譚海 卷之十二 田所町九兵衞女某孝行の事
○江戶、田所町(たどころちやう)に、九兵衞といへる「古(ふる)がね」を商賣するものありしに、其娘、母は、なし、てゝ親ばかりなるに、至つて孝行なりし。
十七、八になるまで、何方(いづかた)へも緣付(えんつき)せず、晝は、親の商賣に出(いづ)る留守をなして、竃(かまど)の事を、つとめ、日のくるゝ頃まで、親のかへらざれば、皮頭巾をかぶり、立付(たつつけ)を、はきて、男のごとく、出立(いでたち)て、「てふちん」[やぶちゃん注:ママ。「提灯」は「ちやうちん」であるが、「挑灯」と書いた場合は「てうちん」。孰れにも合わない誤りである。]をさげて淺草の邊(あたり)までも、迎へに行(ゆく)事を、せり。
容貌も、きよら成(なる)女にてありしかども、年たけるまで、片付(かたづく)事も、せでありし。
或年の類燒の後(のち)、親子、何(いづ)かたへか、「屋うつり」せし。
其後、おとづれを、きかず。
母の十歲ばかりに成(なり)し頃まで、したしく、なれたりしかば、
「をりをり、思ひ出(いで)て、なつかしくおもはるゝ。」
と申されし。
[やぶちゃん注:底本には最後に編者割注で『(別本缺)』とある。この話も津村の亡き母の思い出話である。逢ってみたかった娘ではないか。
「田所町」現在の中央区日本橋堀留町二丁目(グーグル・マップ・データ)。
「立付」裁付(たっつけ)。労働用の山袴(やまばかま)で、「まった袴・ゆき袴」とも呼び「裁着・立付」とも書く。股引(ももひき)に脚絆を付けた形で、膝下が、ぴったりした袴。古くは地方武士の狩猟服であったが,戦国時代に一般化し、江戸時代には庶民の仕事着となった。相撲の呼出し・角兵衛獅子なども着用した。「軽衫」(かるさん)も同じ(この語源は「ズボン」の意味のポルトガル語の「calção」である)。]