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2024/03/29

ブログ・アクセス2,130,000突破記念 柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 始動 / 表紙・扉・「はじめに」・「新年」

[やぶちゃん注:私は既にブログ・カテゴり「柴田宵曲」「柴田宵曲Ⅱ」に於いて、「妖異博物館」・「續妖異博物館」、及び、一九九九年岩波文庫刊小出昌洋編「新編 俳諧博物誌」を加工データとして「俳諧博物誌」(若干の別作品を含む)を、更に「子規居士」・「俳諧随筆 蕉門の人々」、そして、先般、完遂した「随筆辞典 奇談異聞篇」を電子化注している。而して、本日より、私が活字本として所持する最後の本書を参考に「柴田宵曲Ⅱ」にて電子化注を開始する。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの保護期間満了の昭和一八(一九三三)年七丈書院刊(正字正仮名版)を使用する。但し、加工データとして所持する新字・新仮名(句や古文の引用では正仮名。但し、ルビは句や古文でも新仮名である)版の岩波文庫「古句を観る」(一九八四年刊)をOCRで読み込んだものを使用した。ここに岩波書店に御礼申し上げる。以上の通り、底本は書籍全体がパブリック・ドメインであるので、画像をダウンロードし、トリミングして配した。

 句については、底本では、四字下げで、さらに字間が有意に空いているが(全篇で主要の俳句が同じ形で並ぶようにするため)、これでは、ブラウザの不具合が生じるため、無視して三字下げで、後は詰めた。作者名もその下に三字弱空けで、やはり字間が二字空いているが、句の下一字空けで字空けなしで配した。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字にした。注については、適当と思う箇所に挿入した。但し、本書に採句された元禄期前後の俳人は、生没年や事績の不明な人物も多く、宵曲自身もそうしたデータを本文に示していないので、基本的にはそれらの事績注は附さないこととする。但し、気に入った句については、俳人を、一応は調べて、判る事績がある俳人については、注することとし、不詳注は附さない。一度、注した俳人事績は繰り返さないので、順に読まれんことを望む。お人よしに、いちいち、既出既注を示すほどには、私の精神状態は消耗しており、拘ってディグするマニアックさは、未だ、回復してはいないからである。また、今までのように、私が判っているものも含め、何でもかんでも注することは、労多くして、私の益には全くならぬので、ストイックに注は選ぶ。

 因みに、本プロジェクトは、昨日三月二十八日深夜に、二〇〇六年五月十八日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の二〇〇五年七月六日)、本ブログが2,130,000アクセスを突破した記念として、また、先日、父が亡くなったことによる禁欲的な電子化注に踏ん切りをつけるために、公開するものである。【二〇二四年三月二十九日 藪野直史】]

 

 

Kokuwomiruhyousi

 

 古句を觀る

 

[やぶちゃん注:表紙。底本の画像。トウモロコシ中央に左右に別な草を描く。右の草の根に「淳」のサインがある。次の「扉」に示された通り、主に児童向けの絵を描いた画家鈴木淳(じゅん 明治二五(一八九二)年~昭和三三(一九五八)年:パブリック・ドメイン)の手になるものである。彼の事績は襟裳屋氏のブログ「襟裳屋Ameba館」の「鈴木淳」に詳しいので、参照されたい。]

 

 

Kokuwomirutobira

 

          柴 田 宵 曲 著

 古句を觀る

          鈴 木  淳  繪

 

[やぶちゃん注:。底本の画像。著者名と画家名は書名の真下に左右に配されてある。]

 

 

     は じ め に

 

 ケーベル博士の常に心を去らなかつた著作上の仕事は「文學における、特に哲學における看過されたる者及忘れられたる考」であつたといふ。この問題は一たびこれを讀んで以來、又吾々の心頭を離れぬものとなつてゐる。世に持囃される者、廣く人に知られたものばかりが、見るべき內容を有するのではない。各方面における看過されたる者、忘れられたる者の中から、眞に價値あるものを發見することは、多くの人々によつて常に企てられなければならぬ仕事の一であらうと思はれる。

 古句を說き、古俳人を論ずる傾向は、今の世に於て決して乏しとせぬ。見方によつては過去のあらゆる時代より盛であると云へるかも知れない。たゞ吾々がひそかに遺憾とするのは、多くの場合それが有名な人の作品に限られて、有名ならざる人の作品は閑却され勝だといふ點である。一の撰集が材料として取上げられるに當つては、その中に含まれた有名ならざる作家に及ばぬことも無いけれども、そういう撰集を單位にして見れば、これもまた有名な集の引合に出されることが多く、有名ならざる俳書は依然として下積になつている。有名な作家、有名な作家、有名な俳書に佳句が多いということは、常識的に一應尤な話ではあるが、その故を以て爾餘の作家乃至俳書を看過するのは、どう考へても道に忠なる所以ではない。

 芭蕉を中心とした元祿の盛時は、その身邊に才俊を集め得たのみならず、遠く邊陬の地にまで多くの作家を輩出せしめた。本書はその元祿期(元祿年間ではない)に成つた俳書の中から、なるべく有名でない作家の、あまり有名でない句を取上げて見ようとしたものである。勿論有名とか、有名でないとかいうのも比較的の話で、中には相當人に知られた作家の句も混つてゐるが、その場合は人口に膾炙した、有名な句をつとめて避けることにした。比較的有名ならざる作家の、比較的有名ならざる俳句の中にどんなものがあるか、それは本書に擧げる實例が明に示す筈である。

 吾々は沙の中から金を搜すやうなつもりで、閑却された名句を拾ひ出さうといふのではない。自分一個のおぼつかない標準によつて、妄に古句の價値を判定してかゝるよりも、もう少し廣い意味から古句に注意を拂ひたいのである。從つて本書に記すところも、所謂硏究とか、鑑賞とかいふことでなしに吾々のおぼえ書に類することが多いかも知れない。吾々は標題の通り「古句を觀る」のである。若しその觀た結果がつまらなければ觀る者の頭がつまらない爲で、古句がつまらないわけでは決してない。

  昭和十八年八月十日

                     著  者

 

