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2024/04/01

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「春」(3)

 

   菜の花や山路出れば夕日影 舍 六

 

 今まで步いてゐた山路を出て、濶然たる眺[やぶちゃん注:「ながめ」]]が展けた[やぶちゃん注:「ひらけた」。]感じと、菜の花に夕日の當つてゐる明るい感じとが、ぴたりと一緖になつてゐる。「山路出れば」といふ中七字は、作者が菜の花を見るまでの經過であり、「夕日影」に至るまでの順序でもある。言葉で說明すると面倒になるけれども、要は山路を出ると共に眼に入つた、菜の花に夕日の景を直敍したに過ぎない。この句を一誦して、ぱつと眺の變つた明るい感じを受取り得れば、それで差支無いのである。形よりも感じを主とする點に元祿俳句の長所があるともいえる。

 

   穴市の仕舞を掃やむめの花 路 圭

 

 普通には「穴一」と書いてある。「言海」に從へば「穴打の轉」といふことだから、一にしろ、市にしろ、皆借字なのであらう。地上に小さい穴を穿つて、少し離れたところから錢なりメンコなりを投げる、穴に入つたものを勝とし、もし穴の外へ出た場合には、次の者が別の錢なりメンコなりを打つて、中つたら[やぶちゃん注:「あたつたら」。]勝とする、といふやうな說明がある。吾々が子供の時に石ケリ玉(文法學者は蹴といふ字にケリといふ活用は無いといふが、實際石ケリと云ひ、石ケリ玉といふのだから仕方が無い)と稱する平たいガラス玉でやつたのは、穴の代りに地上に圓なり角なりを劃して[やぶちゃん注:「かくして」。区分けして。区切って。]置いて、その中へ先づ投入れる、次の者がまた同じやうに投げて、前の玉をその區劃の外へ跳ね出させる、といふ勝負のやうであつた。その時は何とも思はなかつたが、今この說明を讀んで見ると、やはり穴一の系統に屬するものらしい。穴一錢と稱して兩面に惠比須大黑だの、富士山だのを鑄出した[やぶちゃん注:「いだした」。]ものがあつたといふ。石ケリ玉にも先輩があつたのである。

 穴一をして遊んでゐた子供が歸つてしまつた。地上に穿つた穴をはじめ、蹈荒したあとの土を掃き淸める。その邊に梅の花が咲いてゐる、といふ趣である。梅の花といふと、とかく文人墨客が幅を利かして、矢立瓢簞と最も調和するやうに考へる人もあるかも知れぬが、この句は右のやうな兒童遊戲に配して立派に成功してゐる。兒童の歸り去つた後、遊び荒した土を掃くといふのは、梅の花の靜な趣味によく調和してゐる。

[やぶちゃん注:中七「掃や」は「はくや」。この句の宵曲の解説は、まことに映像的で優れた解である。

「穴市」「穴一」『「言海」に從へば「穴打の轉」といふこと』所持する「言海」を引く。「穴一」は実際には、左傍線のみ空いた罫線で囲われてある。

   *

あな-いち(名)│穴一│錢打ノ一種、地ニ穴ヲ穿チ、錢ヲ抛チテ取ルモノ。

   *

所持する小学館「日本国語大辞典」には(「メートル」は底本では二行割注風)、

   *

「あな-いち【穴一】〘名〙子供の遊びの一種。直径一〇センチメートルくらいの穴を掘り、その前一メートルほどの所に一線を引き、そこに立ってムクロジ、ぜぜ貝、小石、木の実などを投げる。穴に入った方が勝ちとなるが、一つでも入らないのがあったら、他のムクロジ、ぜぜ貝などをぶつけて、当てたほうが勝ちとなる。銭、穴一銭を用いるようになって、大人のばくちに近くなった。後には、地面に一メートル程の間を置いて二線を引き、一線上にぜぜ貝などをいくつか置いて他の一線の外からぜぜ貝など一つを投げて当たったほうを勝ちとする遊びをいうようになった(守貞漫稿二五)。

   *

とあった。この「ぜぜ貝」は所謂、貝殻上表層に赤色・褐色・暗褐色・黄色などのバラエティに富んだ色を有する石畳状の模様を持つ腹足類(巻貝)で個体が有意に多い、キサゴ類、

