譚海 卷之十二 市川海老藏の事
[やぶちゃん注:前の俳諧師「佳風」の津村の亡き母の聴き書きの語りの続き。]
○「市川海老藏と云(いふ)芝居役者、若き時、佳風の所へ、每日、物よみに參りたりしが、いつも、敷居の外(そと)に居(ゐ)て、内へ入(はい)らず。本を、ならひ、をはれば、やがて歸りたり。一座衆へも、ことに、うやうやしく式禮して、うやまひ、かへること、とぞ。此ゑび藏、類燒に逢(あひ)て、三升屋助十郞と云(いふ)ものの方(かた)へ泊居(とまりをり)たる時、助十郞二男を、もらひて、養子となし、今、團十郞とて、ありしが、ゑび藏、大坂へ登りたる時に、團十郞も同道せしに、大坂のたてしに、半疊(はんじやう)をうちこまれしを、殘念におもひ、病氣と成(なり)て、團十郞は、大坂にて、なくなりぬるなり。ゑび藏は、芝居役者の内にては、三代者にて、誰(たれ)にも、頭を、さげぬ事なりしに、澤村宗十郞と云(いふ)、京より來(きた)る役者、奇特のものにて、段々、上手に成(なり)て、ゑび藏と同じ座をつとめける時、はじめて、曾我兄弟の狂言を、なせしが、宗十郞の發明に、をれて、中(なか)よく成(なり)たる、とぞ。ゑび藏も、宗十郞も、「はひかい[やぶちゃん注:ママ。]」を好(このみ)て、上手なる、よし。「丸く、四角、三角なる物」、題、發句、いひけるに、ゑび藏は、
そばからを升にはかりて盆に入れ
と申(まうし)ければ、宗十郞は、
奉書の耳をちぎりて灸のふた
と申ける、とぞ。」
[やぶちゃん注:底本には最後に編者割注で『(別本缺)』とある。
「市川海老藏」二代目市川團十郎、後に二代目市川海老蔵となった彼であろう。詳しくは当該ウィキを見られたい。
「團十郞」これは三代目市川團十郎である。当該ウィキによれば、『父は初代團十郎の高弟初代三升屋助十郎。幼名助太郎』。同一〇(一七二五)年 、『五歳で二代目團十郎の養子となり』、同十二年、『初舞台。初名市川升五郎』。享保二十年、『養父二代目の隠居にともない、三代目市川團十郎を襲名。将来を嘱望されていたが、寛保元』(一七四一) 年、『旅先の大坂で発病し、翌年のはじめに』二十二『歳で病死した』とある。
「半疊をうちこまれし」「半疊」は、元は江戸期の劇場の土間席で観客が用いた敷物、又、これを賃貸する「半畳売り」の略語であったが、半畳は畳表へ布地を貼った粗末なもので、賃貸料は貞享年間(一六八四年~一六八八年)で五文、享和三(一八〇三)年には十文であった。「半畳を入れる」・「半畳を打ち込む」という俗語は、役者の演技などに不満・反感を表現する際、観客が、この敷物を舞台に投げる行為から起こった。
「澤村宗十郞」初代助高屋高助。彼は初代澤村宗十郎としても知られる。当該ウィキによれば、延享四(一七四七)年に、『京都中村粂太郎座で』「大矢数四十七本」の『大岸宮内を演じて大当りとなる。同年』、『江戸に下って三代目澤村長十郎と改名し』、十一『月には中村座顔見世で』「伊豆軍勢相撲錦」の『河津三郎を勤める。このときに舞台を共にしたのが二代目市川團十郎の俣野五郎』(☜ ☞)『と初代瀬川菊之丞の実盛娘熊野で、この河津と俣野の相撲に熊野がからむ所作事を見せ、豪華な千両役者が揃う「三千両の顔見世」という評判をとった』とある。]