[やぶちゃん注:自序。底本のここから。

「ケーベル博士」ドイツの哲学者ラファエル・フォン・ケーベル(Raphael von Koeber 一八四八年~一九二三年)。ドイツ系ロシア人の高級官僚の子として帝政ロシアの古都ニジニー・ノブゴロド(現在のゴーりキー市)に生まれる。一八六七年、「モスクワ音楽院」に入学、ピアノをニコライ・ルビンシュテイン(Nikolai Grigoryevich Rubinstein 一八三五年~一八八一年:当該ウィキを参照されたい)に習った。一八七二年、優秀な成績で同音楽院を卒業したが、生来の内気な性格から音楽家としてたつことを断念して、翌一八七三年、ドイツに留学、「イエナ大学」・「ハイデルベルク大学」で哲学・文学を専攻した。一八八〇年、F・シェリングの人間的自由に関する論文で学位を得、一八八四年に「ハルトマンの哲学体系」、一八八八年には「ショーペンハウエルの哲学」を出版した。一八九三年(明治二十六年)、「帝国大学文科大学」(後の「東京帝国大学」文学部)の哲学教師として来日し、哲学概論・ギりシア哲学・中世及び近世哲学史・キりスト教史、及び、カントやヘーゲルに関する特殊講義といった哲学科目と、西洋古典語・ドイツ語・ドイツ文学をも講義した。その間、「東京音楽学校」でピアノの教授も行っている。二十一年間の「東京帝国大学」在職中、ケーベルは賜暇帰国などで講義を中断することもなく、文字通り、一身を講義と学生指導に捧げた。大正三(一九一四)年、教壇を去ってドイツへ帰国しようとしたが、「第一次世界大戦」のため、帰国不可能となり、横浜の友人宅に九年間。寄寓したまま、同所で逝去した。芸術家の感性と資質に満ちたケーベルは、同時に哲学教師としてギりシア的自由の精神とキりスト教的敬虔の体現者として、彼の講筵に連なった波多野精一・和辻哲郎ら、多くの学生に深い感銘を与えた(以上は小学館「日本大百科全書」に主文を拠った。当該ウィキも見られたい)。

「邊陬」「へんすう」と読み、「国の果て・辺境・僻地・田舎」の意。「邊垂・邊陲」(へんすい)とも言う。]

 

 

   目   次

新年

 

[やぶちゃん注:目次。五つの季は、全体が、外が太い二重罫線に囲われてあり、季の間は縦傍線である。底本のここ。各項の下方のノンブルは省略した。]

 

 

              新   年

 

[やぶちゃん注:季標題。見開きの左ぺージ

 以下は以上の標題の裏、見開きの右ページにある前書。]

 

 順序上新年の句を最初に置くことにする。今の新年は冬の中に介在してゐるが、昔の新年は春の中に在つた。從つてその空氣なり、背景なりには、大分今と異つたものがある。古人も俳書を編むに當り、あるいは歲旦を獨立せしめ、或は春の部に混在せしめるといふ風で、必ずしも一樣の扱方をしてゐない。廣い意味で春に包含すると見れば差支無いやうなものの、藤や山吹と前後して正月の句を說くのは、感じの上に於てそぐはぬところがある。乃ちこれを獨立地帶として、歲旦といふ特別な氣分の下に生れた句を一括する所以である。

 

[やぶちゃん注:以下、本文となる。]

 

 

   正月はどこまでわせた小松賣 圓解

 

「どこまでわせた」は、正月はどこまで來たか、と云つて小松賣に尋ねる意であらう。正月といふものに對して次第に無關心になりつゝあるわれわれも、この句を讀むといろいろなことを思ひ出す。

[やぶちゃん注:「わせ」「座(わ)す」(いらっしゃる・おいでになる。「あり」「来(く)」の尊敬語)自動詞サ行下二段活用の連用形に、既に当時の過去の助動詞「き」の口語「た」がついたもの。]

 京傳の黃表紙に子供の唄として「正月がござつた。かんだまでござつた。ゆづりはにこしをかけて、ゆづりゆづりござつた」といふのが引いてある。泉鏡花氏の書いたものによると、「正月はどうこまで、からから山の下(しいた)まで……」といふ童謠を「故鄕の兒等は皆師走に入つて、半頃から吟ずる」と書いてあつた。各地方にそれぞれ同じ意味の唄が、少しづつ言葉が違つて傳へられてゐるのであろう。「どこまでわせた」もさういふ文句を蹈へたものに相違ない。

[やぶちゃん注:泉鏡花のこの唄は、一幕物の怪奇幻想戯曲「多神敎」(初出は『文藝春秋』昭和二(一九二七)年三月)の初めの方に出る「女兒三」の台詞内にある。但し、そこでは(所持する岩波書店の旧『鏡花全集』巻二十六に拠った)、

   *

「お正月(しやうぐわつ)は何處(どこ)どこまで、

 からから山(やま)の下(した)まで、

 土産(みやげ)は何(なん)ぢや。

 榧(かや)や、勝栗(かちぐり)、蜜柑(みかん)、柑子(かうじ)、橘(たちばな)。」……

   *

で、「下」には、「しいた」とは、なっていない。初出に拠っものか。]

 正月を擬人した句は他にいくらもある。一茶の「今春が來た樣子なり煙草盆」などは、最も人間的に扱つた例として知られてゐるが、それより前に「正月が來たか畠に下駄の跡」といふ誰かの句があつた。圓解の句はこの二句ほど氣が利いてゐないかも知れない。併しかう三句竝べて見ると、一番鷹揚で上品な趣に富んでゐる。

 

   元朝やにこめく老のたて鏡 松葉

 

「にこめく」といふ言葉はあまり耳慣れぬやうであるが、漢字を當てるとすれば「和」の字であらうか。「物堅き老の化粧やころもがへ」といふ太祇の句ほど面倒なものではない。元朝を迎へた老人が、にこやかに鏡に對してゐるところである。

[やぶちゃん注:「元朝」は「ぐわんてう」で「元日の朝」の意。]

 

   蓬萊や日のさしかゝる枕もと 釣壺

 

 めでたい句である。朝目のはなやかにさしたる、とでも形容すべきところであらう。晏起の主人はまだ牀中にあつて、天下の春を領してゐるやうな氣がする。

 新年の句のめでたいのは何も不思議は無いが、かういふ巧まざるめでたさを捉へたものは却つて少い。「さしかゝる」といふ言葉も、蓬萊を飾つた枕許だけに、頗る氣が利いてゐるやうに思ふ。

[やぶちゃん注:「釣壺」(慶安三(一六五〇)年~享保一五(一七三〇)年)は豊後国日田郡小竹村の医師で、蕉門。各務支考と犬猿の仲で、晩年は志太野坡の門に入っていたか、とする(大内初夫氏の論文「朱拙・釣壼の歿年について」PDF)を参照した)。]

 

   萬歲のゑぼしをはしる霰かな   胡 布

 

 この句の趣は今の正月としても味はゝれる。萬歲の被つた烏帽子を霰がたばしるといふのは、寂しいながら正月らしい趣である。春の正月と、冬の正月とによつて、感じに變化を生ずるほどのものではない。

「ものゝふの矢なみつくろふ小手の上に霰たばしる那須の篠原」という實朝の歌は、殆ど森嚴に近いやうな霰の趣である。芭蕉は身に親しく霰を受けて「いかめしき音や霰の檜木笠」と詠んだ。萬歲の鳥帽子にたばしる霰は、さういふいかめしい性質のものではない。もつと輕快な、さらさらとした霰である。

