひ)・きたうなど、せさせ給ふに、ある陰陽師、考(かんがへ)て申(まうし)けるは、

「是は御屋敷の人、上下をわかたず、抱(いだき)まゐらせて御覽あるべし。啼止(なきやみ)給ふ事、あるべし。」

と、いひければ、申(まうす)如く、近從・女房・男よりはじめて、段々に入替(いれかは)り抱(いだき)しといへども、更に啼止給はず。

 足輕・中間類(たぐひ)に至る迄、あまねく抱申(いだきまうし)て、今は、はや、御厩(おうまや)にさぶらふ、粥焚(かゆだき)の老人ひとりに成(なり)ければ、夫(それ)を呼出(よびいだ)して、抱き奉らせける時、若君、啼(なき)いぶかり給ふ聲、止りて、にぎりたる手を開き給へば、手の内に正しく「珂碩」といふ文字あり。

 上下、あやしみ思ひて、殿に聞(きか)せ奉りしかば、此「かゆたき」を御前へ召(めさ)れて、

「さるにても、なんじ、いかなる故(ゆゑ)あるぞや。委敷(くはしく)申せ。」

と、の給ひし時、此老人、淚を流して申けるは、

「我等事は、若きほどより、奧澤の『かせき上人』に仕へ奉りし。朝夕ごとに給仕し侍(はべり)しほどに、奧澤、九品佛建立の事おこりて、いみじく造り建(たて)られしに、既に箔を置(おか)るべき一事に至(いたつ)て、上人、重病に、ふし給ふ。上人の給ひしは、

『其方、年來、召(めし)仕ひ、殊に因緣ある者なれば、申(まうす)也。我、此佛(ほとけ)、造立を、はたさず、終(つひ)に臨(のぞく)事、三世(さんぜ)の心、さはりなれば、暫(しばらく)、極樂往生を、とゞめて、二度(ふたたび)、此世に生れ出(い)で、此佛、建立を果して後(のち)、往生を、とぐへし[やぶちゃん注:ママ。]。再生の折(をり)は、必(かならず)、逢(あひ)見る事、有(ある)べし。わするゝ事、なかれ。』

と、の給ひしが、果して、此若君に生れ給ひし也。我等も、上人におくれ奉りし後(のち)、詮方なきまゝ、此御屋敷へ有付(ありつき)、御厩には、さぶらふなれ。」

と、委敷、申ければ、殿も、

「不思議成(なる)事。」

に思召(おぼしめ)され、殊に、老人を、あはれみ、はぐくみ給ひし、とぞ。

 若君、成長ありて、是等の由を聞召(きこしめさ)れければ、奧澤の佛、建立を急ぎて、催し給ふ。

 萬事、いみじく出來(しゆつらい)せしかば[やぶちゃん注:ママ。]、頓(やが)て、其あくる年、卒去ありし也。

 此若君へ、常憲院樣、御養女竹姬樣と申(まうす)を、奧方に命ぜられしに、若君、不幸なりしかば、後(のち)、薩摩へ御再緣ありし也。

 竹娠樣も、若君の御緣によつて、佛道信向[やぶちゃん注:底本に「向」に編者の訂正傍注で『(仰)』とある。]の人にならせ給ひ、諸寺へも、寄附の物、數多(あまた)ありし也。

[やぶちゃん注:「珂碩和尙」「WEB版新纂浄土宗大辞典」のこちらによれば、『元和四年(一六一八)正月一日—元禄七年(一六九四)一〇月七日。大蓮社超誉松露。江戸時代前期の僧で、世田谷奥沢の九品仏浄真寺』(東京都世田谷区奥沢ここ。グーグル・マップ・データ。私の好きな寺で、当該ウィキによれば、『阿弥陀如来の印相のうち、定印・説法印・来迎印をそれぞれ「上品」「中品」「下品」に充て、親指と接する指(人差し指・中指・薬指)でそれぞれ「上生」「中生」「下生」を区別している』特徴を持つ。特に、この寺で三年ごとに行われる「二十五菩薩来迎会」、通称「お面かぶり」は。菩薩来迎の様を、本堂と上品堂の間に渡された橋を菩薩の面を被った僧侶らが渡る特異なアクロバティクな来迎のパフォーマンスで、私は死ぬまでには、一度、見たいと思っている)『の開山。武蔵国の生まれ。俗姓は野村氏。はじめ江戸覚真寺円岩について出家し、のち下総国生実おゆみ大巌寺雄誉霊巌門下の珂山に師事。寛永一三年(一六三六)珂山が深川霊巌寺二世となったため、珂碩も同行した。明暦三年(一六五七)江戸の大火によって類焼した際には霊巌寺再建の責任者として大任を果たした。寛文七年(一六六七)には毎日銭三文を貯えて九体の阿弥陀仏像と釈迦像造立の大願を成就させ霊巌寺に安置した。翌年』、『越後泰叟(たいそう)寺住職に招かれたが、延宝六年(一六七八)世田谷奥沢の村民の招きに応じて同地に移り、新たに堂宇を建立して霊巌寺から九品の仏像を移して安置した(現・九品仏浄真寺)。珂碩は医術をよくし、特に安産には効験があるとされた。また』、『さまざまな奇瑞を示したため、信徒の間に珂碩仏として信仰された』とある。元禄七年十月七日(一六九四年十一月二十三日)示寂