腹足綱前鰓亜綱古腹足目ニシキウズガイ上科ニシキウズガイ科キサゴ亜科キサゴ属キサゴ Umbonium costatum

キサゴ属イボキサゴ Umbonium moniliferum

上記種などよりも青灰色・藍がかった黒色の斑紋に白い部分が有意に多く認められる、

サラサキサゴ属ダンベイキサゴ Umbonium giganteum

が挙げられる。しかし、広義の

キサゴ亜科Umboniinaeのキサゴ類

も含むと考えねばならない。例えば、

キサゴ亜科 Monilea 属ヘソワゴマ Monilea belcheri 

であるとか、

キサゴ亜科Ethalia 属キサゴモドキ Ethalia guamensis

などは非常によく似ていて、一緒に並べたら、素人には全く区別がつかないと思われるからである。但し、キサゴ類は他にも「シタダミ」「ゼゼガイ」などの異名が多いが、その分だけ、上記以外の、巻き方に扁平性が有意にあり、同一域に棲息する似たような他種も多いことから、それらをも広く包含して称して(いた)いる可能性は現在でも非常に高いので、これらだけに限定するのは考えものではある。別に「チシャゴ」とも呼ぶが、これは「小さき子(かひ)」の意ととるよりは、「キサゴ」の転訛とするのが良いと思うし、通汎の「きさ」とは古語に「橒(きさ)」があり、これは「樹の木目(もくめ)」の意であるから、これらの貝類の表面の模様から見ても、それが語源の可能性が高いように私には思われる。上記ダンベイキサゴ(本集中部以南に分布)の成貝は殻幅四・五センチメートルを越える個体も珍しくない、日本産キサゴ類の最大種であるが、漢字では「団平喜佐古」と書き、この「団平(團平)」は、昔、荷を運んんだ頑丈な川船を指す名であるから、腑に落ちる。キサゴ類は、古く(縄文時代)から食用とされ、また、その殻が子どもの「おはじき」の原材料とされたことでも知られるが、特に私の住む三浦・湘南や関東地区では、「シタダミ」という呼称は、明らかに現在も普通に食用とするダンベイキサゴを専ら指す。吉良図鑑(教育社昭和三四(一九五九)年改訂版)では、キサゴとイボキサゴ(本集中部以南に分布)の殻形状上の明瞭な判別法はないとしつつ、吉良先生の永年の観察記録から、①キサゴは三・五センチメートル以上に大きくなるが、イボキサゴは二センチメートル以下が通常個体である。②キサゴは棲息深度がやや深く外洋性であるのに対し、イボキサゴは甚だ浅く、内湾性である(ということは、死貝のビーチ・コーミングは別としても、我々が海浜域で見かける生貝は多くがイボキサゴであるということになる)。③キサゴは臍の領域が狭いのに対して、イボキサゴはキサゴの約二倍と広い。④キサゴは『その色斑紋が殆ど一定して単に濃淡』の差がある』『のみである』のに対し、『イボキサゴは斑紋』に『多くの変化』『があり、且つ、『地色も赤褐色』から『藍黒色まで雑多である』という違いがあると推定される、と記しておられる。以上は、「大和本草卷之十四 水蟲 介類 チシヤコ(キサゴ)」の私の注を少し書き換えたものであるが、実際の形状は、私の『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 光螺(キシヤゴ・キサゴ) / キサゴ(イボキサゴ・ダンベイキサゴをも含む可能性有り)四個体+同属種の殻に入ったヤドカリ(生体)一個体』を見られたい。因みに、私は貝フリークである。

「路圭」肥前長崎の稲佐江に住んだ蕉門の野坡の門下のようである。]

 

   うそくらき木々の寐起や梅の花 木 兆

 

 この句は稍〻擬人的な敍法を用いてゐる。夜がまだ明けきらぬ、ほの暗い木々の樣を形容して「寐起」といつたのは、氣の利き過ぎた憾はあるが、或感じを現し得て妙である。恐らく作者も寐起のところで、さういふ曉闇の中に咲く梅花を認めたのであらう。自己の寐起を移して植物の上に及ぼしたなどといふと、少し話が面倒になつて來る。讀者はこの語によつて、昧爽の靜な空氣の中に匂ふ梅の花の趣を感じさへすればいゝのである。

[やぶちゃん注:「昧爽」「昧」は「ほの暗い」、「爽」は「明らか」の意で、「夜の明け方・夜が明けかかっている時・暁・未明」を指す語である。]

 

   むめちるやその木蔭なる雪の上 有 節

 

 梅の木の陰に解け殘つた雪がある、その上に梅の花が散る、と云つたのである。「その木蔭」といふのは、多少說明的な云ひ方のやうに見えるが、上に「むめちるや」と云つて、その散るところが梅の木の下であることを現す爲には、かういふより仕方が無いかも知れない。子規居士も嘗て「梅の木に近くその木の梅を干す」といふ句を作つたことがあつた。「その」の字の使い方は全く同じである。但因果關係から云へば、自分の枝になつた實を梅干にして、その木に近く干すといふよりも、たゞその下蔭の雪に散る花の方が、複雜でないことは云ふまでもない。

[やぶちゃん注:「有節」五仲庵有節(文化二(一八〇五)年~明治五(一八七二)年)は、本書では例外的に近代まで生きた江戸後期の京都の宗匠。信州上田生塚生まれ。本名沢元衡。若き頃は大工を生業としていたらしい。初め、同地で門葉を広げていた碓嶺の門に入った。後、天保期から諸国を遍歴、天保一一(一八四〇)年、三十六歳の時、に京に定住し、五仲庵を開いた。]

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