[やぶちゃん注:「ものゝふの矢なみつくろふ小手の上に霰たばしる那須の篠原」「金槐和歌集」の「卷之上 冬部」に「霰」と前書する一首(三四八番)。

「いかめしき音や霰の檜木笠」貞亨元(一六八四)年作。「野ざらし紀行」の途次の詠で、自画讃が残る。]

 

   犢鼻褌を腮にはさむや著そ始 汶 村

 著衣始といふのは年頭に衣を著初るの意、三ケ日のうち吉日を選ぶとある。この句は讀んだまでのもので、格別說明を要するところは無い。著衣始の句としてはむしろ品格の乏しい方に屬するが、吾々は別個の興味から看過し難いのである。

『浮世風呂』の中であつたか、犢鼻褌を腮でしめた時分の話だ、といふやうな意味のことがあつた。川柳子もこの說明に都合のいゝやうに「古風なる男犢鼻褌面でしめ」「元祿の生れ犢鼻褌腮でしめ」と二通りの句を殘している。汶村の句は正德二年の『正風彥根躰』に出ているのだから、さういふ人間がまだ古風扱を受けるに至らぬ、現役の時代である。川柳の方は時代の推移を知るに便宜な爲、屢〻人の引くところとなつてゐるけれども、汶村の句は從來あまり問題になつてゐない。眼前瑣末のスケツチに過ぎぬ著衣始の句も、かうなると慥に風俗資料に入るべき價値がある。

[やぶちゃん注:「腮」「あご」。

「汶村」(ぶんそん ?~正徳二(一七一二)年)。近江彦根藩士で、姓は松井或いは松居。別号に九華亭・野蓼斎。蕉門の森川許六(きょりく)に俳諧・画を学んだ。

「着衣始」「きそはじめ」と読む。

「正德二年」一七一二年。]

 

   戶をさして樞の內や羽子の音 毛 紈

 

 正月――少くとも松の內位の間、夜早くから店をしめて、人通りもあまり無いのは、以前も同じことであるが、點燈夫がつけて步く軒ラムプの時代には、とてもその光で羽子をつくことは出來なかつた。軒ラムプが電燈に變つてからも、はじめのうちはかなり暗いもので、街燈の光がその度を加へ、店鋪がない外の電燈に强烈な光を競ふやうになつたのは、まださう久しいことではない。そのため夜は店を閉ぢても外の明りで十分羽子をつくに足り、夏の郊外などでは眞夜中に蟬が鳴き蜩が鳴くやうになつた。かういふ燈火の作用は明治時代の人の想像も及ばぬところであろう。

 毛紈のこの句は風の强い日などであるか、戶をしめた樞の內から羽子の音が聞える、といふ變つた場合を見つけたのである。今なら廣い土間か何かに光の强い電燈をつけて、夜でも羽子をつき得るわけであるが、元祿時代の燈火ではそんなことを望むべくもない。たゞさういふ風の當らぬ別天地に、頻に羽子をつく音が聞える。そこに作者は興味を持つたらしい。羽子の句としては珍しいものである。この珍しさは夜間街燈に追羽子を見得るやうになつた現代と雖も、依然これを感ずることが出來る。

[やぶちゃん注:「毛紈」(もうがん ?~元文三(一七三八)年)本名は喜多山十蔵正矩。百五十石取りの彦根藩士。許六門。蕉門きっての画才の持ち主として知られる。

「そのため夜は店を閉ぢても外の明りで十分羽子をつくに足り、夏の郊外などでは眞夜中に蟬が鳴き蜩が鳴くやうになつた。かういふ燈火の作用は明治時代の人の想像も及ばぬところであろう」この「蟬」・「蜩」が夜間に鳴く理由は間違いではないが、不全である。セミが夜間に鳴くのは、「明るさ」と「一定の温度以上になった場合」の孰れかの条件によって発声するのである。具体的には、温度のみの場合は摂氏二十五度以上(熱帯夜)になると、鳴き出す。これは私自身が体験したから、間違いない。教員になった三年ほど、私は鎌倉市岩瀬の古いアパートに住んでいた(既に現存しない。ポットン便所に雨水が入り、甚だ悩ましいかったことが今も忘れられない)が、アパートの後ろは所謂、「谷戸」の奥で、土地の富豪の古い屋敷になっていた(ここ。グーグル・マップ・データ航空写真。冠木門で、嘗つては、時代劇の撮影に来たと下宿の美しい奥方が言っていた)。そこには、丁度、私の部屋の向かいのその屋敷の庭に、壮大な栗林と大きな池があった(リンク先で見たら、これらも現存しない。その池から巨大なヒキガエルが多量に発生し、道に何十匹も這い出て、夜、自転車で泥の塊りと勘違いして轢き、「ゲッツ!」と鳴かれて驚き、キビが悪かったのも記憶に鮮明である)。最初の年の夏の午後一時頃、甚だ寝苦しい日だったが(無論、クーラーなぞ、ない。二つあった窓(台所の高窓と部屋のそれ)を開けっぱなしにしていた。私は現在の自宅にエアコンを入れたのは、実に九年前の夏である。連れ合いは体温が低い性質(たち)でクーラー嫌いであったからで、私もクーラーが欲しいとも思わなかったのだが、パソコンに悪影響が出ると友人に言われて、つけた)、突然、シンバルを鳴らすように、大きな音が聴こえてきて、跳び起きた。外に出てみると――その栗林でミンミンゼミの群れが一斉に鳴いていたのであった。その数は数百であろうと感じられた。何せ、「ミン、ミン、ミーン」の読点と長音符部分に他の個体の鳴き声が多重的に入り込んでいて、「ビッツーーーーーー!」という怪音にしか聴こえなかったのである。二年後、顧問をしていたワンダーフォーゲル部の親しくしていた卒業生が泊りに来たときも、彼はその怪音に「なんじゃッツ!!!」と叫びつつ、見事に跳ね起きたのを思い出す。]

 

   蠟燭に帶のあふちや著そはじめ 魚珞

 

 この蠟燭は夜でなしに、朝非常に早い室內の燭ではないかと思ふ。衣を更へ、帶を結ぶに當つて、そこにかすかな風が起る。その風によつてしづかな燭の火がゆらぐといふのである。「あふち」といふ語は煽りと同意であらう。

 纖細な見つけどころの句で、燭の火に衣を改める人の面影が髣髴として浮んで來るやうな氣がする。同じく衣を改めることを詠じながら、夏の更衣と全然別の趣を捉へてゐるのを多としなければならぬ。

 

   萬歲の春をさし出す扇かな 子 直

 

 萬歲のさし出す扇から春が生れるやうに感ずる、といふよりも更に進んで、萬歲が扇によつて春そのものを差出す、と見たのである。かういふ云ひ現し方は今の句とは大分異つた點があるやうに思ふ。

