譚海 卷之十 同藩朝鮮流と號する馬術の事
[やぶちゃん注:「同藩」は前話を受けて「土佐高知藩」で山内家(やまうちけ)を指す。ウィキの「土佐山内氏」によれば、『本家は山内を「やまうち」、各分家は「やまのうち」と称する』とある。]
○松平土佐守殿家(け)に、「朝鮮流(てうせんりう)」と號する馬術、有(あり)。他家にはなき流儀なり。
是は、馬上にて太刀・鎗(やり)をつかふ流儀なり。大抵、馬上にて戰はんとする事は、鑓(やり)などは、ながき物ゆゑ、互に、せりあふ事もなるべけれども、それさへ、兩騎、打寄(うちより)て、たゝかふときは、馬の性(しやう)、ちかづきかぬるゆゑ、わづかに鎗先ばかりあはさるゝほどなり。まして太刀を拔(ぬき)てたゝかふ事などは、決して一通りにては、成(なし)がたき事なるを、此流儀は、馬をよく乘沈(のりしづみ)て、ちかく、よせ、戰(たたかひ)のなるやうにする事にて、皆、馬術による事のよし。
外の流儀は步行立(かちだち)にて、太刀打(たちうち)、鎗をあはするのみの術にて、此馬上の藝は、傳(つたへ)たる術、なし。
然して、此「朝鮮流」は、何といふ定(さだめ)たる術もなく、馬を乘(のり)、あいて、つめよせたる時は、敵を、はやく、馬より引落(ひきおと)す事を肝要とする斗(ばかり)なり、とぞ。
扨(さて)、けいこはじめ、木馬(もくば)にて習ふ時、木馬に鞍を置かず乘(のり)て、尻を、やすらかにかくる事なく、兩の股にて、馬の背を、はさみて居(を)るやうに、乘(のり)ならはすなり。
夫故(それゆゑ)、木馬に人をのせて、跡先に、二人居(ゐ)て、木馬の端を、とらへ、前の人は、前へ引返(ひきかへ)せば、うしろの人は、うしろへ引返す。一向、用(よう)しやなく、あらげなく、取(とり)あつかふ。それゆゑ、乘たる人、たまらず、落(おと)さるゝ事、數度(すど)に及ぶ。
さるを、いく度(たび)も、乘習(のりなら)ひ乘習ひすれば、後(のち)は、股にて木馬の背をはさみ居るやうに成(なる)なり。
其時は、跡先の人、いかやうに引返しても、おつる事なく、こらえて居(を)らるゝやうに成(なる)なり。
此技に熟してのち、生(いき)たる馬に乘(のり)て、又、習熟する事にて、功者に成(なり)ぬれば、たとへ、縱橫馳騁(じゆうわうちてい)[やぶちゃん注:縦横無尽に駆け廻ること。]、心にまかせ、たとひ、馬は、つまづきても、落馬する事、決してなき事、とぞ。
あへて、朝鮮より傳へたる術にもあらねど、かく、名を付(つけ)て、かの家の士は常に、乘習ふ事、とぞ。
馬上達者に成(なり)ては、一里も、二里も、かけ乘(のる)に、くるしむ事、なし。彼(かの)家の士、此術に誇りたるもの、
「我は、いかやうにかけくる馬なりとも、とむべし。」
といふ。一人は、
「我は、いかやうにかためたりとも、乘破(のりやび)らん。」
といふ事、相論(さうろん)に成(なり)て、互に試る事を定(さだめ)て、一人、馬上に塞居(ふさぎをり)たるを、こなたより、一さむに[やぶちゃん注:ママ。「一散(いつさん)に」。]馬を乘(のり)かけ、つき破りたるに、その塞居たる人は、あへなく馳殺(はせころ)され、こなたの人は、其まゝ、それを、かけやぶり、馬をはせ、城下三里ばかりを、一時(いちじ)に馳めぐり、つきやぶりて、殺(ころし)たる人の子供の家に行(ゆき)、
「かゝる事にて、其方(そのはう)、父を、うしなひたり。急ぎ行(ゆき)て死體を取片付(とりかたづけ)よ。」
と、いひて、歸(かへり)ける。
「元より、相對(あひたい)の事にて死(しし)たれば、敵討(かたきうち)の沙汰にも及ばず、事、濟(すみ)たり。」
と、かの國の士、かたりぬ。
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