譚海 卷之十 駿州富士郡法華寺の住持浮島ケ原いけにゑにて每年七月法事ある事
[やぶちゃん注:冒頭「同國」は前話を受ける。標題の「法華寺」の「華」には編者の訂正割注『(壽)』とある。「いけにゑ」(生贄)はママ。]
○同國富士郡に富士山法壽寺といふ有(あり)。
此住持、數年(すねん)、七月七日の朝、浮島の流[やぶちゃん注:「流」には編者の訂正傍注で『(浦)』とある。]の湊、「生(いけ)にへ」といふ所へ行(ゆき)て、赤飯を水に投じ、經を讀(よみ)て歸る。
「法壽寺の開山、むかし、こゝにありて、人をとりたる大蛇を降伏せし『生にへ』の名殘なり。」
と、いへり。
[やぶちゃん注:「富士山法壽寺」不詳。次注の位置から近いものに、「法華寺」(グーグル・マップ・データ)がある。それら含めて、旧富士郡の「法」のつく寺をグーグル・マップ・データでポイントしておいた。
「浮島の」「浦」「浮島ケ原」先行する「譚海 卷之九 駿河富士山裾の浮田つなぎ田の事」で既注だが、再掲しておくと、静岡県東部、富士山の南東に聳える愛鷹山南麓の田子ノ浦に沿った低湿地帯の名。ここ(グーグル・マップ・データ)。「富士川の戦い」の際、平維盛の軍勢が、水鳥の羽音に驚いて逃げた所とも伝える。
「生にへ」流石に地名として残ってはいない。]