「今朝春の小槌を出たり四方の人 存義」という句と全然同じ行き方ではないが、新春そのものを包括して、或形の下に現したのが、この種の句の特色をなしてゐる。

[やぶちゃん注:「存義」馬場存義(ぞんぎ 元禄一六(一七〇三)年~天明二(一七八二)年)は江戸生まれ。二代前田青峨に学び、享保十九年、俳諧宗匠となり、門下を率いて「江戸座」の代表的点者として活躍した。与謝蕪村とも交友があった。]

 

   七くさやそこに有あふ板のきれ 吏 全

 

 七種の薺をたたく行事は、今でもところによつては行はれてゐるのであらうか。かういふ行事のあつた時代は、それだけ正月の賑かさを添へたことと思ふが、師走の餅搗の音でさへ、動力機械に壓倒された今日、さういふことを望む方が無理であらう。

 古人の七種の句を通覽すると、多くは薺をたゝく拍子が問題になつてゐる。「七種や明ぬに聟のまくらもと」という其角の句も、今日だつたらどういふ解釋になるかわからぬが、夜の明けないうちから聟の枕許で、わざとトントンやるのが主眼らしく思はれる。各人各戶に拍子を取つてやつたものとすれば、蒲鉾屋や經師屋の音から類推することはむづかしさうである。 

   七草や拍子こたへて竹ばやし り ん 

といふやうな閑寂な世界もある。

 [やぶちゃん注:「七種の薺をたたく行事」「七種叩き」(ななくさたたき)。七種の節句の前夜又は当日の朝、俎板の上に「春の七草」を載せ、「ななくさなずな、唐土(とうど)の鳥が日本の土地へ渡らぬさきに、ストトントンとたたきなせえ」などと、囃しながら包丁や擂り粉木などで叩くこと。「七草囃子」とも言う。私は、ごく最近、尼さんが、それをやっている映像を見た。

「りん」蕉門女流俳人。蕉門の筑前秋月の医師遠山柳山の妻。]

 

   七種のついでにたゝく鳥の骨 薄 月

 

といふやうな、餘興だか、實用だかわからぬこともあつたのであらう。幾人も寄つてたゝく中には、自らたたき馴れた先達があつて、先ず範を示してかうやれと云ふ。その結果は、

 

   七種の手本にも似ぬ拍子かな 車 要

 

ということになつて、新に笑を催すこともあつたらしい。かういふいろいろな句によつて、その賑かさを想像するより外は無いことを考へると、吾々の次の時代には餅搗の趣を解することがだんだん困難になるのも、またやむをえぬ順序になつて來る。

[やぶちゃん注:「車要」潮江車要(しおえしゃよう 生没年未詳)は本名潮江長兵衛。裕福な町人であったらしい。大坂蕉門の一人で、芭蕉の晩年の句「おもしろき秋の朝寢や亭主ぶり」は、元禄七年九月二十一日、車要亭で開催された句会の翌朝の朝寝坊を詠んだもの。また、その句会では「秋の夜を打ち崩したる咄かな」と詠んでいる。それより有名な芭蕉の句、私の「秋の夜を打崩したる咄かな」を詠んだのも、彼の邸宅である。]

 薺を打つ板は元來きまつたものがあつたのであらうが、大勢の手に行渡るほどは無いので、そこらにあり合せの板切でたたいてゐる、といふのが吏全の句意である。かういふ先生は單に員[やぶちゃん注:「かず」と読んでおく。]に備るだけで、手本に似ぬ拍子をやる仲間だらうと思ふが、それが又却つて一座を賑かにするのであらう。

 物の足らぬ勝な家で、薺をたゝくにもあり合せの板切ですまして置く、といふ簡素な趣を詠じたものと解されぬことも無い。たゞ薺打を賑やかなものとして考へると、及ばずながら板切を取つて加はる方が、新春の趣にふさはしいやうな氣もするのである。事實を知らぬ者の想像だから、これも間違つてゐるかも知れない。

 

   君が代をかざれ橙二萬籠 舟 泉

 

 橙は御飾に用ゐられるので、歲旦の季題になつてゐる。作者は現實に二萬籠といふ橙を眼に浮べてゐるわけではない。君が代の春を飾るべき多くの橙といふことを現す爲に、極めて漠然たる數字を持出したのである。二萬と限つたのも恐らくは調子の關係から來たので、中七字であつたら更に他の數詞に替えたかも知れぬ。算術の問題ならば、一籠いくつとして總計どの位になるかと云ふところであるが、「李白一斗詩百篇」や「白髮三千丈」の國でないだけに、大きく見せた二萬といふ言葉も、それほど驚くべき感じを與へないやうに思ふ。

 西鶴の『胸算用』に橙のはずれ年があつて、一つ四五分づつの賣買であつた爲、九年母を代用品にして埒を明けた、といふ話が出てゐる。これを二萬籠の方に持込めば、又一つ數學の問題が殖えるわけであるが、それは吾々の領分ではない。二萬籠の檀の量は、常人の想像以上に屬する。この數字は文學的形容として、なるべく輕く見なければならぬが、元祿の句としては稍〻奇道を行くものといふべきであらう。

[やぶちゃん注:「舟泉」永田舟泉(ながたしゅうせん 元禄一四(一七〇一)年~元文二(一七三七)年)は尾張名古屋の人。三河挙母(ころも)(現在の豊田市挙母町(ころもちょう))生まれ。通称は六兵衛。貞亨四(一六八七)年に蕉門に入った。「あら野」・「曠野後集」などに入句している。]

 

   わか水やよべより井桁越せる音 孚 先

 

 年立つ朝の水はどこでも若水とへえるが、この井戶はまた格別である。溢れやまぬ水は絕えず井桁を越して外へ落ちる。持越した去年の水は溢れ盡して、眞に新なる水ばかりを湛へてゐるやうな氣がする。

 井は水の豐なるよりめでたきはない。井桁をこぼれる水の上に、しづかに元朝の光のゆらぐ樣を思へば、自ら爽快の感を禁じ得ぬものがある。

 

  廊に蓬萊重きあゆみかな 友 靜

 

「廊」は「ワタドノ」或は「ホソドノ」とでも讀むのであらうか。蓬萊と云へば飾つてあるところの句が多いのに、これは運ぶ揚合であるのが珍しく思はれる。蓬萊を大事に捧げて、長い廊下をしづしづと步く人の姿が眼に浮んで來る。「蓬萊重きあゆみ」というだけで、運ぶ樣子を髣髴せしめるのは、技巧といふよりも寧ろ眞實の力であらう。

[やぶちゃん注:「友靜」井狩友静(生没年未詳)は京生まれで、芭蕉の師北村季吟の門人。通称は二郎兵衛。後に菅野谷高政(すがのやたかまさ)の門人ともなった。]

 

     八  日

   薺粥またたかせけり二日醉 洗 古

 

 七種の日に飮み過ぎて、宿醒未ださめやらぬ結果、薺粥をもう一度炊くことを家人に命じた、といふのである。七日のものときまつてゐる薺粥を、翌日にまた炊かせたといふところに、破格というのも少し大袈裟であるが、一種の面白味がある。

