譚海 卷之十一 古來鍔名物の事
○信長公の比(ころ)の甲胃の「かぶと師」に、信家(のぶいへ)と云(いふ)物[やぶちゃん注:ママ。]有り。此者の作りたる鍔(つば)、名物也。至(いたつ)て稀成(なる)也。おそらく、或は、「この手がしは」など云(いふ)名の鍔、有(ある)也。
「おそらくは、信長公より、森蘭丸へ賜りたる鍔にて、天下にあるまじといヘる作也。」
とぞ。
但(ただし)、此時代の鍔は、大きくて、三寸・四寸も、はゞある物故(ゆゑ)、當時の「花車(はなぐるま)」好(このみ)たる世には、用ひがたき物也。
信家の子孫、面頰鍛冶(めんぼほかぢ)にて、今に越前の國に住居(すまい)せり。
又、古鍔(こつば)には、越前の鍔師喜内といふものの作りたるを珍重する也。
其次には、房吉と云(いふ)を名人と稱する也。
古鍔には、石見國より出(いづ)る、「とちはた」と云(いふ)を勝(すぐ)れたり、とす。
「赤坂遠山」、或は、「遠山赤坂庄左衞門」などと云へる鍔、中古にては、名物と稱する也。
[やぶちゃん注:「信家」(生没年不詳)は戦国から安土桃山時代の甲冑師。明珍(みょうちん)家十七代という。永正から天文(一五〇四年~一五五五年)の頃に製作された。古来、高義・義通とともに明珍三作の一人で、一説に、武田信玄に仕え、「信」の一字を賜わって「信家」を名乗り、鍔を作ったとも伝えられるが、現今では、この甲冑工とは別人とされている(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。
「花車」御所車に多くの花を飾った図柄のもの。居合刀・居合道専門店「濃州堂」公式サイト内の「鍔 波に片輪車図 銘:貞克作」で現物が見られる。
「とちはた」「栃畑鍔(とちはたつば)」。このQ&Aサイトの回答に、『通称石見銀山、地元では大森銀山と呼びますが、世界遺産登録で正式名「石見銀山遺跡」となりました』。『現在の住所では「島根県大田市大森町」になります』(ここ。グーグル・マップ・データ)。『この銀山内に栃畑という場所があるのです』。『「銀山之内栃畑と申所、山荒地大積り拾六町余、」』と記録に残り、『栃畑谷間歩群、栃畑谷という所があります』(中略)。『栃畑鐔』(「鐔」(つば)は「鍔」に同じ)は『別名』を『銀山鐔・金山鐔』と呼び、『江戸時代では、石見国の物産品の一つとされ、栃畑鐔の名は刀装具の専門書物にも記載されてます』。『銀山栃畑を中心に、そこに住む銀山職人の余技の作と伝えられてます』。『特徴は』、『ずばり』、『「縄目縁」で』、『鐔の耳が縄目のキザキザのようになっております』。『ほとんど無銘鉄地透し鐔ですが、初期の「銀山住守重」の銘の鐔はちょっと貴重です』。『桃山時代末から、江戸中期頃まで、この大森で作られたといいます』とあった。グーグル画像検索「栃畑鍔」をリンクさせておく。]