「會津樣奧方」「若君」「竹姬」「會津樣奧方」会津藩藩主松平正容(まさかた 寛文九(一六六九)年~享保一六(一七三一)年:当該ウィキはこちら)の嫡子久千代(正邦)を産んだ側室智現院。当該ウィキによれば、嫡子久千代(正邦)は宝永五(一七〇八)年五月、『正邦は疱瘡を患い』、十三『歳で早世した』とあり、ここに出る「若君」のモデルが彼である。彼の当該ウィキはこちら。それによると、宝永五(一七〇八)年七月二十五日、第五代将軍『綱吉の養女である』「竹姫」と『婚約するが、家督を相続することも婚礼を挙げることもなく同年』十二月二十六日(一七〇九年二月五日)に『夭折した。代わって弟・正甫が正容の嫡男となった』とある。後、竹姫は第八代将軍徳川吉宗の養女となる。而して、当該ウィキによれば、竹姫は宝永二(一七〇五)年、公卿『清閑寺熈定(ひろさだ)の娘として京都で生まれ』た。彼女は『熈定の妹で綱吉の側室であった寿光院の姪にあたり、寿光院に子が無かったため』、宝永五(一七〇八)年に『その養女となった』。二年後の宝永七(一七一〇)年八月、『有栖川宮正仁親王と婚約し、同年』十一月、『結納』となったが、享保元(一七一六)年九月、『入輿を前に親王は死去した』。『将軍吉宗の代になると、既に正室を亡くしていた吉宗に継室にと望まれたというが、実際の血縁は一切ないとはいえ』、『綱吉の養女という立場の竹姫は吉宗にとって義理の大叔母ということになるため、当時大奥の首座であり』第六『代』将軍『家宣の正室(御台所)であった天英院から「人倫にもとること甚だしい」と反対された』が、『享保年中、改めて』『将軍吉宗の養女という身分となった』。『吉宗は新たな嫁ぎ先を探すものの、過去に』二『度も婚約者が没しているということで不吉な噂も立ったらしく、さらに一説には』、『竹姫と吉宗は男女関係にあったともいわれ、どの大名家・公家も敬遠したため、婚家探しは難航した』ともされる。しかし、『天英院の縁故により』、享保一四(一七二九)年六月、『島津継豊』(つぐとよ)『と縁組が成立し』、『同年』十二月、『入輿した』。『継豊の父の島津吉貴の友人である老中の松平乗邑の斡旋もあり、さらに天英院が実家の近衛家を通してまで縁談を持ちかけてきたため、近衛家と婚姻関係が深い島津家は断り切れなかったといわれている。将軍家息女の婚家先には多くの経済的・精神的負担がかかるため、財政難であった薩摩藩にとってこの縁組みは災難以外の何物でもなかった。加えて継豊は病弱である上に、側室腹とはいえ』、『長男の益之助(のちの宗信)が誕生したばかりであったため、島津家は、もし竹姫に男子が誕生しても、継嗣にはしないなどの条件をいくつも要求した』。『吉宗や幕府もこれを無条件に受け入れ、結婚当時は夫となる島津継豊が未だ四位以上に任官していなかったにもかかわらず、「夫が四位以上の将軍家出身の姫」に与えられる「御守殿」の敬称の名乗りを許すなど、異例の厚遇を与えた。また、竹姫の住まい用として芝屋敷の北側に』六千八百九十坪の『屋敷地を無償で下賜された。さらに婚姻後』、『継豊は従四位上・左近衛中将に昇進され』、『玉川上水を芝の薩摩藩邸に分水することが許されるなど、特別な利権を多く獲得した』。『継豊との間に一女(菊姫)を儲け、この娘はのちに福岡藩藩主黒田継高の世子の重政に嫁いた』。『また竹姫は嫡母として益之助(島津宗信)や義理の孫に当たる島津重豪の養育に携わった。重豪は薩摩の気風を嫌い、言語・作法を京・上方風に改めるべき命を出すなど開化政策を推進するが、これは竹姫の影響を受けたからであると言われている。竹姫は島津家へ嫁いでから』四十四『年間、継室として、徳川家と島津家の婚姻関係の強化に努めた』。『後に隠居した継豊は鹿児島に帰国したが、竹姫は江戸に留まり』、十『年後に継豊が鹿児島で没するまで再会することなく別居生活を送った』。宝暦一〇(一七六〇)年九月、『継豊が死去』『したため、落飾し』、『浄岸院殿と称した』。安永元(一七七二)年十二月、逝去。享年六十八歳であった。『法名は浄岸院殿信誉清仁裕光大禅定尼』で『鹿児島・福昌寺に葬られた』。『浄岸院は将軍家の養女という立場を大いに利用し、島津家と徳川家の婚姻関係を深める政策を進め、薩摩藩』八『代藩主』『宗信の正室に尾張藩藩主・徳川宗勝の娘・房姫と婚約させ(寛延元年、輿入れ前に房姫が死去。寛延』二『年には房姫の妹・邦姫と宗信の婚約の話があがったが、今度は宗信が死去)、義理の孫で』第九『代藩主』『島津重豪の正室に一橋徳川家の当主・徳川宗尹の娘・保姫を迎えさせている。これらの婚姻により、島津家と徳川家との縁戚関係が深まった』とある。数奇な人生を送った竹姫のことは、本書では次の「竹姬君薩州へ御婚禮の事」にダイレクトに続いている。

「常憲院」徳川綱吉の戒名。]

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