 かつて西鶴輪講の時、『一代男』の「衞士の燒火は薄鍋に燃て、ざつと水雜水をとこのみしは、下戶のしらぬ事成べし」といふのが問題になつて、いろいろ說の出たことがあつた。三馬は『式亭雜記』の中で「世にいふ水雜炊は湯澤山の菜粥にて雜炊の名むなし」といつて、味噌入雜炊の作り方を述べてゐるが、山﨑樂堂氏はこれに對して、酒後の腹直しには味噌氣の無い、鹽味一つの淡泊なのが最もいゝ、と云はれた。水雜炊と薺粥とを一緖にするのは少し妙だけれども、この筆法を以てすれば、薺粥にも似たやうな效能があるのかも知れぬ。盃中の趣を解せぬ吾々は宿醉の對策も亦不案內である。酒徒の示敎を俟つより外は無い。

 

   七種や茶漬に直す家ならひ 朱 拙

 

 この句も七種の句としては破格の部であろう。薺粥といふものがあまり口に合はないので、その後で茶漬を食ふの意かと想像する。「直す」といふのが十分にわからぬが、「口直し」などとといふ言葉もあるから、便宜上さう解して見たのである。儀式的に薺粥を食べて、あとは直ぐさつぱりした茶漬にする。嗜好から出發した家例で、每年それを繰返すといふのではなからうか。

 或は七種の粥を全然やめてしまつて、茶漬を食ふ家例に改めたといふ「直す」かとも思ふが、それではどこか落著かぬやうである。宿醉の爲に翌日再版を發行する人もあれば、當日のきまりすら略して茶漬にする人もある。一の薺粥について反對の傾向の窺はれるのが面白い。

[やぶちゃん注:「朱拙」坂本朱拙(明暦二(一六五六)年~享保一八(一七三三)年)。蕉門。]

 

   家々の懷ふかし松かざり 舟 泉

 

「懷」といつたのは作者の働きで、奧深い家の樣であろう。さういふ家がいくつも竝んでいるところらしい。奧深い家の門に松飾が立ててある樣とも、松飾もまた道路から引込んだあたりに立ててある樣とも解せられるが、先づ前の解に從ふべきものかと思ふ。大した句ではないが、松飾の或趣は現れてゐる。

 

   あら玉の文の返事やちらし書 方橋妻

 

 年始狀も印刷の端書と相場がきまつてしまふと甚だ殺風景である。以前には繪端書が大分あつて、その色彩だけでも春らしいものを感じさせたが、近年はそれも少くなつてしまつた。

 この句は元祿だから、勿論年賀端書などではない。作者が婦人である以上、返事をよこす人も婦人であろう。細くめでたい筆蹟で、散らし書に書いてある。いづれきまりきつた文句ではあらうが、何となくゆかしい感じがする。假名の稽古に疎い吾々の世界では、散らし書の文などはちょつと望むべくもない。

「あら玉」と云つただけで、直に新年の意味になる。必ずしも「新玉」という字を當てるからではない。枕詞などといふ約束を飛び踰えて、自由に活動するのは俳譜得意のところである。

 

   蓬萊に飾りならべん米俵 道 賢

 

 北枝が「元日や疊の上に米だはら」といふ句を詠んだ時、芭蕉は「さてさて感心不斜、神代のこともおもはるゝと云ける句の下にたゝん事かたく候、神代の句は守武神主身分相應に情の奇なる處御座候、俵は其元相應に姿の妙なる處有之候、別而歲旦歲暮不相應なるは名句にても感慨なきものに候、今天下第一の歲旦なるべしと京大津の作者も致稱美候」という手紙を送つて賞めた。疊の上の米俵は慥にめでたい感じがする。作者の境涯より生れたとすれば尙更であらう。

 道賢の句は北枝のと違つて、現在疊の上に米俵が置いてあるわけではない。この飾つてある蓬萊の側に米俵を置き竝べよう、といつたのである。別にいゝ句でもないが、何となく豐な感じがする。「蓬萊の山まつりせん老の春」といふ蕪村の句より、却つて親しく感ぜられるのは、やはり身分相應な爲かも知れない。

 

   山出しの町馴にけり門の松 釣 玄

 

「山出し」といふ言葉は、今では人間のことになつてしまつたが、元來は材木に使はれた言葉だといふ說を、どこかで聞いたおぼえがある。山から出したまゝの材木でも、町へ持つて來るには大分手數をかけなければ々らぬが、門松からば人工を要せぬ。全く山出しのまゝで直ぐ使用出來る。

 山から持つて來た松の木が、門に立てると町馴れた樣子に見える、といふだけのことらしい。山出しの人間が都會馴れて來た、という事實が引かけてあつたりすると、擬人的色彩が强くなるが、それは「山出し」を人間とのみ心得た現在の吾々の考かも知れない。

 句としてはつまらないけれども、「山出し」といふ言葉を考へる上には、一顧の價値なしとせぬであらう。

 

   遣羽子や子供に似せて親の前 定 依

 

 「老父を慰て」といふ前書がついている。さういふ意識の下に羽子をついて見せた、といふことになるらしい。

 ツネといふ婦人の句に「羽子をつく童部心に替りたし」といふのがある。昔の世の中ではなお更のことであらう。羽子板を手にしたところで、嬉々として遊ぶ子供に返ることは出來ない、あゝいふ心持に今一度なつて見たいといふのは人情であるが、定依の句は老父を慰める爲に、わざと子供のやうに羽子をついて見せるのである。「子供に似せて」といふところに、どうしても子供になりきれぬ氣持が窺はれる。

 羽子をついて老父を慰めるといふのは、愚に返つた老人を喜ばすだけの事か、更に何か意味があるのか、十分にわからない。例の老萊子をはじめ、孝子譚にはよく出る話であるが、孝の一點からのみこの句を見るのは不贊成である。

[やぶちゃん注:「老萊子」「らうらいし」と読む。生没年未詳の春秋時代の楚の賢人。世を避けて隠棲し、楚王の招きにも応じなかった。親に孝を尽くし、七十歳で、なお、五色の模様のある衣を着、嬰児の仕草(しぐさ)をして、親に歳を忘れさせ、喜ばせたとされる。]

 

   御代の春蟇も秀歌を仕れ 鷺 水

 

「いづれか歌をよまざりける」と古今集の序に書かれて以來、蛙に歌はつき物になつた。宗鑑の「手をついて歌申上る蛙かな」などといふ句も、蛙の樣子を擬人しただけのやうで、やはりちやんと古今集の序が利かせてあるから妙である。但同じ蛙の仲間でも蟇となると、風采が風采だけに、古來あまり歌よみの方には編入されてゐないらしい。この句はそこを覘つた[やぶちゃん注:「ねらつた」。]ので、歌を得[やぶちゃん注:思うに、これは呼応の不可能の副詞「え」への当て字であろうと推定する。]詠むまじき蟇も秀歌を仕れ、といつたのである。そこに俳諧一流の轉化がある。昔の新年は今と違ふにしたところで、蟇がのそのそ步くにはまだ寒過ぎるが、「御代の春」に蟇を持出したのは、一の奇想たるを失はぬ。

