譚海 卷之十一 東叡山神道方の事
○東叡山神道かたに、依田伊織といふ人、有(あり)。勤修(ごんしゆ)の「うばそく」にて、享保中の人也。平生、裝束を脫せず、十四歲より、晝夜不臥にして、八十餘歲迄、ありたる人也。儒學に委敷(くはしく)、能書にて、畫(ゑ)もよく書(かき)たる人也。兩部神道(りやうぶしんたう)にて、諸神の本道をば、皆、佛・菩薩に取(とり)たり。密敎の碩學にして、「法華經」の義を明らめたる人は、東叡山にも伊織に及ぶ者は、なきほど也。芝增上寺へも、講談に出(いで)られし事にて、一代、著述の書は、增上寺輪藏(りんざう)に納(をさめ)られし、といふ。
御醫師山田宗園の要人(えうじん)といふ人、伊織の學を傳へて、兩部神道の勤修、怠らぬ人也。其本尊は、錫(すず)にて大きなる寶珠を鑄て、安置せし也。
[やぶちゃん注:「依田伊織(天和元(一六八一)年~明和元(一七六四)年)は江戸中期の神道学者。詳しくは当該ウィキを見られたいが、そこに享保六(一七二一)年、四十一『歳の時、府中本町の実家を離れ、兄が住職を務める上野寛永寺の子院「津梁院」に仮住まいをした。その後、谷中に「興雲閣」を建て』、『著作活動を始めた』とあり、『伊織は末子であったが、上の兄弟が早世・出家した為に両親を養う立場にあ』り、『妻子を持つこと無く、出家せず、父母に孝養を尽くしながら』、『神・儒・仏の学問を習得し、神学体系を起こして』全百三十『巻にも及ぶ著作を残している』とある。
「享保中」一七一六年~一七三六年。
「兩部神道」神仏習合時代の神道説の一つ。真言宗で説く胎蔵界・金剛界の両部曼荼羅の諸尊を、日本の神祇に合同して本地垂迹の説をたてて、神仏二道を習合したもの。その説は、遠く厩戸皇子に始まり、行基・最澄・空海らによって成ったとされ、平安中期以降、修験道や陰陽道の流布などによって神仏習合が一層盛んになって、多くの神道説を生んだ。明治に至って神仏混淆が禁じられるに及んで衰退した。
「輪藏」「転輪藏」の略。経蔵中に設けて、経典を収納するための回転式の書棚。
「山田宗園」江戸前・中期の医師山田宗圓(寛文元(一六六一)年~元文六(一七四一)年)であろう。宝永六(一七〇九)年に幕府医官となり、正徳二(一七一二)年、法眼となった。小児科の名医として知られた。名は正方。号は李蔭。著作に「幼科全書」がある(講談社「デジタル版日本人名大辞典+Plus」に拠った)。]