 

   元日や一の祕藏の無分別 木 因

 

 妙な句を持出した。

『本朝文鑑』の中に「影法師對」という文章があつて、冒頭に「老の暮鏡の中に又ひとり」の句を置き、最後をこの句で結んである。歲暮にはじまり元旦で終るので、囘文格だなどと支考は理窟を云つてゐるが、俳文の格などはどうでもいゝ。「影法師對」の內容は近頃の人も時々やる形影問答である。「白髮を淸めて元日を待所に、汝何人なれば我が白櫻下に來り、我と對して座せるや」というに筆を起して、此方が何か云ふと、向うも何か云ふ。「我いかれば彼いかり、我笑へば彼笑ふ。此公事は漢の棠陰比事にも見えず、倭の板倉殿の捌にも聞えず。爰に我ひとつの發明あり。實に我紋は左巴なり、汝が著せしは右巴なりといはれて、終に此論みてたり」――左巴と右巴で埒が明くなどは、形影問答としても簡單過ぎるやうであるが、作者は更に數行を加へてゐる。卽ち「我また我心を責て曰、一論に勝ほこりて、是を智なりと思へるや。その所詮を見るに、たゞ唇に骨をらせ、意識をあからせたるまで也。いでや隱士の境界は世間の理屈を外に置て、內に無盡の寶あり、その寶は」とあつて「元日や」の句があるのである。

 この句を解するのに、右の形影問答はそれほど必要とも思はれぬが、「世間の理屈を外に置て、內に無盡の寶あり」の一句は頗る注目に値する。こゝに云ふ「無分別」は今の所謂無分別ではない。濱田珍碩が洒落堂の戒旛[やぶちゃん注:「かいへん/かいばん」は身の戒めとする文を書いてある旗、又は、幟(のぼり)」で「戒幡」とも書く。]に「分別の門內に入るをゆるさず」と書いたのと同じ意味である。風雅の骨髓は世間の理窟の外にある。今の無分別と紛れぬやうに言ひ換へれば、分別を離れたところに風雅の天地がある、といふことになるのであらう。木因はこの無分別を以て「無盡の寶」とし、句に於ても「一の祕藏の無分別」と繰返してゐる。元日の朝だけ分別を離れてゐるのなら格別のことも無い。平生この心を一の祕藏としてゐることを、今更の如く元日に當つて省るのである。吾々も木因のこの寶に敬意を表せざるを得ない。

[やぶちゃん注:「木因」谷木因(たにぼくいん 正保三(一六四六)年~享保一〇(一七二五)年)芭蕉の友人で俳人。美濃国生まれ。家は、代々、大垣の船問屋であった。初め、芭蕉の師季吟に学び、貞門・談林を経て、蕉門に帰し、大垣蕉門の中心となって活躍した。]

 

   三方の海老の赤みや初日影 昌 房

 

 三方の上に飾つてある海老の赤い色に、うらうらと初日の影がさして來る、といふ風に限定して考えないでも、初日の光がさし上るといふことと、三方の上の海老の赤いのとを、新春の景象として受取ればいゝのである。ありふれた材料ではあるが、そのありふれたところに又新年らしい感じがある。たゞ「赤み」といふ言葉は、普通にはもう少し色彩の薄い場合――少くとも海老ほど眞赤でない場合に用ゐられるものかと思ふけれども、或は吾々だけの感じかも知れぬ。

[やぶちゃん注:磯田昌房(しょうぼう 生没年不詳)。元禄二(一六八九)年に入門した膳所蕉門の一人。通称は茶屋与次兵衛。]

 

   萬歲のゑぼし取たるはなしかな   小 春

 

 萬歲同士であるか、他の人を相手に話すのか、それはいづれでも差支無い。萬歲が烏帽子を取つて話をしつゝある。衣裳はそのまゝで、鳥帽子が無いといふところが作者の興味を惹いたのである。

 特に新春らしい背景も何も描かずに、烏帽子を取つた萬歲が誰かと話してゐる、といふ變つた場合を捉へた。そこにちよつと人の意表に出た面白味がある。

 

   雜煮ぞと引おこされし旅寢かな 路 通

 

「備後の靹にて」という前書がある。旅中の氣樂さは元日といえども悠々と朝寢をしてゐる。もう御雜煮が出來ましたから御起き下さい、と云はれて漸く起出すところである。ものに拘束されぬ旅中の元日、殊に路通のような漂泊的人物の元日を如實に見るやうな氣がする。

 一茶に「船が著て候とはぐふとんかな」といふ句がある。同じやうなところを覘つたものであるが、路通の方が元日だけに、いろいろな連想が浮ぶやうである。恐らく悠々と寢過して、去年今年の分別も無いところから、宿の者が堪りかねて起しに來たものであらう。「引おこされし」の一語がよくこれを現してゐる。

 

   門松や黑き格子の一つゞき 呂 風

 

 あまり大きくない家が竝んでゐるやうなところであらう。裏町ではないかも知れぬが、道幅なども廣くない光景が目に浮ぶ。そこに在る一連の格子が黑いといふのは、固より塗つたものでもなければ、用材の關係でもない。年を經たその住ひと共に黑光を生じたので、古い方の感じが主になつているものと思ふ。從つてこの黑は漆とか、墨とかいふやうな種類の色彩ではない、もう少し感じの側[やぶちゃん注:「がは」。]に屬する黑である。

 さういふ古びた、小さい家竝が一齊に門松を立ててゐる。一陽來復の氣は自らそこに溢れているが、この句の中心をなすものは全く古びた格子である。鏝も人目を惹かぬ筈のものが、門松を配するに及んで却つて人の目につく。そこに正月があり、俳句らしい世界がある。堂々たる大きな門構でなければ、正月らしく感ぜぬ人たちは、かういふ句のめでたさとは竟に沒交涉であるかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「呂風」蕉門。安房勝山(現在の鋸南町)の人。]

 

   萬歲に蝶々とまれたびら雪 左 次

 

 昔の正月は今ほど寒くはないにしても、本當の蝶が飛出すには少々早過ぎる。この句は雪のひらひらと舞い散る樣を、蝶々に見立てたものと思はれる。「たびら雪」は雪片の大なるものだから、この見立には適當なわけである。

 萬歲が袖を飜して舞ふ。折から翻々と散るたびら雪を蝶と見て、萬歲の上にとまれと云つたのであらう。吾々の子供の時分の唱歌にも「蝶々蝶々、菜の葉にとまれ」といふのがあつたが、昔にも何かさういふ唄がありさうな氣がする。雪片そのものの形容を省いて、直に「蝶々とまれ」と云つてのけたところにこの句の特色がある。萬歲の句として一風變つたものであらう。

 

   母親や薺賣子に見えがくれ 鼠 彈

 

「はるの野をふご手にうけて行賤のたゞなとやらんものあはれ也とは慈鎭の言なり」といふ前書がついてゐるが、この句を解する上に、それほど必要なものとも思はれぬ。本によつては「薺賣子に母親や見えがくれ」ともなつてゐる。句としては「母親や」と眞先に置くよりも、「薺賣子に母親や」とした方がいゝやうであり、作者が後に改めたものかと思ふが、句意の上には格別の相違は無い。(賣子はウリコでなしにウルコと讀むのである)

 子供が正月の薺賣に出る。まだいとけない子であるか、あるいは今年はじめて賣りに出るとかいうやうな場合で、子供は一人で大丈夫だと云つて出かけたが、母親は何となく心許なく思つて、見え隱れにあとからついて行く、といふのであらう。一面母の愛といふ人情に立脚していると共に、他の一面に於て、その場限りで濟まぬものを持つてゐる。元祿期の句としては、いささか單純ならざる種類に屬する。

[やぶちゃん注:「鼠彈」(そだん 生没年未詳)尾張名古屋浄土寺の僧侶。「あら野」・「あら野後集」・「其袋」などに入句している。]

 

   藏開き順に入るゝや孫息子 夕 兆

 

 藏を持たぬ吾々に取つて、藏開という季題はあま旦父涉が無い。子供の時分には鏡餠を割つて汁粉にする日を藏開といふのだと、漫然心得ていたこともあつた。

 藏開の句は古來どの位あるか、殆ど記億に存するものが無いが、この句はまがふ方なき藏開である。いづれ富貴繁昌の大店であらう。藏開の目には一家の者を藏に入れる慣例でもあると見えて、家格の順か、年齡順かによつて順々に孫の男の子を藏へ入れる。金銀の氣が直に眉宇に迫つて來るやうな氣がするのは、必ずしも吾々が藏を持たぬ爲ばかりではあるまい。

「孫息子」といふのは、孫及息子の意味に解されぬこともないが、「孫娘」などといふ言葉の例もあるから、孫の男の子と解した方がよくはないかと思ふ。大勢の孫どもが相次いで藏に入る。大黑頭巾でも被つた隱居がにこにこしながら、それを眺めてゐる。西鶴の『永代藏』にでもありさうな、めでたい展開である。

[やぶちゃん注:「夕兆」(せきちょう)は元禄期の浪化上人の築いた井波俳壇の一人。]

 

   元日やずいと延たる木々の枝 芙 雀

 

 たゞ眼前の景色である。上天氣の元日であらう。しすかな空へ木々の枝が手をさし出すやうに、ずつとのびてゐる。別に元日らしいこともない景色のようであるが、すくよかにのびた木々の枝の感じと、希望の多い年頭の氣分との間には、何らか繫るものがあるやうに思はれる。

 昔の元日のことだから、冬の中にある今の正月と違つて、一陽來復の氣が行渡つて居り、木木の枝の伸び方にも著しく目に立つものがあるかも知れぬ。併し「ずいと延たる」は元日になつて俄に延びたのではない。已に伸びた枝に目をとめたのである。その伸びた枝に或よろこびを感ずるのは、元日の氣分が然らしめたものであるにしても、作者は特にそれを强調しようとしてゐない。そこに元祿の句らしい自然の趣がある。

 版で刷つたやうな、おめでたい普通の元日の句より、こうした句に眞のめでたさはあるとも云ひ得るであらう。

[やぶちゃん注:「芙雀」永田芙雀(ながたふじゃく 生没年未詳)は大坂の人。槐本之道(えもとしどう)に学び、蕉門に属した。作品は「蕉門名家句集」に収められている。編著に元禄一二(一六九九)年刊の「鳥驚」(とりおどし)、その三年後の「駒掫」(こまざらえ)がある。通称は堺屋弥太郎。]

 

   靑竹の神々しさよえ方棚 遲 望

 

 惠方といふものは每年干支によつて異る。その方に向つて高く棚を張り、葦索[やぶちゃん注:「ゐさく」。葦(あし)を綯(な)って作った綱。東北の鬼門に神荼(しんと)と鬱塁(うつりつ)の二神があり、悪鬼を捕まえる際、この綱を用いて捕え、虎に食わせると言われる。元旦に門にかけて、魔よけ・邪気払いにする。]を飾り、松竹を立て、供物竝に燈火を獻じて之を祭るのを年德棚[やぶちゃん注:「としとくだな」。]といひ、又惠方棚ともいふと歲時記に書いてある。その惠方棚の中で、眞新しい靑竹の色が神々しく作者の眼に映じた。その印象を直に一句としたのである。

 靑竹の色ほど鮮麗なすがすがしい感じのものは少い。路傍の建仁寺垣が新に結ひへられた時などは、實際目のさめるやうな感じがする。一時トタン塀を建仁寺まがひに作つて、靑いぺンキで竹らしく見せようとしたものがあつたが、芝居の書割以上に俗惡であるのみならず、色彩の一點から云つても、人工の天然に及ばざることを暴露するに過ぎなかつた。あゝいふ塀の中に住んだのでは、孔雀の羽で身を飾らうとする鴉を嗤ふわけには行かない。

「古寺の簀子も靑し冬かまへ」という凡兆の句は、新に仕替へられた簀子の靑さを捉へたので、背景がもの寂びた古寺だけに、靑竹の效果も極めて顯著であるが、惠方棚の靑竹も、淨らかな燈火、供物その他に對して又別個の趣を發揮している。作者の靑竹から受けた印象が、そのまま讀者の前に現れて來るやうに思ふ。

 

   七草や多賀の杓子のあら削り 龜 洞

 

「多賀の杓子」といふのは、江州の多賀社から御守に出す杓子のことであらう。柳亭種彥は昔の杓子の柄はいたく曲つていたものだといふ考證をして、「尤の草紙」のまがれる物品々の段に「大工のかねや、藏のかぎ、檜物屋の仕事、なべのつる、おたがじやく」とあるのを引き、蛙の子を「お玉じやくし」といふのは「おたが杓子」の誤だと云つてゐる。柄の曲つた杓子の古風を最後まで存してゐたのが多賀の杓子で、蛙の子が水中で尾をうねうねする樣が、その形に似てゐるから名づけたものに相違無い、といふのである。おたが杓子か、お玉杓子かなどと云ひ出すと、何だか外郞賣の臺詞のやうになつて來て、甚だ事面倒だから、そんな問題は春永の節に讓つてよろしい。杓子の柄の曲直もそれほど重大視する必要は無いが、種彥が『玉海集』から引いた

    ゆがみなりにも壽命ながかれ

   手づよさはお多賀杓子の荒けづり 正 式

という俳諧は、參考に擧げて置いた方がよささうである。種彥の說によれば、多賀の杓子の柄が曲つてゐたのは百餘年前までだといふ。百餘年といふ數はいさゝか漠然としてゐるから、龜洞の句もいづれに屬するかわからぬが、「お多賀杓子の荒けづり」は已に先縱があるわけである。但正式の句が多賀杓子の說明を脫し得ぬに反し、龜洞の方は慥に或空氣を描き出してゐる。勿論この杓子がどういふ役割をつとめるのか、この句の表からは明にしにくいけれども、七草という簡素な、明るい新年の行事と、荒削りな多賀の杓子とは、趣の上に於てぴたりと合ふものがある。多賀の杓子が壽命の御守であるに至つては尙更であらう。句もまた荒削りで頗る工合がいゝ。

[やぶちゃん注:「龜洞」(きどう 生没年未詳)は尾張蕉門の一人。

「江州の多賀社」多賀大社(グーグル・マップ・データ)。

「正式」池田正式 (まさのり 生没年未詳)は江戸前期の俳人。貞徳門下の武士。通称は十郎右衛門。早くから京都で和漢の学を修め、寛永八(一六三一)年、播州姫路本多政勝に仕官、寛永十六年、主君の転封に従って、大和国郡山に移ったが、家中の内紛と病弱に悩み、浪人して奈良に移住したが、寛文末年(寛文は一三(一六七三)年まで)頃、自害したと伝える。著書は「毛吹草」を難じた書「郡山」や「土佐日記講注」「堀河狂歌集」等がある文人でもあった。]

 

   晝過にゝきて見たる薺かな 不 玉

 

 前の句が少し面倒だつたから、今度は思ひきつて簡單なのを持出す。薺をたゝくのは「唐土の鳥が日本の國へ渡らぬ先に」だから、どこでも早きを競ふ中に、これは晝過になつて敲いて見たといつて澄してゐる。或は晝頃になつて起出す我黨の士かも知れぬ。さういふ無性者でも行事の薺だけは敲いて見る。これも亦太平の姿である。

[やぶちゃん注:「不玉」伊東不玉(いとうふぎょく 慶安元(一六四八)年~元禄一〇(一六九七)年)は江戸前期の俳人で、出羽酒田の医師。名は玄順。俳諧を大淀三千風に学んだが、元禄二(一六八九)年、「奥の細道」の旅の途中の芭蕉を迎えて、入門した。各務支考らと交わり、酒田俳壇の基礎を築いた。編著に「継尾集」「葛の松原」などがある。]

 

   元朝にはくべき物や藁草履 風 國

 

 一夜明けて元日になつた氣分は、一口に云へば淸淨、簡素である。華麗だの、豪奢だのといふ種類のものは、どう考へても元日氣分と調和しないやうに思ふ。正月用の調度なり食物なりが淸淨、簡素の妙を示してゐるのは、一歲の始に當つて節儉を旨とするやうな、理窟を含んだ意味からだけではない。手の込んだ、きらびやかな種類のものでは、年が改つたばかりの氣分に合致せぬからであらう。

 藁草履は穿物の中の簡素なものである。末だ一度も人の足に觸れぬ新しい草履なら、極めて淸淨でもある。元日氣分と調和する點から云へば、革の沓や塗木履の比ではない。淸らかな神域の砂を蹈むやうな場合、新しい藁草履は他の何よりも處を得た穿物でなければならぬ。作者は背景となるべき場所も描かず、現在藁草履を穿いてゐる樣も敍べず、藁草履の新なことにも言及せず、ただ「元朝にはくべき物や」といふ風に語を下し來つた爲、稍〻觀念的に墮した嫌はあるけれども、元日に藁草履を捉へた著眼は決して捨つべきではない。憾むらくは元日氣分との調和にとどまつて、藁草履の趣があまり發揮されてゐないことである。

 

   參宮の小幡どまりや明の春 里 東

 

 小幡といふ地名は方々にあつて、どこを指したものか、はつきりわからない。尾張の東春日戶井郡にもあれば、近江の神崎郡にもある。伊勢の三重郡には大治田と書いて「オバタ」と讀む地名があつて、一に小幡にも作る。二條院讚岐の知行だつた時代、富田基度の爲に押領されたのを、鎌倉に愁訴して舊に復したなどといふ由來も傳へられてゐる。更に伊勢の度會郡には小俣といふ村があつて、「オバタ」と讀む。宮川の西岸で、宇治山田とは橋一つ隔てているだけだとある。作者は膳所の人だから、どれが一番適當かわからぬが、參宮の因[やぶちゃん注:「ちなみ」。]を以て見れば、あるいは最後のそれを擧ぐべきであらうか。ヲバタと發音する爲に、俣を幡に誤つたものと見れば、地理上の面倒はなささうである。

 今日のやうに夜東京を發して、翌朝神路山を拜し得る便利な時世ではない。幾日幾夜の旅を續けて小俣まで辿り著いたら、その年は暮れてしまつた。眼が覺めて見れば元日である。身も心もすがすがしくなつて、今日は內宮外宮を拜さうといふ。小俣に泊つて新年を迎へたところがこの句の眼目である。或はかねて元日に兩宮を拜むつもりで、大晦日に小俣に著くやうに計畫したのかも知れない。元日參宮といふことに就ては、今と昔でいろいろ事情の異るものもあらうが、めでたく長き年の初である點は同じであらう。

 但以上は小幡を小俣として解したのである。小幡が他の土地であるとすれば、右の解釋は抛棄[やぶちゃん注:「はうき」。放棄に同じ。]しなければならぬ。「小幡どまり」といふことが、めでたい參宮の春の感じを損はぬ限り、必ずしも小俣を固執するわけではない。

[やぶちゃん注:「里東」(りとう 生没年未詳)蕉門。膳所の人。「花摘」に入集しており、芭蕉宛書簡一通が残る。

「伊勢の度會郡」「小俣といふ村」現在の伊勢市小俣町元町(おばたちょうもとまち)附近(グーグル・マップ・データ)。

「神路山」(かみじやま)は三重県伊勢市宇治にある山域で、南方面から伊勢神宮の内宮へ流れる五十鈴川上流域の流域の総称。当該ウィキ写真が最も判り易い。]

 

   七種や八百屋が帳のつけはじめ 汶 村

 

 新年も松の內位までは、めでたく平穩な目が續く上に、いろいろ暮にとゝのへた物があつて、庖厨に事を缺かぬ。七日に至つてはじめて八百屋に用が出來るのは、七種粥の關係もあるが、この日あたりを境界として、漸く平生の生活に還らうとする爲であらう。八百屋の帳面にもはじめて記載事項が出て來る。つい二、三年前まで、吾々もかういふ感じを繰返してゐたのであつた。

「八百屋が帳のつけはじめ」は瑣事中の瑣事である。かういふ事柄を捉へながら、さのみ俗に墮せず、のんびりした趣を失はぬのは、元祿の句の及びがたい所以である。

 

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